過去から未来を考える

大正時代に来日(1917年)し、その後短期間で中国を旅する予定の米国人夫妻が中国に魅了され、1年間滞在した時の母国の家族などに出した手紙を著作にした本を読んだ。当時の米国大統領はウイルソン。米国人の男性はコロンビア大学の哲学学科教授のデューイと妻のアリス。デューイは米国のプラグマティズムの哲学者でしたので、日本や中国に対する視点も文化以外では効率や生産性などに重きが置かれている。日本に居た時の手紙では西欧式近代化に向けて頑張っている事に関する視点がなく、日本人の挨拶や行儀、歴史的な建物に対する興味などが主たるものであった。政治的には朝鮮に対する日本の支配に対して批判的に書いていた。一転して中国に対しては当時の中国人に対する不衛生に対しては文化として批判的には捉えていない上、将来的には恐るべき国になることを予見している。中国滞在時の日本に対しては軍閥と手を組んで中国の市場を奪っているとし、更に日本商品の粗悪品が流通している点を憂いている。中国製品に関しては古美術品を評価し、素晴らしい製品も作られていると賛辞している。デューイは日本を訪問して米国と日本が将来的な軍事対立が避けられないことを強く感じた様だ。手紙では英国にも言及しており、英国は中国に対して関心が薄く、インドの支配に重点を置いているとし、中国は日本や欧米からの留学生の帰国者が民主主義国家を作る為に行動を起こしており、兵隊もその行動を支持して来ていると書いている。以前に読んだ米国のアジア史において米国は民主主義を拡大することを米国企業進出と相俟って目指していることが書かれていた。その背景には、デューイの様な学者の見解があり、将来的に巨大な市場になる中国を自由市場にして西欧に背を向けた米国の国力増進に寄与させる意図があったと思われる。日本は豊かな米国が中国をターゲットにしていることを考えもしないで、日本の生命線として中国を外国の勢力の干渉外に置く政策を進めていた。デューイには日本は人工的に無理して物事を進めているので何れは破綻すると見ていた。米国人の多くが中国や中国人に対し好意を持ち、日本に対しては狡賢い二枚舌の国民と見ていたことが分かった。この悲劇が日米の和平交渉の中でルーズベルト大統領とハル国務長官が日本人に対して似たような感想を持っていたことが戦争を避けられないものとした。時間が大分過ぎた戦後の米中国交回復に当たったニクソンの側近のキシンジャーが同様の考えの持ち主だった。その様な思想が今の米中対立を起こしたのは笑える話だ。勿論、米中対立で日本が考える必要があるのは中国が米国に対して対抗心を持たなければ米国と中国は相思相愛の関係に戻るリスクだ。習近平が何故米国に対抗する意志を持ったのかは不明だが、習近平が退陣すれば鄧小平の言葉である「米国と対立するな」が蘇る。今のマスメディアは戦前の大日本帝国陸海軍に中国進出を煽った様に反中国を叫んでいるが、過去の出来事と米国人の日本人に対する見方を考えて中国政策に対しては米中対立の先兵にならないで慎重に動くことが重要と示唆している。

"企業は人なり"で考えるあれこれ

"企業は人なり"は経営の神様と言われた松下幸之助の言葉と言われる。確かに、米国企業のGEやインテルが過去の危機を乗り越えた教訓が活かされないのを見るにつけサクセッションの難しさと成功体験の呪縛の強さを改めて思い知らされる。良く考えるとどの世界でも人によって左右されるので企業に限定するのは狭義と言える。尤も、政治の世界の様にトップに立つのは実力だけでなく、時の運が必要なのは企業とは別と考えるが、過去においては企業でも甲乙付きがたい人物を後継社長に選んだ際はその人の持っている運を優先して決めたことを聞いたことがある。勿論、どの世界でも一人の力で何事も出来る訳ではなく、組織的に人を動かせて初めて成功することは自明だ。人を動かすには"相手の立場や気持ちを理解する"、"誠実で率直な評価を与える"、"重量感を持たせる、"相手を批判や非難せず、苦情も言わない"と言うカーネギーの教えが有名だ。新自由主義も行き過ぎた競争社会を作り出したために人的資本が蔑ろにされた反省から今、人的資本について成長する企業評価に取り入れている。情報化社会になりSNSなどによる他者との交流と好みの有った人達だけでグループを作る傾向があるためにフェイスツーフェイスのコミュニケーション能力が過去に比べて落ちているとの記事を目にする。確かに、隣の人に直接会話せずにチャットなどで遣り取りする時代なので、見える相手に話しかける能力が低下しているのは本当だろう。私自身も電話で話すよりチャットやメールなどで他者との遣り取りを好むが、それは言葉で伝える難しさを痛感しているからだ。同じ言葉でも地域文化などが異なると微妙に受けとり方が違う。関西人は馬鹿と言われるよりアホと言われる方が頭にくることを聞いたことがある。私の出身地の茨城県北部では馬鹿野郎と言う言葉を使うが、この言葉も怒った時に使う場合と冗談で使う場合とがあり、口調の強さやイントネーションの違いで使い分けするが、他地域の人にとっては両方とも同じに非難されたと受け取ると思われる。その他に方言も多少残されており、私が長い間気が付かないで使っていた言葉に「明日明後日(あしたあさって)」があり、私の感覚では「明後日」だが、他の地域の人達には「明日」と「明後日」の両日の意味とも取れる曖昧さがあることが分かった。実は「一昨日(おととい)」も「昨日一昨日(きのうおととい)」と表現する。人から何故その様な無駄な言葉を繋げるのかと言われた際には英語表現と同じだとやり返す。英語では明後日「The Day After Tomorrow」、一昨日「The Day Before Yesterday」のこじ付けだが、それを言うと笑って反論しなくなる。また、私の場合には「もっと」を「まっと」として使うのだが、これも前後の使い方で分かるからか長い間、誰にも指摘されないで来た。更に、私の場合は話すときに端折るので分かり難いと言われたことがある。人によっては何を言ってるのか分からないらしい。この年になっては変えられないので、何を言われようが使い続けるしかないが、この事が電話よりチャットなどを好む理由だ。情報化の社会では動画や画像の方が意味を伝えやすいと指摘されており、情報化の社会になり過剰のデータを吸収しなければならないので、脳は動画や画像の方が記憶に留め易いのかもしれない。昔に紙芝居があった。画像を言葉で表現するだが、妙に記憶に残っている。情報化の時代では人を動かすには米国の大学の授業の様に対話式が有効であり、それに動画や画像を取り入れると効果が上がるのかもしれない。考えると人間は話すより見ることの方が早かったのは歴史的な事実であり、改めて"百聞は一見に如かず"の諺が思い浮かぶ。新しい酒は新しい器に入れるの表現どおり、新しい時代には新しい方法で人を育てるのが必要なのかもしれない。

文芸春秋11月号のロッキード事件に関する記事を読んで

ロッキード事件から50年(半世紀)目に文芸春秋がロッキード事件を新たな視点で再取材した記事を掲載した。今、田中角栄を再評価する動きがあり、その中での50年前の再検証とも思われた。当時の文芸春秋には田中角栄に対する記事として二本掲載された。一つが立花隆が書いた「田中角栄の金脈」、二つが児玉隆也が書いた「」寂しき越山会の女王」である。当時は田中角栄がロッキード事件で首相を辞めたのは米国の怒りを招いたからとの風説が流れた。その理由として「メジャーに挑戦する石油開発」と「中国との国交回復」であった。しかし、今回の記事ではそれを否定する内容に辿り着いたものの、ロッキード事件の背景に関しては答えが見つからなかった様だ。もっとも、ロッキード事件の疑惑事件は2件があり、巨額な自衛隊が購入したPC哨戒機の疑獄事件に関しては検察庁は蓋を閉じてそれより金額が小さい民間企業の全日空のトライスターだけを追求した件は今回の記事の目玉になるのだろう。そもそもソ連との冷戦時に日本に潜水艦用の哨戒機を買わせて極東のソ連の動きを封じ込めたい米国がロッキード事件などを起こして田中角栄を首相の座から降ろすことを考えることは無いはずだ。ロッキード事件が起きて驚いたのは米国も同様であったと推測される。田中角栄は当然にP3哨戒機の導入にも絡んでいたと推測出来るので、今回の事件が米国の差し金でない事は気づいていたと思われる。今回の文芸春秋では当時ロッキード事件を担当した特捜部副部長であった堀田力検事の主たる証言に基づいているが、堀田自身が上からの指示でロッキード事件では防衛庁のP3哨戒機に関しては取り上げないで全日空のトライスターだけを捜査対象にすることにした事を述べているので分かり易い。特に、米国の捜査が全日空のトライスターだけを前提に米国政府から認められたこともあり、堀田検事自身は納得してのものと推測される。話は逸れる韓国ドラマなどでは検察と警察の対立が描かれているが、日本も当時は田中角栄が警察長官であった後藤田正治を引き入れて警察を間接支配していた。一方、検察庁は大蔵官僚出身の福田赳夫の影響力が強かった。日本でも警察と検察は一体ではなかった。ロッキード事件の原因は参議院選挙に遡ることになる。それは福田派として全国区から出馬した糸山英太郎候補に対して田中角栄と後藤田正治が警察を動かして選挙違反で追い込む作戦を仕掛けたことに起因する。意図的強引に選挙違反の検挙に警察が動いたのが功を奏して糸山英太郎の妻の父親である笹川了平を選挙違反で逮捕することが出来た。田中角栄と後藤田正治が目論んだのは選挙違反を理由に笹川良一が支配する船舶振興会の乗っ取りであった。しかし、笹川良一は田中角栄や後藤田正治が考えていた以上に怪物であった。笹川良一は田中角栄に対する怒りで首相の地位を引き摺り降ろすことを計画して米国で動いてロッキード疑獄事件を起こさせたのが事実だ。この田中失脚計画は当然に福田も承知していたと推測される。堀田が指摘していた様に田中角栄は金で人を動かすことの危うさがあり、笹川が計画通りに首相退陣に追い込めた訳だ。田中角栄は首相退陣後も派閥を維持して権力を維持したが、大部分は裁判の対策に追われて二度と船舶振興会の乗っ取りを図ることはなかった様だ。ロッキード事件が笹川が起こしたことを田中角栄と後藤田正治が知ったかどうかは不明だが、ロッキード疑獄が防衛庁のP3哨戒機に波及しなかったのは米国の圧力であったことは知ったと推測できる。勿論、笹川良一がロッキード事件を起こした証拠を見つけるのは難しく今後とも記事にされることはないと思うので、50年の節目でロッキード事件を取り上げた文芸春秋も謎として扱うのが精いっぱいであろう。田中角栄待望論が出ているが、堀田検事が憂いた様に官僚に金を味わせて堕落させた事実一つとっても評価してはならない人物だ。

低金利の弊害

経済理論の有効性に疑問が持たれている昨今だが、日本経済が低迷している原因の一つには低金利政策であると断言できる。今後に金利の上昇を見込むと言っても膨大な赤字国債を考えると過去の様な金利高にはなり難いと思われる。現在の国債発行残高1000兆円、地方債200兆円を含めると1200兆円の残高になる。国家だけを考えても金利が1%上がると10兆円の利息が増加する勘定だ。国家の税収は72兆円だが、国債の元利返済額は約24兆円なので、実際には48兆円しか事業費等に使えない。実に33%強が国債の元利返済に充当されているので、サラ金財政と揶揄される現象となっている。もっとも、この様に悲観的な言動を採ると、国家の貸借対照表を見れば相当の資産があるので、税収が減少して予算が組めなくなる時には資産の売却をすれば問題ないと暴言を吐く者がいる。企業で考えれば理解できることであるが、売上が減少して借金が出来なくなったり、返せなくなった時に資産を売却する場合、遊休資産ばかりではないので、資産の売却後に賃借して土地建物を借りる(リースバック)ことになり、その経費負担は軽く無いはずだ。国が道路や橋梁などを売却したならば購入した企業は通行料を取って資金を回収するので国民の負担になり、国有資産の売却など簡単には出来ない事が分かることだ。長々と国家の問題を書いたが、低金利政策は企業にとっても事業推進に際して甘い査定になっている。驚くことに、多くの企業の国内の事業収支表に金利負担部分が抜けており、資金をタダで借り入れての組み立てとなっている。多くの資金が必要な不動産会社もマンション分譲に際しては青田売り的な発想はない。金利が安いので、竣工後に売れ残りが生じても慌てない。この為、過去の様にモデルハウスを造って青田売りなど行う会社はいない。金利負担よりモデルハウスの構築の方が高くつくからである。国家、地方自治体、企業も含めて金利が上昇すればどうなるかは自明だ。日本はアベノミクスで多くの資金を市中に投入したが、それでもデフレから大幅なインフレに転ずることななかった。金利が0に近いお金など市中に増やしても金の価値が下がらないのだ。経済学者は市中に大量な金を投入してもデフレからインフレにならなかった理由を参照点依存性などにより説明しようとしているが、結果に理屈を当て嵌めているので本末転倒の様にも思われる。何れにしても低金利でマヒした日本人社会なので、金利が急激に上昇すれば天と地が引っ繰り返る様な騒ぎになると思われる。

素晴らしい人生

工事用写真のソフトを販売していた会社の代表から今後は無料に致しますとメールが届いた。無料化のご挨拶には1940年生まれで高齢になったのでと書いてあり、更に今後10年は無料ソフトのメンテナンスを続けるとの事でした。人生の余白をボランティア精神で生きることに素晴らしい人生と思いました。単に仕事を辞めるのではなく、人生を有意義に送る為に仕事を続けるが、それは利益の為ではなく、精神的な健康を維持する為に行う生き方は意味があると思われます。勿論、誰しもが出来ることではなくソフトの無形資産があったからこそですが、社会に必要とされるボランティア活動に従事することも人生的には素晴らしいと思われます。尤も、高齢になってボランティア活動が出来るのは生活に余裕があってのことですので、自分自身の為に生ききることも素晴らしい人生には違いはありません。今の世の中は子供の頃から投資の方法を教えてお金中心主義になっています。その理由は経済成長と労働人口の増加を前提とした年金制度が低成長と少子高齢化社会になり維持できなくなるので、自分の老後を豊かに送りたいならば株式投資などを行えと言うことだ。健全なる精神はある程度の豊かさが必要なのは古来から指摘されているが、子供時代から投資の方法を教えるのが健全な社会を作ることになるとは思えない。国家百年の大計を考えない政治家や官僚や経済人などが現況の社会を作ったのだが、その反省もなくして良い国家社会など造れる筈もない。立憲民主党の野田代表が貧しい人を救済するのではなく、貧しい人を作らない社会を作ると宣言したが、ベーシックインカムを導入するしか実現はしない政策だ。そうとすれば財源が問題になる。サラ金財政を続ける日本がベーシックインカムを行う財源などないのは自明だ。しかし、未来社会でAIやロボットが主要な労働源なるならばAI利用税やロボット利用税を設けてベーシックインカム制度を構築することは出来るかもしれないが、未だ夢物語だ。自民党の総裁選の候補も何れも大局観を持った発言をしていない。部分最適な話ばかりだ。政治家が官僚の様な発想になって久しいが、政治家のサラリーマン化は豊富な政治資金の為だ。豊富な政治資金を貰っている上に更に政治資金パーティで稼いでいる姿は詐欺師のパーティと同様だ。更に、小選挙区制度が小粒の政治家を生み出すマシンと比例代表制度が政治不信の温床だ。ソフト販売会社の社長のソフト無料化による素晴らしい人生をメールで見た後に政治家を見ると情けなくなる。

未来が予想できない時代

驚くべき新技術が開発され、2025年にはシンギュラリティも現実味が帯びてきているにも拘わらず、誰も確かな未来がイメージされないと言われている。このことは理論と実践から生じる仕方がない現象とも言える。現在の社会は机上の理論で構築されているので、物づくりの様に試行錯誤の結果に基づくものではないからだ。日本の少子化について問われれば色々な意見があるだろうが、少子化の方程式を見るにはお隣の韓国が参考になる。韓国は軍事政権時代に日本をモデルにして経済成長を推進して来た。しかし、軍事政権が倒れ、民主政権が生まれてから強力なトップダウンの政治体制がなくなり、アジア通貨危機に陥り、IMFの救済によって経済の再生を果たしたと巷間には言われている。確かに、為替は別にすれば日本がバブル経済崩壊後にデフレ経済に陥っている間に韓国は日本に追いつき、追い抜いた様な経済成長を遂げている。市場開放と生産性と効率性を要求するIMFプログラムを進めた結果、国家全体は豊かになったかもしれないが、そこには人の存在が考慮されていないプログラムであった故に急激な少子化に陥っている。日本も小泉内閣が発足し構造改革と称する似非の改革を進めた結果、少子高齢化の社会となり、韓国と同様に少子化の勢いが止まらない。少子化の責任は経済産業省の官僚と経済界にある。日本の大企業に関しては労働生産性の低い工場は海外に多くは移転しているので、非正規雇用によって景気に対する生産調整を行う必要はなかったのである。自動車会社の為に非正規雇用を採用したとも推定される。当時、大企業は国内に投資案件がなく、徒に現金・資産を溜め込んでいたのが、新時代の総会屋のアクティビストファンドに狙われた。馬鹿な話である。韓国が先行している少子化を日本が後追いしているのだが、非正規雇用が結婚をしない人達を作りだし、結婚しても教育費の高さから子供を一人とする夫婦が多い為に少子化が止まらないのだ。枝葉末節な対策で少子化を止めようとしても地方が疲弊した原因である工場の減少や鉄道の廃線などによる市街地化の空洞を等閑にして無駄な事と思われる。物理空間とバーチャル空間の両立の動きが出て来ているが、それ以前に地方に関係人口を増やすアクションプログラムも進められているにしても未来社会とは考えられない。AIと物理空間とバーチャル空間の融合、人型ロボットの機能やコストの低下、自動運転の一般化などが進んだ場合に現在の社会がどの様に変わるかが想像できない難しさがある。政治とは百年の大計を考えてのことと古来は言われたが、今の政治を見る限り、目先の対応で精いっぱいの様だ。理由は今の社会が豊かになった故の停滞と同様に政治家に多くの金を与えたのが未来志向の政治家がいなくなり、選挙対策の目先のバラマキ政治となってしまった。田中角栄の金権政治の脱却を目指して作られた政治制度が皮肉にも無能な政治家を作り出した。この事を考えると今の技術開発の影響による未来など想像出来ないのは当然とも言える。

武満徹の評伝(音楽創造への旅)を読んで

現代音楽作曲家の武満徹の評伝を読んだ。立花隆が書いたものだが、立花も武満とのインタビューで興味を深めて長い連載を行ったが、途中で武満氏が亡くなった為に単行本の出版が留保されていた様だ。しかし立花は一緒にインタビューの編集に携わった身近な人の死とその人の意志と考えてインタビュー出来なかった部分に関しては武満氏が多くの誌面で語った内容を踏まえて纏めた様だ。しかし、評伝を読んで驚いたのは武満氏は音楽家でありながら哲学家とも思える人だったことだ。評伝のタイトルになっている「音楽創造への旅」は多く才能ある世界中の有名人との出会いも書かれており、豊かな才能同士が触発されて成長し、創造力を生み出すことが理解できた。それにしても、正規な音楽を学ばずに独学で音楽の道に進み、邦楽や西欧音楽のクラシックを学ばずにいきなり現代音楽から入ったことが書かれていたが、人生の後半から邦楽、アジア音楽、西欧音楽のクラシックなどに影響されて作品を作り上げたことには驚いた。芸術家は皆同様なのだろうが、完成した作品に関しては常に不満を持ち、次に良い作品を作ろうとする意志、創造力には頭が下がる。作曲家の言葉として曲が天から降って来ると言うのがあるが、武満氏クラスになると自然の中に無数にある音から引き寄せてくるらしい。確かに、造形美術家が木や石の中に既に作品が入っており、それを削り出すことと同様なことと思われた。武満氏が邦楽に関しては世界の音楽と違って神の世界がなく自然に帰結することを指摘していたのには理解し難かった。日本は一神教ではないが神の世界の事は語られており、それでも神が不在であり、自然に同化するのが邦楽の特徴であるらしい。日本は自然環境の厳しい中に生活があり、古代の人にとっては神の助けより自然に同化する道しかなかったのかもしれない。色々なものが日本に入ると変質することは聞いていたが、東洋的な世界を更に非論理的な状況まで止揚する自然環境が日本にはあるのだろう。武満氏は西欧の世界を論理的な人工的な世界として捉えており、武満氏自身は西欧音楽の方が精神的に受け入れやすかったのだろうし、戦争時代を子供として過ごした影響が大きいかもしれない。現代社会では新規に事業を起こすことが求められており、それにはアートの世界の創造力が必要との事でそれを学ぼうする機運があるが、武満氏の評伝を見る限りアートの前に哲学が必要と思われる。哲学なきアートは創造への旅とはならない様だ。勿論、私レベルが才能ある人の評伝を読んで理解できる筈もないが、それでも人は何かの役割を持って社会に存在していると思われ、私自身もその役割を一生探す旅を続けると思った次第だ。

人と神 言葉の評伝「立花隆」を読んで

立花隆は私の故郷の茨城県と縁があるジャーナリスト・作家なので興味があったが、初めて知ったのは政治家の田中角栄の金脈を文藝春秋で暴いた時であった。立花隆に関しては父から故郷が生んだ農本主義者の橘孝三郎の孫として聞いた記憶があるが、実際には父親が従兄弟同士であり、孫ではない事を知った。橘孝三郎は戦前に軍人と右翼が起こした5.15事件に関わった人物だ。立花隆はペンネームで本名は橘隆志であることも知ったが、生まれは長崎県であるものの、幼児の時から高校1年まで水戸に住んでいたので、故郷の著名人として扱っても良いと思った。特に、立花隆の母親は私の生まれた寒村の隣町出身であることも興味を持った。伯父に関しては興味がなかった様で残された資料の中に言及したものがなかったのは残念であった。立花隆は過去より未来に興味があった様であり、田中角栄の金脈で政治に関わったが、政治に関しては興味がなかったのかその後に「日本共産党の研究」以外に政治を論じたものはない様だ。立花隆の興味は根源的なものに移っており、私自身は立花の著作はあまり読んでいない。今回の評伝で「宇宙からの帰還」や「臨死体験」などの著書があり、人間の体験の影響の問題を扱ったのが大学に入り直し、哲学を学んでから書かれたものであることを知った。今回の評伝を読む前に立花隆が書いた前衛音楽家の武満轍の伝記である音楽創造への旅を読んでいるが、同署は長い間出版されて来なかったのを立花のパートナーの死を契機に世に出されたものであることを知った。今回の立花隆を論じるのに人(哲学)、神(キリスト教)、言葉(音)のタイトルで示している通り、立花の内面から分析しているのに納得させられた。両親が無教会派のキリスト教徒であり、子供の頃から大きな影響をうけて育った為に神の存在に関しては哲学を学ぶ必要があったのだろう。以前に井筒俊彦の著作を読んだが、立花が井筒の影響もうけている事が書かれており、井筒の場合には仏教の影響からイスラムのスーフィズムの研究に進んでいるが、子供の頃から宗教に触れていると何かしらの啓示を受けて探求することになるのかと思った。人を論じた本で評価が高いロシア文学に影響をうけたのも立花と井筒は共通している。尤も、立花は武満徹の音楽に言葉の深さを感じたのは井筒と違っているが、井筒が研究したイスラム教の祈りは音楽的な響きもあり、仏教の読経も同様であるので、言葉(音)と捉えても良いかもしれない。音は人の耳では消失するが実際には遠くまで無限に響いていると言われている。言葉は共通なものではないと言われるが、それは言葉を心に響かせるには言葉自体より音の響きが必要なのかもしれない。立花が若い頃にキリスト教に対して抱いた排他主義は同じキリスト教でも正統以外は異端として排斥することに疑問を抱いたからではないかと指摘されている。宗教以外でも正統以外は異論として排斥されるのが社会の現実なのを見抜いたが故の悩みであったのかと思われる。立花が最終的に言葉に行き着き、その言葉の音に関して何かの啓示を得たのかもしれない。

米国大統領選で考える

トランプ大統領候補が銃撃から間一髪で逃れたので何かの天命があるかと思ったが、その後にバイデン大統領が選挙から撤退してハリス副大統領が大統領選挙の民主党候補者になることが確実視されてから深く考えると、歴史的な役割を担ってるのは共和党の副大統領候補になったバンスかもしれないと考えを改めた。トランプを生かしたのはバンスが副大統領に成り、将来的に選挙かトランプの途中退場で大統領に成るシナリオかもと考え持つに到った。バンスはアメリカンドリームを実践した人物だ。貧しい人達が目指す道である高校を卒業して軍隊(海兵隊)に入り、退役後に奨学金を得て大学に行き、更に有名大学のイエール大学法科大学院に入り弁護士となった。その後に、自伝的な小説とも言えるヒルベリー・エレジーを出版しベストセラーとなった。その後は投資家となり活躍しているのだが、イラク戦争を経験し、トランプ以上に独裁的な資質の持ち主と言える。トランプは口だけで実際は余り過激なことは行っていないことが前の大統領の経験から見なされているが、バンスがトランプ後の米国大統領になった場合には違った世界が見える。米国の中国に対する姿勢は中国と言う仮想敵を作って国内に再度生産工場を復活させる意志があると思われる。伝統的に米国は大陸派と沿海派に分かれるが、中国を仮想敵と見做す限りは日本は防衛最前線の国家として米国から支援される。しかし、バンスは海兵隊出身なので沿海派と言えるが下士官であったので、その影響はあまり受けていないと推定されるので、IT起業家からの支援を受けているのを見ると大陸派になる可能性も否定できない。気が早い話しだが、バンスが大統領になった時の米国は日本にとって必ずしも歓迎すべき大統領ではないかもしれない。もっとも、民主党のハリスが大統領になった場合には、米国から色々な改革が強要させられる可能性もあり、歓迎すべき大統領ではないかもしれない。しかし、米国の大統領以上に問題なのは日本が目下、次の首相に誰がなるかの問題に翻弄されて世界的な動きについて行っていない状況が危惧されている。スポーツの世界では海外コンプレックスを克服した選手たちが活躍しているが、政治の世界は未だ井戸の中の蛙なので困ったことだ。

トランプ米国大統領候補に対する狙撃事件が意味するもの

歴史は些細な事で大事件に繋がることがある。第一次世界大戦はオーストリアの皇太子の暗殺事件から勃発したが、事件の経緯を書いた過去の書物を読んだ時に偶然を超えた何かしらの力が働いたとしか思えないことに衝撃を受けた。今回のトランプ大統領候補は間一髪で難を逃れたが、それは原稿を見るために顔を動かしたことであった。真実かどうかは不明だが、バイデン大統領がトランプ氏に電話かを掛けた時に顔を動かした理由を尋ねた所、原稿に目を向けたと答えたそうだ。バイデンの大統領選挙からの撤退は間違いなく、トランプ氏が狙撃事件で難を逃れたことに運命的なものを感じた為であると推定される。問題はトランプ氏が大統領に選出された時に世界がどの様に動くのかだと思われる。トランプ氏は間違いなく、グローバル経済を否定する人物だ。歴史は温暖化や人口増大など地球にマイナスに作用している問題は根底にはグローバル経済から発生しているのは間違いがない。トランプ氏に運命の女神がほほ笑んだとしたら、世界としては擬人的に言えばグローバル経済を止める意思表示と言える。米国は伝統的に建国以来アジア重視であり、大陸派と沿海派に分かれている。米中対立が続く限り日本は米国に取っては戦略上重要な国となる。第二次世界大戦後の世界では米国は常にロシア(旧ソ連)と中国の乖離を画策してきたが、ソ連崩壊後のロシアと経済成長率著しい中国に対してはグローバル経済に組み込んだ両国を脅威と見做さないできた。現在はそのことが仇になってロシアと中国が接近しているので、米国にとっては世界をコントロールする上で過去のの脅威が蘇っている。バイデン大統領は両国を敵に回したが、トランプ氏が大統領に成れば、ロシアを囲い込んで中国を孤立化させる伝統的な戦略に戻ると推定される。米国を長期的に考えるとトランプ大統領候補の副大統領候補になったバンス氏の存在だ。面白いことにバンス氏を支援しているのはIT企業の起業家である。バンス氏の書いた著作「ヒルビリー・エレジー」も読んだが、正にグローバル経済を批判したもので自伝的な本だ。海兵隊に入ってから人生を変えた典型的な事例と思われる。最終学歴はイェール大学ロースクールなので、出版で得た資本を本にベンチャーキャピタルとしての活動がIT起業家の支援を得られているので、IT起業家の人達特有の独善的なものを持っていると思料される。トランプ後の大統領候補に出て来ることは確かですので、独裁色を強める政治家になる可能性があり、世界的には民主国家が後退する可能性がある。今後の世界を考える上で平和か戦争かと見れば、各地で紛争が起きる可能性が高いかもしれない。何れにしても世界はグローバル経済を阻止する動きになる事は間違いがないし、バンス時代になれば米国は強権国家になるかもしれない。ここに中国とインドが覇権国家として存在してくる可能性があり、日本は難しい選択を迫られると思われる。

都知事選前後の報道で分かったメディアの衰退と期待できる技術

都知事選前後に異常なくらいにメディアの寵児になった中身のない石丸伸二氏と民主主義の選挙を変えるかもしれない双方向のgithubによる政策提案を行った安野貴博氏に対するメディアの取り上げ方を見てメディアの今後の衰退を見る思いがした。メディアから泡沫候補とされた安野貴博氏はそれでも5位に入ったのが都民の救いになった。選挙に出る場合の注目度は過去に選挙に関わったかどうかで取り扱いが違うのだろう。メディア自体が社会に変革を要求しているのに自分たちの世界は変えない姿勢と言う冴えない話だ。安野氏の経歴を見た場合に彼が都知事選に何故出たのかに興味を持たなかったのかと不思議だ。メディアの政治部に所属すると未来が見えなくなる部門なのだろう。政治部が古色蒼然としていたのでは最先端の技術を駆使している候補に目が行く訳がない。それにしても安野氏とは面白い人物である。正に実務の人と言っても過言ではない。一方の石丸氏は金融機関に身を置き米国に行ったが学んできたのは中身がなくてSNSを使えば大統領に成れると言う間違った経験だ。トランプ前大統領はビジネスマンとして多くのプロジェクトを行ってきた実務家だ。単に中身がなくてSNSで寵児になった人物ではない。石丸氏が大学卒業後に選択した金融マンの職業が事業とは程遠い仕事であることが中身のない人物に仕上げたので、早く間違いに気が付かないと年齢的に手遅れになる。それにしても安野氏は大手のコンサル会社に入ったので、事業に対する取り組み方を習ったのだろう。事業の立ち上げのセンスには驚くほかない。多才なうえに学ぶ姿勢もあるので、今後の成長が期待できる。都知事選に出たのは未来の民主主義の有り方を探るものであったならば政策の発表の場を双方向のWEBにおいて選挙民に政治能力や政策能力を見極める場を早く作ってもらいたい。議会を通してのものは泥棒に番をさせるものなので、政治家になる為にはそのシステムを使わないと当選できない様にして政治から政治屋を一掃させてほしい。もっとも、AIに答えさせる偽物も出現するかもしれないので、それを防ぐ技術も必要だ。

政治家の素質とは

東京都の都知事選挙で前広島県安芸高田市市長の石丸伸二氏が予想外の2位になり耳目を集めているが、同時期に石丸氏が辞職して行われた安芸高田市長選挙も行われ、石丸氏の後継候補が敗れた。石丸氏の安芸高田市長時代の市議会との一方的な対立を見る限り、間違っても都知事にならせる人でなかった人物であることが分かる。自治体の長になり首長として選挙民の為になる人物とは如何なる者かが偶然に仕事の関係で訪れた茨城県猿島郡境町でお会いした人物で知ることになった。その人物とは境町町長の橋本正裕氏である。橋本町長は大学卒業後に市職員として働き、更に市議会議員として活躍し、その後に町長になった人だ。35才に町議会議長になり、全国最年少の市町村議会議長であった。実は私の父親は50年以上前になるが39歳で村議会議長になり、全国市町村議会の最年少議長であったので、それより4歳以上も若くして議長になったのは出色と思われる。議長職は政治家として有能なのは当然だが、一般的には当選回数を重ねた長老議員が就くものだ。父も当選2回の任期中に議長になったので、当時としては際立って若く、他の議長は父の親世代が多かったことを聞いた記憶がある。父の話だと議長仲間は殆んどが市町村長、県議会議員、国会議員になったそうだ。父は保守的な茨城県で敢えて革新の道を歩み、選挙民にお願いしますとは言わない政治家であったので、県議会議員の選挙で敗れてからは若くして政治を引退した。父は母に対し自分の金を使って選挙し、地域を良くするのに何で頭を下げるんだと怒鳴っていた。母はからすれば頭を下げれば票が入るのにと思っていたのだが、父は頑として母の言葉を受け入れなかった。子供の時には私も母の考えと同じだったが、父の年齢以上の年となった今では父のことを理解できる。話が横に逸れてしまったが、境町の橋本町長は町役場の職員を味方につけ、市議会も多数の支持者を持ち、更に有権者にも賛同を得て町の為に政策の実現を図っている。橋本町長の祖父が境町の町長に就いているので、町の発展を実現する政策を可能にする術を幼児の頃から学んでいるのかもしれない。それに比べて石丸氏は良い政策を打ち出せば簡単に賛同を得られると勘違いしている様だ。社会はそれほど単純ではないので、自分の思いを実現するには多くの人から賛同を得る必要がある。独りよがりではダメなのは私も自分の父から学んでいる。境町を視察して鉄道の駅を持たないのに平成の合併に加わらずに独自の政策で町を発展させている橋本町長を見ると明治維新を遂げて日本を近代国家にした人達と二重写しになる。我が故郷の茨城県にこの様な人物がいたかと感嘆した。なお、視察の同伴した会社の社外取締役の方に橋本町長が町長選挙で無投票にならないのが不思議と言ったら茨城県人だからだろうと答えた。この方は静岡県のご出身だが、茨城県人の気質を良く知っていると苦笑した。

円安について思うこと

アベノミクスで意図的に円安誘導をする為にインフレ経済を目指して日銀の異次元緩和進めたが、今回の円安は色々と諸説はあるものの、グローバル経済が引き起こした円安とは違うような気がする。勿論、米国との金利差も円安要因ではあるが、現在の円安150円台は39年前のG5で決めたドル安誘導時の円高水準である。現在と39年前との大きな違いは、国内にあった多くの工場の海外移転と農産物の自給率の低下、更に国鉄の民営化により地方の経済の衰退を考えると全く別な次元の円安であろう。当然に戦前の円安などとの比較は政治的地政学的な状況が似ていても似て非なるものなので無意味と言える。歴史は繰り返すが全く同じ様に繰り返すわけではない。円安を考える上で米中の覇権争い、ロシアのウクライナ戦争によるロシアとEUの対立を考える必要がある。米国のアジア戦略の歴史を読むと、当然に今の日本は中国とロシアに対する防波堤の存在である。円安が更に進んだ場合には国内に工場が戻るのか、農産物の自給率が高まるのかである。米国はかっての栄光の時代の様に国内に製造力はない。その為に米中対立以降は国内に製造工場を造らせている。しかし、米中対立で米国も国内に製造を戻す計画を進めているが簡単ではない。勿論、少子高齢化の日本でも簡単ではないが、AIやロボットの活用などにより過去とは違った形で国内還流は実現するかもしれない。国内の農業でも家畜の飼料となる農産物を試験的に栽培しており、円安で輸入農産物が高くなると採算価格となる可能がある。戦後の経済発展は官民の共同で行われてきたが、現在は官の方は革新性に乏しく、民の足を引っ張っている存在だ。理由は簡単だ。国家より自分の生活を優先した人物しか官に就いていないからだ。子供時代から塾に通って進学校に入ることで官僚になったのだろうが、そこにはエゴの世界しか存在しない。官の仕事は自己犠牲でもある。更に言えば、親の負担で学校に入れたので、親以上の国家観は持っていない。良く財務官僚が非難されるが、経済面では経済産業省の方が最悪だ。話は大分逸れてしまったが、今回の円安は過去の円安とは違って米中対立、ロシアと欧州の軋轢などを背景に起きているので、地政学的に読み解かないと誤るかもしれない。

自動車会社の型式指定(認証)の問題について

自動車会社の型式指定の不正(?)の報道が続いている。最近ではトヨタが型式指定の不正報道で大騒ぎだ。型式指定は大量生産に対する安全チェックの省略化を目的とした制度と言われている。型式指定の不正を免れる自動車会社が居ない事に疑問を持たざるを得ない。トヨタの場合は多くの不正が事前設定値より厳しく扱ったものであるが、それでも設定値の違いとなり不正になるらしい。紋切り型の対応には釈然としない。もう一つはエンジンの数値の不正で、これに関しては言い訳が出来ない様だ。しかし、設計の自動化のシミュレーションの導入で設計上においては正しいものの、ハードの制作現場ではその数値を実現できないと言うソフト重視の問題があった様だ。日本のモノ作りが時代遅れでハードではなくソフト重視が言われて久しいが、ハードがソフトについて行けない問題を指摘したものはない。ハードを効率的に使うソフトの技術は否定しないが、ソフトでシミュレーションしたものでも成果が出ないモノもあると思われる。型式認証で思い出されるのは三菱重工業のジェット機が米国の型式認証が取れずに最後には断念したことが思い出される。ジェット機なので自動車と比較して数段厳しいのであろうが、日本にその認証する技術力がなくて世界に売る為には米国の型式認証を取る必要があるのは仕方がないが、中国などは米国の型式認証を取らずにジェット機を製造し、発展途上国に販売している。ロシアやその他の反米国は同様であろう。自動車も過去には輸出など出来ない時代は薄っぺらのボディでも型式認証が取れたと思われる。それが民間の自動車開発に対応できない国の型式認証を扱う部門が不正摘発を金科玉条にして権威を振り回すと自動車産業がつぶれる。グローバルの時代だから日本で型式認証を取らずに米国の型式認証を取ればよい位の発想があっても良い。米国はリアリズムの国だから細かい部分の型式認証の代わりに製造工程で問題があって自動車が事故を起こした場合には多額の賠償金を課される。科学技術が高度化した現代においてはチェックしきれないので、自助努力の製造責任による賠償責任で解決すれば良いと思われる。日本の官僚は柔軟性がなく、一度手にした権力を手ばなさないので最悪だ。民主主義とは自己責任の事だ。日本の衰退はバカな政治家と官僚に帰結する。

M・グリーンのアメリカのアジア戦略史を読んで

米国の建国以来240年のアジアに対する戦略について書かれた歴史を読んで目から鱗が落ちたようだ。江戸時代のペリー来航以降の米国のアジア戦略が分かり、特に日露戦争のおける米国のローズベルト大統領が巷間で言われている様な小村寿太郎とハーバート大学の同窓の親近感から日本を支援した話とは違った事が分かり、新たな視点を得ることになった。日本は国際政治に情緒的な友情などの観点から見るが、米国は冷徹な国益から判断していることが良く分かる。レーガンと中曽根、小泉とブッシュ更にトランプと安倍の個人的な親しさから日本は国際政治に関して説明されることが多いが、その親しさの背景には米国の国益が厳然としてあると言う事実を指摘した日本人は皆無だ。米国の大統領としてローズベルトが二人おり、親戚なので理解することがややこしいが、第二次世界大戦時のローズベルト大統領が日本の千島列島をソ連に売り渡した事実は私も良く知らなかった。勿論、戦争終結前に死んだので共産国のソ連がその後の冷戦の主体になる事を想定できなかったのだろうが、それ以上に日本に対する嫌悪感が大きかった様だ。もっとも、ローズベルト大統領が日本との戦争を望んで仕掛けたという説はアジア戦略史を読む限り必ずしも当たっていなく、米国と日本の無理解が戦争に到ったと見なされている。アジア太平洋の覇権を争った日本と米国は現在の中国と米国に置き換えられる。しかし、米国国内の世論が過去の様な民主主義を守ることで一致していない現代において権威主義国との争いが米国民の支持が得られるかは不明だが、少なくとも米中対立が続く限り日本は米国の貴重な同盟国の存在ではあり続けると思われる。問題はヒットラーの様な民族の保護を理由に他国に侵略しているロシアの存在や核武装した北朝鮮との関係が今後の北東アジアに何をもたらすかだと思われる。過去の植民地時代と異なり、現代はグローバル経済であるために国際政治は複雑になっている。中国とロシアの脅威が増しているので日本が軍備を強化するのは当然であり、戦後の平和の時代が終焉した事だけは意識を持つ必要がある。円安は一時的にはエネルギー価格や農産物の輸入で物価高などを招くが、権威主義国と民主主義国の争いの長期化の中では生産工場が国内に戻ることや食糧の自給率のアップになることは予想される。少子化はグローバル経済で仕事を得るのは厳しくなった社会が背景にあるので、生産工場が国内に戻れば少子化が止まり反転することも期待できる。インドネシアが仲間に加わるかは分からないが、少なくても韓国、台湾、フィリピンとの同盟を日本は推進し、大陸国家の太平洋への進出を止める勢力になるべきと思料する。遠いかもしれないが英国や欧州の国家とも連携を深めて民主主義国家を守る事は重要だ。米国に依存しすぎると裏切られるリスクもある。要注意だ。米国の240年のアジア戦略史はそれを語ってる。

マッカーサーの伝記を読んで

マッカーサーに関しては余りにも有名人で色々な書物に言及されているので断片的な知識は豊富だが、人物の生い立ちなどに関しては今回の伝記を読むまで良く知らなかった。過去に多くの人がマッカーサーについて書いているので色々な説が存在しているが、私が手にした伝記は良い面と悪い面の両方を描き出したのが特徴な様だ。父親は立派な軍人で有り、息子のマッカーサーも陸軍士官学校を首席で卒業し、陸軍士官学校の校長や父親が成し得なかった陸軍参謀総長にまで登りつめており、太平洋戦争前までは父親と同様にフィリピンにおいて責任ある立場に就いた。驚いたのは米国の大統領になったアイゼンハワーなど米国陸軍の鬼才達が皆部下であったことだ。チャーチルの伝記でも第一線に立つ姿が書かれていたが、マッカーサーも若き頃から第一線に立つ勇敢さがあり、上に立つ者の共通点が見られる。なお、日本の軍人に就いて書かれた本にも戦闘の時に前に進んだ方が後方に位置した人と比べて敵弾に当たらなかったことに触れていた。勇敢さが運を呼び込むことを無意識に理解していたのかもしれない。マッカーサーが一般的な軍人とは異なり、戦争時に住民を巻き込む様なことを行わなかった様だ。都市の爆撃などには反対であり、マッカーサーであればニミッツが行った様な日本の都市部の爆撃は行わなかったのではないかと指摘されていた。米国では陸軍と海軍との違いがあり、陸軍は騎兵隊から出来た通り、国内の治安を守るために作られた性格が強いが、海軍は国外の相手を対象に発足している面が強く、その面では海軍の方が侵略的な考え方の軍人が多い様だ。太平洋戦争時のローズベルト大統領は海軍好みであり、好戦的な持ち主であった。その点、マッカサーにはフィリピンを統治する責任者であったが、陸軍出身者として基本的には人道的な面を持っていた様だ。日本の敗戦後の占領軍のトップとしてマッカサーを迎えたことは幸運であったかもしれない。勿論、人間の性格は複雑なので単純に人道的とは言えない面もあり、それがフィリピンにおける敗戦前の日本軍の指揮官であった山下大将に対する戦犯としての処刑だ。日本の敗戦後の占領時代の歴史の中で幾つもの理解できない出来事があるが、その一つが憲法第九条の不戦条項だ。色々な説があるが、今回の伝記ではマッカサーが第九条を指示したと書かれている。明確に指示したと書いてあるので根拠があるのだろう。しかし、著者も指示のことを書いているが、マッカサーが第九条を命じた理由を解明していない。なお、マッカサーが占領時代の日本に対して米国内からの反対を省みずに食料の提供を断行したことやマッカサーの部下が日本の衛生面での改善に貢献したことを書いており、敵国であった日本に対して別格な配慮をした点に感謝すべきと思われた。日本の占領末期に朝鮮戦争が起きてその対応に対して幾つかの失敗などがあったが、参戦した中国軍を叩かないと将来に禍になることの予測は当たっていた様だ。何れにしても自分を演出する才能を発揮し、米国民から尊敬されたが、政治に関しては才能がなく、後輩のアイゼンハワーの様に大統領にはなれなかった。日本の今日はマッカーサーが占領軍の指揮官でなければ違っていたかも知れないと思われた。

現行金利と金利上昇の懸念には過去を振り返る必要がある

日銀がアベノミクスの異次元緩和の解消を目指している中で金利上昇の懸念が紙面を飾っているが。現行金利を見た場合には資本主義が崩壊したと言っても過言ではない。1992年に金利は7.78%であったがバブル経済崩壊後の資産デフレにより金利は低下し、1998年には2%を割り込み、それ以降次第に金利は下がったものの2007年頃には2%を超えるかの状況になった。しかし、2008年のリーマンショック以降は再度下がり続け2%には程遠いのが実情だ。バブル経済時代に円高になり海外に工場を移転しなければ輸出価格の競争力が無くなり、下請けと共に多くの企業が海外に生産拠点を移した。この為、国内的には第三次産業などサービス産業にシフトする政策が取られ、円高是正の内需拡大による公共投資事業の拡大や不動産の高騰によるバブル経済が起きた。現在の経済を見るには過去の歴史を遡る必要があるが、低金利政策から26年も経過しては高金利時代など理解できないと思われる。昭和・平成・令和を生きた人にとっては10%を超える金利で事業を行ってきた経験があるので、現行金利の低さでしか事業が成り立たないのには驚くばかりだ。今のマスコミの紙面を見る限り金利上昇に関する不安面が大きいが、その不安は民間企業よりは国債の金利上昇による国家予算の真水部分が減少することと推察される。経済を正常に戻すには物価上昇と労働賃金の上昇が必要な事は当然だが、過去30年に渡る国家と民間企業が間違った行動に関する反省がないのでは、物価上昇をコントロールできなくなって金利を上げて抑える危惧が起きてくる。資産デフレの原因はバブル経済崩壊以上にアジア通貨危機による面が大きい。多くの企業が工場の海外移転を進めたが、アジア通貨危機で海外の生産工場の不振が生じた。多くの海外工場の建設資金は国内の不動産を担保に借入たものであったので、バブル経済崩壊の不動産価値の下落は企業にとっては痛いものになった。バブル経済による不動産下落はアジア通貨危機によって拍車がかかったのである。尤も、バブル経済から今日の日本経済を見ると正しい判断が出来ない。更に、20年以上遡ってベトナム戦争終結、日本列島改造論、オイルショック、重厚長大産業の終わりなど色々な出来事を見る必要がある。現在の少子化現象など分かっていたのに手を打たなかったのは円高による海外への工場移転などで国内に労働人口が必要なくなったことも一因としてある。国家も企業も将来の人口減少による国家リスクなど見れていなかったのである。付加価値の高い工場は国内に残したが、付加価値が高いので人より導入コストが掛るロボットでも採算性が取れることも人口減少に目を向けなかった愚かさであろう。この間、マスコミは将来に対する悲観的な記事を書いて結婚適齢期の男女の結婚を阻害し、更には子供を産むことに対する懸念も助長させた。尤も、マスコミ以上に政治家は政治資金を公的資金で賄える制度になり、更に小選挙区制度によって党に媚を売る連中だけが当選し、国民の声を聞くことのなくなった。過去を振り返ると政治家も官僚も大企業経営者も国家の大計を考える人がいなくなり、経済の停滞は革新的な事業をおこせないからだと一面的しか見えていない。今後は専制国家と民主国家との対立になり経済も当然に変わってくることになり、それと相俟って急激な技術革新による世界の変化により、金利に関しては別な視点から深く考える必要がある。

「朝鮮半島の歴史」を読んで

一番身近な国ながら意外と朝鮮半島の歴史を知らない人は多いと思われる。私も若い頃に日本と韓国の借款関係と企業間取引に対する情報誌の編集の仕事をしていたので多少なりとも知っていると思っていたが、「朝鮮半島の歴史」を読んで完全に思い違いをしていることが分かった。日本人の祖先は朝鮮半島からの帰化人によって技術など伝えられているのだが、同じ血を引いている種族が多いのに日本と比較すると朝鮮半島の種族達は統一した国が出来てからも常に党派の争いが絶えず混乱していたのには驚いた。地政学上に関して大陸と海を隔てた日本と違って大陸と地続きの朝鮮半島は漢民族や北方民族の影響を受けていたことに起因した争いもあることは確かだが、その理由だけでは考えられないほど争いが多いのは事実だ。日本の場合は台風、地震、火山など災害が多発する自然環境にある為に争いを続けられないとも思われる。確かに、朝鮮半島は日本と比較すると地震の影響が少なく、火山も少なく、台風もそれ程多くないので、人々が団結して危機を乗り越える状況は少ないと考えられる。尤も、漢民族からの影響が強く、常に支配下に置かれていたのは歴史的事実であり、独立した国家としての期間が短い。朝鮮半島の統一国家とする朝鮮王国でも漢民族の支配下にあった。現在は北朝鮮と韓国の二つの分断国家になっているが、完全独立していることから言えば長い歴史の中では貴重な事の様だ。韓国の人達が日本の植民地支配を民族の悲劇として日本や親日派を糾弾するが、長い歴史の上では漢民族の支配が長く、それに対する非難が起きないのが不思議だ。もっとも、歴史の歪曲もあり、若い世代の人達は漢民族の支配に関して知らないと指摘されている。伊藤博文を暗殺した安重根を英雄としているが、伊藤博文が韓国併合に関して日本帝国の経済負担から反対していた事実は全く韓国の人達に知らされていない。歴史に「If」はないが、伊藤博文の暗殺が無ければ韓国の併合がなかった可能性もあった。逆に、暗殺事件が国の統合の意見を持つ山形有朋の登場になったのは皮肉な事だ。韓国の併合なしに韓国に借款を提供して近代化を行い、真の独立国家とさせたならば日本と朝鮮半島の歴史は変わっていた。実に残念な事だ。今の台湾の様に日本に対して近代化に対する感謝の気持ちも韓国に生まれたと思われる。太平洋戦争後の米国は朝鮮半島の歴史を研究していた為に日本の支配下にあった朝鮮に対して直ぐの独立国家ではなく、10年間の信託統治後に独立させる計画であった様だ。朝鮮半島はバルカン半島の様に紛争の火種として地政学的にあることを認識されていたとも解される。何れにしても、日本に最も身近で血縁的にも同族である人達が多い朝鮮半島の民族とは東アジアの安定の為に手を結ぶことが必要と思われる。

ロシアのウクライナ侵略を見て東アジアの平和は日韓の核武装が必要なのは正論

韓国世宗研究所の鄭成長・韓半島戦略センター長が東京都内で行われた緊急時局講演会で「韓国の核兵器で北朝鮮をけん制し、日本が核兵器で中国をけん制すれば東アジアでどの国も他国への侵略を試みることが出来ないでしょう」と述べたことの記事を読んだ。鄭成長さんは私は誰よりも平和主義者で有る事にも言及したが、その時の聴衆者は驚いた様だ。しかし、ウクライナがロシアに侵略されたのは欧米の経済支援との引き換えで核兵器を手放したことであるのは自明な事だ。核大国の中国が経済不況にも拘わらず膨大な軍事費を計上し、北朝鮮も核兵器を保有し、米国が世界の警察の役割を後退させている現状を考えると、米国の核の傘の下での平和は期待できないのは事実だ。中国の台湾進攻、北朝鮮の韓国侵略、ロシアの北海道への侵略の危険性は非常に高まっている。中国が台湾に対する武力侵攻すれば、間違いなく北朝鮮は韓国を攻撃し、ロシアも北海道を侵略するのは眼に見えている。日本は太平洋戦争で核爆弾の被害者であり、加害者ではない。被害者が核に対して加害者の様な罪悪感を持つ必要はない。勿論、核兵器のない世界が理想だが、その理想実現にも核を保有してこそ廃棄を求めることが出来る。核兵器を持っていないのに放棄を求めても効果がない。ウクライナ問題は欧米が経済支援の約束を担保に核放棄をさせたので、欧米はウクライナを支援するのは当然だが、米国の共和党はその事実を考慮せずに支援を渋っている姿は明日の東アジアであることは自明だ。今こそ台湾、韓国、日本が共に核兵器を保有し、強権国家から自国民を守るべきだ。

TVの番組で法治国家でない様な発言

漫才家のMCが担当するサンデージャポンに出演した東大大学院准教授の斎藤幸平なる者が週刊新潮や週刊文春の芸能人に対する記事に対して警察に訴えても取り上げられない事件を週刊誌が取り上げて糾弾することは必要との発言をした。斎藤幸平は「人新世の資本論」を書いたマルクス主義を研究する学者の卵だ。昭和の時代には警察に告発しても取り上げない事件を暴力団に依頼して解決することが存在した。令和では暴力団に代わって週刊誌がその種の事件を解決する存在となった様だ。斎藤幸平はマルクス主義の多くの共産党国家が暴力装置で国民を支配していた事実を肯定する人物とも思われる。法治国家で有る限りは警察が取り上げない出来事を社会的に罰するのは違法と思われる。週刊文集などは事実関係を取材して書いたと主張するが、書くならば警察が事件化出来る証拠が必要と考える。そうでなければ、魔女狩りと同様になると思うのは私だけであろうか。確かに、社会では泣き寝入りしかない出来事があるのは事実だが、騙す騙される両方に欲がある為に起きる事件で有り、必要以上に欲がない者にとっては無縁の話だ。勿論、普通に生活していて何かを拒絶することで暴力などを受けるならば許しがたい事なので、警察が直ぐに取り上げてくれなくても執拗に追及して法律の適用を受ける事件とするべきと思われる。情報化時代の中にあって真実の意味が曖昧になってきたが、それだからこそ私的警察の様な行動を週刊誌が取るべきではない。もし、告発するならば刑事事件として警察が取り上げる証拠を用意すべきだ。多くの人に読まれた本を書いた人の発言は社会的に大きな影響がある。その様な人が法治国家でない様な裏家業の必殺仕掛人を肯定する発言は頂けない。刑事訴訟法で記載されている様な「疑わしきは罰せず」の考え方がが冤罪を防ぐ最後の砦だ。警察が取り上げないレベルの証拠で社会的に抹殺を図るのは強権国家の到来を招くだけだ。

建物の建て替え時期(老朽化)について

建物の老朽化には①税務的老朽化、②物理的老朽化、③社会的老朽化の3通りの考え方があります。①は償却費の計上に係わるものであり、②は建築物その物の寿命であり、③は科学の進歩等により機能的に時代に合わなくなったものです。過去の建物の老朽化による建て替えは殆どが①を理由によるものでしたが、過去30年は阪神淡路大地震と東日本大地震により行政の誘導もあり、旧耐震(1983年以前の建物)の建物を主として建て替えて来ています。しかし、ここ数年は旧耐震以上に③の機能的に時代と合わなくなったことによる大規模開発が推進されてきています。今から約40年前頃にインテリジェントビルの概念を有した建物の建築が計画され始めました。インテリジェントビルとはビルの運営管理にコンピュータ制御システムを取り入れたものです。この時代の建物はテナントに対するよりはビルのオーナーに対するシステムでした。インテリジェントは1年から2年間の推移で第一世代、第二世代、第三世代と進化して行きました。第三世代は電話機能のPBXをビル内に設置して運用管理システムを構築し、尚且つ電話システムの収益で管理費の一部の負担を軽減する仕組みでした。インテリジェントビルはwindowsの歴史とマッチングします。windows1.0が1985年リリースされ、windows3.1が1992年にリリース、そして社会に大きな影響をもたらしたwindows95が1995年にリリースされ、インターネット通信が社会に一般的となったwindows98が1998年にリリースされました。当社ではこの時期にインターネットサーバーを社内に設置し、大企業でも未だ余り普及していなかった社員一人にPC一台を与え、会社のメールアドレスの取得とホームページの開設を行いました。その後は共同開発後に運営管理を受託した管理組合のHPを作成し、地権者に対するサービスを開始し、更にネット上でテナントに対するお知らせやビルに係る届け出等を行えるシステムを構築しました。このシステム開発は2000年前後でしたので先駆的な事でした。海の向こうの米国ではITベンチャー企業が勃興し、色々なシステム開発の最盛時期でもあります。当社が先駆的に取り組めたには偶然が二つ重なった為でした。一つはリース会社に勤務する友人からリース契約流れのPCがあるので使わないかと言う相談でした。もう一つは学生時代の友人が商社の電子機器の部門に勤務していて虎ノ門で酒を飲んだ時に米国製の安いインターネットサーバーがあることを聞いたことでした。後年、リース会社に勤務していた友人の家族と海外旅行をした時に友人が自分の子供たちに彼は日本のスチーブジョブスと言って持ち上げてくれました。話は大分脇にそれましたが、現在のビルの再開発は社会的老朽化によるものですので、未だ十分に使える築30年前後でもどんどん壊しています。勿論、全てのテナントが最先端の機能を有する高い賃料の建物に入れるわけでもなく、築古小型ビルは依然として税務的老朽性や物理的老朽化、更には旧耐震を理由に建て替えを計画するものと推定されます。なお、社会的老朽化には環境に対する地球温暖化に関するものも含まれますので、大企業に関しては社会的老朽化による建て替えのビルに入ることは必要になると思われます。

  • entry790ツイート
  • Google+