安倍ノミクスに対する幻想と今後

安倍ノミクスに対する評論は様々だが多くは未だ結果が出ていないという事だ。しかし、私は一般的な評価と異なり成功していると思ってる。理由は大企業が高利益を上げ、地銀は合併を進め始めた。勿論、安倍ノミクスはデフレからインフレに移行し、経済成長に向かわしめることを唱えているので、その点から結果が出ていないと言われているだけだ。日本と同じ経済先進国がグローバル経済の中で苦闘している中で簡単に日本だけがデフレから抜け出して適度なインフレを起こし、経済成長など出来ると考えるのは幻想だ。

消費増税の先送りの選挙など初めから想定していたものと考えられる。安倍ノミクスなど幻想に過ぎないことは、円安ひとつとっても自明だ。過去や歴史を知らない若い世代が今度の円安を歴史的な円安と言った表現をしているが、1ドル360円から今日の円高を見ている世代にとっては馬鹿ではないかと思ってしまう。今から20年前の事だが、円高から円安になり、1ドル145円前後になった時に多くのマスメディアがこれ以上円安が続くと日本経済が吹っ飛ぶ様な見方をとった。しかし、誰もが分かっている様にその様な結果には到らなかった。

さて、安倍ノミクスの正体はと言うと、大企業支援と福祉切り捨てである。女性の活用と言いながら保育所建設などの資金2500億円をねん出できずに欠陥品の軍用ヘリコプターであるオスプレイ導入1800億円ひとつ見ても国民向けの顔と実態は違うのである。今後は国の借金を理由に年金、医療など国民にとって重要な予算が削られることである。然も、それらを守る為と言って増税を断行してである。何処の国にも生活必需品に消費税を課しているくにはないのにマスメディアも余り言及しない。何故なら、メディアは軽減税率で懐柔されているからである。政治家やマスメディアは国民の事など念頭にない。この事実だけは明瞭だ。

それでは安倍ノミクスにおける今後を考えると、消費税税増税、相続税の強化、年金・医療切捨てと格差社会による犯罪の増大など国民にとっては好ましくない未来だ。勿論、表面的にはロボット技術や多くの新技術の実用化でバラ色の未来が待っているかのような幻想を持たせながらその恩恵は一部の人達に集中することになると推測できる。この為、余計な税金は支払わない取り組みで自己防衛が必要になる。国に金を持たせると無駄使いするだけだ。政治家や官僚などは人の金を自分お金の様に使う人種だ。しかも、その金は知恵がないからどぶに捨てる様なものだ。国の借金を削減するには国有地や米国債などの資産を売却することだ。増税ではない。増税を唱える政党には投票しないことが重要だ。

高知市内の家庭料理"京や"のおもてなし

11月初旬の三連休には広島に法事で行く予定があり、折角交通費を使って遠出するので有効にお金を使う事を考え、今まで行った事がない場所として高知県を選択した。何故、高知県かは二つ理由があった。一つは、瀬戸内海大橋を鉄道で渡ることであった。二つには、高知県はビジネス的にも行く機会がありそうもないことであった。しかし、高知県の小旅行を計画して困ったのは一泊目は岡山から高知に行く鉄道利用なので時間的に高知市内ですぐ決まったが、問題は以外と横長なので、足摺岬方面か、室戸岬方面の何れかに決める必要があったことだ。

熟慮の末に室戸岬方面に決めたが、室戸岬地域には宿泊したいホテルが1軒あったが、予約出来ずキャンセル待ちなのが痛かった。兎に角、旅程を決めないと移動関係の予約も出来なくなって仕舞うので、一泊目のホテルを高知市内の高知城近くの三翠園に決め、新幹線、在来鉄道、そして帰京の航空チケットを予約した。交通とホテル以外は何も決めずの小旅行だったが、初日の高知市には夜の9時到着であり、それを憂慮した義兄が高知市に行くときに良く使う家庭料理の「京や」に急遽予約入れてくれた。義兄からホテルに付いたら直ぐに行くように指図を受けたので、到着後慌ただしく"京や"飛び込んだ。

お店はカウンター席が5席、他にテーブル席ひとつの小さなものだった。切り盛りしているのは年配の女将さん一人であった。予約を伝えると義兄の事は良く知っているらしく、何か月か前に義母を連れて店に来ていたことを知った。難しい女将さんと聞いてたが、実際は笑顔が素敵な聡明な女性だった。お任せ料理で最初から日本酒を注文した。出されたおすすめの酒は辛口の美味しい酒だった。高知は西の方は甘口で、東の方が辛口の酒であることを教わった。高知が初めて来たことを告げ、若い時に勤務した会社の先輩が高知県出身で、卒業した高校が高知県立高知追手前高校といったら、偶然に女将さんとご子息が同窓であった。女将さんの話ではお店は今年で50周年を迎えるとの事で、高知出身の漫画家が常連との事で、はらたいらの色紙などが飾ってあった。義兄から紹介された店だが、高知市内では有名な店らしく、多くの著名人が女将さんを慕って来店するらしいことが分かった。

元の職場の先輩が同窓なのが分かった女将さんは特に親切に料理を出しながら色々な面白い話を聞かせてくれた。御年はお店の長さから言っても80歳前後と推定されたが、元気で頭の回転が良いのには驚いた。先客の若い方と高知について話していた時に、元NHKアナウンサーの松平定知さん一行が入ってきた。一行は常連らしく、一挙に賑やかになった。一行はお店が開いていたのを喜んでいたが、その理由は私が遅く予約したためと分かると、松平さんの同伴者が高知県観光特使の松平さんの名刺を差出し、この名刺を見せると県内の主要な観光施設が1回5人まで無料になると教えてくれた。義兄の予約が正に幸運をもたらした瞬間だった。

しかし、直ぐに疑問が湧いた。何故、高松藩の領主の末裔の松平さんが高知県の観光特使なのかと。それを質問すると、松平さんは入社後高知県に転勤し5年間を過ごしたことと、それ以外には本社勤務であったことを聞いて納得した。松平さんにとって高知県は良い思い出の地だったことを理解した。

又、酒の勢いで名刺を頂いた方に皿鉢料理について聞いたところ、女性が酒以外の用事がない様に工夫されたもであったことが分かった。正に、男女平等のお国柄が高知県そのものであった。南国特有のおおらかさが根付いた文化なのと思われ、私の故郷の茨城県とは大分違う事と思われた。勿論、女性の強さは同じだが、表面的には男尊女卑の考え方が根強い茨城と比べると雲泥の差がある。

松平さん一行が帰ったので、私たちも帰ろうとしたら女将さんが観光タクシーを頼んだ方が良いと教えてくれて予約まで請け負ってくれた。翌日に手配のタクシーが定刻に到着し、先ず桂浜に行くことにしたのだが、運転手さんの話だと私たちが室戸岬方面に行くので、市内観光を終える15時頃に室戸方面のバスの時刻を調べて伝えてくれることまで手配していたことが分かった。"京や"さんおおもてなしは年季が入っており、さり気無い気配りには感謝であった。首都圏の高速道路網に囲まれた生活をしていると距離感が失われることが今回の旅行で痛感した。室戸岬まで市内から60~70kmと高を括っていたが、高速道路がないので一般道路の走行に時間が掛ることを失念していた。市内の観光案内の時に運転手さんに勧められてバスでなく、そのままタクシーを延長して移動したのだが、提案を受けいていなければ重い荷物でバスを乗り換える必要があり、2日目のホテル到着は予想以上に遅くなったと思われた。幸運の連鎖が起きて翌日は予想以外に快晴になり日の出も見られた。京やさんのおもてなしから頂いた幸運の連鎖を噛みしめた小旅行であった。

帰京後に件の先輩に高知県を観光したメールを送ったら、「日本最僻地、日本経済の足を引っ張り、工業生産額全国最低の高知県を訪れて頂き感謝申し上げます。今頃は、天気さえ良ければ小春日和ではなかったでしょうか。暑いくらいでしたか?まあ、のんびりした県が一つくらいあっても良いかな、と思っておりますが。」とメールが返ってきた。成る程、先輩は高知県の人だなと改めて感じた。

経済が良くならないワケ

世界中の先進国では経済成長率による国家経営を考えているが、多くは計画通りに行かずに政権交代の繰り返しである。何処の国でも新たな政権が発足すると、景気刺激策を打ち出し、経済成長による国民の所得向上を約束する。この為に、政権は学者・経済評論家以外に企業経営者をブレーンやアドバイザーに就任させて経済対策を模索する。確かに、何十年か前は成功したモデルではあるが、昨今は成功していない。マスメディアや経済対策に参加した企業経営者は一様に役所の既得権の壁が厚く、更なる規制緩和をしなければ経済を成長させることは難しいと喧伝する。その議論は一面的に見ると正しいので、国民の多くが既得権と言う利権に対し憤りを持つことになる。

この様に書くとお前は既得権を擁護するのかと反論が出ると思うが、グローバル経済になった現在において企業経営者を政府の経済対策のアドバイザーに相応しいのかと言う議論がなされていないのに憂慮するからである。その理由としては、政治はローカルなのはご存知の通りだが、大企業はグロール経済では正にグローバルなのである。上場企業は多くの国の投資家や会社を株主としており、然も株主に対する高い配当を実現するために効率経営や資本回転率が求められれているので、ローカルな政治など考えていないのである。その様な企業経営者に経済対策のアドバイスを受ければ企業にとってはプラスになるが、国家と国民にとっては必ずしも良い結果を生むとは限らない点を理解していないことだ。

ひとつの実例としては、非正規雇用者の増加の問題だ。輸出企業は為替変動による需給バランスと国内に工場を残すためには、非正規労働者が必要と政府に求めたのである。しかし、輸出企業は過去の様に多額の内部留保金が生じても正規雇用を拡大する訳でもなく、国内に投資する訳でもなくなっている。多くの企業経営者は、国内に魅力的な投資案件がないからだと言ってるが、グローバル経済となり開かれた市場では人件費や物価が安い所に移動するので、人件費や生活の維持に費用が掛る日本では、投資する場所ではなくなっている事実だ。特に、グローバル経済となり世界共通語として英語が一般的になっている現代では、日本は不利な経済環境にある。安倍政権は法人税を引き下げて海外企業の進出や企業の投資拡大を期待しているが、グローバル経済では税収不足に追い打ちを掛ける愚策だ。企業経営者やグローバル経済を評価する学者や評論家の意見を聞いていたのでは経済政策は上手くゆくわけがない。今や政府と企業は利益相反の関係になってきている。勿論、国家は国民を雇用し、税金を支払ってくれる企業の存在なくして成立しないのは事実なので、企業を無視しろと言うことではない。グローバル経済では企業経営者は過去の様に国家感を持った経営者などいないと言う現実を見る必要があると言たいのである。正に、非正規雇用者などは企業にとっては利益を生み出す存在だが、国家を考えたら結婚も出来ない低所得者層を大量に生み出し、高齢化社会と相まって衰退させる原因になっているからだ。

この為、新しい時代における国の在り方を考えると、今の規模の国家が必要かに突き当たる。スコットランドが英国から独立する住民投票が行われるのもその流れである。明治維新が起きた理由はひとつである。藩単位では外国の侵略者に対抗できないと分かったので、日本と言う国家が必要になったのである。しかし、グローバル経済になり、EUの出現は国家単独の防衛ではなく集団自衛権に向かう事になり、国家の大きさは必要なくなってきた。国防の観点から国力が問われた時代と現代は大きく様変わりしている。逆に、国防の為に犠牲を強いられてきた地域格差の問題が集団自衛権に移行する過程でクローズアップされる可能性が出てきた。情報化の時代には世界が狭くなり、大きな国家の存在は邪魔になってきた。特に、日本の様な細長い国は国防の観点がなくなれば、国家でいる必要がなくなるのである。尤も、現在は中国や韓国が国家を維持する為に国民を反日に煽っているが、日本もお蔭で国が壊れないでいるだ。日本経済を良くするには、再度、国家のあり方を変えが得る必要があり、それには企業経営者のアドバイスは不要だし害になる。中央官庁は東京都や大阪府を直轄とし、地方の県は自治権を拡大し、江戸時代の藩に近い独立した存在が機能的には情報化には相応しいと考えられる。

 

設計施工発注方式の問題点

建築会社に設計施工で発注することが主流になった理由には幾つかあるが、大きく流れが変わったのは1998年(平成10年)の建築基準法改正からと思われる。この時の改正で建築審査の民間委託が決められ、確認申請時の資料が簡素化された。この改正は建築審査のスピード化で景気回復を狙ったものと思われるが、拙速極まりない民営化であった為に構造偽造事件が起きて建築に対する不信感を招くことになった。事件が起きた背景は一般には容易に理解できない事であったので、事件以降は小規模な設計事務所にとっては非常に不利な結果となった。然も、この事件が設計施工の発注を増加させたと思われてならない。

この様に書くと設計施工の発注で何が悪いと反論が出ると思うが、例えて言えば設計施工とは、"泥棒に鍵を渡して家を守らせる"と同じであるからだ。勿論、発注者側に建築の専門家がいて施工監理できる体制があれば設計施工でも問題はない。問題なのは、工事を監理するのは設計をした設計会社であるが、設計施工は造る側とチェックする側が同一なので、現実的にはチェック機能が働くなるリスクが内在していることだ。スーパーゼネコンなどは、施工の品質を守る為に社内検査を実施しているのだが、工事進行中のチェックは行っているケースは少ないので、設計施工を分離する程厳格ではない。

最近の事例では、一つは工期の遅れに対してチェック機能が働かずに青田売りの契約で買主からペナルティが課せられた問題だ。勿論、発注者の体制にも欠点があることは確かなので、余計に発注者側では設計と施工を分離することが重要となる。もう一つは設計会社を選んでおきながら設計施工で発注し、わざわざ建築会社の下に入れた事例だ。小規模設計事務所の悲哀だが、耐震偽造事件の影響で設計事務所がミスを犯した場合の責任能力が問われたケースと言える。私から言えば、構造偽造事件は意図的な犯罪であり、設計ミスではない。PCが普及する前の手計算時代なら兎も角、現在のPC普及の時代には計算ミスは考えられない。過去には小規模の設計事務所では構造計算を大手の構造設計事務所に依頼するなど建物規模によって発注者の信頼を得る方法を採用していた。しかし、現在は先ずはコストありきなので、大手構造設計事務所に外注することが厳しくなっているのも確かだ。設計施工の発注も始まりはと言えば、建築工事費を安く抑える為なので、今では大手デベロッパーも設計施工の発注が多い。

設計施工費が安くなるのは設計計画の費用が工事費の中に含まれている為に安くなるのであり、建築会社の殆どは設計を外注にしているのが実情だ。この為、本来ならば設計など工事費と比較して金額的にはプロジェクト経費の中では小さいので、もう少し設計費に予算を付けて設計会社に工事費の積算を行わせた方が工事費が安く付くと思われる。建築確認申請の民営化で建築確認資料が簡素化された時には必要最低限を設計事務所に委託し、その後は建築会社に設計の不足部分を遣らせる変則的な設計施工が見受けられた。日本人は右倣え国民なので、直ぐに業界全体の方式となった。愚かな選択と言えよう。逆に、今では構造偽造事件が起きたので、設計の資格の強化や建築確認資料の必要以上の提出が2004年(平成18年)から始まったので、設計事務所にとっては費用が増すことになり、設計施工の発注方式に費用的に対抗できなくなった。改悪の典型的な事例だ。

建築業界は手書き設計からCADに移り、今では立体化設計のBIMに移行してきている。設計施工現場では別な次元での間違いが発せいし、完成まじかのマンションの解体なども起きている。その他にも、大手デベロッパーが分譲したマンションでも工事上の欠陥が見つかり、購入者とデベロッパーと建築業者との間で裁判事件まで起きている。信頼関係がなくなった現代において何が必要かが問われる時代にあっては、再度原点に戻り、足元を見直すことが重要と考えられる。30年前には考えられない技術により考え方が変わってきたが、それと比例して物づくりの現場やメンテナンス現場は多くのリスクを抱えているかのように見える。データー主義が効率とコスト削減をもたらしたが、データ解析が万能薬ではないことに気付くべきだ。特に、物づくりの現場では、多くの視点に曝してこそミスが防げる。

ユーハイム主催の「ゲーテの詩の朗読コンテスト」が33回で閉幕

33年の長きにわたり開催されて来た㈱ユーハイムの"ゲーテの詩の朗読コンテスト"が今年で閉幕することになった。閉幕の理由は27年間コンテストに使用してきた千駄ヶ谷の津田塾ホールが建て替えられることになったからとのことであった。1982年に始まったコンテストは第7回から津田塾ホールを利用することになったが、1階にはユーハイムのレストランもあり、コンテストの開催には便利であったのだろう。時間軸が早くなった現在で企業の文化貢献としては異例の長さであった。

私自身のコンテストとの出合いは、不確かな記憶では、ユーハイムの河本社長ご夫妻とゴルフを通して親しくなり、コンテストの一般審査員としてチケットが送られ来るようになった第13回か14回目であったと思われる。その後は毎年チケットを頂き、用事がない限りは夫婦で参加してきた。河本さんとは家が近いこともあり、時々路上や電車のホームなどでお会いする。今回の大会前にも偶然お会いして閉幕を事前にお聞きした。確か、閉幕は来年の予定だったが、津田塾ホール側の都合で今年の第33回で閉幕を余儀なくされた様だ。企業の文化活動としては、経済バブル崩壊のデフレ不況も乗り切り、永久に開催すると宣言していただけに今回の閉幕は突然の出来事だった。

若しかしたら、開幕からコンテスト委員長として協力してきた名物の宮下慶応義塾大学名誉教授が2年前に亡くなくなったことも影響があるかもしれないと考える。本当に故宮下名誉教授のコンテスト参加者に対する洒脱な評論はコンテストが長く続いた理由の一つとも思われる。私も早すぎる逝去を惜しんだ一人である。

河本社長は東京教育大学(現筑波大学)のご出身で、聞いたところでは若い時には企業家ではなく学者を目指していたそうだ。それを一転してご尊父が経営していたユーハイムに入社したとのことだが、経理部に配属されれば税理士の資格を取得し、お菓子作りとしてはドイツに留学してマイスターの資格を取得するなど経営者として実践的で質が高い人物である。何かの雑談の時に社員教育には、ルソーの"エミール"と言う教育論を利用していると聞き、一読することを勧められた記憶がある。また、ゲーテの詩の朗読コンテストの司会は入社2年目の社員を使うなどコンテストを社員教育にも活用していたのは参考になった。

河本社長を判断する限り、ゲーテの詩の朗読コンテストは形を変えて復活するのではないかと思われて仕方がない。私としては、美味しいユーハイムのバウムクーヘンを食したり、贈答品として使ったり位しか応援が出来ないのだが、今後も復活を願って手作りバウムクーヘンを使い続ける心算である。

絵に描いた餅の経済政策

石破自民党幹事長が来年9月の総裁選を睨んで下野するニュースが流れているが、消費税アップ後の消費落ち込みやアナウンス効果による人件費や資材高騰でが裏目に出て企業倒産が増加してきている現況を捉えて勝機があると読んでの事だろう。確かに、安倍政権は金融政策以外に効果は出ていなく、次の一手も即効性のある施策は少なく、経済の政策に疑問が出てきた。実際に、人件費の高騰と人手不足、それに追い打ちを掛ける資材費の上昇で住宅関連の企業の倒産も目立ってきた。人件費アップは安倍政権の政策の一つだが、当初から懸念されていた様に、経済が動いている認識が少なく、机上の理論で決めたことが企業に負担を強いている。インフレを起こすことが日本経済再生の道かもしれないが、同時に勤労者の収入が増えないと消費が下がるのは自明の理だ。円安は輸出企業に恩恵をもたらすと言う一点で円安を決めているが、グローバル企業となった日本企業に昔の様な円安効果は生まれない。逆に、エネルギーや農産物の多くを輸入に頼っている現在では、円安政策は両刃の剣だ。況してや、部品を海外の工場で生産している現状では完成品が必ずしも安くはならない。東日本大地震の復興に関しても進んでいない無能な国家組織には、複雑化した経済などに有効な手が打たれるわけがない。東京オリンピック誘致で喜んでいるが、最初から絶対的な労働力が足りないことを考えない部分最適な思考の官僚組織には国難を乗り切る力はない。

然し、小選挙区制にしたツケが回ってきたと思われて仕方がない。官僚組織は結果責任を取らない無責任組織ゆえに政治の働きが重要なのであった。中選挙区制度の時には、選挙民に媚を売らない政治家がいたが、小選挙区制度に変わった途端に天下国家を考える国会議員はいなくなった。選挙に落ちることを心配するだけの政治家は官僚の頭脳に頼り切っているが、優秀な日本官僚は死語に近い位に絵に描いた餅ばかりの経済政策の連発だ。それ以上に酷いのがマスコミだ。思考する頭がないくらいに大衆に迎合し、国民を間違った方向に導こうとしている。

単なる批判だけしても意味がないので、何が今の日本経済に必要かを考えてみると、国民の安心感だ。安倍経済が成功しないと思われる最大の理由は、社会医療の不足に使うと言って消費税を値上げしたにもかかわらず、簡単に反故していることがひとつだ。20年前に日本経済が失速した以降、バブル経済の責任は企業と個人に課せられ、官僚や政治家は何らの責任を取らなかった。然も、その後は不良債権の処理の過程で不条理な社会が出現し、約束を平気で破る連中が勝ち組と称して跳梁跋扈した。国家や企業に対する不信が消費の停滞を招き、国民を自己防衛に走らせている現実を考えないと日本再生など出来るわけがない。扶養手当を減らさないと主婦が必要以上に働かないと言った考えを持つ官僚や政治家がいる安倍内閣の周りにはいる様なので、それだけでも既にダメだ。しかも、共稼ぎは必要だと言いながら保育士の増加に消極的な官僚がいるなど政治の機能が働いていない。一事が万時なのが、安倍政権の経済政策が。日本再生の切り札にカジノ誘致と言った時点で利権しか匂いわない。IRを標榜した観光立国には別にカジノがなくても良いのである。家族旅行にカジノは不要だ。日本の観光に必要なのは、土日祝日に偏った観光客の分散と地域に適ったコストの考え方だ。中央基準のコストの考え方を改めない限り地方再生は出来ない。

なお、地方再生にコンパクトシティなど打ち出しているが、机上の理論で作った街づくりでは成功しない。赤字国債の解消が必要な時にコンパクトシティで新たなインフレを造るなど愚の骨頂だ。一事が万事であり、過去の手法を変えなければ何も変わらないのだが、これ規制緩和の問題とは別次元の話だ。

グローバルピッグファーム㈱を訪問して

会社案内の表紙に「いつも"日本一の豚肉"をめざして」を掲げているグローバルピッグファーム株式会社を訪問した。本社は群馬県渋川市北橘町上箱田800に所在し、立地的には赤城山の麓の山林の中にあり、羨ましい程の環境の良い所にあった。

訪問の理由は、伊香保カントリー倶楽部で弊社が主催するゴルフコンペに対して同社が協賛会社に応じてくれたからである。訪問前から伊香保CCの田中社長は車の中で美味しい豚肉を絶賛していたが、私は車外の風景を見ながら聞き流していた。協賛してくれた会社に対して失礼と思われるかもしれないが、会社自体ではなく、同社がクラブ側の主催するオープンコンペのスポンサーなのを知っていたので、田中社長の得意の宣伝と穿った見方をしたからである。

しかし、会社の立地や敷地内に併設したショップを見てゆくうちに、会社の特異性を感じる様になった。この様に書くと、お前も田中社長と同じかと言われそうだが、その後本社家屋に入り、取締役副社長の樋田さんから会社について説明を受けて独特の経営哲学を持った企業なのが分かった。会社設立が昭和58年(1983年)であり、この社歴で無借金経営と聞いて驚いた。私も経営者の端くれであり、無借金経営は何代もに渡って経営が上手くいった会社にだけもたらされる恩典と理解していたからである。ちなみに、私事で恐縮だが、昭和58年は私が結婚して所帯を持った年である。その年に生まれた会社という事で親近感が増した。

樋田さんから提携している養豚農家の後継者を会社に預かって研修させるシステムや新卒獣医も現場で何年も働いた後に初めて評価されるシステムなど参考になった。同社の社員は一定の資格を持った専門家集団であり、一人前の専門家になって初めて評価されるシステムは正に品質を重視する会社と思われた。樋田さんの話を聞いているうちに私の頭の中にデジャビの様に浮かんだことがあった。それは未だ30才前後の頃に取引先の金融機関の子会社のコンサルタント会社の会員になった時の研修会でのことであった。新潟から参加した養鶏場経営の2代目の方が父親から言われた話であった。2代目の彼は養鶏場の将来を勉強するために東京に頻繁と出かけて経営セミナーに出ていた時に、父親から"鶏の事は鶏に聞け"と言うわれ、その後漸くその意味が分かったとの事だった。

昨今は情報化が進み、データ分析手法などが重視され、現場軽視の風潮があるが、現場を知らない経営者や社員は役に立たない。情報とは経験知と相まって初めて有意義なものが生まれるのである。久し振りに、本物の会社を見た思いであった。帰りに、ショップでしゃぶしゃぶ用のもちぶたなどを購入したが、協賛用の商品まで頂いているのに社員割引にしていただき恐縮してしまった。

田中社長から購入を大分勧められたのだが、ワイフがあまり肉を食べないので困った事は確かであった。しかし、会社で聞いた事を実際確認するには商品を賞味することなので、何種類かを購入したのである。早速、帰宅した翌日に豚しゃぶにして食べたのだが、肉を余り食べないワイフまで絶賛するほど美味しかった。肉の事など余りわからない彼女が、今まで食べていた豚肉はもう食べられないと言い出す始末だ。確かに、本当に掛け値なしで美味しかった。ゴルフコンペの協賛会社だから称賛するのではなく、立派な経営哲学を持った会社が地方に存在したことに驚き、更に言葉に違わぬ品質の良い豚肉を提供している姿勢に学ぶべき点が多いからである。この様な会社に勤務する社員は幸せであり、翻って経営者の責任の重さを痛感した次第だ。

ハンナ・アーレントが必要な時代

NCM_0255.JPGハンナ・アーレント生誕100年だそうだが、彼女ほど人間が思考しなくなる危険性を説いた人はいない。ユダヤ人として生まれ、第二次世界大戦時はフランスで収容所に入れられた経験を持っている。また、哲学を専攻し、師と仰いだ哲学者のハイディガーは、戦時中にナチスに対し共鳴するなど複雑な人生を歩んでいる。ハンナを有名にしたのは"全体主義の起源"の著作であるが、最も人口に膾炙したのはイスラエルで行われたナチスの親衛隊であったアドルフ・アイヒマン裁判を取材して書いた「イェルサレムのアイヒマン」である。この本ではアイヒマンの死刑判決に対しては当然との受け止め方であったが、多くのユダヤ人を収容所に送った張本人である裁判中のアイヒマンを見て愕然としてのである。悪の確信犯と呼べる男は、実際は結果など考えない命令を単に実行する忠実な役人であった事実に気が付かされた。この様な小市民的な男が大それた歴史に刻む大量殺人の当事者になったのかをハンナは考え続けた。一方、イスラエルの国に対しては、アイヒマン裁判をショーとして一個人の裁判でなく世界中に大量虐殺の悲劇を宣伝する事に対しても、亡くなったユダヤ人に対する冒涜と批判したために、イスラエルの国家からの反発と同胞のユダヤ人からも攻撃された。ハンナは同胞の悲劇を蔑にしたのではなく、人間が思考しなくなることの恐ろしさをアイヒマンから見せられ、大量虐殺が命令に忠実な多くの行政的な思考しない人間を介して行われた事実を喚起したかったからである。

現代社会においてもその危険性は内在しており、思考しない人間が増加すれば全体主義が出現し、悪が出現することになる。情報化社会だから過去と異なり、一人一人が多くの情報によって判断できると言われているが果たしてそうなのだろうか。逆に、情報量の過多が情報量の少なかった時代より多くの人の思考を奪っているのではないかと最近の社会の動向を見る限り思われてならない。一人の平凡な人間が歴史に残る大犯罪の片棒を担う姿は、IT社会になり、人々の判断が不確かな情報や偽造された情報の真偽が確認できなくなりつつある時代には、思考しない人達が増え、他者を攻撃する存在が顕著になり、正に政治と考えていることが少しも政治でないと言うことを理解しないと間違った方向に行ってしまう恐れがある。ハンナは大衆社会を批判し多様性を擁護しているが、IT社会のグローバル化による多様性の出現がハンナが期待したものであることを願うばかりだ。

オオカミ協会の会員になった

オオカミ協会会員証.pdf

知人から一般社団法人日本オオカミ協会への加入依頼があり快諾した。日本オオカミ協会とは絶滅した日本オオカミを研究する会かと思ったら、 想像と異なりオオカミ復活運動であった。会の趣旨は明治時代に絶滅させたオオカミの復活によって食物連鎖を修復し自然生態系を守ることだった。

弊社もゴルフ場のコース管理の業務を行っており、増えすぎたシカ、イノシシなどの被害で現場が対応に苦慮しているのでオオカミ復活には賛成の立場だ。しかし、増えすぎたシカやイノシシに責任はなく、生態系を壊す原因となった日本オオカミの絶滅は人間が関与しているのでその反省なくしてオオカミの復活はないとも考える。会員になって協会から送られてきたフォレスト・コールと言う会報(NO.19)の冒頭に足尾銅山の公害に対して一生を捧げた田中正造翁の「真の文明は   、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」の言葉が掲載されていた。明治以降の欧米を模倣した近代化が自然破壊を進め、日本オオカミなどを絶滅に追い込んだ。日本は地方が疲弊し人口の流失と減少に歯止めが掛らない。又、猟友会も少子高齢化社会の到来で若い人が少なく先細りの状況である。この為、増え続けるシカなどの被害に対してはますます対応が困難となってきている。

弊社も管理しているゴルフ場に関しては多くの鳥獣の被害に悩まされているが、シカやイノシシに関しては被害が大きい上に強力な対策が取れないので困っている。確かに、オオカミの復活には賛否両論があるのだろうが、現状を考えると復活後の懸念より、復活させた方が自然にとってはメリットがあると思われる。話は変わるが、故郷の実家の氏神様の守り本尊はオオカミだと曾祖母に聞いたことがある。その為か、私の実家と犬と相性が悪く、犬を飼っても事故(私が幼き頃に顔を飼い犬に噛まれた)が起きたり、短命(事故死など)で終わることが多かった。しかし、父が亡くなった後に母が飼ったハスキーは長生であった。ハスキーはオオカミと似ている面もあり、当家の氏神様も勘違いしたのかもしれない。(笑)

自然の均衡を壊したツケが回ってきているのかもしれないが、シカが増えすぎて森を破壊する現状を放置するのは昨今の天候不順に際して更に大きな被害をもたらす原因にもなる。同様にイノシシの増加も看過できないほどであり、従来はそれほど大きくないイノシシであるが、先日狩猟で獲れたイノシシは250kgもあり、大人4人で漸く車に乗せたとのことであった。それを聞いて、スタジオ・ジブリの"もののけ姫"の映画で森を守る精霊として大きなイノシシが描かれていたのを思い出した。

ゴルフ場のコース管理でイノシシ対策に悩まされていた時に知人から日本オオカミ協会の誘いを受けたのも何かの縁と思うが、実家の氏神様はオオカミであると曾祖母が言った事まで思い出した。ゴルフ場のコース管理をする上で鳥獣類と如何に共棲するか、又コース内の草木も自然の恵みとして感謝の気持ちを持って行きたいと思っている。自然の感謝には、管理棟に神棚を設置して祀っている。自然の神々に感謝である。

大企業出身の中小企業経営者を考える

中小企業の末席、と言うより零細企業の経営者の私が、過去だけでなく現在進行中もあるが、多くの経営者を見てきた中で大企業のサラリーマンとして長年勤務してきた方が中小企業の経営者や役員になった場合には、考えさせるられケースが多い。一流大学を出て大手企業に勤務したホワイトカラーの人達は、中小企業の経営者を馬鹿にする傾向が強く、特に従業員に関しては能力の低さを指摘して不満が多い。ここでホワイトカラーと言ったのには理由がある。同じ様なサラリーマン人生でも理工学部出身のブルーカラーは工場勤務などで現場経験が豊富な為か中小企業の実情に融け込めるのか、不満より前に現状の戦力で前に進む工夫をする傾向が強いと思われることだ。勿論、全てに当てはまる訳ではなく、飽く迄も私の経験の範囲と独善的な見方である。

零細企業の経営者は先ず人を大事に考える。大企業や有名企業の様な生活が安定する会社ではないから必要な人材の確保には年中苦労しているからである。翻って、大手企業出身者の人達は優秀な人材が揃っているのは当たり前の感覚であり、指示すれば従業員はそれなりの答えを出すのに慣れているので、期待に応えない従業員に対しては冷たくなる。ブルーカラーも同様だが、ホワイトカラーと違う点は、ブルーカラーの場合には工場を動かすのには最低限の人数が必要な事を知っているので、従業員が反感を持って辞めてしまう愚は犯さない。

尤も、ホワイトカラーでも労務を経験していたり、多くの部署を経験している者は組織を動かすには何が必要なのかを理解していると思われ、従業員に無茶な要求はしない様だ。何れにしても、大企業出身者が請われて中小企業経営者に就任すると、現場の状況を理解せずに机上で人事を考えてリストラを断行し、、目先の収益改善を目指す傾向が強い。これが何をもたらすかは一目瞭然だ。中小企業や赤字体質の会社の従業員は給与などの待遇に恵まれていないケースが多いので、不条理な経営者が現れたら簡単に会社を去ってしまうことだ。この事は何も従業員に限ったことではなく、取引先も同様だ。将来性があるなら我慢して取引先として残るが、将来性もないうえに、経費節減でコスとカットを強いられたら取引を止める選択をする。

兎に角滑稽なくらい判で押した様な結果が出ているのに、それを大企業出身の中小企業経営者は理解できないのを良く見る。大企業出身者が中小企業の経営を任されるのは、その企業が不振である場合が多い。その為に無駄な費用の削減は必要だが、長く不振である場合は遣れることは既にやっている場合が多い。この様な会社の経営を引き受けるには、経費節減より前にやる気を失っている従業員の士気を高め、業務を超えた協力関係を構築するのが先決だ。後先を間違えると一時的には成功したかの様に見えても先行きは失敗することになる。会社はやる気のある従業員がいなければ成り立たない。どの様な時代になっても本質は変わらない。勿論、人間に変わってロボットが登場すれば別だが、私が経営者の時代には考えなくても良いことだろう。

経営が厳しい会社を引き受けるには単身で乗り込んでも難しいと思われる。以前聞いた話だが、三井住友銀行の元頭取の西川さんが日本郵政会社で思う様に経営の改善が出来なかったのは、連れて行った部下が少なかったとのことだった。あれ位の規模の会社だと100人を引き連れて行かないと指示が行き渡らないとのことであった。この話は真実思われる。幾ら優秀な人でも中小企業の経営を任されたら信頼できる部下や知人が何人かは必要になる筈だ。上に立つ人物は頭が良いだけではないのである。上に立つ器量と言うものが必要なのである。特に、中小企業の経営者になるには、カリスマ的な要素が必要な場合もある。振り返ると、亡父が若い時に田舎で経営していた事業の従業員は亡父の事を親分と言っていた。親分が世間から評価されると子分の従業員も喜ぶと同時に誇りに思っていたのが分かった。私は二代目の経営者だが、先代の社長が作った社是には「会社の経営理念を家族主義を最良とする」が最初に書かれている。二代目の無能さゆえに理念を全うする力はないが、出来るだけ理念には近づきたいと思っている。"事業は人なりである" 幾ら能力の低い集団の零細企業でも皆が力を合わせれば能力以上の力を発揮できるのである。

最近の中小企業に請われた大手企業出身の経営者は自己利益だけしか考えない者が多くなり、経営のリスクも負わなく、ダメなら何時でも逃げ出すと従業員に思われているケースが目立つ。零細企業の経営者として従業員が、私をどの様に思っているのかその様な会社を見るにつけて気を引き締める。特に、新規事業所の開設で中途採用の従業員も多くなり、初心忘れずの必要性を考える。

集団的自衛権の本当の目的とは何か

安倍内閣が集団的自衛権の成立を憲法解釈を曲解してでも急ぐ理由は中国の台頭と国民は思わされている。確かに、民主党政権時代に起きた石原元東京都知事の尖閣諸島取得問題に始まった中国との領有権争いが偶発的に戦争を引き起こす可能性もあるとのことで、国民の多くは安倍政権が日米同盟の強化を目的とする集団的自衛権成立を図っていると単純に思い込んでいる。しかし、今回の集団的自衛権の成立を図る目的は単なる中国との領有権争いだけではないと見た方が正しいのではないかと思われる。一つには、憲法解釈を曲解するのに法制局長官を外務官僚から登用したことである。二つには、今回の集団的自衛権の成立には防衛官僚の姿は見えず外務官僚と経済官僚の動きが突出していると思われるからである。

結論から言えば、集団的自衛権はグローバル経済に必要な道具と言えるからである。何故なら、グローバル経済は旧ソ連が崩壊し、世界経済が情報化と相まって急速に繋がったことから起きた現象であるからである。それではグローバル経済が必要ととする最大の条件が平和と言えるからである。

1990年以降に米国で勃興したITの発展が将来を食う形で進み、実体経済との不整合により破たんした後に起きたのは9.11であり、その後米国はテロの総本山としてアフガニスタンに介入し、更に独裁国のイラクに対して戦争を仕掛けたのである。尤も、グローバル化以前は、旧ソ連の崩壊で東側の諸国が次々と資本主義国家となり、又独立していったが、その過程では宗教的民族的対立によって紛争が起きた為に、国連は欧米諸国を核として軍隊を派遣して鎮静化を図った。しかし、アフガニスタン、イラクは9.11と言うテロ事件を理由に米国が単独乃至は友好国の支援を得て起こした戦争である。これ以降は国連が決議して国際紛争を鎮静化するシステムが徐々に壊れていったと思われる。特に、リーマンショック後のリビアに対する民主化運動による独裁国の転覆は今日のグローバル経済の障害を取り除くと言うエポック的なものであった。民主化と言う言葉は資本主義経済とは違うのだが、何時のまにか民主主義イコール資本主義国家となり、更には新自由主義なる言葉も出てきた。正に、新自由主義がグローバル経済をけん引する言葉であり、此処に集団的自衛権が必要とされる理由である。

新自由主義とは、企業を中心とした考え方であり、逆に言えばグローバル化した経済が国家を超えた存在となり、国家は企業と自由な経済活動を守る為には軍隊を海外に展開する必要があるからである。安倍内閣は何故集団的自衛権の本当の意味を国民に伝えないのかと言うと、新自由主義者の企業中心の考え方は、格差社会の元凶であり、一部の企業や人達に富を偏在させるものだからだ。冷戦時代や情報化時代以前の日本経済は分かち合うシステムであったので、大企業を中心として中小企業がそれを支える構造であった。それが、グローバル経済では、大企業は国内の中小企業と利益を分かち合う関係は必要なくなり、大企業も国内に投資や従業員に利益を還元しないで内部留保金を蓄えるだけになった。この様な状況では、海外に展開する日本企業を守るために自衛隊を派遣するなどとは言えないからである。

集団的自衛権は隣国の中国の台頭を上手に利用したものであり、正に戦前の財閥企業中心とした社会の出現であり、軍隊が企業活動を守る為に海外侵略した図式と内容的には同じである。グローバル経済が民主化と言う美名のもとに企業の経済活動のエリアを拡大し、進出企業が現地で反対運動に遭遇するとテロ集団として自国の軍隊を派遣できるものになりつつある。当然に一カ国だけでは対処しきれないので、利益を享受する国同士が連携して反対勢力(全てテロになる)に対応することになるが、これが集団的自衛権の目的である。国内で分かち合う経済があり、格差社会で国民の大半を切り捨てなければ集団的自衛権も意味のあることであるかもしれないが、今後予測される様な格差社会の助長と大企業だけが繁栄する経済構造では国民の命を犠牲にする集団的自衛権など無意味である。有識者が指摘するように日本を守るだけなら現憲法でも十分であり、集団的自衛権など必要がないのである。

社員の訃報

社員の訃報を聞くほど辛いことはない。特に、会社に尽くしてくれた社員との別れは身内との別れと同じくらい悲しい。午前中に1本の電話が入った。闘病生活をしている社員の奥様からだった。受話器の向こうから、今朝、主人が亡くなりましたと告げられ、言葉も出なかった。家族も想定しなかった突然の別れとのことであった。又、奥様から生前のご主人の遺言で直葬を執り行うと告げられた。故人らしい遺言ではあるが、会社としてはお別れに際して見送れないのは寂しいものである。故人は私と同い年であった。一級建築士として長く設計事務所に勤務し、50才前に早期退職した。当社には建物管理の技術要員の募集に応じてきたのが縁であった。都内の準大手の設計事務所の設計部長職まで務めあげて多くの設計作品と現場監理の実績を持った方なのと、出身地が私の故郷の隣の栃木県であったのでその場で採用を決めた経緯がある。

振り返ると、故人の入社が建物のデューデリジェンス業務の本格的な進出となり、故人とは都内を始め仙台、名古屋、大阪などに所在するビル、マンション、商業施設などを見て回った記憶が昨日の様に思い出される。

故人は1年数か月前に病が見つかり会社の近くにある虎の門病院で大手術を行った。3ヶ月の休みで現場に復帰した時には心配したのだが、本人は病院の先生も働いてた方が回復しやすいとの見解なので大丈夫との事であった。一度現場に復帰すると従来と変わらない勤務振りなので何時しか心配することもなく日時が過ぎて行った。そして昨年末から今年に掛けて世田谷のマンションの防水工事関係の監理業務を行い、更に昨年末には港区青山に所在する小さなビルの建物診断の仕事が入ったので、故人に同行を依頼した。今思うと食事が余り取れずに痩せ細った身体を鞭打って会社の為に一生懸命働いてくれたのだった。企業戦士と言われた最後の世代が我々であった。今年2月に同僚の進言もあり、体力の回復の為に休養を勧めた。本人も同意し、体力の回復後に職場に復帰することとなり、半年後の復帰を目途にリハビリに入った。しかし、再度、2ヶ月前に虎の門病院に入院し、先週の金曜日に自宅近くのリハビリ施設に転院した矢先の逝去の知らせには言葉が出なかった。せめてもの救いは、役員室の女性に誘われて退院日に故人を見舞い実質的にお別れが出来たことであった。故人(藤田 中 氏)には生前の精勤に感謝し、本文を弔辞とする。合掌。

安倍政権の経済政策を支える新自由主義には国家観がない

標題の様に書くとグローバル経済なので当たり前と言われそうだが、新自由主義と言えば何か前進的な考え方と勘違いする者が多いのではないかと思われる。歴史を見ると、戦前の日本の財閥企業の経営者は正に新自由主義者の考え方と同じ発想であることが分かる。この為に、5.15事件を起こした軍人である三上卓の「昭和維新の歌」の一節に「財閥富に栄えども社稷を憂える心なし」の言葉がある。この言葉を現代風に置き換えると、「グローバル企業利益を増やせども国家を考える心なし」と言えるであろう。

安倍政権の経済政策を支える新自由主義者とは経済産業省の官僚などである。確かに、高度経済成長を推進した時代の頃は経済産業省の役割を評価できなくもないが、円高になって以降の経済産業省は多くのミスを犯し日本にとっては害になってきたと思われる。東日本大震災の原発事故の背景には、間違ったエネルギー政策と電気料金に関する部分最適の自由化があったことに気が付くべきだ。経済産業省の官僚は高度経済成長以降に海外のモデルがなくなり目先の政策立案で誤魔化していた。1985年のプラザ合意後の円高に対して従来の経済成長路線推進するエネルギー政策を変えることが出来ずに電力設備の過剰を生み出した。経済官僚は電力会社が政治家を使って過剰の電力立地を推進したと反論するが、全くの自己弁護に過ぎない。単に円高でこれ程までの企業の海外移転が行われることを予想できなかっただけだ。

経済産業省は同じ様な誤りを繰り返してきているにも拘らず、国家観を喪失した馬鹿の一つ覚えのグローバル経済を念仏のように唱えている。非正規雇用者を大量に生み出し、少子高齢化と逆方向の政策を推進している経済官僚やOBを見ると亡国の輩としか見えない。そう言えば、定年前に退官して民間企業に再就職した経済産業省のOBと偶然話をする機会があり、非正規雇用者の出現を憂いたら「アンタの様な社会主義者がいるから日本はダメになるんだ」と言われた。国家の豊かさとはなにか。消費は誰が作るのかを知らない経済官僚がいたのには驚いた。新自由主義とは少数の金持ちを作り、多くの低所得者層を作ることと今では理解しているが、その結果消費が落ち込み経済の回復がなされないどころか、結婚できない多くの者を生み出し、国家が衰退して行くことなのだが、正に「企業が栄えて国家を憂いない」新自由主義者が増えている様だ。安倍政権の周りに新自由主義を信奉する経済官僚がいる限り、日本の将来に期待は出来ない。国家観がないのに集団自衛権で国家を守れる訳がない。戦前の軍事国家であった時でも、敗戦直後に多くの将兵は国民を置き去りにして自分たちが先に逃げたのである。現代の日本社会の弱者切り捨て競争社会で戦争など出来る訳がないことが知らないのは安倍政権を取り巻く政治家連中だ。国民が繁栄してこそ国家があるのである。何が新自由主義だ。

法人税引き下げに経済効果があるのか

安倍ノミクスの政策の一つに法人税率引き下げがある。各国と比較して法人税が高いので日本企業の投資意欲や外資系企業が進出しないと言った議論から生まれた政策と思われる。確かに、20年前の政策なら効果があったかもしれないが、情報化技術の発達や企業活動の考え方が以前と大きく違ってきたことを考えると余り効果が生まれないのではないかと思われる。特に、国内企業に限れば、大手企業の内部留保が過去にない金額となっている。法人税を安くしても国内に投資魅力がない状況が続いている環境では意味がない。逆に、財政赤字が膨大なのに法人税引き下げが失敗に終われば、消費税増税による赤字財政削減も後退してしまう。少子高齢化社会の到来は30年以上前から指摘されてきたことだ。日本の農業と同様に何も抜本対策が打ち出せずに今日を迎え、労働力不足に周章狼狽している。日本企業や国民は保護されてきたので競争力や競争心がないとかの議論となり、インチキな規制緩和や安定した労働市場を壊したツケが来ている状況の中で、机上の空論を打ち出しても意味がない。非正規雇用制度は成人男女が結婚して子供を作ると言うシステムを壊したのである。同制度の悪影響は現状より、未来に大きな負債となるのは自明だ。経済を良くするのは無機な企業ではない。企業を運営する人である。人造りが国家の使命なのに、今の日本社会は人を殺す社会となっている。正に、ソニーと言う企業が見本を示している。人を大事にしない企業に未来はない。同時に、国家にも言えることだ。国民を大事にしない国は亡びる。国民が安心して生活できる国家が繁栄するのである。今の日本で国が考えなければならないのは、年収250万円で結婚が出来て子供の教育が図れる国づくりだ。安倍ノミクスは絶対的な労働力不足に対して既婚女性を職場に出させることを目論んでおり、NHKもその宣伝番組を流し続けているが、主婦を職場に出すマイナス効果は一切考慮していない。公務員は共働きが多いが、それは民間と比べて待遇が恵まれているからに他ならない。民間企業が公務員と同様なシステムを持ち込めるはずもなく、持ち込んだら会社経営が不安になる。しかし、共稼ぎ構想を提案して主婦の扶養控除の廃止を企んでいるのは恵まれている公務員たる官僚なので、ふざけるなと言いたい。

過去45年を振り返り、日本の農業をぶっ壊した政治家と農政官僚を考えると憤りを感じるが、教育にも国民の生活を圧迫する要因が起きているのには驚いた。今から40年以上前の大学の年間授業料と大卒の初任給(月額)と比較すると、記憶では国立大学の年間授業料が1.5万円位で、私立大学が同7万~13万円(理系が高かった)であった。しかし、現在で比較すると、国立大学の年間授業料は45万円、私立大学が同110万円~140万円である。此処で大学卒の初任給(月額)で比較すると、40年前は初任給は月額6.5万円~8.5万円(金融機関が高かった)で、現在の初任給は月額19万円~24万円と推定される。驚くべきことだが、教育費が何故ここまで高くなったのだろうかと疑問が湧いてくる。

何れにしても、国は日本の国民などを考えないで単に財政や机上の空論などで長年政策を進めてきたツケが今になって回ってきたと思わざるを得ない。一事が万事と言うからおそらくあらゆる面で同様な現象がおきているのもと推定される。日本の良さを欠いた経済成長など今更望むべくもなく、解決する緊急の課題は、国民に負荷を掛けない安心して住める社会作りである。禅問答の様に聞こえるかもしれないが、正にそれ程の難問を解かないと日本に未来はないという事だ。

NHKが放送したダーンシフターの世論誘導の意図

先日、NHK公共放送がダーンシフターした家族のインタビューや動向を放送した。この番組を見た米国在住の親戚からメールで好感した印象を伝えてきた。三井物産OBの碌でもない会長が就任したと思ったらこの番組かと露骨な世論誘導には呆れた。ダーンシフターとは、高収入より家族との時間を大事にするために、敢えて低い収入に落として家族との時間を楽しんだり、後継者が不足している伝統工芸の道に進むことを指しているが、一見すると納得する番組構成だ。

しかし、金融資本主義が導入され、効率一辺倒の社会では、勝ち組が少なく、最終的に勝者は居なくなる経済システムになり、40才過ぎて失職した場合は否応なしにダーンシフターの生活が待っている現実を考えると、NHKの放送した番組は安倍ノミクスで更に競争社会になり、格差社会が拡張する先を見込んだ世論誘導と考えても良いと思われる。日本は少子高齢化社会だから雇用はあると勘違いすると思われるが、現在の経済力に必要な雇用者は誰でも良い訳ではない。高度な技術などを有した能力のある若い人は高い倍率で求人されるが、そうでない人達には否応なしに家族との時間が多くなる社会が待っている。

この様な推測をすると、被害妄想だと思われるかもしれないが、少子高齢化社会になって現行の経済水準を維持することは至難の業なのに、ダーンシフターを歓迎する様な番組を公共放送のNHKが放送する訳がない。何故、今、ダーンシフターなのかは一目瞭然だ。安倍ノミクスの社会は40才からのリストラでなく、30才からのリストラもあり、若くても雇用がない可能性が高くなるからだ。NHKの番組で時代遅れの英語の必要性を強調した朝ドラ「花となんとか」を放送しているから可笑しいなと思っていたら、今度はダーンシフターだ。TPP締結後に起きる大量の失業者と低所得層の出現を考えて、今から国は準備を始めたのである。TPP締結で潤うのは一部の大企業であり、ドメステックな中小企業や農村漁村山村は大きなダメージを受けるのは間違いない。

国家と言う存在は歴史から見ても国民に対して本当の事は言わない。国家は嘘つきである。この嘘を見抜くには、公共放送のNHKの番組構成や他のマスメディアの動きである。昔から読書に関して内容の全てを肯定して読んだのでは害になると言われたものだが、マスメディアの情報も穿った見方をして丁度バランスが良いのである。集団自衛権や憲法改正の先にあるのは、A級戦犯の孫の安倍総理が描くのは破綻の道だ。

監視カメラで思う事

ビル内や繁華街などに監視カメラが設置されて防犯を強化しているのを見ると、当社が27年前に東京都港区虎ノ門1丁目に開発したビルのエレベータ内に監視カメラを設置し、その後にビル内のエントランスやビル内貫通通路に拡大した経緯を思い出す。当時は監視カメラをビル内の要所に設置して犯罪を予防したり、犯罪者を特定するなどの考え方は浸透していなかった。当社でも設置した動機はエレベータのカゴ内に悪戯書きをされたためであった。今では当たり前すぎて疑問も起きないが、当時は動いているエレベータ内に監視カメラを設置する発想はなく、技術的にも確立されていなかった。しかし、エレベータ内にどうしても設置したかったので、ビル管理システムを導入した三菱電機に依頼して実現したのであった。設置してからも映像の長時間保存などで問題があり、試行錯誤を繰り返したのを懐かしく思い出される。イノベーションと言う言葉が多く使われる時代だが、当時のイノベーションは現在の様な既存のコンセプトを発展させた拡大解釈とは違い発明に近かったので、エレベータに監視カメラを設置したことがビジネスになるなどとは考えもしなかった。この為に、当社のエレベータ内監視カメラ設置は画期的な事だったことに気付かなかった。今考えると大きなビジネスチャンスを失ったことになる。

現代は、情報化技術の発達でグローバル化が急速に拡大し、同時に格差社会を作り出した。この為に、社会不安や異常な行動をする人々が多くなり、建物以外にも繁華街や住宅街にも監視カメラが設置されるようになった。世界で最も多く監視カメラが設置されている都市はロンドンだ。アイルランドの独立派のテロ行為や労働者不足を植民地だった国々から移民を受け入れて対応した結果の移民による反社会活動で治安が乱れたので、治安維持のために膨大な監視カメラの設置となった。他の先進国も右倣えと言った状況になりつつある。当社が管理するビルの貫通通路内に設置した監視カメラが警察に追われて逃げる犯人の姿を偶然に捉えていたので、警察から情報の提供を求められて犯人逮捕に協力したこともある。多くのカメラを設置すれば、犯罪者を捉える網になることは確かだ。

確かに、監視カメラ設置は犯罪の予防や犯罪者の特定に威力を発揮しているのは事実である。海外で飲食店を運営している知人の話だと店内に遠隔操作カメラを設置して従業員を監視しているとのことであった。遠隔操作カメラにマイクを設置して現地の従業員に指図することが出来るので便利な時代になったことは確かだが、人を信用しないビジネスが今後も成功を重ねてゆくかどうかは分からない。何れにしても、当社が監視カメラを設置してから27年の歳月はビル内や周囲の監視カメラは管理システムと連動して徘徊している挙動不審の人物を見つけたり、顔認識で犯罪者を発見したりするまでに技術が進歩している。又、映像もリアルタイムで見られる時代にもなった。尤も、インチキ情報を流されても区別できない弊害も同時に存在する。

当社も15年位前になるがクライアントが名古屋にレジャーホテルを取得した際に遠隔監視カメラシステムを提案したことがあり開発を外注したことがある。外注した先の技術不足で計画はとん挫したが、今度は全く別な視点で遠隔操作可能な監視カメラシステムを開発し、新たな事業としてチャレンジすることを考えている。27年目の再挑戦だ。

規制緩和と規制強化の繰り返しで損を受けるのは善良な国民だ

過去20年の規制緩和の流れで多くの新規事業や企業が生まれたのは否定しないが、規制緩和の流れに最初に水を差したのは建築業界における耐震偽装事件だった。性善説の精神で貫かれた規制緩和は、実際にはモラルなき多くの経営者の出現を招き、利用者は危険と隣り合わせの状況に置かれた。金融の世界で自己責任という言葉が普遍化されてるが、全てが自己責任というなら行政など必要がない。私自身は小企業の経営者として行政の大企業優先を見ているので、規制緩和には賛成だが、役人のシナリオの規制緩和には別な本音が見え隠れ入しているので到底全面的には賛成できない。安倍内閣が発足してからは民主党政権のインチキ改革の失敗の反動で規制強化が目に余る。国土交通省などは500円タクシー料金に対して最低料金を下回っているので値上げ勧告をするとの事だが、このことは縦割り行政の典型的な間違った発想だ。安い料金だと乗務員の報酬の低下による質の低下を招き、事故などを誘発することを懸念しての最低価格設定と主張する。しかし、本来ならば、最低料金の設定による指導ではなく、厚生労働省の管轄の労働に対する安全基準の問題だ。経営努力により低コストの運行が出来るならば利用者に利益をもたらす。500円タクシーは関西だが、関西人は小型タクシーの利用者が圧倒的の多く、タクシー会社は利用者を維持する為に500円料金で頑張っているのに水を差す行為だ。行政の仕組みの多くは縦割りであるが故の弊害が出ているので、本来は政治が正さなくてはいけないのだが、今の政治家は役人と同様の発想しかできない無能者の集まりだ。、マスメディアも本質を理解できない者が従事しており、政府の広報マンに成り下がっている。

話は逸れるが、義務教育の教科書無料配布と相まって政府の思想の押し付けが始まっていることに多くの国民が気付いていない。税金で無料化する教科書に役人どもが教科書採用に規制を設けてることは言語道断だ。採用するのは検定を受けた教科書でありながら教科書の採用に地域指定の規制をしているのは一部の出版社に対する利益幇助としか言えない。マスメディアの論調の多くは行政の方に見方をしている。だからマスメディアは情報化社会で埋没するのだ。

規制緩和の多くは不正や事故が起きて規制強化を図れることを前提にしているのではないかと言う疑いを持たざるを得ない。最近の金融機関に対する法人の口座開設に対する行政の指導は、企業の自由な活動に対する規制に他ならない。法人の普通口座開設が昔の当座預金の開設並みに強化されている。口座開設に対する審査に対する理由は金融機関によっては若干対応が違いがあるが、開設対する指導が企業の不利益をもたらしている事実は否定出来ない。小役人の責任逃れの指導が企業活動の自由を阻害しているのを気づかない安倍ミクスなど到底成功はしない。

幾ら民主党政権の反動としても最近の安倍内閣は少子高齢化社会で不毛な経済成長一辺倒の議論を行うなど時代錯誤も甚だしい。厚生労働省の労働者保護も自由な労働契約による労使に干渉するものであり、年金の支払者の減少を就労の規制強化で増加させる行為は、逆に雇用者の減少に繋がることに気づいていない馬鹿役人の典型だ。人材派遣業の規制強化など非正規雇用者を作った格差社会を反省しない部分最適政策の典型例だ。非正規雇用者の出現が年金支払いを減少させたのだ。

一事が万事とは、古人の教えだが、インチキ規制緩和と規制強化が企業の活動を阻害し、最終的には善良な国民が損をする社会にはうんざりだ。

輸出促進者には高齢化社会の人口減少の需要不足しか見えないのか

最近やたらと日本市場は人口の減少で需要が先細りとなるので農水産物生産者などは輸出を考えないと生き残れないと言う論調が多い。この論には誰しもが抵抗なく頷いてしまう。しかし、良く考えると、人口減少は需要ばかりでなく、供給も減少するので、問題は需給のバランスなので、必ずしも輸出しなければ生き残れない訳ではない。寧ろ、生き残れないのは、TPP成立で安い農水産物が輸入されて来る方だ。農水産物輸出促進論の背景には農水省の役人が情報操作しているものと推察される。TPP成立後の農水産業に対する補助金を抑えるために輸出努力しない農水産業生産者は補助金の対象外などと規制を設ける計画と穿った見方も出来る。何故かというと、今から20年以上前の話だが、日本国内にコメ不足騒動があった時の話を思い出すからだ。コメ不足とマスコミが報道し、政府はその対応として海外からコメを輸入して事なきを得たのだが、実はこの時に日本国内にコメの絶対不足が起きてなく、九州地域などにはコメが余っていたのであることが分かったからだ。今では財政再建と言う御旗のもとに、国民を平気でだます国会議員や役人が跳梁跋扈しているが、当時は未だそこまで悪くはなかった。しかし、コメ不足を材料に冷害で農家に支給する補助金を海外からの米輸入による価格差益でねん出する考えが出てきたあたりから政治は可笑しくなった。本当に国内にコメ不足が起きたなら一石二鳥の考え方が出来るが、実際には日本国内にはコメがあったことが問題であった。マスコミなど何処も報道していない。如何にマスメディアは政府の広報に成り下がっているのかを教える教科書だ。

さて、話を元に戻すと、人口減少で需要が先細りとなるので輸出奨励がなぜ誤魔化しかは一目瞭然だろう。日本の農水産業など自給率を見ると輸出して生き残ろうなど笑止千万なのが良くわかる。これにTPPが成立したら、日本国内の農水産業などなくなってしまう。サラリーマンとして人生を送ってきた幸せな人は、安い海外の農水産物の方が生活が楽になると反論するかもしれないが、人口減少は農水産業など一次産業以外の二次産業、三次産業にも影響を及ぼすことを考えない愚かな意見だ。貿易は今でも主要通貨はドルなのを忘れた考え方だ。現行の102円の円安でも原発が稼働していないだけなのに貿易収支は赤字になっている事実だ。若い世代は貿易収支が黒字しか経験していないので、ドルがなければ海外から輸入できないことにも無頓着だ。イオンなどのスーパーは地方に大型店を出して地元の商店街を破壊し、利益がでなければ平気で撤退して地域住民の生活の迷惑を顧みない。最近のイオンは日本は飽和状態から需要減少に転ずるので、日本を見捨てて海外進出で成長戦略を描いている。今の日本人なら誰しもが企業は利潤を追求するので当然と考えるのだろうが、グローバル化が始まる前は違った考え方であった。日本人と言う意識を持ち、国民の幸せが成功戦略に結びついていたものであった。

堂々巡りの議論を避けたいので、標題で何が問題かと言うと、移民政策を採用せずして現行の経済力を維持するのは無理なのに、政府は研修制度位で誤魔化して人口減少の労働力を外国に依存しているからである。今後も移民政策を実施しないならば、人口減少の中で日本の経済力の姿をを見極めて政策立案する事が重要となる。然しながら、研修制度の拡大で誤魔化す所か、農水生産物の輸出促進を聞くにつけて縦割り行政の弊害以上に、将来を見据えた人物がいないことに怒りを感じる。何時の時代にも先を見える人物は少数だが、現代日本にはその少数さえもいない。誰も責任を取らない無責任社会の出現なのに、高度経済成長後の国民の中間階級意識80%の時代をイメージして政策を進める輩は馬鹿としか言いようがない。真面目な日本人など既に死語となっている現実を無視しては何も改善されない。インチキ研究論文を堂々と発表する日本人が出て来たのである。内需70%の経済力の国を今更輸出で経済成長とは呆れて物が言えない。

不屈の春雷「十河信二とその時代」を読んで

新聞の広告に掲載された出版案内で目にしたので購入して読んだのだが、十河信二が世界に冠たる新幹線を造った人物であることが初めて分かった。しかも、後藤新平との出会いがその後の人生に大きく影響し、戦前戦後の活躍は驚くべきものであった。私と同様に多くの人が十河信二のみならず、日本の鉄道における狭軌と広軌の争いを知らずに新幹線の成功だけが伝えられているのが、日本の問題点の全てではないかと思った。特に、日中が尖閣諸島問題以来政治問題化している現状は、正に戦前の日本と中国が泥沼の戦争に突入するのを防ごうとして動いた十河信二を含めた多くの日本人が居たにも拘わらず、世論は中国膺懲論に向かって進み、最後は太平洋戦争に突入して自滅した展開と似ていると思わざるを得ない。尖閣諸島問題は中国が起こした問題ではない。石原慎太郎元都知事が世論を扇動して起こした挑発であることを顧みないのは、正に満州国を造り、更に中国北部を支配下にすると言う軍人の野望をマスコミが煽った時代と同じ間違いを起こすことになる。

十河信二の時代は、正に司馬遼太郎の「坂の上の雲」の時代であり、貧しい国家であったが鉄道などのインフラ整備を急ピッチで進め、近代国家に表面上は作り上げたが、統帥権を振り回した軍人と国民を顧みない政党政治の争い、更にはマスコミの戦争鼓舞で自滅の道を辿った。しかし、広軌鉄道の夢を諦めない十河信二が71歳の高齢で第4代国鉄総裁に就任し、現代に繋がる新幹線建設を実現する舞台が用意されたのには驚かされる。歴史には「もし」はないと言うが、十河信二を見る限り、歴史に一人の人物を登場させるには何らかの力が働いているとしか言いようがないと思われる。それにしても、単に頭が良いだけでは駄目なのが、十河信二の周りに登場する政治家、軍人、経済人、官僚を見ると良くわかる。また、マスコミやそれに登場する知識人が世論を誘導して最悪な道を進ませるのは何故なのかと思われて仕方がない。私は運命論者ではないが、十河信二の人生を見る限り、東海道新幹線建設と言う舞台が準備されていたと思われるのである。時代が人を造るのか、人が時代を造るのか。本を読んでこの様に思ったのは英国の英雄であるチャーチルの伝記を読んだ時と同じである。

何れににしても、日本がアジアの一員であり、アジア人同士が争っては益がないことを十河信二の伝記を読むと分かる。今の日本が中国や韓国と対立を煽る情報で一杯なのは何故かを考えるべきだ。日本は同じ過ちを繰り返してはならない。マスコミや知識人と言われる連中が性懲りもなく中国脅威論を唱えるのは、戦前の中国膺懲論と同じと思わざるを得ない。新幹線を世界に冠たるものと思うならば、それを実現した十河信二の生きた時代も知るべきだ。世の中には頭は良いが時代が見えない者が如何に多いか愕然とする。又、私欲で動くために国を滅ぼすことになることもである。十河信二の伝記は現代の日本人に対する警告書でもある。

大雪の渦中で分かった問題点

2月の二度目の大雪には群馬県渋川市の伊香保町で遭遇した。14日金曜日の早朝に東京を出た時には天気予報より早く雪が降り始め、伊香保町に到着した時には既に10cmを超える積雪となっていた。今回の仕事では1泊2日の予定を組んでおり、2日目の15日土曜日には夕方に都内で用事があったので、午前中に仕事を終えて帰京するスケジュールであった。然し、1日目の仕事を終えて宿の行く頃には既に30cm以上の雪となっていた為に仕事先の駐車場に車を置いて旅館の迎えの車で行くことにした。この決断が後から重要な意味を帯びてくることになるとは露とも思わなかった。2日目の早朝四時に夜半に降り続いた大雪の為に停電となり、24時間入れる風呂も沸かし湯の為に入れず、勿論部屋の暖房も切れて伊香保温泉地域は非常事態に陥っていた。外を見ると、駐車していた車は雪に覆われてかまぼこ状になっており、屋根には相当の雪が積もっていた。路地は雪で覆われて除雪の動きもなかった。幸運にも宿泊した旅館は料理長が宿に泊まったので食事には事欠かなかったが、宿によっては料理長が大雪で旅館に来れずに食事の手配が出来なかったところも出たそうだ。幹線道路の除雪も出来ていないという情報が入ったので、電気も回復したこともあり、15日は早々と宿泊を決断し、16日帰京を期待して温泉とオリンピック放送で時間を潰すことにした。

しかし、気楽に過ごした一日が過ぎて16日早朝に起床して朝風呂に入る為に外を見たら天気予報に反して未だ雪が降り続いて居たので愕然とした。TVを点けてニュース番組を見ると交通網は機能停止しており、伊香保地域は観測史上118年振りの大雪と報道されていた。見た目では100cm以上の積雪であり、私にとっては初めての経験であった。ロビーに降りて女将さんから状況を聞いたところ、幹線道路の除雪は終えて、今後は支線の除雪を進めるとの情報であった。この為、女将さんの話では電車の方に関しては路線バスが開通しないならば渋川駅までマイクロバスでお送りするのでお待ちくださいとであり、我々も取り敢えずは仕事先の駐車場に車を置いてるのでバスの発車まで待つことにした。その後に女将さんの話を聞くと旅館の駐車場の除雪を優先しており、マイクロバスの発車は除雪後とのことが分かり、先が分からないままに待つより、私は同行者に徒歩で仕事先の駐車場まで行くことを提案した。急遽身支度を整えて徒歩で行くことにしたが、同行者の二人は事前の準備が良く、リュックに手袋を用意し、靴も雪用の物であることがわかった。私一人の装備が非常用でなく、自分の甘さに気が付いた。同行者の一人から手袋を借り、徒歩で30~40分歩き駐車場に着くと、車を置いた周辺とアクセス道路まで除雪されており、車を覆った雪を除雪すれば渋川駅まで行くことが出来ることが分かった。乗車し渋川駅に向かうと幹線道路の除雪も一車線だけが多く、自動車の走行も難儀であった。夜半に大雪が降ったことから除雪しなければ動けないと分かった時には役所の職員も除雪を請け負ってる建設会社の社員も自宅から出ることが出来なくなっており、想定外の大雪には脆い姿が浮き彫りになった。特に、伊香保温泉は閉鎖した旅館と住まなくなった個人宅、更には多くの店舗の経営者は通いのために支線の道路の除雪が行えない状況も回復に時間が掛った要因であった。

翻って、我々の行動を振り返ると、都内から自動車出来た二人と埼玉県の上尾市から参加した一人で明暗が分かれた。上尾住人は今回の雪の天気予報で車でなく電車に切り替え、更にはリュックを準備し、靴も雪用を履いてきた。出身地は青森で、大学生活も新潟で送った人であり、更には前職が鉱山会社であったので、海外経験が長く、危機管理には優れた人であった。自動車組の二人の内、一人はスキーで良く雪国に自動車で行った経験を積んでおり、車で来たが身支度はリュックに靴も雪用にしており、手袋も2セット用意し、更にはヤッケも2種類持参してきていた。後から話を聞いたところ除雪作業が生じると予想しての事であった。雪国育ちでもなく、スキーも若い時分には遣ったが、最近は雪にはご無沙汰の私が一番判断が甘かったことが分かった。しかし、旅館から徒歩で駐車場まで行くことを早く決断し、渋川駅から電車で帰る選択でなく、自動車に乗って帰京する判断は予想外に成功した。上尾住人は危機管理の素晴らしい人であったが、日本のTV報道を信じて判断を誤った。TV報道では正午ごろにJR東京の渋川線が開通する予報を流しており、上尾住人は熱心に聞いていた。彼からのメールで渋川駅で7時間以上も待った事を知り、自動車組は彼が渋川駅で待っている時には上尾駅を通過していたのである。今思うと渋川駅でなく新幹線が開通していた高崎前まで送るべきだったと後悔したが、渋川駅時点ではそう簡単に高崎駅まで行ける見通しになかったことも確かであったので、全て結果論と言わざるを得ない。ひとつの判断がこれ程までに影響があることの怖さが分かり、上尾住人も渋川駅で我々を待たせて駅員に聞くことをしなかったのは、日本のTV報道の確かさであった。しかし、今回の雪情報に限ればオリンピック優先で、雪情報がお粗末であったことは確かであり、視聴率競争で動いてるTV局の信頼性の欠如を改めて考えた。日本人は何時から危機管理に対して無頓着な国民になったのだろうかと思われてならない。私自身も含めて3.11で経験した自然災害の怖さをたった3年で忘れた問題を今後の戒めとしなければ大袈裟ではなく、日本人は大丈夫だろうかと思ってしまった今回の大雪であった。貴重な体験をさせてもらった。

スーパーゼネコンのマンション工事施工ミスが教える日本社会の劣化

新聞に大手建設会社の鹿島建設が東京都内で建築したマンション工事で大きなミスがあり、そのミスを考えられないその場凌ぎで処理したのを内部告発で露見したために、デベロッパーは購入予定者に物件を引き渡せずに契約を解消してペナルティを支払った記事が掲載された。この問題は日本と言う社会が行く着く所まで来てしまったと言うことを意味する出来事だ。正に、米国の社会のマイナス面を継承したことを意味し、資源のない四方を海に囲まれた国の行く末が懸念される。心にゆとりがない社会は信頼できないという事が嫌になるほど分かる。しかし、日本人はこれ程までに弱い人種かと今更思われて仕方がない。尤も、良心を持つ社員は金融資本主義社会の到来で駆逐され、インチキをしても売上高や利益を上げる社員が評価される時代になったから引き起こされた事件であろう。救いなのは内部告発で事件が表面化したことであり、僅かに希望が残されてるかもしれない。

何時の時代にも今回の様なミスが起きる可能性はあるが、現場会議で打ち合わせを念入りにすれば防げるミスである。しかし、3Kと言われる建設業界に優秀な人材が集まらず、然も時代が大きく変わり、現場では丁寧な仕事より、どれだけ効率的に施工できたかが問われる時代になり、本当に必要な現場会議が行われているのか心配になっった。勿論、情報化時代であるので、関係者が集まって行う現場会議でなく、WEB上で仮想現場会議を打ち立てて行う方式でも良いが、問題は責任を持って双方向の情報を管理する者が居なければ、単なる情報の垂れ流しで終わるだけである。また、若い経験の浅い設計士は古手の下請け会社の社長から未熟さを指摘され成長したのだが、下請け会社に厳しい時代になり、元請け会社の若い社員を教育できる下請け会社も少なくなった事も確かだ。米国流のデータ社会が現場の熟練者を評価しなくなり、暗黙知の継承がなくなったことが、今後は予期しないミスをもたらす可能性も否定できない。

データを否定するわけではないが、経験者の暗黙知を曖昧な記憶と称して馬鹿にする若い人たちを見ると、現場を通して成長してきた者としては、大きなミスが起きても判断出来ないのではないかと思われて仕方がない。私自身は大学で電子工学を専攻し、年代的には早くからコンピュータに馴染んできた。この為、建物管理システムの構築をメーカーに依頼する時にはミスをチェック出来る仕様を求めたものである。しかし、問題は全て経済合理性の壁に突き当たる。今の時代は、お金を掛ければ良い物が得られるが、事業採算性の問題で全ては楽観主義にならざるを得ない。建設現場も手書きの図面の時代からCADになり、今は更にBIMと言われる立体化したモデルで建物を施工する時代になった。建築と言うモノづくりが、施工現場ではプログラム作成とデータ入力に置き換わってきた。確かに、BIMなどは素晴らしいと思われるが、現場の構築作業は自然現象や施工誤差を修正して行う作業と理解しなければ、施工後の建物に不具合が起きる。データ管理で出来るものと出来ないものを区分して考えなければ、次のミスを防ぐことが出来ない。特に、今の時代は未だ工場などは熟練経験者が存在することで構築されているケースも多く、安全を維持するのが極めて難しくなっている。建物管理で何時も思うのだが、設備の不具合は現場で事前に気づかなければ突然起きることになる。幾らコンピュータで遠隔監視しても壊れる前兆を捉えて知らせるほどにはなっていない。このため、耐用年数で設備を定期的に交換する無駄が生じるのだが、不動産ファンドなどは米国式に交換するシステムである。設備機械は使う環境や頻度などで大きく異なることを現場は教えてくれる。この事はデーターにも変換できるが、途中で環境が変わったことまでは無理と思われるので、変異点や特異点は無視することになり大事故に繋がる。この様に書くと情報化時代を否定するのかと疑われるが、データと現場の両方を経験しているから指摘できるのである。

何れにしても、日本人と日本社会の優れた利点を失えば他の国と何ら変わらないと言うことを認識することが必要であり、金融資本主義を導入してからの日本は信頼性が低くなった社会であることを理解することが重要だ。そうでなければ、今回のマンションの施工ミスを防ぐことが出来ない。

 

脱原発派と原発再稼働派の不毛な二極化

日本中を二分して脱原発か原発再稼働かで不毛な議論が行われている。日本人はどうして冷静に過去の出来事を分析して今後に生かすことが不得手な国民なのであろうか。一つの理由としては、マスメディアが国民に対立を煽る記事を流していることも無縁ではないが、日本人は深く物事を洞察すると言う習慣に欠け、直情的に判断する傾向が強い気質にも起因しているのかもしれない。正に、風土で培った気質であろうが、地震、津j波、火山、台風など自然の驚異に晒されてきた日本人は情報化社会以前では、生き残るには風評などで素早く動くことを余儀なくされてきたからでもあると思われる。勿論、自然による影響の他に人工的な明治以降の教育制度も一因と考えられる。

何れにしても、脱原発を唱えている人の多くは、福島第一原発事故に対する結果だけの判断であり、自然災害の地震に対して原発の怖さを強調するだけである。私は原発再稼働派ではないが、今回の福島第一原発事故がなぜ起きたか。何故、多くの人的ミスによって被害を拡大させたのかを国民に周知徹底させることが重要であるとの認識を持っているからだ。脱原発派の中で悪質なのは小泉純一郎と思われる。理由は高レベル放射能の最終処分場が造られていないことを理由にしているからだ。福島第一原発原発事故による反対ならば、同様に東日本大地震に見舞われた東北電力の女川原発、東京電力の福島第二原発、日本原子力発電の東海第二原発が無事だった事で原発全体の問題でなく、福島第一原発の特殊性に議論を転嫁できる可能性があるからだ。

福島第一原発事故の対応の誤りを明らかにすることは、今の日本社会が陥っている問題解決能力の欠如に光を当てることになり、原発だけでなく、日本の再生に役に立つものと思われるので、単なる脱原発や原発再稼働の議論に集約しては欲しくないからだ。その様な意味では、小泉元首相のワンフレーズの脱原発は、日本社会を危うくするものであり、日本を間違った方向に導く悪魔の囁きだ。

福島第一原発事故は遡れば電力自由化問題に迄行くつくものである。経済産業省が電力自由化に舵を切ったことにより、東京電力は老朽化した福島第一原発の稼働延長を強いられたのである。又、大地震による津波の影響の懸念が起きたにも拘わらず、日本原電の東海第二の様に防波堤の嵩上げ工事を行わなかったのは、電力自由化に備えた資本効率の問題が裏にあった。円高による国内工場の多くの移転にも拘わらず、電力供給に関して電力会社に設備投資を求めてきた経済産業省の責任は重いのである。勿論、政治家を使って電力行政に立ち向かってきた電力会社にも責任はあるが、経済産業省の電力行政は木を見て森を見ずの類であったことが、一番の問題点であったことは確かだ。

翻って、福島第一原発事故に戻れば、東京電力の経営者の国民を考えない対応、更に管首相を筆頭に解決能力と統治能力を失った対応が被害を拡大させた事実は重い。それが管元首相の様に事故の間違った対応の責任も取らずに脱原発の旗頭になった無責任さが今日の日本社会を作ったのではないか。この批判無くして脱原発はあり得ないのである。特に、事故時の対応に議事録を取らせなかったのは、後から責任を追求されないためなのは確実であり、これが為に当時の事故処理の貴重な情報が将来に活かされないと言う馬鹿げたことにもなっているのである。

日本を変えるのは、今起きている脱原発か原発再稼働かなどの二者択一の不毛な議論ではなく、何が事故に際して問題であったかを徹底して議論することが重要である。特に、事故の調査に関しては、多くの委員会で報告書が取りまとめられているので、その報告書を基に脱原発の議論を進めるべきと思われる。何も知らない者が直情的に運動を進めること自体が国家の危機であり、その様な意味では、日本は多くの分野で国家の危機に遭遇している。

都民を愚弄する都知事立候補者

東京都は高齢化社会に向けて従来の財政を変えて臨む必要が出てくるのに、選挙選の主体は国政の問題である脱原発に置き換えられた。今更ながら、マスメディアに期待することはないが、それでも東京都知事選挙に関しては、立候補者は脱原発ではなく都民の生活に関しての政策を唱えるべきだと報道するのが義務と思われる。東京オリンピック誘致成功で日本は1960年代に遡り、再び高度経済成長で日本はバラ色に成るようなインチキ報道が多い。その様な中で、猪瀬前知事が借入金疑惑で任期を3年も残して都知事選挙になった訳だが、今回の都知事選の候補者を見る限り、都民の一人としては情けなくなった。日本がダメになった理由は国民が選挙で知名人に投票することになり、能力や人格よりTVなどマスメディアの露出率に負う事になったからである。今回の都知事選は一見するとお笑い出身などのタレント候補がでなく政策立案能力や統治能力が高いと思われる立候補者が出たと思われるが、実際には美濃部時代のイデオロギー選挙に近いものであることに気が付く。美濃部時代は最悪な東京都政であったが、今回の立候補者を見る限り、その時代と五十歩百歩と思われて仕方がない。

特に、元首相の細川護煕は最悪だ。熊本県知事時代の実績を引き下げて国政に参画し首相までなったが、困難な局面を迎えると簡単に投げ出してしまった。熊本県の規模で成功したから都政でも遣れると考えたのだろうが、熊本県と東京都では財政規模が違うし、カナダ国レベルの国政に匹敵する都政に関してダメなのは失格の烙印を押された首相経験で十分証明されている。細川の母型の爺さんは戦前に首相を務めた近衛文麿だ。近衛文麿が首相にならなければ日本が日中戦争に深入りせずに太平洋戦争にもならなかった可能性があった。その様な悪いDNAを持った細川に都政など委ねるべきではない。

次の最悪な候補は自衛隊の航空幕僚長を途中で辞任した田母神俊雄だ。自衛隊時代に公私混同を平気で行った人物であり、悪いことにアパホテルとべったりだ。更に、田母神には石原慎太郎が都政の利権を維持するために応援しているなど絶対に当選させてはならない候補者だ。然も、沖縄の少女が米兵に強姦された時には米兵の擁護に回り、少女を売春婦呼ばわりした。午前4時に市中を徘徊する少女が売春婦なら東京には何十万人の売春婦がいることになる。世界でも有数の治安が良い国なので、午前4時に歩いていても強姦されることはないのが日本だ。田母神は米国に尻尾を振る売国奴だ。

脱原発を掲げる宇都宮候補に関しては都政をダメにした美濃部元都知事と同じ匂いがする。過度のイデオロギーや思想信条を持った政治家は現代ではマイナスだ。人間的には良くても首長として政治を行うのに必要な能力は偏った思想信条がなく、未来を見据えた統治能力を有した人物だ。この点から言えば、宇都宮候補は都知事には相応しくはない。美濃部都政の再現など二度と御免だ。

この様に有力候補を見てゆくと現時点では舛添候補が無難と言えるのだが、下馬評では舛添候補は事情があって都知事は出馬しないと見られていたことが引っ掛かる。過去の離党問題で自民党の支持を得られないのが下馬評ならば問題ないが、知事に当選して猪瀬の様に任期途中で降板では都民は浮かばれない。

何れにしても都政を任せるには問題がある候補者ばかりであり、今回の選挙程期待できない候補者ばかりなのは、選挙にはお金がかかることに尽きると思われる。政党助成金でなく、選挙に必要な資金を候補者に提供する政治システムにしなければ選びたい人物が政治に参加することは難しいのが現実だ。今回の都知事選で政治を良くし、選びたい人物が選挙に出るシステム作りが重要と改めて考えた。

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