マスコミのガラパゴス批判は正しいのか!

最近何にでもガラパゴスと言う言葉が使われ、絶滅種の悪い見本にされている。マスコミが毎日の様にガラパゴスと書くから新聞などマスコミ情報を唯一の判断の手段にしている一般人はそれに呼応してしまう。ガラパゴスと表裏一体の言葉としてダーウィンの変化対応論がある。しかし、良く考えると、進化論は生命が短い生物に使われる言葉であり、樹木の様に長期に生存する植物は変化をしないことで生き抜けるのである。更に、ガラパゴスの批判は新興国に対する需要に合せた製品作りを指しているが、日本企業が付加価値の物づくりでなく、新興国の土俵に乗ったチープな物づくりで生き残れるものではない。勿論、日本製品がマニアックになり、高齢化社会を考慮しない複雑な製品作りが行われてきた事も確かではある。しかし、この事を以って全てがガラパゴスと言う極論は的を得ていない。グローバル化がローカルに眼を向けさせることは先進国においては消費者が好むのは画一的なチープな物ばかりではなく、本物を求めている証拠でもある。本物とは長い年月に耐えてきた価値と考えられる。日本の製造業ではガラパゴスと言う言葉が先行したために貴重な物づくりの心が失われてきており、職人芸もコンピュータのデータに取って代わられて来ている。しかし、誰もが認識し、誰もが経済コストの前に口に出さないが、ソフトは現場を知り尽くした者がいて初めて機能するものが作れる現実である。20世紀はハードの時代であり、21世紀はソフトの時代かもしれないが、ハードを作るのには現場力が必要なのであり、それが大きな事故を防ぐ要因にもなっていた。しかし、ソフトの時代になり、ハードが軽視されるようになり、同時に現場力も軽視されるようになった。その結果、働く人達もデータ重視で直感が働かなくなり、大きな事故に対しても全てコンピュータ任せて鈍感になってしまった。福島第一原子力発電所の事故は何故起きたのかは一目瞭然である。ハード軽視のソフト重視で起きたのである。PCの画面を見ているだけではハードの劣化や災害に対する予感は働かなくなる。ガラパゴスと言うマスコミの批判がハード軽視に繫がり、現場軽視に向かい大災害に対して予知できない状況を作り上げている。日本は木造建築で自然を学び、それを活かしてきた国民である。1千年に耐える木造建築には1千年の年月を経てきた樹木が必要なのである。変わる必要性は認めるが、それは変わらない重要性を認識した上での話である。東日本大震災では国の行政機能が平時の状態で非常に対応するには3ヶ月以上を要する馬鹿げた状況になっている。ソフト重視ははPCから信号が送られないと動かない思考停止社会である。マスコミのガラパゴス批判はそれを助長することになる。
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