天人「深代惇郎と新聞の時代」を読んで

朝日新聞の"天声人語"の執筆者として知られた方だが、私の家では読売新聞を購読していたので受験で上京するまで読んだことがなかった。高田馬場の下宿で同郷の下宿人と親しくなって受験生にとっては"天声人語"が必須であることを教わり、田舎で育った故の情報不足に愕然とした苦い思い出がある。最近、言葉や言語に興味を持ち、様々な切り口の本を読んでいるのだが、その関連本を渉猟している中で標題の本にであった。天声人語を書く編集者は名文家が多い中で、深代に関しては天人の呼称で呼ぶに相応しい執筆内容であったとのことだ。近年、デジタル時代になり理数科の分野に注力する時代になり、リベラルアーツは否定される声が聞かれるが、深代の天声人語は深い教養に裏打ちされた正にリベラルアーツが源泉となっている様だ。深代が書いた天声人語はその深み故に如何なる世代も同様に理解されるものではないと解されているが、そもそも言葉で書かれた全ての出版物は理解するのは同等の教養と年齢の経過が必要と思われる。太平洋戦争後80年になり、戦争の経験者が減少しているので殊更戦前戦中に育った人達の言葉を理解するのは難しくなっていると思われる。深代は海軍兵学校に入学し短期間とは言え軍人としての教育を受けている。また、戦後に入学して旧制高等学校の経験も有している。更に、朝日新聞に入り語学留学で英国で生活した他海外特派員時代も長い。国内外の多くの経験で培った人脈や情報も天人を形成する上で大きな財産であったと思われる。天声人語の様な限られた文字数で表現する編集物に関しては書き過ぎる懸念より書き足りなさの方が強いと思われるので、正に命を込めて書くと言った表現が正しいかもしれない。馬齢を重ねて考えるのは人の生命の長短は誰しもが何らかの意味を持ってこの世に出て来るのでありその目的を終えると寿命が尽きると言えそうだが、余りにも短い生命の終わりもあるので簡単に結論付けられない。しかし、深代の場合には余白を残して若くして旅ったので、誰しもが長く記憶に留める存在になったことは確かだ。天人の呼称も同様だろう。私にとっては天声人語は若い時の悔いと同義語になっている。

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