私が父の経営する会社に入り統括部長の職を担っていた時に入社した社員がいる。私自身はサラリーマン生活を経て仲間と起業していたが、両親の希望により父が経営する会社に入ることになった。その4年後に私の面接で入社してきたのが鈴木康広君であった。彼は未だ証券会社に勤務していたので、休日の土曜日の面接であった。彼の奥さんが以前に会社に勤務していた縁で転職するのに当社を選んだのだが、32歳の年齢の割に老けていたのが最初の印象であった。両親が秋田出身なので、東京生まれながら地方出の雰囲気があり、後日聞いた話では子供の頃に休みになると秋田で長期間過ごしていたことが影響していたと思われた。人の縁とは不思議なもので、彼の育った江東区の住まいの近所に両親の知り合いが住んでおり、私も東京の大学に出てきた時には何度か訪問した場所であった。バブル経済時代の証券マンなので給与明細を見た時には同世代では貰えない金額であり、当社に入社した場合に大分減給することになる為に何度か念を押した。転職理由は子供との時間を持ちたいことと健康問題であり、奥さん自身も知っていたので、一回目だけの面接で決めた。本来ならば総務部長の面接を経るのだが、面接の経緯が社内の女性社員による相談から始まり、取り敢えず面接してからと思ったが、性格が良いので私が独断で採用を決めて社長の事後承諾を得た。この為、総務部長は気分を害したかもしれないが、会社で社長の息子として多くの社員から敬遠されていたので、私にとっては気の許せる最初の部下になった。それから20年以上、私の分身の様に働き、どの様な時でも私を裏切るような行動を取らなかった。しかし、50台半ば過ぎて発病し、1年8ヶ月の闘病後に亡くなった。今年の6月中旬に病院帰りに会社に立ち寄って会ったのが最後になった。今思えば、正にお別れに来たとの表現がピッタリであった。病気の時に電話でも何度か話したが、病気は第四ステージであると達観した様に説明し平然とした態度であった。6月に来社した際にも自分の病気より、私のワイフの病気を気に掛けると同時に私の健康に関しても心配してくれた。金銭的に執着しない上司の下で働いたために彼には十分な待遇を与えなかったことが今になって悔やまれる。商業高校出身なので、全く建築不動産には知識経験がなかったが、新橋ビルの建築には解体から建設までの2年間現場に従事させたので、その経験が生きて建物管理の責任者として能力を発揮してくれた。偶然にも彼の証券マン時代の後輩もビルメンテナンス業界に転職していたので、後輩とのコラボで会社に貢献してくれた。その他にも、地方の仕事には私の運転手として働いてくれたほか、私の道楽で行ったゴルフ場の仕事にも積極的に手伝ってくれた。歌が上手で、兄の会社の忘年会に参加した時に優勝して顰蹙を買った時の事も懐かしく思い出される。仕事は一人では出来ない。分かってくれる部下や仲間が居て始めて良い仕事が出来る。時代の変化で知識の更新が必要な時にまた一人私の片腕ともいえる部下が亡くなった。40代の時に一生懸命勉強してマンション管理に係る国家試験の業務主任者の資格を取り、合格が分かった時に私に第一報を知らせてくれたのも懐かしい記憶だ。楽しく明るい酒だったが、結果的には命を縮めた。合掌。
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