四方田犬彦の"戒厳"を読んで思い出した記憶②

韓流ブームがあり今では韓国語を学ぶことは珍しくないが、私が韓国に関わりを持っていた1970年代に韓国語を学ぶ人は少数派であった。当時はマイナーな外国語を学べる学校も少なく、私は拓殖大学が行っていたアジア語の夜学研修に参加して韓国語を学んだ。尤も、発音が難しく、また仕事が忙しいことと夜の酒席も多かったので、研修に参加する回数が少なく、中途半端に終わってしまった。なお、韓国内では未だ新聞にも漢字が使われていたので、辞書を引けば新聞位は読める程度にはなった。この時期は丁度、作者が日本の大学を卒業して韓国の大学に日本語講師として1年間いた時期と符合する。大分年月が過ぎて分かったのだが、この時期には私の大学の同窓も納入したコンピューターのメンテナンスで韓国に何度も通っていた。今だから話せると聞いた話はKCIAの盗聴用のコンピューターのメンテナンスであり、"戒厳"の作家が日本語検定で内密に呼ばれたKCIAの本部に友人も関係していた。私はKCIAと関りがなかったが、勤務していた会社に韓国のKCIAの職員(軍人「中佐」)から履歴書が送付され、コンサルタントとして雇ってほしい旨の書面が送付されたのを社長から見せられた記憶がある。なお、韓国大使館を訪問した時にトイレを借りようとフロア内を探していたら開放されたドアに髑髏と骨のマークがついている部屋にいた拳銃を持った韓国人にその先に行ってはダメだと咎められたことがある。若しかしたら彼はKCIAの職員だったかもしれない。民主国家になった韓国の今では考えられない世界であったことは確かだ。北朝鮮の工作も盛んに行われており、私にも北朝鮮系の在日の人が接触してきて韓国に行ったときに産業データの資料を入手して欲しいとの依頼があった。驚いたのは私が専門誌の会社を退職して先輩達と創業した会社に彼が訪ねてきたことであった。退職した会社にも言っていないのにどうして居場所が分かったのか不思議であった。彼が来訪した時に事務所に私の兄が偶然来ていて遭遇したのだが、彼が帰った後に素性を聞かれ、人を殺しそうな顔をしていると不気味がられた。なお、韓国と関係ない仕事と分かってからは二度と現れることはなかった。情報を求められたと言えば、KDDが韓国との提携で汚職の疑惑が上がり、共同通信社の記者から食事をご馳走になり、KDDの当時の社長の件に関して韓国でのことを聞かれたことがあった。"戒厳を"読んだ後に当時の色々な事が走馬灯の様に浮かんできた。確かに、当時は反日を思わせるものは見受けられず、多くの年配の韓国人は日本語を話した。尤も、韓国大使館でインタビューした参事官の方は日本語より英語が得意なので、良ければ英語で話したいと言われたので、次世代は日本語より英語を学ぶ傾向が強かったと思われた。日本に駐在していた韓国大使館員の方達は日本人は兄貴、韓国人は弟との言い方もし、日本の労働争議は一定の所で治まるが、韓国では会社が危なくなるまで治まらないと嘆いていた。特に、興味深かったのは、韓国人は日本人の違いに対しては、新築した家に招待された時に韓国人はこの部位はこの素材を使った方が良かったのにと褒めないで貶すことの国民性を指摘していた。良く考えると妬みの感情が強いことが分かる。日本に対する妬みが反日になったのかとも考えるが、当時は日本に対する妬みより長所を理解して我々も日本に学ぶ必要があるとの姿勢が強く感じられた。軍事政権から民主的な政権に変わってから反日が浮上してきたことには違和感を覚える。特に、全羅南道と言う古代の百済国のエリアの人達が特に反日が強いとも言われており、聖徳太子時代には兄弟国の様に親しかったのを考えると複雑な思いである。しかし、在日の方で日本の大学で学び会計士として事務所の経営を行っている方の結婚式に参列した時に奥さんは日本人であったのだが、韓国人の来賓の方の挨拶で日本と韓国は再度合併するべきだと話された時には驚いた。北朝鮮系の朝鮮総連の人達と韓国系の民団の人達とはかなり日本人に対する考え方に違いがあり、韓国で起きている反日は正に北朝鮮系の人達と考え方を一にしていると思われる。現在の韓国の反日は民主政権が意図的に韓国と日本を乖離させようとしているのではないかと思われる。

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