現代社会は過去に経験したことがない時代に入った。テクノロジーの進歩は革命的な社会変化を遂げるが、テクノロジーの進化のスピードに人の脳は付いてゆけるのか気になる所だ。もう一つの気になる点は政治と経済がイコールで結ばれて、今や政治家も官僚も経済だけしか考えない風潮になった事だ。経済と言う言葉は、「経世済民」から取ったので民を救うのは経済だけと思い込むのは仕方がないが、政治は政事を治めるのであり、経済中心の考え方とは異なる。豊な社会になって心に飢餓感が生じるのは何故かを問う必要があるのに答えがないことに社会が苛立っている様に思える。
勿論、満足に食事を摂れない社会では、豊かになることが先決であり、何事にも経済が優先されることは否定しないが、少子高齢化社会を迎え、グローバル経済で格差社会となり、国家が予測していなかった問題に直面して国の仕組み自体に問題が生じ始めてきた日本に関しては、従来の様な欧米追従主義で乗り切れる様な安易な状況ではないことは確かだ。しかし、政治家も官僚も答えは経済成長一辺倒で、解決策には新自由主義と言われる関税をフラットにすることしか考えられないでいる。
標題に書いた国会議員も官僚も企業家になった弊害とは、企業とは収益を求めて最大限の価値を創造するために効率を考え、場合によっては選択と集中により事業の再編成を断行するのが事業資本を投資してくれた資本家に対する責任だが、同様に国家を企業の様に効率的に運用すれば少子高齢化社会やグローバル経済とそれにより発生した格差社会などで生じた問題などを解決できて国民に対して責任を果たせるかと言えば不可能だ。何が論理的に間違っているかと言えば、国家は企業が労働者や下請け企業を経済状況によって切り捨てる様には国民を切り捨てる訳には行かないと言う単純な事だ。
日本が今日の迷路に入った分岐点は日本が変わると思った小泉政権からだという事だ。小泉内閣は郵政民営化を旗印に構造改革と称して規制緩和を行ったとされているが、小泉改革と歩調を合わせるように日本のベンチャーキャピタル投資が横ばいから減少してきている事実だ。確かに規制緩和は行われてきているが、規制緩和の実態は政府がお荷物になっている部分の規制緩和であり、国民が行ってほしい規制緩和とは程遠いのが真実だからだ。何故その様な事が起きたのかは、先ほど述べたように政治家も官僚も企業家になったからである。
話は変わるが、金融庁が地方銀行の再編成を進めているのを見るにつけ過っての都市銀行のメガバンクに誘導する政策を想起するが、メガバンクにする理由は世界の金融自由化の波に日本の都市銀行規模では生き残ることが難しいなど言われたが、この考え方は金融機関の役割を度外視した考え方であった。メガバンクになって都市銀行が減少した為に企業の資金の借入先が減少し、企業にとってはマイナスになったことだ。この様に書くと、地銀や第二地銀や多くの金融機関があると指摘されると思うが、再編成前の都市銀行は企業を育てる使命感の様なものが存在していた。一方の地銀などは収益を稼ぐ事しか念頭になかったと記憶している。様々な都市銀行が色々な視点から企業を評価してくれたことが日本経済にもプラスに働いていたと思われる。現在、金融庁が進めている地銀や第二地銀の再編成もメガバンクと時と同様に借り手企業のことや再編後の競争欠如を度外視した一方通行の政策で部分最適の考え方だ。
<続く>
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