"企業は人なり"で考えるあれこれ

"企業は人なり"は経営の神様と言われた松下幸之助の言葉と言われる。確かに、米国企業のGEやインテルが過去の危機を乗り越えた教訓が活かされないのを見るにつけサクセッションの難しさと成功体験の呪縛の強さを改めて思い知らされる。良く考えるとどの世界でも人によって左右されるので企業に限定するのは狭義と言える。尤も、政治の世界の様にトップに立つのは実力だけでなく、時の運が必要なのは企業とは別と考えるが、過去においては企業でも甲乙付きがたい人物を後継社長に選んだ際はその人の持っている運を優先して決めたことを聞いたことがある。勿論、どの世界でも一人の力で何事も出来る訳ではなく、組織的に人を動かせて初めて成功することは自明だ。人を動かすには"相手の立場や気持ちを理解する"、"誠実で率直な評価を与える"、"重量感を持たせる、"相手を批判や非難せず、苦情も言わない"と言うカーネギーの教えが有名だ。新自由主義も行き過ぎた競争社会を作り出したために人的資本が蔑ろにされた反省から今、人的資本について成長する企業評価に取り入れている。情報化社会になりSNSなどによる他者との交流と好みの有った人達だけでグループを作る傾向があるためにフェイスツーフェイスのコミュニケーション能力が過去に比べて落ちているとの記事を目にする。確かに、隣の人に直接会話せずにチャットなどで遣り取りする時代なので、見える相手に話しかける能力が低下しているのは本当だろう。私自身も電話で話すよりチャットやメールなどで他者との遣り取りを好むが、それは言葉で伝える難しさを痛感しているからだ。同じ言葉でも地域文化などが異なると微妙に受けとり方が違う。関西人は馬鹿と言われるよりアホと言われる方が頭にくることを聞いたことがある。私の出身地の茨城県北部では馬鹿野郎と言う言葉を使うが、この言葉も怒った時に使う場合と冗談で使う場合とがあり、口調の強さやイントネーションの違いで使い分けするが、他地域の人にとっては両方とも同じに非難されたと受け取ると思われる。その他に方言も多少残されており、私が長い間気が付かないで使っていた言葉に「明日明後日(あしたあさって)」があり、私の感覚では「明後日」だが、他の地域の人達には「明日」と「明後日」の両日の意味とも取れる曖昧さがあることが分かった。実は「一昨日(おととい)」も「昨日一昨日(きのうおととい)」と表現する。人から何故その様な無駄な言葉を繋げるのかと言われた際には英語表現と同じだとやり返す。英語では明後日「The Day After Tomorrow」、一昨日「The Day Before Yesterday」のこじ付けだが、それを言うと笑って反論しなくなる。また、私の場合には「もっと」を「まっと」として使うのだが、これも前後の使い方で分かるからか長い間、誰にも指摘されないで来た。更に、私の場合は話すときに端折るので分かり難いと言われたことがある。人によっては何を言ってるのか分からないらしい。この年になっては変えられないので、何を言われようが使い続けるしかないが、この事が電話よりチャットなどを好む理由だ。情報化の社会では動画や画像の方が意味を伝えやすいと指摘されており、情報化の社会になり過剰のデータを吸収しなければならないので、脳は動画や画像の方が記憶に留め易いのかもしれない。昔に紙芝居があった。画像を言葉で表現するだが、妙に記憶に残っている。情報化の時代では人を動かすには米国の大学の授業の様に対話式が有効であり、それに動画や画像を取り入れると効果が上がるのかもしれない。考えると人間は話すより見ることの方が早かったのは歴史的な事実であり、改めて"百聞は一見に如かず"の諺が思い浮かぶ。新しい酒は新しい器に入れるの表現どおり、新しい時代には新しい方法で人を育てるのが必要なのかもしれない。

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