電力自由化の影響

台風15号の上陸で千葉県では電柱等が倒壊して広い範囲で停電が起き、然も予想外に復旧が遅れた。報道では送電線の老朽化を原因としていたが、送電線の更新や樹木の伐採に対する投資を削減していた結果が引き起こしたものであり、その原因は福島原子力第一発電所の事故と同様に電力の自由化による設備投資の削減が原因である。勿論、電力自由化前の電力会社は国策によって必要以上の設備投資を行ってきたのだが、その理由は国民の為ではなく企業に対する電力の安定供給と電力費用の軽減を目的としたものであった。しかし、グローバル経済では企業に対する更なる費用の軽減が求められるようになり、競争と効率化により電力の自由化が潮流となった。米国が電力自由化に先駆けたが、その米国で電力供給や派生した事故で問題が起きており、電力会社の公営化も議論するようになってきている。特に、米国のカルフォルニアの電力会社が老朽化した送電線が引き起こす山火事を防ぐために計画停電を実施したことなどからカルフォルニア州の経済基盤まで揺るがす大事になっている。計画停電で山火事を防ぐなど論外だが、それでも山火事を防げなかったことは、計画停電以上に企業の誘致に影響が出ることになり、最悪な状況となっている。翻って、日本の場合も電力自由化の影響で、千葉県の様に送電線の老朽化等の問題で電力復旧が長期間に及ぶと企業活動にも被害が生じ、千葉県から撤退する企業も出て来ることが予想される。この問題は千葉県だけではなく、日本全域に関係するが、米国では太陽光などクリーンエネルギーの導入が電力会社の経営を圧迫している為とも指摘されており、全く日本も米国の後追いをしているので、早晩には米国で起きている問題も波及してくると思われる。行き過ぎた資本主義の再考の動きも出てきており、日本周辺の海水温度の上昇による異常気象に対するインフラ造りも必要な事から環境に対する視点をを考慮した企業の姿勢が問われることになりそうだ。

国民の祝日に対する企業の対応と有給休暇の消化対策

先日、ドトールが年間の祝・祭日を実際の日数とは違う設定にし、有給休暇の取得を社員に与えるとの記事を読んだ。確かに、近年は祝・祭日が増加し、日曜日に当たる場合には月曜日が振替休日となり、相当の休日である。法律に疎い私は国が決めた祝・祭日、その振替日は当然休める義務があると思っていたのだが、良く考えると業種によっては様々な休日の取り方を採用しており、完全休日二日制も金融機関み合わせて多くの企業が実施することになった。学校などは公立は週休二日制だが、私立は土曜日に授業を行っている学校もある。上記で業種によってはと書いたが、建築現場は土曜日に休んでいる所はない。勿論、交代制のシフトで休日を与えているのかも知れないが、建物管理なども土曜日を隔週休日としている。何故この様なことを書くかと言うと、有給休暇を取らせないと罰金が科せられる法律が出来たからで、その規制をクリアするのに振替祭日を祭日としないことにしてその日を有給休暇取扱いにすれば良いのではないかと思ったからだ。この前提には労働組合があれば労使によって就業規則を変える必要があり、労働組合がなければ取締役会で就業規則の変更を決議する必要はある。

何れにしても、社会主義でもないのに国に必要以上の義務を押し付けられることは企業活動の面から断固として拒否すべきであり、労働者の最低賃金の引き上げなど発展途上国でもないのに政府の無能の為に企業経営の自由度を奪われるのは筋違いである。尤も、ゴールドマンサックス出身で日本の中小企業の社長になった人物が英国の最低賃金のデータを使って日本の中小企業は保護されているから効率経営が出来ずにゾンビ企業として生き残っていると指摘し、日本政府の最低賃金引き上げは正しいと主張している。この人物は日本人は私の様に世界のデータを分析しないで最低賃金が上がると会社が潰れると騒いでいるが、日本経済の停滞は中小企業の手厚い保護の為と断言している。一見すれば正しいと勘違いする意見だが、英国は経済的に成功したのかと言いたい。サッチャーの時に金融ビックバンを行ったが、その後は再度経済の低迷に陥っている。日本の中小企業は大手企業の不景気の緩衝材となり、社会の安定につながる失業率の低さを維持している。新自由主義の誤った考え方で企業が効率一辺倒になった結果が経済格差を産み、犯罪を増加させた。GS上がりの人物は企業合併が経営の効率化を生むと言っているが、合併で人員整理された人達の雇用は何処に行くかを示していない。勿論、合併による資本増加で新規事業や企業買収の可能性もあることは否定しないが、日本企業の強さは競争力である。同じ業種に多くの企業が参入しているので、見た目以上に激しい競争が生じている。問題は経済がグローバルになったので、取引先の多様性が求められ、世界市場に否応なく巻き込まれてしまったことだ。特に、経済活動を知らない秘書上がりの政治家や企業経験が少ない二世政治家が増え、官僚も世界にモデルのない時代になったので、欧米に追従することしか出来ず、中小企業を保護する所か足を引っ張る改革しか出来ていない現実だ。それに輪を掛けて得体のしれない外国人の意見を明治維新時の様に有難がっている姿だ。常識を見直すことが今に時代に必要であり、祝・祭日及び振替休日を国の言う通りに実施することは愚の骨の様だ。

不動産狂想曲

某誌の8月号には上場企業の新興不動産業会社を取り上げた記事が掲載されており、内容は企業の財務を分析したものであった。スルガ銀行のシェアハウスに係る問題融資に端を発してレオパレス、大和ハウスなど借り上げ方式のマンションを扱っている会社の施工不良に続き、不動産会社の滞留在庫にメスが入れられてきている。東京オリンピック開催を材料にした不動産の価格上昇はミニバブル現象を引き起こして来ており、今やフラット35と言う低金利住宅ローンの搾取事件にまで及んで来ている。上記の新興不動産会社の財務分析によれば、各社は仕入れた土地建物や建築した建物の売却が進まずに滞留在庫は1社あたり数百億円規模と言われ、このままでは各社とも資金繰りに窮することになると警鐘を鳴らしている。滞留在庫の資金は金融機関からの借り入れと社債の発行だが、金融機関は実情を把握しており、現在以上の融資追加には慎重になっており、今後の資金繰りには増資や社債の発行と見られるが、これに関しても簡単には行かないと見られている。滞留在庫を処分するには損失を覚悟しなければならないが、バブル経済崩壊後には損失隠しの金融商品があったが、今回はどの様な手品で苦境を脱するのか興味深い。翻って、東京都の港区虎ノ門エリアは大規模開発が進められており、その中でも日比谷線虎ノ門駅に直結する虎ノ門ステーションビルの開発、更には虎ノ門・麻布台プロジェクトであり、同プロジェクトは東京メトロ日比谷線神谷町駅と同南北線六本木一丁目駅を地下で結ぶ此れまでになく圧倒的にスケールが大きい。この様な報道や現地の動きを見ていると、日本人の気質から冷静に状況判断を期待しても無理かなと思われる。札幌に大きな寺院を運営する知人の年賀状に正しいと言う字は一度止まって考えると書いてあったことを思い出した。漢字と言うのは流石に英語などと違って含蓄があると思う。グローバル社会になって英語の重要性が認識されている反面、漢字に関しては等閑にされている感があるが、思慮深く考えるには東洋の知も重要だ。

最初の部下の訃報

私が父の経営する会社に入り統括部長の職を担っていた時に入社した社員がいる。私自身はサラリーマン生活を経て仲間と起業していたが、両親の希望により父が経営する会社に入ることになった。その4年後に私の面接で入社してきたのが鈴木康広君であった。彼は未だ証券会社に勤務していたので、休日の土曜日の面接であった。彼の奥さんが以前に会社に勤務していた縁で転職するのに当社を選んだのだが、32歳の年齢の割に老けていたのが最初の印象であった。両親が秋田出身なので、東京生まれながら地方出の雰囲気があり、後日聞いた話では子供の頃に休みになると秋田で長期間過ごしていたことが影響していたと思われた。人の縁とは不思議なもので、彼の育った江東区の住まいの近所に両親の知り合いが住んでおり、私も東京の大学に出てきた時には何度か訪問した場所であった。バブル経済時代の証券マンなので給与明細を見た時には同世代では貰えない金額であり、当社に入社した場合に大分減給することになる為に何度か念を押した。転職理由は子供との時間を持ちたいことと健康問題であり、奥さん自身も知っていたので、一回目だけの面接で決めた。本来ならば総務部長の面接を経るのだが、面接の経緯が社内の女性社員による相談から始まり、取り敢えず面接してからと思ったが、性格が良いので私が独断で採用を決めて社長の事後承諾を得た。この為、総務部長は気分を害したかもしれないが、会社で社長の息子として多くの社員から敬遠されていたので、私にとっては気の許せる最初の部下になった。それから20年以上、私の分身の様に働き、どの様な時でも私を裏切るような行動を取らなかった。しかし、50台半ば過ぎて発病し、1年8ヶ月の闘病後に亡くなった。今年の6月中旬に病院帰りに会社に立ち寄って会ったのが最後になった。今思えば、正にお別れに来たとの表現がピッタリであった。病気の時に電話でも何度か話したが、病気は第四ステージであると達観した様に説明し平然とした態度であった。6月に来社した際にも自分の病気より、私のワイフの病気を気に掛けると同時に私の健康に関しても心配してくれた。金銭的に執着しない上司の下で働いたために彼には十分な待遇を与えなかったことが今になって悔やまれる。商業高校出身なので、全く建築不動産には知識経験がなかったが、新橋ビルの建築には解体から建設までの2年間現場に従事させたので、その経験が生きて建物管理の責任者として能力を発揮してくれた。偶然にも彼の証券マン時代の後輩もビルメンテナンス業界に転職していたので、後輩とのコラボで会社に貢献してくれた。その他にも、地方の仕事には私の運転手として働いてくれたほか、私の道楽で行ったゴルフ場の仕事にも積極的に手伝ってくれた。歌が上手で、兄の会社の忘年会に参加した時に優勝して顰蹙を買った時の事も懐かしく思い出される。仕事は一人では出来ない。分かってくれる部下や仲間が居て始めて良い仕事が出来る。時代の変化で知識の更新が必要な時にまた一人私の片腕ともいえる部下が亡くなった。40代の時に一生懸命勉強してマンション管理に係る国家試験の業務主任者の資格を取り、合格が分かった時に私に第一報を知らせてくれたのも懐かしい記憶だ。楽しく明るい酒だったが、結果的には命を縮めた。合掌。

有森裕子さんの講演を聞いて

若い方だとマラソンランナーのオリンピックのメダリスト、然も2回(銀、銅)取った方と知らない人も多いかもしれないが、私の世代だと女子マラソンで活躍した最初の女性の印象が強い。今回、保育事業の大手のJPホールディングスが社員の為に開催した有森さんの講演に参加し、謦咳に接することが出来た。有森さんは引退後の仕事の一つに講演を行っていることもあり、非常に話が上手だった。私は過去に雑誌か何かで有森さんがマラソンランナーとしては遅咲きで必ずしもエリート街道を歩んだ選手でない事を記憶していたが、講演の内容は正に自分の頑張り人生の話に終始していた。話は単なる自慢話ではなく、普通の人が長所を褒められれば本当に頑張れるかであり、それを面白可笑しく語る姿には、一つの事を成し遂げた人が語る言葉として説得力が違う事を改めて思い知らされた。特に、有森さんは、出身地が岡山県で、私のワイフの父親の実家が岡山県井原市であるので、要所要所において岡山弁で話されたのが懐かしくもあり、岡山弁独特の方言に笑いを誘われた。しかし、有森さんが高校の1年時に陸上部の監督に入部を何度も断られたにも拘わらず、執拗に粘り、監督が根負けして入部出来た話には非凡な人と思えた。私自身を振り返ると有森さんと違って器用貧乏なのが災いし、中学時代に陸上競技でも短距離、走り幅飛び、走り高跳びの選手として選ばれたがその後は夢中になって取り組むこともなく終わったことを思い出した。有森さんは褒めて伸ばす必要性を強調し、多くの監督と出会ったが全て長所を褒めて伸ばす方式であり、小出監督などは褒める天才であり、欠点まで長所に言い換える人と語った。人を育てる仕事は学校ばかりではなく、企業も同様である。企業は人なりと言われるが、金融資本主義と言われる時代になって久しいが、労働の流動化に伴って会社で人を育てることには熱心でなく、出来る人達を雇用する流れに変わった。有森さんの話を聞くと改めて褒めて人を育てられる会社が長く存続できる企業と思った次第である。

自動車事故の出来事

過去の交通戦争の時代から見れば事故による死亡率は大きく減少しているが、最近のニュースで事故死の原因が大きく変化していることを指摘していた。それは運転者と同乗者と対向車の運転者と同乗者の死亡ではなく、部外者の歩行者が増大していることだ。ニュースなどで事故の報道に接すると不可思議な事に気付く。交差点で信号待ちしていた歩行者に車が突っ込んだ事例があったが、対向車の車を避けようとしてハンドルを切った場所に歩行者が居たという事故だった。歩行者にとっては何秒かの違いで事故にあった訳だが、その時に祖の場所にいたのは偶然と言え、数秒の違いで事故を避けられた可能性もある。偶然ではなく必然が起こした事故ともいえる奇妙な事例もある。東名高速でトラックの補助タイヤの落下物に乗用車が衝突してエンストした車から降りて高速道の反対側に避難していた母娘が、後続のトラックが補助タイヤにハンドルを取られて横転し、道路の反対側に避難していた母娘を直撃して死亡させた事故だ。子供の頃に見た米国映画の死神のストーリーの様に、最初の事故で死ぬ運命にあったのに生き延びた為に更なる事故で亡くなった。今更の自動車事故に関して話題に取り上げたのは、先日の滋賀県で起きた保育園児童の死傷事故で過去の幾つかの事故の情報と事故寸前の体験を思い出したからだ。二つの事例は、信号機がある十字路と丁字路で起きた自動車事故である。二件とも一方の車が赤信号を無視して交差点で事故を起したものだった。この種の事故の時には目前の信号ではなく、先の信号を見て錯覚した事故とその原因を科学的に分析した報告もあるが、2件ともその錯覚が起しようもない田舎の交差点で起きている。事故を起した人達はなくなっているので赤信号を青信号と錯覚した理由は不明だが、滋賀県の事故も右折車の無謀な運転が原因と指摘されたが、対向車が見えなかったとしたら無謀などではない。私が経験した事故寸前の経験、今でもぞっとする事例は正に車が見えなかったからだ。それは、茨城県内のメンバーコースのゴルフ場の早朝ゴルフをプレーしてコースのアクセス道路から国道に左折しようとして起きた。信号のない丁字路で左折する為に右方向から車が来ないのを確認して国道に入った瞬間に対向車線を後ろから来た車が通過して私の前方で急停車した。私の感覚では存在しなかった車が空間から突如として出てきたと思われた。この時には私のワイフも助手席に同乗して二人とも車が居ないことを確認している。当然に危機一髪を避けた車の運転手は怒って降りてきたので事情を説明して平謝りしたが、相手は納得できない顔であった。長年車を運転しているので色々な事を経験しているが、都内で運転中に先の信号で停車してしまった錯覚も経験している。しかし、車の見えなかった事例と同様に正にオカルト的な経験もしている。それは祖母の危篤の知らせを受け社用車に乗って帰郷する為に常磐高速道路を夜の8時頃に走行していた時だった。常磐高速道路を時速110km位で走り、石岡市地域を過ぎて小美玉市エリアに入っていた時に突然車の前方に狐が横断したのであった。夜間走行で遠目でライトを点灯していたとは言え、視覚の範囲は数十メートルであったと思うが、その中で起きた光景だった。この時には、運転手と私とワイフの三人が見ているので、錯覚でも幻でもなく、少なくてもその空間だけは真実であった。その時には祖母の危篤に駆けつける為だったので深く考えることもなく一瞬で忘れ去ったのだが、後から思い起こすと時速110kmで走行中の車と狐の距離感が変わっていなかったのに悪寒が走った。見ると言う科学的な現象は、目から光が入り、脳が映像を作り上げるシステムなので、実際の光景とは違うものが現出することも理解はしているが、今でも高速道路の狐の光景は理解の外である。事故には物理的な事故と人の視覚の不完全さから起きる事故、更には死神の存在が否定できないオカルト的な事故に大別できるのではないかと思われて仕方がない。自動運転の世界が目前だが、車をコントロールするAIが人間の不完全さを補ってくれるのか、それとも不完全さも継承して進化するのか興味がある所だ。

循環経済

サブスクリプションと言う言葉を良く見かける。ITのソフト商品などの販売で使われていたが、今では健康サプリメントの定期販売などにも使われている。所有から利用の時代になり、モノ系でも使われ始めているが、良く考えると先送り経済の様なもので、基本的には分割で購入しているのと同じことになる。勿論、メンテナンスの故障時の取り扱いや機器の入れ替えなどの経費を何れが負担するかは明確な基準はない様だ。ソフト系の場合には性能が日進月歩であるので、サブスクリプションにした方が常に新しいソフトを使う事が出来るので便利だが、モノ系の場合のメリットは低額の毎月支払いで商品を利用できること以外にはメンテナンス費用と思われる。尤も、モノ系に関しては既にリースとレンタルがあり、サブスクリプションとの違いは見いだせない。リースに関しては会計基準の改正でファイナンスリースなどは購入と同じと見做されて資産の繰り入れとなる見通しだが、一般の機器のリースは月々の支払いが経費扱いは変わらないので、個別性から言えば残価の設定で月々の支払額が変わることである。一方、レンタルはリースより長期契約となり、メンテナンス費用も含まれるし、更新に際しては既存設備の残価を新規の契約に上乗せて処理することも可能であるが、その分月々の支払いは高くなる。モノ系のサブスクリプションはレンタルと似ているが、現時点では単体の低額商品レベルの取り扱いの様なので、「リース」、「サブスクリプション」、「レンタル」の棲み分けは可能かもしれない。しかし、何れにしても新規商品とは思われず、名称を変えて新規さをアピールしているのに過ぎない。この様に周辺の商品やサービスを眺めると、働き改革で注目を集めているシェアオフィスなどは、過去にはレンタルフィスとして同様のサービスが存在した。ちなみに、レンタルオフィスの前は秘書伝言サービスがあり、オフィスを持たない会社の為のサービスもあった。今の言葉ではバーチャルオフィスというサービスである。勿論、同じ利用でも今日の物はITなど設備したスマートな運用がなされており、新規ビジネス開発のプラットフォームなので利用価値は様変わりだ。レンタルと言えば、弊社も過去に大型ビルの建築時、いわゆるインテリジェントビルと呼ばれた時代に中央監視システムにレンタルを導入したことがある。切っ掛けは、コンピューターが急速に進化している時代であったので、システムの更新を償却前に出来る様にするためにレンタルを選択した。しかし、その後のIT機器の発展を見ると、発想は間違いではないが、デフレ経済もあり、仕組み自体が変わり、商品の低額化までは誤算であった。何れにしても現代の商品の多くは過去の模倣が多く、新しいアイデアとは言い難く、電気自動車もガソリン車より早く提唱されていた。問題は導入コストであり、一般化するには時代を待たなくてはならないビジネスモデルもあるので循環するのは必然なのかもしれない。社会経済環境も閉鎖系か開放系かで大きく違い、会報系のグローバル経済は世界を均等化する流れとなったが、一方では貧富の差が拡大し、豊かな社会の実現とは乖離してきている。今後はAIなどの活用で人の業務の多くが機械に代わることが予想されており、人間自体の存在が問われて来ることになりそうだが、AIの導入が一般的な時代になっても循環的な商品・サービスが維持されるのかは難しい問題だ。尤も、5月1日から新元号の令和が始まり、今回の変更が天皇の生前退位によるので注目されているが、過去には元号は天変地異による災害などを乗り越えるために元号を新たにしたことが指摘されており、人は何かを乗り越えるために名称を変えることで切り開いてきた歴史がある。先祖がえりのような商品・サービスも基本的には現状を打破する為の行為かもしれない。それが循環経済となる理由かは不明だが、世界は周期的に動いているので、循環は必然の要素なのかもしれない。今回は科学的ではなく、哲学的なブログになった様だ。

自動車暴走事故の懸念

最近自動車の暴走による痛ましい事故が起きている。最近も高齢者の運転する自家用車が池袋で暴走し、母子2人が亡くなり、8人が負傷した。自動車事故で家族を亡くした遺族は不条理に際して持って行き場がなく、慰めの言葉もない。暴走事故に懸念とした理由は、高齢者の運転ミスとして報道されることに違和感を覚えたからだ。現代の車は制御装置に電子機器が多く用いられているが、電子機器は電磁波や暑さに弱いことが欠点でもある。勿論、自動車メーカーは当然に理解している事なので、その対策は十分に取られていると思われるが、過去の出来事が私の脳裏から離れず、最近の車の自動運転の良さばかりが報道されることには違和感がある。その出来事とは、1件目は父の自家用車の故障に関係するものである。父が帰郷し、地元のゴルフ場でプレーした後に事件が起きた。帰りの車の運転中にアクセルが勝手に動いてスピードが上がり始めた。この為、父はブレーキを踏み制動したが、ブレーキを緩めるとスピードが高まるので、ブレーキを踏む行為を繰り返し、更に胴体を障害物に擦らせてスピードを落として漸く自宅に帰りついた。父は未だ車が日常的でない時代から乗っており、運転技術にも卓越し、然も田舎であったので機転を聞かして帰宅できたが、運転に未熟で都会での出来事ならば暴走していた可能性も否定できないものであった。2件目は私自身の体験であった。高速道路から降りて側道を走り、主要道路に位置する丁字路で信号待ちし、青信号で左折した時に事件は起きた。主要道路に入った途端にエンジンが空回りして車が動かなくなった。ギアを見るとニュートラルに入っていた。この為、後続車が来ていなかったので、落ち着いてギアを入れなおしたら動き出した。オートマチックの車なので、通常はブレーキとアクセルだけの走行であり、事故の時も赤信号時にブレーキを踏んで青信号でアクセルを踏んだ。丁字路を左折して正面を向いた時にエンジンの空回りが起きた。不安を持ちながら30分程走ってその後は何事もなく無事に帰宅できた。ギアがニュートラルになった理由が不明だったので、帰宅後に自動車販売会社に連絡し、点検に持って行ったのだが、整備担当の連絡で異常が記録されていたことが分かった。しかし、異常の原因は不明との回答であった。上記の2例は機械式の制御時代には想定されない故障であったと思われ、電子制御になって起きた故障と思われる。昨年などは異常な猛暑であり、屋外で屋根がない駐車場の場合には自動車の制御機器にも相当負荷がかかったと推定される。センサーやカメラやAIを搭載した自動車の自動試験運転が世界中で行われているが、世の中は全てトレードオフなので、最近の暴走事故を高齢者による事故としか捉えない風潮は危険と思わざるを得ない。池袋で事故を起した高齢者は通産省の工業技術院の元役人であったそうなので、技術系の人と思われ、アクセルが聞かなくなったと言う発言は高齢者と一言で片づけるには無理があると思われる。SNSなどでは元上級役人なので逮捕されないのは可笑しいと発信しているが、逮捕しない理由は簡単ではないかもしれない。今後、自動運転に向けて電子制御機器に関しては電磁波に対する防御の容器、熱に対しては冷却装置の設置などの対応が進められるかもしれない。何れにしても、自動運転装置は企業秘密でありブラックボックスとなり、事故が起きた時には隠される可能性が高いと思われる。未来が全て過去より良くなると言うのは幻想であり、社会は全てトレードオフなのを心すべきだ。

メディアの"正義"とは何か

米国の大学の講義の様な表題だが、昨今のマスコミ報道で感じる"正義"に対する疑問だ。桜田五輪担当相の発言が切り取られた内容であり、正しく意味を伝えてないと指摘されたが、正に正義を振りかざすメディアの報道が何を意図したものかを考える必要がある。レオパレス事件も同様かもしれない。同社はサブリースの条件変更から端を発したオーナー裁判で騒動が始まったが、サブリースの条件変更はレオパレスの専売特許ではない。バブル経済崩壊後に大手不動産会社と貸し手側の企業との間でサブリースに関する裁判があり、この時に悪例となるような緊急避難的にサブリースに対する条件変更を認める判決が出たのである。レオパレスは判例を踏まえての対応と推定できる。今回の報道で気になるのは国の仕様と違うと何度も言及している点である。建築基準法の改正で基準が仕様から性能に変更されたのを知らないのかと言いたい報道だ。勿論、今回のレオパレスの施工不良に関しては会社も認めている様なので、直接的に同社の施工不良問題に言及するつもりはないが、正義を振りかざすならば建築基準法の改正推移や消防法の改正推移に照らし合わせた書き方が必要ではないか。目まぐるしく法律や制度が変わっている今日では知識の更新が必要以上にスピードアップしてるので、間違った正義の報道もあると推測できる。同時に、一つの企業が必要以上に叩かれる時には、別な動きがあるときである。私にもバブル経済崩壊後に不条理な大企業の攻撃を受けたことがある。その攻撃とは、メインバンクからグループ会社の大手不動産会社に弊社が所有・管理するビルのテナントの契約情報が洩れ、テナントの引き抜きにあった事である。メインバンクに抗議したが、当然にメインバンクはその様な事実はないし、あり得ないと反論したので、私は弊社も大手不動産の所有ビルのテナントの引き抜きと賃料引き下げ交渉のコンサルタントを受けて徹底的に戦う事をグループ会社の不動産会社の伝えることを要請して辞去した。その後に、弊社ビルのテナント引き抜きがピッタリ止まったのは言うまでもない。レオパレスの事件は不動産業界のおけるパイの奪い合いに入ったことを予期されるものと言える。東京オリンピックで世間は湧いているが、業界は一歩先を読んで戦いを仕掛けたのかもしれない。特に、オフィスがシェアオフィスやサテライトなど多様化するに際して居住との関連もこれまで以上に強くなる可能性があり、大手不動産会社などでは全部賃貸しするシステムの構築に動き始めているかもしれない。この構築に会員制システムで居住者を囲い込んでいるレオパレスの存在は邪魔な存在に映ると思われる。映画のタイトルの様だが、"邪魔者は消せ"で動いていることを否定できない。特に、メディアが"正義"を振りかざす時には要注意だ。国民は利用される。

飲食テナントビル "イータス新橋"のグランドオープンを祝して

東京都港区新橋3丁目13番4号に飲食ビル「イータス新橋(www..ateatus .com)」がオープンした。当該ビルの所有会社はアドバイザリー先という事もあり、プレオープンに内覧会の案内状を頂いて参加した。ビル自体ははJR新橋駅徒歩2分の柳通りに面した好立地に建設されている。この為か有名店舗が入居しているが、特に目を引いたのが2Fの「広島 お好み焼き みっちゃん総本店」だ。私のパートナーが広島県の尾道出身なので、お好み焼き、特におたふくソースを使った広島のお好み焼きが大好きだ。フェイスブックにみっちゃんの事を掲載したら広島の義兄から超有名店ですと"いいね!"で返ってきた。この他に、地階と1階にバルトワインバーが入り、韓国焼肉、ジンギスカン料理、横浜中華街の中華料理店、魚料理店もあり、変わり種は青森県連携協定店と銘打った「青森ねぶたワールド」で、店内に青森ねぶたと五所川原ねぶたのミニチュアが展示されている。取引先のビルなので今後は接待等に使わせていただくことにしているが、店舗には隠し部屋風の個室の店もあり、色々と食事以外でも楽しめる様だ。写真の通り、ガラス張りのビルで色彩豊かな外観になっており、周辺でも分かり易い。所有会社は脱住宅でホテルなど造っているが、イータス新橋はJR恵比寿のアトレ西館に次いでオープンさせた所有案件だ。尤も、過っては秋葉原や渋谷に飲食ビルを建築した経緯もあり、その他にも多くの異業種的な展開を図っているので、不動産に係るアドバイザリーとしては最近相談事が少ないが、会社が成長発展することは喜ばしい限りだ。機会がありましたらイータス新橋を思い出してご利用ください。eatus2.jpgeatus1.jpg

石蔵拓氏の最新作「北高フェイドアウト」

 石蔵さんから最新作「北高フェイドアウト」が贈られてきた。帯には俳優の佐野史郎の推薦文が載っていた。石蔵さんと佐野さんを結んだのは、彼が早稲田大学の1年生の時に加わったロックバンドの仲間達が島根県の松江出身であり、佐野さんと高校時代から見知っていた人達の縁だそうだ。石蔵さん曰く、「この本は自伝」だそうで、若き青春時代の一コマを描いている。同時代を生きた私にとっても本に書かれている内容は懐かしいものであり、石蔵さんと私の縁を繋いだ広告マンの竹田俊一さんも僅かだが登場している。石蔵さんを知ったのはIT技術者として社会人生を歩んだ物静かな人柄なので、早大時代のロックバンド時代の姿には驚かされる。石蔵さんの美人な奥さんは早世し、本の書き出しも奥さんとの夢の中の会話から始まっている。プレボーイだった石蔵さんが音楽を専攻していた奥さんと知り合って結婚し、お子さんにも恵まれて幸せな一生だったが、作家になった理由の一つは奥さんの早すぎる死だった。この本で人の不思議な縁と結びつきに関して改めて思い知らされた。後書きで佐野史郎氏や松江のロックバンドの仲間たちがそれぞれ書いているが、私の高校の先輩も登場しているので驚いた。先輩の名前は、遠藤賢司で、「カレーライス」、「東京ワッショイ」などの代表曲がある。フォーク系ともロック系とも言われているが、迫力ある歌い手であるのは間違いない。惜しくも2017年に他界した。松江で思い出したが、過って出雲大社の一族の方と飲食を共にしたときのことである。茨城人は絶対無音感の地域で発音が苦手と話したら、島根県の出雲地方も同様に絶対無音感で発音が識別できないと聞き、正に同族の思いを感じた。先輩も松江の人達と交流を持って親しくお付き合いしたのは無意識の同族から来る親しみだったかもしれない。遠い昔に日本列島に渡ってきた祖先の血が現代の我々にも影響してるのかもしれないと考え、石蔵さんは福岡県大牟田市の出身であるが、石蔵さんの祖先とも古代で遭遇している可能性もあり、古代の浪漫に思いを寄せる2019年新年です。 北高フェイドアウト (141x250).jpg

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