日経新聞夕刊の食ナビに「茨城県北 つけけんちんそば」について書かれた記事を見た。田舎の年越しそばは"つけけんちんそば"であったので懐かしく読んだが、記事を見ると常陸秋そばをつけけんちんで食べるのは茨城県北の風習だったのかと改めて思った。東京都港区愛宕地区に小さな木造建物で営業していた蕎麦屋では、うどんとそばの合わせ盛りのメニューがあり、これにけんちん汁を別途に注文して食べると格別に美味しかった。残念ながら環状二号線の工事で立ち退きエリアであった為に現在は閉店してしまった。尤も、店の従業員は男女とも全員が創業時から働いていると思われた高齢者であったので、道路工事の立ち退きが無くても閉店していたと思われる。この店は知る人ぞ知る店で昼時には容易に席が取れない程の繁盛店だったので閉店が惜しまれたが、仄聞したところでは従業員全員が親戚で栃木県の益子出身と聞いた。けんちん汁自体は確か鎌倉のお寺の由来と聞いたことがあるので、つけけんちん汁でそばを食う仕方が茨城県北の風習と思われる。我が家のけんちん汁とそばは祖母が作った味なので、祖母が亡くなった今ではけんちん汁は作れてもそばの打ち方は誰も継承していないので二度と味わえない代物となった。そばの打ち方は子供の頃からと大人になってからは年末に帰郷した時に見たものだが、祖母が亡くなった後に見よう見まねで作っても同じ様なそばが作れなかった。新聞で書いていた常陸秋そばを使用した店の様な硬いそばではなく、逆に言えばやわらかいそばであったが、このそばがけんちん汁に良くあった。今思えば少なくてもレシピを聞いておくべきだったと後悔している。そば粉と小麦粉とつなぎに何を使ったのか。体重を掛けて踏んだのは覚えているが、その割にはやわらかいそばだったのも今となっては不思議だ。私のパートナーが打ち方を教わりたいと言った時に出来ないから遣らない方が良いと言ったらしい。推測だが、聡明な祖母だったので私のパートナーが覚えたら祖母に変わって毎年多くのそば打ちを遣らざる得なくなることを慮って教えなかったのかと思われる。今回のブログは日経の記事を見て年末でもあったので、懐かしい祖母の"つけけんちんそば"を思い出しました。
「海道東征(信時清作曲、北原白秋作詞)」のコンサートのご案内
ブログで書くのも相応しくないかもしれないが、チケット販売が苦戦している様なので掲載した次第です。標記のコンサートは12月19日(火)19:00開始でミューザ川崎シンフォニーホールで開催されます。株式会社ぷらうの代表である石川裕一氏が協賛しているコンサートです。彼から電話でいきなり「信時潔」を知っているだろうと聞かれ、「海道東征」の作曲家だよとダメ押しされたが、教養のなさが露呈して知らないと答えるしかなかった。彼も私が興味がないと思ったか第九も演奏することを強調して要件を終えた。彼は私の事を右翼的な思想を崇拝していると誤解しており、且つ必ずしも間違いではないが、同好の士と考えている様だ。海外勤務が長く、英語も達者な人だが、近年日本を憂いる言動と活動が著しい。正に、王陽明の知行合一を実践してる生き方には敬意を表するが、育ちが良すぎるのと言動が飛躍しがちなので誤解も受けやすい面を併せ持っているのが心配でもあります。しかし、多才であり、面倒見がよく、憎めない人柄なのは確かです。私も東京での開催ならもう少しチケット販売に協力できるのだが、川崎なので最小限の協力を行いたいと思っています。
お騒がせいたしました。
「大惨事と情報隠蔽」を読んで
建物管理を受託している会社としては、世界中で起きた惨事を分析した本を読むことは大事と思った。今回の本の事例で最も多かったのはロシア(旧ソ連を含む)であったが、米国との競争を第一義に捉えていた為に検証して臨むのではなく、走りながら物事を進める習慣が大惨事を招いた一因でもあった。同書では日本の福島第一原子力発電所の事故に関しても取り上げており、余り報道されていない事実にも言及していたので事故の全貌が理解できた。大惨事は予兆や技術的な問題が当初からあり、小事を軽視したり、縦組織の為に折角の情報が埋もれていたりと殆どの大惨事は似た要因が共通であったのが印象的だった。特に、同書では、昨今の資本主義の経費節減と短期的な利益を追求する姿勢が必然的に惨事を招く原因と断定し、今後も起きるであろう大惨事を警告している。勿論、大惨事になると思えば誰しも対策を考えるだろうが、大惨事を招く要因として組織的な問題より人そのものに問題があると言う事実には驚かされる。その点から言えば、神道を敬う日本人は形式主義的な発想を持っているので、福一事故の時に日本人は哲学がないから原発など持つべきではないと言う言葉と関係があるのかと思ってしまう。しかし、西田幾太郎などは、現代の哲学はプラトン以降実体主義に陥っており、その間違いも指摘しているので、組織ではなく人が惨事を招くと言う分析(情報隠蔽)に対する解決策は欧米の主流な哲学では出来ないと言う答えでもある。結論的には、哲学など大それた思想ではなく、情報の共有化や小事を大事の予兆と捉える現場の意見を経営に携わる人達が取り上げることであると分析している。短期利益主義が大惨事の原因と指摘されてしまうと、先行きが絶望になって仕舞うが、AIなどを人に置き換えることで情報隠蔽を防ぐこと出来ればと思った次第だ。AIを如何に活用するか模索しているが、人の心の弱さをAIでカバーすることが大惨事に対する当面の課題かもしれない。それでも、最後には経営者や上級者レベルの人達の判断が問題になるので、AIを何処まで活用すれば大惨事を回避できるかはメビウスの輪だ。
若い清掃スタッフに脱帽
1年前にオフォスビルの清掃スタッフとして20代の若い男性が応募してきた。過去に専門学校に通いながら夢を実現するために20代の男性がスタッフとして働いてくれた事があったものの、弊社の清掃現場では少ない事例であった。二人目となる今回の方は東京の北部の多摩地域の職場で働いていたが、千葉の実家の都合で帰ることになり、午前中だけの仕事を求めて応募してきた。交通費が月額3万円以上になるが、清掃業界は近年慢性的に人手不足になっているので、直ぐに現場に入って貰った。清掃の仕事は以前に従事した経験があるとの事で、1週間後には一人で清掃作業を行っても大丈夫であった。主としてトイレと通路を専門に清掃する担当になったが、前任者と比較して丁寧な仕事ぶりであった。経歴書を見ると、建築的な技術も習得しており、本人が希望すれば正社員になって欲しいとも考えていた。しかし、彼を面接した担当者から彼が童話作家になる夢を持っていることを聞いていたので、敢えて正社員の話は出さなかった。その消極的な対応に反省させられることになるのだが、ガラス製造会社の面接で正社員としての採用が決まり辞職願が出た。確かに、彼の見えない所でも一所懸命に働く姿を見ていたので、ガラス職人として頑張る姿も思い描けた。仕事の最終日に鍵の返還とともにお菓子を持参してきた。短い期間であったが、ビル内の従業者に評価される仕事を行ってくれた事に頭が下がる。最近特に思うのだが、年配者は不満ばかりが多く、その割には仕事を手抜きする人が多い。若い清掃スタッフが惜しまれて去って行く姿を見ている時に、新たに設備スタッフとして雇用した年配者が現場の迷惑を省みずに現場に出ると言いながら休み続けている。何が問題なのか理由が分からない行動と設備責任者は困惑している。退職は1か月前の予告の制約があるので、会社から辞めさせられるのを待っているのではないかと推測もできる。この人物は大学卒業後に名の知れた専業企業に技術者として定年迄勤務した経歴である。年配者の無責任極まりない行動を見ると、礼儀正しい若い清掃スタッフに脱帽だ。
言語と思考の関係
世界には色々な言語があり、その言語のルーツを遡ると同じ言語起源に繋がるケースも多い。創発グループ代表として初めて書くブログには相応しくないようなタイトルと思われるかもしれないが、最近になって言語が人の思考に影響を及ぼすのではないかと考えるようになった為だ。中国語には時制がないと言われるが、中国人にとっては過去も現在も未来もなく全てが一緒だとすれば、時制を駆使する言語の民族とは時空軸が事なってしまう可能性も否定できない。勿論、ブログで指摘している言語と思考の説に関しては極論の域をでないが、共通言語を有していないと本当には理解できない現実を考えると、あながち当たらずとも遠からずかもしれない。最近、知人から知人の知人がオープンしたスペインバスク料理に誘われた。スペインのバスク地方は独特の文化を持つ人々が住んでいることは知っていたが、知人の話ではバスク語は欧州言語の共通祖先のラテン語に属していないもので、何処で発生した言語かルーツが分からないと料理店に着く前に歩きながら説明してくれた。然も、料理に関してもミシュランの三ツ星を獲得する店が多いと言われ、舌の味が肥えた民族である様だ。この為、バスク地方には世界から料理を学びに来る料理学校があり、私もTVで見たことがあるのを思い出した。東京都港区新橋の烏森神社に近い路地にオープンした小さなバスク料理店は、ベトナム系米国人の若い方がオーナーであり、日本語は喋れないので会話は専ら英語になったが、私のブロークン英語では料理が不味くなるので、誘ってくれた知人が通訳をしてくれて美味しく料理を堪能できた。確かに、バスク料理は常識に捉われない発想で基本的には成り立っている様で、美味しい上に楽しかった。店名は「TXIKI PLAKA」で、新橋2丁目の路地に所在する。オープンして未だ1ヶ月なので試運転中とのことで、現時点では広告宣伝は行っていないとのことだった。なお、言語が通じないと理解できないと言ったが、実はそうでもない経験をしている。タイに旅行した時に仕草だけで会話が出来た。その場に同席した友人は驚いていたが、岡倉天心の「アジアは一つなり」を彷彿とさせる出来事だった。言語以上に相手に対する思いやりがあれば、理解しあえると言う経験を得た。言語により思考は変わるが、互いに理解し合うと言う意思があれば、世界中の人達と仲良くなれると思われた。
正しいマンション管理!!
標題を見て何で今更と思われる方も多いと推察するが、マンションの所有者の方とお会いすると本当に知識不足を痛感する。多数の所有者の方の集まりであるマンション管理組合は殆んどが管理会社に業務を全部任せているのが実情と思われる。
マンション管理に関しては区分所有法による法的な整備が主たるもので、マンションの維持修繕などの現場管理に関しては行政的には対応して来なかった。しかし、管理会社の管理費流用事件や管理組合の役員の業者との癒着や管理費の横領などが生じたことにより、行政では管理組合をサポートする専門家として国家資格の「マンション管理士」創設や、管理会社に対しては国家資格者の「管理業務主任者」制度の導入で不正などを排除する体制を整えている。
一応、マンションを維持管理するための法的な整備は十分かと思ったが、今度は修繕工事などで設計コンサル会社と管理会社や建設会社との癒着が指摘されている。癒着の原因は修繕工事を建設会社に一括して発注しているから起きるので、工事単価が明確となるコンストラクションマネジメント(CM)方式を導入すべきだと主張し、行政側が従来CM普及に注力してこなかったので、今後は取り組むことを促している内容の記事も目にする。弊社も管理組合業務や設計コンサル会社としてマンションの運営や修繕工事に携わってきたので、CM方式の問題点も熟知してきており、それ以前にマンション管理士を無視した専門家と言われる人達の言動には疑いの目を向けざるを得ない。
弊社の行っている管理組合業務代行サービスの業務は未だ認知されてなく、殆どが管理会社と混同される。その理由は管理会社が日常のマンション管理業務の中に管理組合業務を含んでおり、業務が一体化していることにある。本来は管理組合と管理会社とは区分する必要があるのだが、その指摘をしないで業者同士の癒着を囃したてるのは論理のすり替えを目的としているからだ。上記の設計コンサル会社が建設会社と癒着して法外なバックマージンを得ているなどの指摘は設計コンサル会社に失礼な話だ。修繕工事に関して設計コンサル会社に委託して適正な発注価格で業者を選定するのは妥当な事例であり、設計コンサル会社に成功フィーを支払えば不正など起きる訳がない。CM方式を普及させるために設計コンサル会社に対する不正疑惑を取り上げる行為は正しいマンション管理に水を差すものと言える。ちなみに、CM方式で発注するにはCM会社の能力が問われるものだが、日本で普及しないのは理由があり、行政が導入に前向きで無かったからとの指摘は全く当たっていない。翻って、不正や知識の欠如を補う存在としてマンション管理士の国家資格を導入しており、管理会社もマンション管理士と同格の国家資格の業務主任者を置いているので、癒着をチェックできる体制になっている。
それでは"正しいマンション管理"とは何かと言えば、管理会社から管理組合業務を切り離し、利益相反体制を無くすことに尽きる。マンションの管理は従来の様に管理会社にお任せでは修繕積立金が幾らあっても足りなくなる。建物の管理は日常的な修繕を細目に行う事で、大規模修繕の支出を下げることが可能となる。特に、マンションの運営は駐車場の外部貸出し、携帯用アンテナの収入など税金問題もあり、会社経営的な考え方も必要な状況が生まれている。最近はマンションの管理会社を変えると費用が削減できるとの広告が目立つが、マンションはオフィスビルや商業ビルとは違い費用の節減規模は限られているので、目先の事に惑わされずに長期的な視点で資産価値を減少させない事に目を向ける必要がある。更に、正しいマンション管理に付け加えると「所有資産価値の維持」と言える。
西五反田の土地で起きた詐欺事件
積水ハウスが西五反田の土地購入で詐欺にあって60億円もの大金を搾取された事件のニュースを見てやはりそうだったのかと言う思いであった。詐欺の舞台になった当該地には古い木造の旅館が建っている。ニュースでは4~5年前に営業を止めたと報道されていたが、最近まで営業を遣っていたのかと感慨深いものがある。当該旅館は親から相続した女性が経営しており、当社は今から37~38年前に向かい側の角地で共同開発を進めていたので、当該旅館に関しても共同開発を提案した経緯がある。当社は都心を中心に共同再開発事業を展開し、西五反田の共同マンションが開発案件の第1号であった。
地権者との面談で頻繁と当該地に行き来したので、目黒川を背にした古い旅館は共同開発に最適と思われた。しかし、何度も訪問しても現状を維持したいと言う所有者の気持ちを共同開発に切り返ることがかなわず断念した。当社は多くの開発案件を進めたが、多くは実現に到らないで終わった。その後年月が経ち、開発案件の場所に行くと全部と言って良い位に再開発されていた。当社の再開発の提案が呼び水になったのは確かであり、当社の手でなくても街づくりの切っ掛けになったことで社会に貢献できたと思ったものである。しかし、西五反田の木造旅館だけは当社が訪問した状態で年月が推移し、周辺の景観と時代に取り残された様に存在していたのには驚きもあり、感心もしていた。
当該旅館に関して再度当社が動いて見ようかと思ったのは、赤坂でゲストハウスを運営している知人が当該旅館に関心を持っており、彼の手法は外観を温存してゲストハウスに利用することでもあったので、売買や共同開発ではなく、現状を維持する利用の賃貸しなら可能性があるかもしれないと考えたからであった。後から思うと昨年に動けばよかったが、他の仕事が忙しくて動けたのは漸く今春だった。今年4月に土地建物謄本を取り付けたら直近で積水ハウスの売買予約の仮登記が記載されていた。遅かりしと昨年に動かなかったのを後悔したが、謄本を見ると仮登記には所有者から直接ではなく、間に会社が介在しており、然も当該敷地の一部には仮登記がなされていないのが不自然だった。勿論、所有者名義が同じ一族でも違っていたので、その一部に関しては同意が取れていない為に合意した大部分の土地にだけ売買予約の仮登記を付けたのかと推測していた。しかし、不動産に係る仕事に長年携わってきた私の直観では何か不自然であったが、一度に取引出来ないように仕組んで、時間稼ぎをする必要があったのかもしれない。当事者にしか分からない理由があったのだと思われる。
今回の詐欺事件で分かったことは所有者の女性に成りすました女を含む一味がパスポートを偽造して所有者本人になりすまして印鑑証明など公的書類を作成したことであった。所有者の女性が病気で入院していることの間隙を突いた詐欺事件だと推測するが、今日の科学技術の発達で容易くパスポートが偽造され、所有者本人に成りすますことが出来ることが分かり、今後は公的書類と言えども信用できないのかと思うと同時に取引には司法書士など多くの人達が絡んでいる事件なので、社会の正義に関しても希薄になりつつあるのかとも思った次第だ。何れにしても地面師の犯罪は科学技術と伴に本物と偽者が判別しにくくなってきたので、基本に戻り現場調査を行うと同時に、初心に帰って旨い話には気を付けることだと思った。当社案件は所有者の女性が亡くなり、相続が発生した様なので、相続税から考えると今回は売却になる可能性が高く、当社にとっては二度目の敗戦になると思われる。
「消えたヤルタ密約緊急電」を読み終えて
日本のエリートと言われる人達が国民にとって信頼できない存在だと言う事実を突き付けられた本だ。書かれているのは戦前の出来事だが、著者は東日本大震災時の二次被害となった福島原子力発電所の事故対策にも相似した現象を見て相も変わらない日本人のインテリジェンス欠如を憂いている。否、日本人にも外国のインテリジェンス・オフィサーに負けない人材がいたのだが、日本の危機的状況時に指導者として地位にいる人達が臨機応変に対応できないと言う現実だ。確かに、福島原子力発電所の事故は人災と言われるほど思い込みで対処した結果がメルトダウンを引き起こし、今でも故郷に帰れない多くの人達を作った。その反省も誰も責任も取らないないままで原子力発電所を再稼働させる日本人は馬鹿と言っても良い民族と世界から嘲笑される存在だ。知人の会計コンサルタントがフランス人に日本人は哲学を知らない国民だから原発など持つべきではないと言う屈辱的な言葉を吐かれたと言っていた。
掲題の本では正に的確な情報を入手しているにも拘わらず不都合な真実ゆえに葬り去られた結果、太平洋戦争で防げたかもしれない沖縄戦以降の無謀な戦いと被害を拡大したと指摘している。本の中で「ヤルタ密約緊急電」を握りつぶしたと推測された元大日本帝国陸軍大本営参謀であった瀬島龍三のことが取り上げられている。瀬島龍三は陸軍大学をトップで卒業した軍刀組の一握りのエリートだった。このエリートは戦後ソ連に10年以上抑留されて帰国した為に山崎豊子の小説「不毛地帯」のモデルと言われて戦後英雄視された。伊藤忠商事で出世を遂げて財界人の仲間入りをし、政府の委員会の要職も歴任している。瀬島龍三の実像は抑留時代にソ連のスパイとして教育されたエリート軍人の一人であったのは今では承知の事実だ。その様な人物が戦後の日本で政府の要職に就いていたのだから山崎豊子に「不毛地帯」の題材を与えたのもソ連の協力者だった可能性も推測できる。ソ連は大物スパイとして瀬島龍三を育てて日本に送り込んだのに日本人は能天気に何らの疑いもせずに瀬島を英雄視して政府の秘密にまで近づける存在にした。中曽根康弘元首相はその一人だ。
翻って、今の日本を見ると本で指摘している日本人エリート層の欠陥を倍増している安倍お友達内閣と人事で動かされている官僚の姿を見ると国家に生命財産を預ける状態にはないと思われる。特に、安倍内閣に呼応して突っ走る日銀の姿を戦前の大本営発表と二重写しに見えるのは私だけではないと思いたい。戦後70年を経て日本人のエリート層が間違った選択を只管変えないで国民を奈落の底に引きずり降ろそうとする図は見たくないものである。特に、戦前の軍人達が国家社会主義に憧れを抱いたことがソ連と言う信頼できない国家を盲信し和平交渉を委ねた訳だが、現在は新自由主義と言うグローバル経済主義を信奉する経済産業省の官僚が似たような盲信する姿を見ると慄然とする。掲題書は正に憂国の本であり、是非一読をお勧めしたい。
政治家も官僚も企業家になった弊害③
今回のブログを読んだ方はタイトルとの整合性が取れてなく、話が飛んで分からないと指摘されそうだが、私のブログは毎度同様なのでご容赦願いたい。タイトルに関して結論的に言えば、経済が良くなければ国家の税収は増えず失業者が増えて政府や官僚が非難されるので経済に注力するのは当然だが、問題は企業家の発想で経済の再生を進めることが間違いだと指摘したいのである。日本は経済大国になって久しいのに、企業の経済活動に対して干渉しすぎる点である。最近は労働に関しても必要以上に干渉し、残業時間を少なくすれば余った時間を余暇に使い消費に繋がると言った馬鹿な政策を実施している。尤も、今回の時短に関しては、政策の本音が残業時間を少なくして余った時間を余所の会社で働いて労働力不足を補わせると共に増えない給与を補填させると言った穿った見方もしたくなる。更に、インバウンド推進の為に飲食店の全面禁煙を打ち出しているが、この政策など喫煙による罹患率を下げて医療費を低減させることも狙いとしてあり、一石二鳥どころか、一石三鳥を考えているのではないかと疑ってしまう。最近の官僚は姑息なことを考えて折角のアイデアも元の木阿弥にしてしまうことも度々見受けられる。
何れにしても政治家や官僚は企業家になるのではなく、企業活動にプラスになる税法の改正や新設、企業活動の自由を阻害する規制の撤廃、国土保全と食糧の自給率の確保、国民の生活・安全の追求など正に政治の役割を行う事だ。農林水産業が国土保全の役割を果たしていることを省みない輸出重視の政策など企業家の考えだ。九州の北部で起きた水害は正に農林の衰退による山林の脆弱さから起きている事を懸念した政治家や官僚は居るのかと言いたい。日本国土は平野が少なく大部分は急峻な地形に囲まれている。自然はその様な国土を維持するために雑木林で構成されていた。しかし、住宅政策もあり、山は成長が早い杉などが植林されて多くの雑木林を失った。それでも農林業が盛んであれば山林の手入れがなされて台風や集中豪雨などに耐えうるのであるが、昨今は営林署もなくなり、動物も生息できなくなるような荒れた山林になってしまった。その結果が山の脆弱さが露呈し、今回の様な水害被害となっている。農地も同様だ。農地があるからこそ多くの生物が生息し、自然再生のサイクルが維持されて来ているのである。農林水産業は単に国民に食糧を供給しているだけでなく、国土の保全を維持しているのである。その事を省みないで今後も優位に立てるかどうか分からない自動車の輸出の為に国土保全を捨てる政策を推進しているのである。企業家なら分かるが政治家や官僚が考えることではない。
新規に農業に参入した企業が植物工場は既存農家の様な固定資産税などで優遇されていないので不公平だと優遇税制の撤廃を求めている。先ほどの国土保全の役割を担っている農林業を分からなければ不公平に腹が立つ人も多いと思われる。しかし、国土保全の役割を行っていると言う付加価値を認めれば、その付加価値を持たない植物工場に対して優遇税制を施す意味がないことに気が付く筈だ。しかし、昨今の政治家は農業の効率化と言った話題にしか考えが及ばず間違った議論を進めている。私は農村に育ち父が県の農業委員の要職に就いていたこともあり、農業に関しては子供の頃から問題点を熟知している。農林水産業は労働集約産業であり、人手不足を機械化によって克服してきても自然や販売など多くの難しい問題を抱えているのが実情だ。然も、工業立国として農林水産業を鬼っ子扱いされてきた歴史がある。日本の国土は米国とは異なることを考慮して農業を考えないと取り返しがつかい事になる。政治家も官僚も企業家になりたいなら早く転職すべきだ。真の政治家と官僚が出現しなければ日本の再生は実現しない。
政治家も官僚も企業家になった弊害②
行政に効率は必要ないとは何事かと言われそうだが、行政に必要なのは効率と言う一言ではなく、「業務のスピード化」と「無駄を省く」と言うことだ。しかし、この様に書くとそれが効率だと反論が出ると思うので付け加えると、本来の意味の効率とは「機械が有効に働いてなした仕事量とそれに供給したエネルギーの比率」のことであり、コストパフォーマンスを指している。これに対して、私が指摘する行政の問題は能率と言った方が分かりやすい。勿論、能率だけでなく、無駄を省くと言う視点が大事だ。尤も、無駄を省くと言うと、直ぐに公共事業の縮小や補助金打ち切り、更には平等の大義名分により弱者切り捨てと誤解されるが、日本文化を再認識すれば、「無駄を省く」という事が理解できる。日本の建築美と言われる「桂離宮」然り、日本語の俳句然り、必要最低限で機能させることである。
日本の行政でも見習う企業はある。メーカーではなくサービス業の星野リゾートだ。行政はある意味ではサービス産業である。その様な意味では、星野リゾートの考え方を見習う必要があるが、日本の場合は工業立国の意識が抜けないので、政治家も官僚もメーカーに範を求めてしまう。勿論、メーカーにも参考になる点はあるのだが、行政の人の使い方を星野リゾートを参考にしろと言いたい。理由は、行政は予算編成を中心に人員を無駄に配置しているからだ。また、ピークの仕事に合わせて人員を配置しているからだ。星野リゾートの業界も過っては行政と同じような無駄な人員配置を行っていた。否、未だ旧態依然のやり方で行っている旅館等も多いと思われる。勿論、民間の旅館業は行政と同じでは潰れるので、パートやアルバイトなど低賃金の雇用者と正社員を組み合わせているのであはるが。なお、行政も事務職の女性はアルバイトで業務の多忙部分を補っているので、似た側面はあるのは否定しない。
では何を行政は参考にするかと言うと、星のリゾートは誰もがどの職分の仕事も出来るようにし、人の無駄を無くし、会社に責任を持つ全員の正社員化を図ったことである。この様な組織運営を行えなえるのは労働組合が存在しないので出来ることを承知の上で指摘するのである。1000兆円の赤字国債、地方債を含めると1250兆円を超える負債を行政が抱えているのである。行政はメーカーの様に業績不振に陥って人員整理や選択と集中の様に将来性がない部門を売却して資金を得て将来の事業の再構築などは出来ないからである。省庁を超えた人の異動は現在でも行っているが、それは「無駄を省く」ことを前提としたものではなく、省庁間の交流位の役割しか果たしていない。
一方で、行政は民活を旗印に民間委託を進めているが、民間委託の実態は利益を民間企業に与えてインフラの負担は税金で行うモデルから出ていない。この様なことを続けていると更に赤字が増大することになる。勿論、過去に比べると政治家がダメになったが、官僚は危機感を持って模索しているのは否定しないものの、如何せん参考にしているのは欧米の物真似ばかりであり、日本の足下に目を向けて知恵を出していない。
<続く>
国会議員も官僚も企業家になった弊害①
現代社会は過去に経験したことがない時代に入った。テクノロジーの進歩は革命的な社会変化を遂げるが、テクノロジーの進化のスピードに人の脳は付いてゆけるのか気になる所だ。もう一つの気になる点は政治と経済がイコールで結ばれて、今や政治家も官僚も経済だけしか考えない風潮になった事だ。経済と言う言葉は、「経世済民」から取ったので民を救うのは経済だけと思い込むのは仕方がないが、政治は政事を治めるのであり、経済中心の考え方とは異なる。豊な社会になって心に飢餓感が生じるのは何故かを問う必要があるのに答えがないことに社会が苛立っている様に思える。
勿論、満足に食事を摂れない社会では、豊かになることが先決であり、何事にも経済が優先されることは否定しないが、少子高齢化社会を迎え、グローバル経済で格差社会となり、国家が予測していなかった問題に直面して国の仕組み自体に問題が生じ始めてきた日本に関しては、従来の様な欧米追従主義で乗り切れる様な安易な状況ではないことは確かだ。しかし、政治家も官僚も答えは経済成長一辺倒で、解決策には新自由主義と言われる関税をフラットにすることしか考えられないでいる。
標題に書いた国会議員も官僚も企業家になった弊害とは、企業とは収益を求めて最大限の価値を創造するために効率を考え、場合によっては選択と集中により事業の再編成を断行するのが事業資本を投資してくれた資本家に対する責任だが、同様に国家を企業の様に効率的に運用すれば少子高齢化社会やグローバル経済とそれにより発生した格差社会などで生じた問題などを解決できて国民に対して責任を果たせるかと言えば不可能だ。何が論理的に間違っているかと言えば、国家は企業が労働者や下請け企業を経済状況によって切り捨てる様には国民を切り捨てる訳には行かないと言う単純な事だ。
日本が今日の迷路に入った分岐点は日本が変わると思った小泉政権からだという事だ。小泉内閣は郵政民営化を旗印に構造改革と称して規制緩和を行ったとされているが、小泉改革と歩調を合わせるように日本のベンチャーキャピタル投資が横ばいから減少してきている事実だ。確かに規制緩和は行われてきているが、規制緩和の実態は政府がお荷物になっている部分の規制緩和であり、国民が行ってほしい規制緩和とは程遠いのが真実だからだ。何故その様な事が起きたのかは、先ほど述べたように政治家も官僚も企業家になったからである。
話は変わるが、金融庁が地方銀行の再編成を進めているのを見るにつけ過っての都市銀行のメガバンクに誘導する政策を想起するが、メガバンクにする理由は世界の金融自由化の波に日本の都市銀行規模では生き残ることが難しいなど言われたが、この考え方は金融機関の役割を度外視した考え方であった。メガバンクになって都市銀行が減少した為に企業の資金の借入先が減少し、企業にとってはマイナスになったことだ。この様に書くと、地銀や第二地銀や多くの金融機関があると指摘されると思うが、再編成前の都市銀行は企業を育てる使命感の様なものが存在していた。一方の地銀などは収益を稼ぐ事しか念頭になかったと記憶している。様々な都市銀行が色々な視点から企業を評価してくれたことが日本経済にもプラスに働いていたと思われる。現在、金融庁が進めている地銀や第二地銀の再編成もメガバンクと時と同様に借り手企業のことや再編後の競争欠如を度外視した一方通行の政策で部分最適の考え方だ。
<続く>
奥能登国際芸術祭
先日、NYの友人から奥能登国際芸術祭に関係した内容のメールが届いた。開催地の石川県珠洲市には宿泊施設が少ないのでテントを利用することにし、そのスポンサー企業を探しているとの内容だったが、情報の元は建築家の伊藤朱子さんで、友人はその情報を私に流してきたものであった。偶然だが、私は伊東朱子さんと静岡県御殿場市に所在するレンブラントゴルフ倶楽部御殿場コースの花植栽プロジェクトでチームを組んでいたので、昨日の現地調査の昼食時にその話題に出した。
伊藤さんは知人を介して珠洲市長と今回の芸術祭で交流する機会を得て何度も珠洲市を訪問して自然豊かな地域に魅せられたとの事であった。珠洲市には900家屋が空き家になっており、空家の造りは木造で立派なのに驚いたそうだ。伊藤さんは芸術祭のプロジェクトに関わることになったので、出来れば空き家を宿泊施設に改修したいとの思いからNYの友人に投資家の相談をしたとのことであった。珠洲市は交通的には不便な場所に位置し、金沢からは車で2時間、東京からは能登空港を利用すれば空港から1時間だそうだが、便数が少ないとのことであった。
私は珠洲市の名前を聞いた時に最初に思い浮かんだのは、若い時分にエネルギー関係の仕事をしていた頃に北陸電力が原子力発電所の建設地として計画していたことであった。同時に、此方は比較的新しい話だが、能登空港に併設された高等学校にも多少縁があったことで、改めて珠洲市について思いを寄せた。能登空港に併設された高等学校に関しては、山梨県に本校がある学校法人日本航空学園の能登校舎のことであり、弊社は山梨県内の学生寮建替えプロジェクトの件で何度か本校にお邪魔していた。
同芸術祭のトリエンナーレは「瀬戸内」、「新潟」に続く3番目の芸術祭とのことで、私も雑誌等でその芸術祭自体の存在は知っていたが、知り合いの方が関係しているのは奥能登国際芸術祭が初めてである。この為、弊社の様な小企業でも何かお手伝いすることが出来ればと思っており、古い木造の立派な空き家の再生で伊藤朱子さんに協力できればと思っている。人の縁と言うのは不思議なもので、NYの友人から数年前に伊藤朱子さんを紹介され、その縁で現在ゴルフ場の植栽プロジェクトにチームとして取り組んでいるが、私自身は奥能登に行った事がないのだが、今回に結びつくような過去の記憶と数年前のプロジェクトが交差する縁を感じる。なお、芸術祭に向けての古民家再生プロジェクトに協力する人達に声を掛けたいと思っている。
民泊を始める前の留意事項
インバウンドか何だか分からないが、日本は制度的には宿泊施設に対しての許可は民泊以前は「ホテル営業」、「旅館営業」、「簡易宿泊所及び下宿営業」の3分類で認可を取った。しかし、現実的には、民泊と競合する宿泊施設として①ユースホステル、②ゲストハウス、③簡易宿泊所、④下宿屋、⑤ウィクリーマンション・マンスリーマンション、⑥民宿、⑦宿坊に種類分け出来る程多様性で溢れている。
昨今、人種的な垣根を超えることをダイバーシティなどと表現されてるが、日本社会はある意味形式主義の国なので、形式を整えていればある意味黙認される傾向が強い。日本人は創造性が欠如しているとかガラパゴスとか指摘されているが、日本人ほど創造性が豊かで柔軟性がある国民は世界的に見ても少ないのではないかと私は思っている。先入観なしで考えれば、日本は地震、台風、雷、火山などの災害が頻発し、然も四季が明確なので、頭が固くては生き延びて行けなかった地域と思われる。上記の宿泊施設は一部が旅館業法で規制された宿泊施設ではないが、競合施設なのは変わりがない。これに次は民泊が加わるのだから一層競争が激しくなる。競争と言えば、この言葉も日本に関しては欧米と比較して競争に晒されていないので考えが甘いと言う指摘も言い古されているが、何の世迷言かと言いたい。
更に、昨今は効率と言う言葉が我意を得たりとばかり跳梁跋扈している。勿論、効率が重要な業界においては必要と思われるので良いが、サービス産業までに効率と言う言葉が入ってくると、"おもてなし"と言う日本的なサービスとの間で整合性が取れるのか疑問が湧いてくる。尤も、民泊レベルの宿泊施設では"おもてなし"など不要と言われてしまいそうだが。効率とは意味が異なるが、日本文化とは本来無駄を究極までも削ぎ落としたものであるので、その意味から言えば効率を超えた世界観を構築しているものと考える。先の競争と言う意味では、日本人は上下大小の区別なく、良いと思ったことにベクトルが一斉に向くので、常に過当競争に晒されてきた。競争などないと言うのは全くの嘘八百だ。過当競争があるからこそ世界に通用する技術が出来るのであり、消費者の目も肥えているから本物でないと継続できない。
欧米諸国は日本は規制で進出できないと言うが、規制で進出できないのは何も海外企業だけではない事を理解していない。国内企業も然りだ。だが、上記の宿泊施設の様に色々な知恵を使って上手くグレーゾーンを探して対応するのである。尤も、この考え方は日本人特有のものと最近まで思っていたら、中国でビジネスを行っている方と話をしたときに、中国人は上に規制があると下は解決策を講じる国民と聞き、極東アジア文化なのかとも考え直した。
何れにしても、宿泊施設が絶対的に足りないので旅館業を規制緩和して民泊制度を作って対応すると言う触れ込みには疑問を呈してしまう。上記の宿坊などは民泊制度によって今後は大きく施設を拡大する計画があると言われ、思わぬ伏兵が民泊制度にはある。「敵は本能寺にあり」かも知れず、もし民泊を始めるならば日本には既に十分ある宿泊施設があることを念頭に入れて置くべきと心得えて付加価値を取り入れた事業にすることをお勧めしたい。
賞味期限・消費期限
タイトルをご覧になった方は食の関係と思われるかもしれないが、今回は人のことです。先日、株式会社ジャパン・アセット・アドバイザーズが発行するJAA通信と言う定期刊行物に記載されていた南一弘代表の「賞味期限をよく考えて自分作造りに励みます」と言う一文を目にした後に、元KPMG出身でその後トーマツでコンサルタントに従事し、現在リタイア生活を楽しんでいる方とご一緒する機会があり、再就職を話題にした時に人の賞味期限を感じさせる言葉を聞いたことが印象的だったのでブログに書くことにした。
人の賞味期限について最初に聞いたのは、私が世話になった方が事業で挫折し、再起を期す為に頑張っている時に、「賞味期限がある内に何とかしたい」と話された時である。私はその時には深く意識しなかったが、今回は偶然にもいくつもが重なり合って意識せざるを得なかった。同じ時期にリタイアしている友人から有効求人倍率の労働者は15-64歳の働く意欲がある者なので、私は完全に対象外だとメールが来たことにも感傷的になった面もある。しかし、働く意欲だけでは越えられない問題があるのは確かだ。少子高齢化社会なので、現在は65歳まで働かないと年金が貰えないが、今後は70歳に引き上げようとする動きがある。財政だけを見て人を全く見ていない動きには腹が立つし、若い時に一生懸命仕事をした人は年齢を経て働くと言う言葉の重さが身に染みるのである。
先のトーマツの方はCPAの資格を有する優秀な方であり、常に体を鍛えて心身の鍛錬に励んでいる姿を見て来ているので、現在の変化に対する知識の更新に追いついて行けない不安を抱き、もし間違ったらクライアントに迷惑を掛けるので再就職を敢えて行わないと言う話には我が身を振り返った。豊富な経験を拠り所にし、知識の更新も行っていると自負していたが、確かに経験の記憶も勘違いしている事があるかもしれないし、知識の更新も必要な全部を網羅していない可能性も否定できず、クライアントに迷惑を掛けていないだろうかと不安になった。
政府が主導する働き改革では高齢者も含まれているかどうかは勉強不足で不明だが、高齢者が働くのは当然と主張する連中は高齢者の不安など眼中にない様に思われ、知識の更新に不安があるなら肉体労働者にでもなれということなのかと考えてしまう。南氏も人の賞味期限は他者から無視されなければ未だ大丈夫と書いているが、それには自分造りに励むという条件付きなのは確かであろう。AIの発達で専門職が急激に奪われて行く中で、それぞれが自分造りに励むのは容易ではない。今の社会は多額の報酬を得られる時代になったが、賞味期限を過ぎた所か消費期限を過ぎても地位に拘っている人達も多く、企業の破たんを招く現象も起きてきている。経験が浅くても高額の報酬を手にすることが出来、経験があるものの知識の更新に不安を覚える良心的な人がリタイアしてしまう社会になったのは何故かと自問自答をする。
尤も、個人情報保護法も改正され、民法も改正され、消費契約法も改正され、建築基準法も改正されたり過去20年の間に多くの法律が現代社会に対応するために改正されてきている。今後も急速に変わる時代に合わせるために法律を変えざる得ないと思うが、法律の中には進歩によって改正するのではなく、逆に社会の劣化と思われる法の退行改正もある。規制の緩和と言いながら一方で規制強化も日常茶飯事だ。幾ら優秀な人でも場当たり的に法律や欧米主導の国際基準に従った制度の改正が行われたりでは知識の更新などに努力した所で賞味期限が到来するのは目に見えていると考えるざるを得ない。しかし、幾らITの時代でも更新作業は必要なのだが、更新で不具合が起きるのも確かなので、クライアントに迷惑を掛けないことを最初に心掛けていれば未だ大丈夫と思う事にした。
愚かな社会の愚かな判決に関する後記
東京都杉並区内の容積率違反となった底地の一部売却事件に関しては①と②で終わりにしたくない部分があったから後記として記述する。
底地を取得した不動産会社が杉並区役所の底地の売買に関して二度に亘り勧告を出したにも拘わらずに無視して関連会社の1700㎡の内420㎡を敷地を住宅販売業者に転売し、その販売業者が再度指定確認検査機関に建築確認を提出したのだが、指定確認検査機関は住宅設計に関しては問題がないので建築確認を交付したと言う記事の部分だ。
1971年に建築された3000㎡の敷地の一部420㎡に戸建て住宅が建築されて既存マンションが容積不足になったと言うからには、既存マンションが3000㎡の敷地でマンション建築の確認認可を得た時には余剰容積率はなかったという事だ。既に容積率を使ってしまった420㎡の土地に対して戸建て住宅建築の設計に問題はなかったとは摩訶不思議な事だ。もし、土地の分筆を行えば容積率に関する問題が白紙になるのが法的に可能ならば、大きな法的な不備と言える。容積率を売買できることは法的には可能だ。しかし、容積を売買して使用しない容積分を移転した場合には、売った土地の所有者は売ったよう積分を差し引いた残りの分しか使えないのは当然だ。それが逆のケースでは認められると言うのは可笑しい事だ。
指定確認検査機関が既に容積率を全部使って仕舞って余剰容積率のない土地に対して設計上問題ないから建築確認を交付したとは驚きだ。勿論、既存マンションの敷地に過去に利用されたのは分からないために建築確認を交付してしまうケースはあるのかもしれないが、建築確認の交付は単なる建物に関してだけでなく、周辺との観点からも審査するのは当然ではないか。この様な愚かな社会を作り上げたのは誰なのかと言いたい。裁判官も専門知識など知らないだろうが、法律だけしか判断しない判決など愚かのひと言だ。裁判官の劣化と出世だけしか頭にならない判事などに判決など認めたくはない。経済成長と言う幻想の為に必要な規制まで緩和して不正義な者が徳をする社会など存続する必要がないと思うのは私一人か。
愚かな社会の愚かな判決②
当該マンションは1971年竣工なので当時購入して現在でも居住している方はリタイア組であり、中古物件として購入した方は取得時期によっては未だ償却が終わっていない可能性もあります。底地部分の所有者の経済的破綻に対する対応は当然に管理組合を通して全組合員に知らされていると推定され、総会で対応を議論してきたと思われる。この辺りは全て推定だが、当たらずとも遠からずと思われるので推定をを続けるとして、底地権の購入金額は1戸当たり400万円前後、総額約2億5千万円と考えられる。総会で結論が出なかったので競売になった訳だが、マンションの底地など誰も見向きもしないと言う楽観論が支配したためかと思われる。底地の深刻な問題は全員が賛成でないと結論が出せないと言う厄介なことだ。その為に折角のチャンスを逃したと思われるが、残念なのは当該マンションは現行の許容容積率が少なかったことだろう。若し許容容積率が大きかったらデベロッパーに持ち込んで底地を買い上げて貰って再開発に持ち込めた可能性もあった。
何れにしても組合員の予想を裏切って底地を競売で落札した不動産会社があり、その不動産会社は当該マンションの容積率違反になるのを承知の上で戸建て住宅としての1700㎡の内420㎡の土地売却を企てたことだ。停止条件付で売買契約を締結した戸建て住宅販売業者は建築確認申請を指定確認検査機関に提出したことから特定行政庁の杉並区役所が容積率違反になることを発見し、区役所では競売取得した不動産会社と当該マンション管理組合とで土地の売買で解決を図るように書面で通知し、指定確認検査機関には建築確認を保留するように行政指導したとのことであった。杉並区役所としては適正に行政としての役割を果たしたと言えよう。問題はこの先で起きた。競売で購入した不動産業者は二度の行政指導に従わずに対象土地の内420㎡をを関連会社に転売し、戸建て販売業者はこの関連会社から420㎡の土地を購入して再度建築確認申請を提出した。計画した住宅の設計自体が適法だったので、指定確認検査期間は建築確認を交付し、結局問題の戸建て住居が全棟完成した。
この為、管理組合では関係不動産3社に対して「住宅によって眺望や日照を侵害された」などとして完成した6棟の住宅の撤去や慰謝料の請求の支払いなどを求めて提訴した訳だ。結果的には、慰謝料33万円の支払いを不動産業者に命じたものの、戸建て住宅の撤去は認められなかった。訴状の内容は知らないが、戸建て住居の撤去以外に慰謝料などを求めたのは最初から住宅の撤去は難しいとの判断が管理組合側の弁護士にあったと推定できる。WEB雑誌では1984年の改正区分所有法の成立以前は建物と土地を切り離して売却できたので、1983年以前の建物には今回と同様のトラブルの懸念があると指摘していた。しかし、今回の事件は指定確認検査機関が生まれていなければ戸建て住居の建築確認の交付はあり得ない事を考えると、1983年以前と言うより、規制緩和が生み出した法の網を抜けた悪質な不動産業者に利益をもたらす仕掛けとと言える。正直者で納税を怠らないものが不利益を生じる社会とは何だと言いたい。裁判官も法律論でしか物を見ない社会経験も少ない者が一連の流れの悪質さも判断出来ないで判決を下す社会には愚かさ以上に絶望的になる。
愚かな社会の愚かな判決
偶然に目にしたWEB雑誌の記事に目を惹かれた。
タイトルは"敷地に戸建て、マンション容積率違反に"でした。東京都内の杉並区の分譲マンションの敷地内に戸建て住宅が建築され、マンションが容積率違反の違法状態になっているとの記事に最初はあり得ない話と思い、記事が間違っているんではないかと疑った。しかし、読み進んで行くに伴い、この様な事が他の事でも起きていたらと気になりだした。小泉内閣時代の建築基準法の改正により、建築確認申請の審査が民間会社でも可能となり、指定確認検査機関が出現した。行政庁でも建築物の巨大化で対応してきれなくなったのに採算性が求められる民間の検査機関に出来るのかと言うのが私の率直な感想であった。民間検査会社の出現はその後に構造偽装事件と業務発注の変化の二つの面で現れ、今後が懸念される代物であった。不祥事が起きると行政は待ってましたとばかり今度は別な方法で規制強化を行うが、先の構造偽装事件後の規制強化と業務発注の変化は弊社の様な設計事務所に関しては色々な面でマイナス効果が大きく働いている。
然し、今回のマンションの容積率違反は規制緩和以前ならば起こり得ない事件だから余計に愚かな社会を作り出したことに腹が立った。私も知らなかったが、指定確認検査機関は業者から申請書が提出されると概要書を特定行政庁に送付する仕組みになっていることだ。今回はその送付で杉並区役所がマンション敷地内に建築される戸建て住宅でマンションの容積率違反になる懸念に気が付いた。同マンションは1971年と古く現行許容容積率/建蔽率は150%/60%だそうだ。約3000㎡の敷地として建築確認を取得し、鉄骨鉄筋コンクリート造地上11階建のマンションが建築されている。問題は敷地3000㎡の内、1700㎡が借地であり、その借地部分が競売に出されて所有権が不動産会社に移転したことだ。競売の経緯等は書かれていないので、今回の事件とは別に幾つかの疑問点はある。それに言及しないで今回の件だけを取り上げても意味をなさないと思うので、先ずはその点から述べるとする。一般的には底地である土地の所有者が経済的に破たんした場合には推測の域をでないが、債権者は借地権者に底地の購入を勧める筈だ。なお、当該マンションは敷地の約57%が借地であり、所有権と借地権がマンションの敷地権としてどの様に対応していたのかが不明だが、一部のマンションには所有権の敷地が付いており、一部のマンションには借地権の敷地である様な分け方はしないので、考え方としては共有持分(所有権)と準共有持ち分(借地権)の両方の持分で全戸成り立っていたと推定するしかない。
<以下次に続く>
隔世の感
昨今は資産運用のパンフレットで資産購入を勧誘する会社が多いが、その中でビルのフロア購入を勧めるものがあった。1棟の建物を購入するよりいわゆる区分建物の方が資産価値が高いことを謳ったものであった。区分所有建物とは分かりやすく言えばマンションなどの住戸が代表的なものだが、ビルのフロア購入を勧める案件はオフィスとしての活用を目的としている。簡単に言えば、賃借でオフィスを利用している会社や個人に区分所有建物のオフィスを購入すると賃料分を購入に要する借入金の返済に充当させて資産を得られますよ、という事だ。共同所有のマンションの為の法律として区分所有法が成立したのだが、法律制定当初から長い間は専らマンション法と呼ばれる位に住戸を目的としていた。その後、共同建物は住居として住まいに使用する以外にビジネスマンションなるものが考案されて仕様は居住用だが、オフィスとして使う物件も出現した。今から40年以上前なので未だオフィスビルは少なく、個人事業者が賃借するには保証金も高かったので、少人数のオフィスとしてビジネスマンションは好評だった。
更に、ビジネスマンションにヒントを得たと思われるのが弁護士ビルなるものの出現だった。弁護士ビルはビジネスマンションよりは通常のオフィスビルに近く、弁護士と言う職業からオフィスを借り難いと言う問題と弁護士と言う個人事業主にはサラリーマンの様に退職金がないので、引退時に弟子に事務所を購入してもらう事で退職金代わりにもなるので多くのメリットがあった。なお、共同開発での副産物である店舗の区分所有建物は早くから存在したが、問題は流動性に難点があり、店舗用途に関しては飽く迄も意図的ではなく開発から生まれたものであった。尤も、超高層ビルの建築では、複数の企業が共同参加したことから数フロア単位での区分所有建物が存在しているが、一般的にはマンションと同じとは理解されていなかった様だ。
過去の区分建物のオフィスには流動性に問題があったことを述べたが、その最大の理由は当時の金融機関が担保価値として区分建物オフィスを見てくれなかったことだ。担保主義の時代であったので担保と評価してくれないので、区分建物のオフィスの需要があっても流動性に欠陥があったことになる。その後、徐々に区分建物オフィスにも担保価値を求める金融機関も現れてきたが、実際の不動産取引においては評価の80%が一般的であった。
弊社は都内に共同事業でマンション建築を行っていたが、共同事業なので1階は店舗を配置し、所謂下駄ばきマンションであった。共同事業で早期の資金回収にはマンションを分譲することであり、弊社はマンション専業大手に取得分を卸すことによって販売リスクを避けた。今の若い世代には理解できないと思われるが、当時は高金利なので販売戸数の10%が売れ残ると利益がなくなるとまで言われた時代だ。エンドユーザーに販売できれば利益が多いのが分かっていても弊社規模では出来ないのが実情だった。
区分建物のオフィスが金融機関に認知され、利用者や投資家にも一般的になったのは何時頃かと言うと、1985年以降のバブル経済になってからだと思われる。都心にビル需要が増加し、多くの場所で地上げと称される再開発が進められたことから地価が急上昇し、都心で1棟ビルを所有するのが価格的に大変になったことが背景にある。弊社でも都心の共同再開発で大型ビルを建築することになるのだが、開発当初は未だバブル経済にはなっていなく、ビルの仕様が従前と大きく変わることが予想されたので、弊社は付加価値が生まれる今では死語かもしれない「インテリジェントビル」の希少価値で勝負に出た。紆余曲折を経て1987年に完成した時にはバブル経済絶頂期であり、大型ビルの区分建物のフロアも担保価値としては1棟ビルのフロアと変わらない金融機関の評価であった。
長々と区分建物に関して推移を述べてきたが、今後予想される都心のビルの供給過剰にあって区分建物のオフィスの資産価値がどの様に推移するのか興味を持っていた時に、冒頭の様な区分建物のオフィスを積極的に資産価値が高い案件として推奨する不動産業者が居たので驚いたのは確かだ。区分建物の資産価値とは何かとひと言で述べると区分所有者の団体である管理組合が機能してるかどうかだ。そのことを触れずに売買の仲介や販売して終わりでは無責任になる。何れにしても、区部建物のオフィス販売では先駆者といえる弊社が積極的に出来なかったのを専業として大きく伸びている会社が出てきたことを思うと隔世の感がある。弊社は今でも区分所有建物では多くの知見を有しているので、今後は区分建物のオフィス販売にも乗り出そうかと考えている。
管理規約制定の臨時総会を終えて③
築36年で管理規約を制定する難しさは、マンションデベロッパーが購入者の同意を得ないで公正証書規約で制定している事実からも分かります。購入前の設定ではなく、竣工後の大分年数が経過したマンションで管理規約を制定するには区分所有法の特別決議によって行います。勿論、近年の規制緩和の影響で、過去には規約制定には全員の同意が必要でしたが、現在は全体の4分の3の決議で制定できるととは言え、通常の総会の過半数の出席で、且つ多数で決められる議案と比較すればハードルは相変わらず高いのは確かです。
管理規約の大前提は公平さと建物の管理保全に必要な規制ですので、基本的なたたき台は国土交通省が公開している標準管理規約のモデルを参考にし、その上で当該マンションに係る条文を加筆・変更することになります。当該マンションは築年数から既存不適格なのは当然ですが、問題は違法性のある物件だったことでした。しかし、当初案ではこの問題を無視して作成する訳には行きませんので、弊社段階では違法性の問題を念頭に作成しました。
管理規約の内容に関しては、管理組合の役員と居住者の方に先ず説明し、後は区分所有者の人達が条文の是非を議論して決めていただくことにしました。弊社が最初に説明した以外に議論の中に入らなかったのは、自分達で管理規約を作成する意識を持ってもらう必要があったからです。管理規約の制定で最も重要なことは与えれたものではなく、自分達が作ったと言う誇りです。なお、居住者外の方々は容易に参加する機会がないと考えて1ヶ月以上前に管理規約案を郵送し、必要に応じて弊社が内容を説明し、意見を伺う事にしました。
今回の管理規約制定作業で痛感したのは、当該マンションの自治会時代から各所有者の信頼を得て運営をしてきたことでした。この為、外部の所有者で作成の議論の場に参加できなかった方から修正等の意見が出ませんでした。臨時総会の議決権の確保で出欠の確認を連絡した時には、出席できない方から全員の委任状も取り付けることが出来ましたので、理事長さんも驚いていました。理事長さんと役員の方は仕事が忙しい上、腹の立つ個人的な意見も聞きながら皆を賛成する方向に纏めていただいと思います。若い理事長さんでしたが、会計担当の理事さんと共同で粘り強く規約作成に向けて動いてくれたことが成功に到ったと思われます。
臨時総会当日、理事長が議長に就いて議決に必要な出席者の確認を行い、適法に成立したことを宣言して議事に入りました。議事においては、事前に意見を纏めていたこともあり、大きな波乱もなく、順調に推移しましたが、最後に会計担当理事と自治会時代の会長さんと新管理費と修繕積立金の未納の方との精算を巡り緊張した場面がありましたが、管理規約制定後の管理組合運営に過去のわだかまりを解消するには良かったと思われました。なお、全員賛成で管理規約は議決承認されました。理事長さんは呉越同舟の管理組合と理解しており、管理規約制定後も色々と問題が生じる懸念を持っておりますが、管理規約制定により当該マンションは管理運営の憲法を持つことになり、36年目にして漸くスタートを切ることが出来ました。
管理規約制定の臨時総会を終えて②
管理組合の初代理事長として就任した方は頭の回転が速く、管理組合業務代行会社としては業務をサポートする上で安心感がありました。しかし、一から始める管理組合体制の確立でしたので、想像以上に理事長さんには負担が掛ったと思われます。最大の問題は発足時点では自治会の運営スタイルを踏襲せざるを得ないことであり、管理規約がない為に区分所有法だけでは理事長の業務上の権限に関して制約があり過ぎた為でありました。その様な状況にありましたが、組合発足後には直実に管理組合規約の制定に向けての準備作業は進められました。先ずは、通常総会で管理組合の業務委託及び決算と年度の事業予算の計上などの議案書を作成し、管理組合運営の日常業務を推進できる体制を構築しました。事業予算の中に「長期修繕計画作成費用」と「管理規約制定の費用」が盛り込まれましたので、弊社は建物の調査に着手しました。
建物調査では竣工後に導入された法律による既存不適格に関してはそれほど問題視しませんでしたが、調査の過程で許容容積率オーバーであることに関しては原因を究明する必要に迫られました。弊社は不動産ファンドが購入する建物のデューデリジェンス(DD)を行ってきましたので、過去の建築物には違法性が多いのは認識していました。当該マンションも分譲業者が計画的に1階部分を駐車場として建築申請し、竣工後に店舗に用途変更したものと推察されました。しかし、実証できる建築確認申請図面はなく、自治会で保有していた平面図のコピーでは既に1F部分は店舗になっており、登記も店舗で登記されていましたので、調査としては現状確認に止め、現行平面図で各部屋の壁芯床面積を算出しました。
管理組合から当該マンションの保全の為に適正な管理費と修繕積立金を徴収する必要があり、その為に弊社に対し長期修繕計画書の作成作業を進める様に指示がありました。当該マンションは自治会運営としては管理組合が設立されているのではないかと思うほど計画的に修繕が行われてきておりましたので、長期修繕計画書の作成に際しては、その結果を踏まえれば良く、作成に当たっては緊急的に行う工事がないので、現行の留保している金額で当面は修繕出来ることが分かりました。長期修繕計画書作成後にその必要な支出に見合った管理費と修繕積立金の算出を進め、何通りかの案を管理組合に提出しました。
初代の理事長は一部の反対にもかかわらず粘り強く区分所有者の意見を纏めて管理費と修繕積立金の金額と徴収開始日を決定して後任の理事長にバトンを渡しました。理事長としての仕事は何時も決断を迫られるもので、2代目の理事長も就任早々に屋上の防水亀裂による漏水が最上階の部屋の内装工事で発見されて緊急対応が求められました。管理規約がない状態で緊急性がある工事でしたので総会に諮っている時間的な余裕がなく、工事金額も含めて大きな決断でした。この為に、理事長は管理規約制定に注力することになり、弊社に早急に管理規約のたたき台を提出することを求められました。
屋上防水工事の緊急対応が今回の管理規約制定促進の起爆剤となったものと思われ、理事長就任早々の出来事の上に初めて管理組合の役員になったこともあり、大きなプレッシャーであったと思われます。理事長として業務を遂行する上で管理規約の必要性を痛感したのは結果的にプラスになりました。
<以下続く>
管理規約制定の臨時総会を終えて①
管理組合業務代行の3年掛りで取り組んできた築36年のマンションの管理規約制定の臨時総会が無事に終え、漸く名実ともに管理組合が発足する運びとなり、良かったとの思いを強くしています。
当該マンションの管理組合業務代行について4年以上前に一人の組合員から相談を受けました。現在は自治会として有志の方が管理に携わっているが、実際には管理組合を設立して管理した方が良いと思うので、自治会の役員に管理組合の業務代行について説明してほしいとの事でした。その後、面談日時が決まり、当日には建物を視察しましたが、20世帯以下の小規模マンション乍ら建物の管理は良くなされている印象を受けました。今回の説明に際しては、長く自治会の会長として務めてきた方が他の方に会長を任せるに際して役員の業務を軽減することを念頭に置いての面談でした。
管理組合の設立には管理規約が必要であり、建物の保全管理には管理費と修繕積立金を徴収することになるが、自治会の会費ではなく、正式に管理費と修繕積立金の徴収の金額を決めるには長期修繕計画の作成も必要な事を説明しました。古いマンションは殆ど同様ですが、竣工図面等を建設会社に預けたままになっていたり、分譲会社が竣工後の管理を行っているケースが多いので管理組合事務所を持たない小規模マンションに関しては分譲会社や建設会社や設計事務所が倒産すると大事な建物に関わる資料を喪失している場合が多いです。当該マンションも分譲会社が破たんしていたので、存在している資料としては平面図のコピーと販売時の物件概要書程度でした。
弊社は手前味噌になりますが、一級建築士事務所として設立し、その後共同事業のコーデネーターやデベロッパーとして共同事業によるビル・マンションを建築した実績があり、30年以上前から管理組合の運営管理を行ってきたので、管理組合の業務代行に際しては、他社に追随を許さないものがあります。弊社の業務から建物の長期修繕計画の作成や平面図から区分建物の壁芯面積を計算することは容易です。更に、関係会社では建物のメンテンナンス業務を行っているので、適正な管理費の設定が可能と言えます。
然しながら、弊社のノウハウを活用するにしても数名の理事の方は必要であり、20世帯以下の小規模マンションですが、引っ越して現状は賃貸物件として利用している不在地主も多く、如何せん居住している方に管理上の負担が多いのは避けられないと言う現実がありました。それらの実情を踏まえて新しく就任した自治会の会長を区分所有法に基づく理事長として弊社の管理組合業務代行はスタートしました。
<次号に続く>
政府発表に基づく新聞記事の労働問題に対する疑問
電通・女子社員の自殺から急に企業の従業員の労働に対する国側の必要以上の干渉が始まった。過剰労働の問題が何時の間にか消費を増加させるための早帰りに転化してしまった感がある。ここに来て以前から指摘されてきた労働力不足問題も取り上げられ、早々と特区で家事代行に就く女性20人がフィリピンから入国してきた。待ってましたと言わんばかりに宅急便業界の過剰労働とコンビニの人手不足が新聞やTVで取り上げられてきた。確かに、弊社でも清掃業務で募集しても容易に応募者が現れない事は事実なので人手不足は痛感しているが、それは飽く迄も業種によるのである。
人手不足と一言でいうのは簡単だが、最近のマスコミで特に人手不足と伝えられるのは、「宅急便」、「コンビニ」、「飲食店」の御三家と言える。この御三家の過剰労働と電通の女子社員の過剰労働は全く違うのだが、マスコミを通すと全て一緒になってしまう。御三家は正に体を使う労働だが、電通の女子社員は頭脳労働者と思われるので、過剰労働の問題は本人の問題とも言える。勿論、広告会社勤務の知人がいたので拘束された長時間労働の話は聞いて知っているが、知人は好きで入社した業界なので辛いと思ったことはないと言っていた。
過剰労働の御三家の場合は兎にも角にも体を使う事が求められる訳だが、宅急便の人手不足はネット企業による大幅な需要から生じたものであり、当初設計の宅急便事業と大きく変動した事が全ての原因である。コンビニも生き残りを掛けて必要以上の陣地獲りの競争激化に起因するものであり、人手不足を助長させている。飲食店も同様に店舗数の拡大が利益拡大と相関関係にあることと、貸出先に困っている金融機関が飲食店の過剰進出を助長させて矢張り人手不足を助長させている面が大きい。
少子高齢化社会到来なので労働力の不足は確かだが、必要以上のサービスや出店競争で人手不足を生じさせていることにも問題がないかを検証する必要がある。宅急便の問題はネット企業との配送日時の問題なので、本来ならば税金を投入して宅配ボックスを設置する必要があるかどうかを熟慮すべきだ。
尤も、政府としては一石三鳥を狙った政策を進める為に労働問題を必要以上に取り上げていることは間違いないと思われる。しかし、場当たり的な政策ばかりを続けているとオオカミ少年になってしまい、肝心な時に国民はそっぽを向く危険性があることを考えるべきだ。移民政策を進めるならば東南アジアに無料の日本語学校を作り、語学と日本文化を教えて受け入れる体制の構築を行うべきだ。欧米の轍を踏まない為には移民を希望する国々に日本語学校を作って日本文化を教えるのが先だ。本当に日本の政治家は無能だ。
インバウンドによる宿泊施設不足は本当か!!
昨日、都心で外人旅行客を対象にした宿泊施設を運営する経営者の方と話をしたら政府の民泊まで必要とする発表と現場とは違う事を指摘していた。
私は矢張りそうかと思った。政府が民泊はを言い出した時から民泊の本当の狙いは空き家対策であり、インバウンドはそれを国民に促すための理由づけと推測していたからだ。勿論、日本は資本主義の競争社会だから全部良くなるとか全部悪くなるわけではなく、立地やアイデアで差別化を図れば供給過剰になっても問題はない。政府としては、将来的な需要予測に基づいて不足を指摘しているのだろうから単純に考えた国民が馬鹿となる理屈だ。
何れにしても、低成長経済になった先進国では住宅など不動産需要を起すことで景気動向が左右されるので、少々の過大予測は許されると思ってるのだろう。ドルが実体経済を上回り、今や3倍もの資金が世界中に飛び交っている時代なので、何かを創造しないと経済は成り立たない。有名経済学者が破壊と創造を提唱したが、本当の意味は破綻と処理なのではないかと思われる。破綻した資産を安く買い叩いて収益を上げる構造だ。
日本は鎖国時代に同様な経済を経験していることに気が付いた。内需でしか動かせない経済なので、最後に誰がババを引くかの騙しの取引ゲームだ。正に、京都経済はその仕組みで動いていた。現代において京都生まれの企業が健闘している素地は近代以前の商業の習慣から生まれてるのかもしれない。
余り人を馬鹿にしたような議論を進めると批判が大きいので、冗談はさておき、日本人は新聞を情報源として動く国民なので、一斉に同じベクトルで動くのでリスクが大きいと認識する必要がある。以前のブログで北海道の知人の和尚の年賀状の文面を書いたことがあるが、それには「正しいことは、字を分解すると、一度止まることを意味する」ことを指摘していた。肝に銘じる必要がある。
経済学のデフレと現場の感じ方の違い⑤
日本国民の生活にはデフレが良いかインフレが良いかを問う前に安倍政権のインフレ政策の方が良いと考える方が多いと思われるが、その理由は円安の輸出政策や日銀の金融政策ではなく、正に補助金が安倍政権を支えているのである。補助金の野放図のばら撒きによって国内の経済がどうにか下振れしないで均衡を保っているのである。良く言われる株高が景気が良くなると指摘されるが、株高で得た資本を企業が国内の投資に回したり、従業員の給与を増やせば指摘通りだが、現代は株高に比例するほど国内に投資を行わないし、従業員の給与などは増やさないどころか、効率経営の掛け声のもとに正規社員を減らし、雇用が安定しない非正規雇用者を増加させているので、経済に有効な消費を減らす行為ばかりを行っているので株高など国内的には大きな効果がない。
日本はバブル経済崩壊後に資産デフレが引き金に経済的なデフレに陥ったと指摘され続けている。その内、デフレの原因は人口減少だったと書いた本がベストセラーになり、次第に本質から遠のいてしまった感がする。本当はデフレになった原因は役人は別とすれば給与が上がらなくなったからだ。勿論、ニワトリが先か卵が先かの議論になってしまうのだが、大企業の内部留保金を考えると、給与を上げなくなったことが消費に影響し、デフレ状態を継続させている一因なのは間違いない。尤も、金融資本主義の導入で大企業も役員の報酬は何倍もになり、億ションなどの販売が好調になったが、所詮少数の人達の消費では日本経済全体に対する影響などたかが知れている。昔から貧乏人(失礼!)に金を使わせることが景気回復の近道と言われている。江戸時代は庶民も良く理解しており、落語の世界の如く「宵越しの金は持たぬ」は循環経済が自分の為になることが分かっていたのである。しかし、現代の経済は少数の金持ちを作るだけに邁進しており、それ以外の所得は下がるばかりである。正に、グローバル経済とは一物一価になるまで発展途上国の人達の給与は上がり、先進国の人達の給与は下がり続けて世界中の国が賃金でフラットになるまで続くことを意味する。
勿論、最近の技術開発が社会を全く更新する程の物ならば相転移と言う変化で新しい時代になって再度豊かさが戻る可能性もある。確かに、AI、ロボットなど過去からの技術だが今日的には飛躍的に進歩しているので、今は社会の相転移の苦しみかもしれない。しかし、IT技術が人の職場を奪うのだけを見る限り、今回の相転移は人にやさしい物とは言えないと思われる。ロボッテが人に変わるならば、ロボットに人頭税的な物を掛けて徴収しないと現在の仕組みでは国家が成り立たないのは自明だ。専門職がIT技術の発展で職を奪われているのを見ると、昨今のAI技術を考えれば、弁護士など記憶やルールに基づく専門家をAIに取って代わられると思われる。
社会はパラドックスの塊だから予期せないことの連続だが、デフレが解消しないのは人口減少などが原因ではなく、国民が意識的か無意識的か不明だが、否応なしと考えた方が良いかも入れないが、生活を維持するためにデフレを望んでいると言う事実だ。本音は円高でデフレならば生活は良いのかもしれない。日本ではベンチャーキャピタル投資が2000年をピークにその後減少し増加していない事でも成長に期待できないと考えている証拠と思える。
問題は安倍政権で行っている財政金融政策が将来の日本にツケとなって回ってくることに対する懸念だが、世界の経済を見ると日本だけの問題とはならずに金融資本主義が米国発のご破算で起きる可能性が高い。理由は30年以上もGDPも株価も上昇している米国なのにそれを否定するトランプ大統領が出現し、グローバル経済で成長している米国の仕組みを崩壊させ様としているからだ。中産階級目線で見れば日本国民も米国国民も同じと思われるが、米国は移民・不法移民がグローバル経済の成長分を吸収しているので、不法移民に反発が生じている。しかし、グローバル経済の縮図が米国内であるので、移民・不法移民を排斥すれば、確かに給与の高い中産層に雇用が戻るかもしれないが、その結果、GDPと株高が反転するとき株の暴落が起きる可能性が高い。
米国発の株の暴落で世界経済が混乱することなど考えたくもないが、トランプ大統領の出現で起こりえる確率は高まったので、それに対して日本国民が経済悪化に最低限対応するために必要なことは農産物などの食料の自給率を高めることと考える。農本主義者と指摘されるかもしれないが、もし大恐慌で万が一円が暴落したときを考慮すれば、国内で食料が自給できることで国民は生存できるので、安い海外の農産物の輸入などに惑わされずに自給率を高める事を願うばかりだ。現在のデフレで懸念することは農産物等の食料の自給率低下だけだ。
経済学のデフレと現場の感じ方の違い④
タイトルと内容にズレが生じて来ていますが、私のブログの特徴なのでご容赦願うことにし、何故日本のデフレが執拗に続くかを改めて考えると、一番の問題は刷り込みに対する国民性に関係しているのではないかと。この国民性が戦前は日本を果てしない戦争に引き込み、現代は何の科学的根拠もなく、物の価格はもっと下がる筈と言う思い込みがデフレを長引かしている。
日本経済は開かれた欧州の先進国の経済と異なり、戦後の繁栄は国内的に高いコストを受容して「風が吹けば桶屋が儲かる」方式の鎖国主義的な循環経済で繁栄を享受していたと考えられる。この為、海外からは輸出製品と国内製品との二重価格を指摘されて非難を浴びたのである。勿論、全く同じ製品を違った価格という事ではなく、TVひとつとっても装飾的な面で違いがあり、国内仕様は木製の豪華版であった。勿論、戦後はインフレの為に物の価値が高く、従って豪華製品仕様にする必要があったとも推定される。1980年代のバブル経済までは国民は高くても製品を購入していたので、巡り巡って自分の収入に跳ね返ってきたのである。
しかし、バブル経済崩壊後にデフレ経済になり、その後はITと金融資本主義がグローバル経済を推進させて一物一価の理論が成立する考え方が浸透してきた。また、マスコミも国内価格が必要以上に高く、電気製品等に関してはガラパゴスと言って発展途上国仕様の必要性を囃したてた。勿論、デフレ経済で給料が上がらない状況においては、物の価格が安くなることは実質的に給料が増加することなので、国民は大いに物の価格引き下げに邁進することになった。茲に効率化と言う便利な物差しが出てきたので、全ての業界で効率化が進められてきた。尤も、海外に輸出する製品を持つ企業ならばこの考え方は間違いではない。しかし、国内需要だけの企業にとっては、利益率の減少と競争激化の嵐に晒されることになり、逃げ道がないのである。地方の疲弊は国内の消費に依存している企業が多いのでダメージは大きかった。然も、海外から安い輸入品が入ってくるので尚更厳しい環境となった。
国会議員、学者、官僚及び勝ち組と言われる人達は、企業も個人も創意工夫すれば成長できると囃し、金融政策や財政策を駆使すればインフレ経済になり、日本経済が再生すると訴えている。しかし、日本国民のスイッチをインフレ経済からデフレ経済に切り替えてしまった事に気が付かずに幾らインフレを起そうとしても無駄な事とは理解していない。20年の間に少子高齢化の社会を予測していたにも拘わらずに非正規雇用者を増大させて一層少子化になる政策を進めてインフレになる芽を全て潰してきたのである。部分最適な政策を進めてきた結果がデフレ経済の深刻化を招いたことに気づきもしていない。マイナス金利政策などその最たるものだ。安倍政権は大手企業の賃上げや消費に結びつかそうと労働改革に注力しているが、死んだこの齢を数える行為に過ぎない。国民はデフレ経済に満足しているおり、現状では生活が厳しくなるインフレなど少しも歓迎していない。
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経済学のデフレと現場の感じ方の違い③
言いたい放題で書き進んできたが、世間でエリートと言われる人達は私の書いた者など一顧だにしないと推定できる。何故ならば、データの裏付けを明示していないからである。エリートの方と議論すると必ずデータの裏付けがあるのかと聞いてくる。人を納得させるには感覚的なものではなくデータが必要なことは自明だが、日本経済がデフレの循環に陥っているのは正にデータ主義と部分最適で物事が決められているからだと思われて仕方がない。尤も、データが大事と会社の業績悪化の苦し紛れに政府が発行する統計データを見て新規部門に特化して成功した企業物語もあるので、尚更データが大事となった。優秀な人だとデータをタテとヨコとナナメから分析するので、最終的には平凡な答えしか出ない。しかし、凡人はデータを見て特化した専業会社が居ない事に勝機を見て進出するので、偶然に時代が微笑みかければ大成功するのである。問題は偶然に時代が微笑みかけると言う点である。
余りにも人口に膾炙しているので耳にタコである、一代で大事業を築き上げた人の「会議で皆が賛成する事業は成功しないので行わない」と言う格言だ。データ主義は言い訳に使われ易いことを認識するべきだ。特に、データは切り口次第でどの様にでも料理できる代物であることも同様だ。昨今は人の消費行動を分析するメガデータの活用が指摘され、一定の成功を上げているので、尚更データ重視主義に陥っていると思われる。
それではデータ以外に何を信じて判断すれば良いかだが、経済の難しさはタイミングであり、黒田日銀総裁が行った異次元緩和も18年前なら成功したと考えられる。更に付け加えると、日本だけを見るとグローバル経済がデフレ現象を引き起こしていると思われる。50年前と違い、日本経済のGDPは500兆円もあり、輸出25%、内需75%で動いているのに生活感に豊かさがないのは非正規雇用者増大と地方経済の疲弊、更には生活様式の変化と指摘できる。地方の疲弊の最大原因は農業・林業・漁業の衰退である。地方が都会と比べて都会程の豊かだった時代はないが、それでも公共事業と円安時代の工場の地方移転で所得は上がった。地方が豊かになった歴史を見れば、今の衰退は一目瞭然だ。然も、多少豊かになった時代に行った無計画の街づくりも今日の衰退の一要因だ。
時間を巻き戻すことは出来ないが、地方を豊かにしないと日本将来はないことを考えると、景気や円高で変動する観光資源の活用ではなく、再度農業。林業・漁業に目を向ける事が重要と思われる。更に、交通インフラの整備は一見すると地方都市に貢献しているかのようだが、経済的にはお金が素通りしてしまう構造となっているので、必要以上の交通インフラ整備は無用と思われる。国土交通省がコンパクトシティなどを進めているが、地方再生には役に立たないプロジェクトだ。
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経済学のデフレと現場の感じ方の違い②
アジア通貨危機は正に日本の金融機関にとっては金融機関の主導(共同債権買取機構)で行ってきた不良債権処理を国の主導(整理回収機構)に転換することになった事件である。また、同時に日本の金融機関の不良債権処理がフェイズⅢになったので自分たちの出番と海外のハゲタカファンドが日本に大挙して上陸してきたのである。
1997年~2005年には金融機関の不良債権処理も一段落し、大都市などでは不動産価格も上昇したが、その後2007年に米国発のサブプライムローンによるリーマンショックが起きたので、国内の景気はデフレ脱却には到らなかった。しかし、1998年はウィンドウズ98が発売され、インターネットのブームが起こり、世界経済はグローバル経済に急速にシフトして行くことになる。国内に目を奪われると見えなくなることだが、バブル経済崩壊後でも少しも業績に影響を受けなかった産業がある。自動車産業である。また、国内の消費の低迷から海外の販売に注力した企業は業績を拡大し、売上的には大幅に増加している。更に、国内でもデフレに対応した低価格販売を推進した企業は大きく成長している。
バブル経済真っただ中のGDPは320兆円、バブル経済崩壊後の2000年のGDPは500兆円を超えている。GDPは増加してるのにデフレは続いているのは何故か。金融資本主義の導入で勤労者の対して利益を還元しないで株主に還元する経済システムになったことも一つの要因だが、最大の要因は価格を破壊するデフレ企業に金融機関が積極的に貸出しているからだ。
飲食店舗に目を向けると、バブル経済崩壊前は開店資金が多額なので容易には出店できなかった。しかし、リース会社の丸ごと店舗などにより資金が無くても出店が可能になり、飲食店舗業界は供給過剰になった。その結果、価格破壊が起きてしまった。このブログを読んでいる方は価格破壊が起きて何が悪いと言われると思うが、金融緩和でお金が市場に回されるほどデフレ企業の投資が盛んになり、デフレ企業同士の競争が激化し、更にデフレになる悪循環が起きていることを言いたいのである。
翻って、付加価値の高い物を生産したり提供すれば良いと反論が出ると思うが、少子高齢化社会の到来で社会医療保険の崩壊も指摘されている中で、国民はお金を使わないと言う現実だ。安倍政権は金持ちを作ればベンチャー企業に投資し、新たな企業の出現で雇用も増えるので、格差社会でも十分に景気回復は可能と判断しているが、少数の金持ちが使うお金より、普通の人達が使う金が経済的には遥かに大きいことに気が付いていない。基本的に金持ちはケチだから金を蓄えたのであることを忘れている。
この様に書き進めると悲観論者の様に見えるが、私は悲観論者ではない。私が言いたいのは現在のデフレは国内の金融機関の貸出先の問題とグローバル経済の構造的な要因で起きているので、金融政策や財政政策を行ってもインフレにならないという事である。
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経済学のデフレと現場の感じ方の違い①
日本が経済デフレに陥って景気が回復しないと言う考え方が一般的だ。しかし、私は別な観点から日本が置かれている現在の経済的環境は古典的な経済デフレではないと最近考えるようになった。勿論、私は理系の人間で経済学など学んだ経験がないので、私が思うのは独善的な解釈である。確かに、日本が経済学的なデフレに陥ったのは経済バブルが崩壊して資産が下落し消費が減少した為との説は経済理論から当然な分析結果と否定はしない。しかし、安倍政権になって過去にないデフレ退治の政策を行っているにも拘わらず一向にデフレから脱却できないのは承知の事実だ。専門家は金融政策、財政政策などマクロ経済からデフレ脱出の処方箋を提案してるが、実際に動いている現場の構造の変化を理解しないとマクロ経済など偉そうに論じても的を得た分析になっていないと思われてならない。私が敢えて市場と言わないで現場とミクロ的な表現を使ったのは、そもそも市場と言う捉え方が間違っていると考えるからである。
尤も、経済理論を批判する考えはないので、何とか理論など無視して私の荒唐無稽な分析を述べることにする。日本はバブル経済が崩壊し、不動産担保金融が破たんして金融機関は10兆円を超える不良債権を抱えることになったのは事実だ。しかし、バブル経済と言っても企業にとってはその需要に合わせて設備投資しているので問題はバランスを欠いた設備投資となった分に対して如何に償却を図るかだが、日銀は実態と合わない金融政策を導入して無理矢理バブルを壊して不良債権を築かせたのも紛れもない事実である。その上、バブル経済が起きた原因を分析せずにバブル経済崩壊後にとった政策が全ての間違いと考える。
バブル経済が起きた原因はオイルショック後の日本企業の回復とその後の急速な円高、更には米国の圧力による内需拡大政策であった。また、更に悪い事には重厚長大産業による設備投資が減少し、大手金融機関にとっては安定した貸出先が望めなくなったことであった。円高になっても未だ国内の需要もあり、国内工場の海外移転が加速することはなかった。しかし、バブル経済の崩壊により、国内の需要が減少するにつれて輸出に注力する企業は国内工場を中国や東南アジアにシフトし始めた。国内設備が供給過剰でありながら輸出の為に海外に工場建設して軌道に乗ってきた時にアジア通貨危機が起きて元の木阿弥どころか金融機関取っては国内と海外とのダブル貸し出しの不良債権になってしまった。
(以下は別のブログに続く)
環境リスクのひとつの土壌汚染の問題
豊洲の築地移転と豊中市の国有地払下げ問題に何れも土壌汚染が論争の鍵を握っている。面白いことに、2か所とも"豊"と言う字が使われている場所と行政管轄で問題が生じているのは皮肉なことだ。
築地の移転で豊洲の土壌汚染が問題になっていると思っていたら今度は築地でも土壌汚染の可能性ありの調査結果があると報道された。本当に日本と言う国はマスコミを使った大衆操作で政治を行うと嫌になる。豊中市の大阪空港用地の一部小学校建設の為に払い下げた用地にも汚染物質があるとのことで売買価格が引き下げられたとのことだが、どうやらどの問題も土壌汚染に対する無知な国民とみた悪知恵が働く輩が企画した事件と推定できる。この為、土壌汚染に対する基本的な知識が分かる程度に3件の問題を解説することにする。
先ず、日本で土壌汚染に対する意識が芽生えたのは、経済バブル崩壊後に欧米から持ち込まれた不良債権ビジネスからである。環境リスクの土壌汚染調査は不動産証券化作業の過程で一層重視され今日に至っているので、歴史的に見れば20年程度と言ったところだ。バブル経済崩壊後の日本は正に第二の敗戦、そしてハゲタカファンドは第二の進駐軍と見做される。
日本人と言う人種は他人の褌で相撲を取るのが上手く、第一の進駐軍の時にも進駐軍が言ってもいない嘘を平気で付いて政治に利用していた。皆が容易に接触できない存在を利用して自分の意見を政治的に利用する術に長けた人物が勝者になった。この様に書くと土壌汚染と関係ないと思われるが、利用するのは人ばかりではない事を言いたいからである。豊中市の国有地払下げ問題は正に土壌汚染と権力者の両方を利用した狡猾な国有地搾取事件だからだ。盗泉の水を飲む喩があるが、豊洲などは多くの関係者が盗泉の水を飲んでいると思われるので、真実が見えにくくなっている。豊洲問題が都議会で百条委員会の設置が決まり、移転疑惑に対する審議が始まる矢先に今度は築地が汚染されていた記事が掲載された。しかも、汚染は進駐軍である米軍のクリーニング工場があったからだそうで、その上築地には場内を走る車の整備工場があるので、汚染間違いなしと書いている。
さて、話が飛んで土壌汚染の基礎講座はどうしたかと言われそうなので土壌汚染調査に戻るが、土壌汚染調査は先ずフェイズⅠで地歴など資料調査を実施することになる。この地歴調査で過去に印刷工場や自動車工場など化学薬品や化学物質を扱った施設があったかどうかが判断の決め手になる。この調査で疑いが出ればフェイズⅡに移し、土壌のサンプリング調査を実施する。サンプリング調査で汚染の可能性が出てきた場合には、フェイズⅢに移り、ボーリングや掘削を行って土壌を確認するのである。ちなみに、豊洲の場合は東京ガスの工場があり、最近まで汚染させていた場所なので、最初からフェイズⅢの調査を実施したと思われる。土壌汚染が厄介なのは地下水に融けて汚染が拡大することであり、その場所の汚染度合ばかりでなく周辺に対する汚染調査も重要となる。
次に、豊中市の大阪空港用地売却に関してだが、長く騒音隔離用地として使用されてきたので過去に何が設置されていたか不明であったと思われるので、フェイズⅠから調査を行ったと推定できる。なお、汚染物があると判断されて売買価格から処理費用が控除されたのであるから調査はフェイズⅢまで行っていると断定できる。直近のニュースだと掘削した土砂を校庭内に仮置きしていることが報道されているが、小学校の敷地になる場所に汚染廃棄物を仮置きしているとは驚きである。何をか況やである。ここではその真偽を問うブログではないので次の築地汚染報道に移ることにする。
築地に関しては近くに高速道路があるので排気ガスで汚染されているなど築地移転を早く行わないと大変だと言う大合唱が聞こえる。そして今回の進駐軍時代のクリーニング工場汚染報道だ。豊洲移転を正当化する築地の汚染報道は豊洲の汚染が如何なるものかを考えない輩の戯言だ。覆土を盛り土と称する報道には呆れるが、耐震性から言えば盛り土を行うなど言語道断だ。木造2階建てと違うので杭が入っているから問題ないと指摘するであろうが、何故2mもの盛り土(覆土)を行い必要があったかに関しては明確な報道がない。豊洲の問題は当該地で汚染土を浄化しているので、汚染土を外部に持ち出したのではないと言うことである。日本の土壌汚染に対する意識は高々20年なのを考えると、豊洲における汚染土の浄化による対策で十分なのか気になるところだ。日本人の悪い癖は引き返せないことだ。そのシステムで全てを失った過去を学べと言いたい。
100年前のインド・ベンガル人 ノーベル文学賞のタゴールの"日本旅行者"を読んで
ベンガル人のタゴールが100年前に書いた「日本旅行者」を読んで日本及び日本人に対する洞察力には驚いた。私の持論でもある日本人は混血民族を証明してくれてる本でもある。タゴールが書いた日本人は今の日本人とはだいぶ違うのは太平洋戦争後の米国式教育の結果なので仕方がないが、物静かな民族なのに驚いたことを書いている。然も、欧米人の様に日本人は人種差別的階級的な対応をせず親切であることにも言及している。尤も、彼が日本人を称賛する理由は最初に知り合った画家の横山大観などの影響があり、実際に来日して接した日本人の全てをベタホメしているわけではない。このことを考えると、最初の出会いが大事なのが良く理解できる。
タゴールは詩人として有名だが、日本の簡素化された文化と美に驚嘆しており、欧州の必要以上の飾り文化に対して日本の簡素さの美に共感した様だ。タゴール同様に他の外国人も日本の美に関しては無駄のないというか、質素さを評価している面がある。日本が他のアジア諸国と違い、西洋文明の科学技術を取り入れて欧米諸国とそん色のない国を造った事に関しては、日本人は多くの血が混じった人種と指摘し、小さな国ゆえに民族全体は同じベクトルで同じ目標に突き進めたことも指摘している。特に、日本人が明治新後に一挙に西洋化を実現できたのは、実現するに必要なものを既に持っていたとも指摘している。実に面白い指摘である。
なお、日本の俳句などは余剰分を最大限まで削ぎ落としている素晴らしい表現と絶賛し、横山大観などの日本画に対しても少ない表現の中に深い意味が込められていると絶賛しているが、日本人は精神性の面で欧州文化と比較して浅く、日本人に影響を与えている神道に関しては形式だけのものと評価が低い。確かに、指摘されれば、神道は形式を重んじる儀式であり、同じ宗教でもキリスト教的な思索的なものではない。100年前に日本及び日本人を洞察したタゴールの紀行文は現代日本人にも戦後に喪失したものは何かを考えさせる良い本であり、日本人の単一民族を唱えて移民政策に反対する人達に読ませたい本でもある。
人の記憶に残り続ける人物とは!!
官僚に対する偏見があったので此れまでは敢えて評価の高かった人物にも迫ろと思わなかったが、過去には無能な政治家の防波堤になって国と国民を守ろうとしてきた役人が居たのではないかと考えるようになった。過去と付けたのは今の役人は無能な政治家にすり寄って出世を遂げたいと考える個人的な野望を優先する役人が多いと思われたからだ。米国にトランプ大統領が出現し、世界が混沌とした状況に否応なく巻き込まれることになった現代において国家を考えなくなった役人が多いことは正に国家の危機と言える。
役人として名を遂げたが1冊の著書も書かなかった人物に興味をもったのは何時ごろか記憶にはない。しかし、最初に名前を知ったのは田中角栄が唱えた列島改造論の作成者としてであった。その人とは、下河辺淳だ。既に故人だが、私が二度目に名前を聞いたのは勤務している会社が管理していたビルのテナントが賃借室内に下河辺淳メモリアルを設置した時だ。この時にもそれほ興味を持った訳ではなかった。そして、昨年にある懇談会で総合研究開発機構の理事さんと話す機会があり、下河辺氏が同機構の理事長を務め、今でも惜しまれている存在であることを知った。
そこで改めて下河辺氏の人物をインターネットで調べたら東京都生まれなのに出身が私の故郷の茨城となっており、これ程の人物なのに同郷の私が知らないのが不思議であった。下河辺氏は著書を出さなかったので、何かないかと探したら資生堂の福原義春氏との対談本があることを知り購入した。しかし、購入後私の中では優先順位が決して高くなかったので数か月放置していた。今回手にした動機は受託している世田谷区内のマンション管理組合の会合が夜8時に開かれることになり、それまでの時間で読める本を積み上げた書籍の中から探したからであった。小冊子の対談本であったが、内容は深く、何故もっと早く読まなかったのか悔やまれた。この中で生立ちが書かれており、父親の仕事の関係で日立と水戸に住むことになり、日立市で小学校、水戸で旧制中学、旧制水戸高等学校で学んだことが茨城出身と勘違いされたものと知った。尤も、下河辺氏の話では、先祖は霞ヶ浦周辺にいた豪族で佐竹に滅ばされて一族は土着したか佐竹に仕えたか下河辺氏の先祖の様に関西まで逃げ落ちたかに分かれたと書いていたので、先祖は茨城であった様だ。
下河辺氏は机上の空論を語る人ではなく、常に現場を見てきた人であったが、日本と言う国土を若き時代には戦後復興、中年には日本の成長を考え、そして晩年には低成長時代の日本の行く末に思いを巡らしたことが良くわかった。下河辺氏を知るほど著書を残してほしかったとの思いが募った。役人時代に現役の官僚は書くべきではないとの思いがあったと対談では述べている。確かに、役人は縁の下の力持ちだ。現役時代に本を書けば本末転倒になってしまう。仕事は後世の評価で決まるものだ。しかし、結果も定まらな内に本を書き、自分が正しいと主張する輩ばかりだ。税金で調査した事柄で書いた本で著作料を得るなどとは本来言語道断であろう。ここまで日本人は落ちてしまったかと嫌になる。
下河辺氏の歴史を学ぶことが未来を知ることだという事は至言である。しかも、下河辺氏の歴史とは1万2千年前の縄文時代にまで遡ることを指摘しているのである。確かに、弥生時代、平安時代と日本は外来の文化を取り入れて日本独自の文化を形成してきたのである。渡来文化は今でいう所のグローバリズムにおけるダイバーシティであろう。少子高齢化社会を迎えた日本は渡来人を受け入れて再度新しい日本分化を作る必要があるとの指摘には反論することはできない。
人の記憶に残り続ける人物とは正に下河辺淳氏の様な人を指す言葉と言える。子供時代から青年時代に掛けて茨城県内で育った先輩として自慢したい。
全機現
全機現とは道元禅師の言葉で、「持っている全ての力を余さず発揮すること」であるそうだ。
今年の年賀状に"全機現"を使ったのは、この言葉にピッタシの方にであったからだそうだ。その方とは人気長寿番組の司会を昨年卒業した桂歌丸師匠で、大本山総持寺で共演した時に、体重36kg、齢80才、二度の大病を患い、車イスで酸素ボンベを抱えておられたが、幕が上がり高座が始まった瞬間、聴衆の心は釘付けとなり、オーラが感じられたそうだ。その時に、与えられた場所で一生懸命、命を輝かす師匠の姿に改めて教えられたそうだ。それが「全機現」。
新年早々、元気づけられた年賀状となった。