民主党の政治主導は政治無能の責任逃れ!
小沢一郎が唱えた政治主導の標語は民主党の標語となり現政権である管首相や閣僚も政治主導を継承している。自民党の小泉純一郎が金融資本主義の過剰な競争社会を作り出し、格差社会にあって公務員は競争社会の蚊帳の外に置かれた存在と国民の眼には写り、更に効率化と言う標語で行政の無駄をマスコミが報道するに従い、何時の間にか公務員は悪役になってしまった。マスコミも国民の無知に付け込み、何時の間にか小泉政権をバックアップし競争社会を作り出したにも拘わらず、今度は連日連夜民主党の政治主導に対して必要性を報道により垂れ流したのである。これにより、本来は政治に向く必要があった国民の不満は全て現在においては恵まれた公務員に矛先が行ったのである。確かに、公務員の現在の給与は、民間企業の様に業績と関係なく、然もリストラもなく、退職金や年金も民間企業と比較して手厚いので反感をもたれるのはもっともと思われる。然し、良く考えなくては駄目なのはこの様な待遇を決めるのは議会であり、議員達が議会で議決しなければ出来ないと言う事実である。公務員は予算に関係する事を勝手に決められないのである。では、何故議員達は公務員の給与等を大企業並みに引き上げたのかを検証すると、議員報酬や議員年金、更には諸手当を引き上げるために役人を懐柔したのである。自民党政権時代の官僚との馴れ合い政治がもたらしたものと言える。官僚が2世、3世議員や社会経験のない職業政治家が増え、政治の質的レベルが下がるに連れて政治家を利用して自分達の権限や役得を拡大したのは事実である。しかし、この事実でもって全てを役人を悪とし、政治家の政治主導の戯言を聞くわけにはゆかない。行政の実務や予算の仕組みも勉強しないで政治ごっこを行なってきた議員達にこそすべての責任がある。政治家どもが政治主導などと戯言が言えるのは、役人と違って選挙によって過去の罪状がクリアされると言う間違った考え方が浸透しているからである。前にもblogで書いたが、役人を指導できる大臣が存在したのは佐藤栄作時代迄であり、田中角栄以降の大臣は論功行賞で就任したので実務知らずで役人に丸投げ政治となった。このため、日本の政治は次第に政治主導ではなくなったのは確かである。当の役人も政治家の質的レベルの低下を憂いて次第に重要な政策に関しては議員に相談することなく勝手に行なうようになった。国民が茲で考えなくてならないのは、政治主導にするためには政治家のレベルを上げなくてはならないのだが、役人と同じレベルの発想しか持たず、然も実務能力が低い議員達が政治主導を行なったらどうなるかは、民主党政権を見れば一目瞭然である。役人は法律の範囲内でしか物事決められないが、政治家は法律を変えて国民の期待に答えるのが役目である。今の政治家は政治主導になれば全て良くなると言う幻想を抱いているが、日本社会を良くするには政治家は政治を行ない、役人はその政治の実現を実務的に推進する姿こそ必要なのである。今回の大震災において評価できるのは、遅滞なく大規模に自衛隊を投入した位で、省庁横断的な対策本部が機能しないばかりか、緊急的な組織対応が平時のまま運用されているなどと言う馬鹿げた現象が生じた、政治主導どころか政治が機能していないのは、指示されなければ機能しない行政の扱い方が全く分かっていないからである。政治無能を役人に転嫁する政治主導などの標語に惑わされてはならない。行政組織のスリム化や民営化や規制緩和は必要だが、小泉の時の様に官僚が描いたシナリオで構造改革を行なっても意味がなく、本当の政治主導とは官僚虐めと効率化でないことを国民が知るべきである。今の民主党の政治主導など壊すだけで何も生まれない。
Destiny!
大学の同窓の一人のご母堂が東北関東大地震で未だに消息不明となっている。今回の大地震で気になった同窓二人がいた。共に岩手県三陸の釜石周辺出身である。彼等二人は同じ高校の出身者であり、大学も「建築工学」と「電子工学」と進んだ専攻学科は違ったが、同窓となった。同窓二人の内、一人は私の故郷の茨城に所在する筑波大学の大学院に進み、その後茨城県に土着した。もう一人は大学卒業後東京で就職し、都内に住んでいる。彼等とは今年1月に新潟出身の同窓を加えて4人で新橋で久し振りに酒を酌み交わした。本当に楽しい一時を過ごし旧友を暖めあった。その時の会話で、岩手出身の二人の近況報告により、共に父親が他界したが母親が健在で、一人の方が東京に連れてきている事を知った。このため、今回の大地震で先ず気になったのは田舎に一人で住んでいる同窓のご母堂であった。しかし、大地震で連絡がつかない状況で同窓に連絡しても仕方がないと考え、災害地との電話が開通した時点を考慮して先ず、釜石市の田舎に母親がいる同窓に連絡した。この連絡が絶好のタイミングで、昨日母親を田舎から茨城の住まいに連れ来たとのことであった。話を聞けば、釜石市の市内は津波で遣られたが、市内から1km離れて少し高台にあった彼の実家は奇跡的に津波の災害から免れたとのことであった。今回の防波堤は何処も破壊されて役に立たなかったが、釜石の沖に作られていた水深の深い場所に建設されていた大きな湾口防波堤は、壊れたものの津波の勢いを削いだらしく、同窓のご母堂は救われたらしい。彼も実家と漸く連絡が取れ無事が確認できたので、思い切って新潟と山形と秋田を経由して岩手の釜石市に入ったとのことであった。彼は用意周到に準備したらしく、車もハイブリッド車を借りてガソリン入手の困難に備えたとのことであった。彼との電話でご母堂の無事が分かったので、東京にご母堂を連れてきている彼にはメールで近況を尋ねた。しかし、茨城在住の同窓と話をした時に、もう一人の同窓の実家が釜石でなく、釜石より北の大槌と言ったのが気になった。その時は直ぐに思い出せなかったのだが、大槌町は津波で大きな被害を受け、町長他役場職員の半数が行方不明になっている町であることを思い出した。長い付き合いの同窓であったが、人の記憶と言うものはいい加減なもので、同窓二人とも実家は釜石市内とばかり思っていた。その上、大槌町の実家を持つ同窓の返信メールを開いて予想していなかった内容で驚いてしまった。確かに、彼のご母堂は東京に来て生活していたのだが、2月下旬に母親の妹の入院見舞いを兼ねて帰郷していた。3月13日に帰京する予定であったとの事だが、帰郷中に大地震に遭遇し未だに消息不明とのことであった。TV報道の画面で確認したと思われるが、実家は跡形もなく消えてしまったとの事であった。彼の返信メールは今年1月の新年会のお礼から始まり、最後には私の健康を気遣ったものであった。彼は学生時代から口数がすくなく、常に冷静な男であったが、淡々としたメールには余計に彼の悲しみが伝わってきた。私はこの返信メールを読んで頭に浮かんだのは「Destiny」の一文字であった。合掌
危機感だけ煽って国民に対応を押し付ける無責任な内閣と行政
首都圏の電力復旧には国家の出動が必要
東北関東大地震による東京電力の被害と福島原発トラブルによる放射能拡散による補償を考えると、東京電力管内の電力供給正常化に対する発電所の復旧工事には国家が予算を計上して行い、東京電力に発電施設を貸与する方法を取る必要があると考える。本来ならこの様な時には国策会社であった電源開発の登場なのであるが、残念ながら電発は民営化されたので、採算を度外視したプロジェクトは出来ない。勿論、発電所の運営は東京電力なので、国家が復旧工事費を予算化すれば良い訳であり、現在設置で名前が出ている復興庁で行なえば良いと考える。尤も、復興庁が出来ても各省庁の寄せ集めの組織と推察出来るので、その長官には省庁を超えて辣腕が振る得る人材が絶対的な条件だ。復興計画で一番懸念されるのは、菅と言う人物が頭領の器でなく、人に任せられない侍大将程度の人物であることだ。左翼運動を行ってきた人の特長だが、他者を信用できないと言う欠点を持っている。その上、重要な決断は自分でなく、他者に責任を押し付ける自己保身が強い。正に、今の状況は国難であり、国難を乗り切るには余程の人物の登場が必要だが、現代ではその様な人物は市中に埋もれ、実際に事に当たる政治家には皆無だ。明治時代の国難には多くの人材が現れたが、平成の時代の政治家や経済人は小人物ばかりである。しかし、国家危急の時には人材が現れると言う過去を振り帰り、復興計画に期待したい。
管内閣の重鎮は弁理士、弁護士を職業とする者の弊害が出た
管は特許事務所を経営していた弁理士である。枝野と仙石は弁護士である。この3人が管内閣の現在の国家の舵取りを行なっている。ではこれ等の職業の者の弊害とは、ずばり当事者として決断する事がないのである。明確に言えば、代理人的な仕事であるので決定事項に対して自らが責任をおうことがなく、重大な事項を自らが決断する立場ではない職業なのである。今回の大地震による采配も飽くまで意見を述べるだけで解決するのは災害地の行政であり、災害者であり、会社なのである。菅内閣としては、自衛隊を派遣したから彼等を旨く使ってくださいという事だけなのである。このため、大災害の司令塔が貴方任せであるので、救援物資は届いたものの、この救援物資を運ぶのにトラックの燃料がないと言う馬鹿げた現象が起きているのである。この事例はほんの一例であり、同様な事は枚挙に暇がない。この司令塔不在の中で国民は良く頑張っている。最悪なのは救援物資を送りたい企業に対して平時の考え方で取り組んでいるので、緊急的な対応になっていないことである。このことも当事者ではないので時間が掛かっても損するどころか逆に利益をもたらす職業だからである。今回、新たな人事が発表されて、仙石が官房副長官、藤井が総理補佐官に任命され、菅内閣は4人組が勢揃いした。今度加わった藤井も元大蔵官僚の役人である。これ又、国民の代理人の職業であるから当事者意識が低いものと思われる。この中に一人でも企業経営車者がいたら管内閣も今の様な無責任内閣にならないで済んだと考えられる。なお、この職業で最悪だったのは、福島原発の地震による災害復旧対応において正に政府が当事者にならなかった事である。貴方任せの結果、原子炉がメルトダウン寸前になり、地震災害以外に原子炉災害の様相を帯びてきた。この職業の弊害に対して賢明なる方は、米国の大統領が弁護士であることが多い事を指摘し、私の見解に疑問を呈すものと推定できる。確かに、米国の大統領は法律家が多い。これは米国の裁判が陪審員制度であることが、弁護士に当事者意識を持たせているのではないかと推定している。依頼者の無罪を勝ち取るには日本の弁護とは比較にならないほど陪審委員達に対する工作が必要だからである。この陪審委員を国民に置き換えると分かりやすい。米国の弁護士は常に国民の眼を意識する議員と同じ視点で行動する訓練が出来ていると思われるのである。勿論、この推定は私の独断と偏見に満ちた考え方かもしれないが、管内閣の尖閣諸島問題に置ける検察に任せた遣り方や、又、今回の大地震に対する采配を見る限り、責任を取らない当事者意識が低い日本の弁理士、弁護士の職業の弊害が出てると思われるからである。
建物の管理で懸念している事
情報化時代になって建物の管理はコンピュータによる管理が多くなり、殆んどが終日パソコン画面を眺めているケースが多いことに気付く。確かに、ビルの電力使用料の時系列データや色々な設備の不具合に関する異常などをビル内の配線を通じて知らせてくれる。建物管理の経験のない人は近代的な装置に対して安心感が出るかもしれないが、長年に亘り、建物管理を行なってきた者にとってはビル管理要員がパソコン画面だけ眺めているのに不安を感じる。設備機器と言うのはサドンデスの場合が多いのも事実である。パソコン画面を通してサドンデスにいたる微妙な信号を読み取る事ができるならばそれで良いが、その様な信号まで読み取る監視システムは高額になると推定できる。勿論、貯水タンクの満水警報の様な警報システムならば現場で確認する必要はないが、設備の殆んどは日常点検を行なえば大事に至る前に事前に発見できるケースが多い。しかし、パソコンでビル内の設備を管理するようになってからは、管理要員は必ずしも技術経験者でなくとも良くなった。大型ビルなどでは警備員が設備員を兼務しているケースも出てきている。これはビルの設備を遠隔監視しているので、現場には警備員だけ配置しているのである。勿論、設備管理といってもエレベーターや受電設備、空調の運転、照明など主要設備だけであり、その監視も動作しているかどうかのチェック機能である。尤も、建物の管理では最も重要なのは受電設備であり、ガス設備であり、次に給水・排水と空調設備なので工場などの設備管理とは異なる。しかし、工場の設備管理や建設会社の設備担当が建物管理要員になると本当にきめ細かい点検や設備保守が出きるので、設備機器の寿命も延びるし、サドンデスの前に異常音で気が付くことが可能だ。常駐設備員による日常点検が有効なのは誰も知っているが、管理費のコスト削減により無人の遠隔監視を行い、現場の確認は定期的な巡回点検にしているケースが多くなっている。当社は貸ビル業はテナントに対するサービス業と言う視点で管理している。貸ビル業はサービス業なのである。オーナーの殆んどはサービス業の意識はなく、旧態依然の考え方をしているので、当社がサービス業と言うと変な目で見るオーナーもいる。このため、賃料が下がると簡単に管理コストを削減してサービスを低下させるのである。賃料と管理コストの悪循環になる。話は横道に逸れたが、建物管理の常駐要員に技術者でない者が多くなると、日常点検はお座なりになり、その結果設備機器の寿命が短くなり、機器異常の発見が遅くなって大事に至るケースが懸念されるのである。それ以外に大きな地震などが発生してもビル内に設備員がいると安心できる。ビル内に備蓄している水や食糧も遅滞なく放出できる。又、地震による被害の点検対応も素早くできるメリットもある。何れにしても、建物管理で常駐設備要員を置かなくなることや、況してや技術者でない者に終日PC画面を見させているのではビル管理は疎かになる。
福島原子力発電所の地震被害対応の誤り
今回の東北関東大地震後に、総理が災害地の中で最初に原子力発電所を視察するとの報道を聞いた時嫌な予感がした。通常ならば人命が多く失われている地域を先ず視察するのが普通と思われるからである。その予感が的中した訳だが、今回の原発地震被害対応の背景には新潟県内の柏崎・刈羽原子力発電所の休止があると思われる。仮定の話をしても始まらないが、もし柏崎・刈羽原発が稼動していたならば老朽化していた福島原子力第一発電所の原発のうち、少なくても何基かはお役御免にしていたと推定できるからである。勿論、原発に関しては想定外などあってはならないが、老朽化していた原発でもあり、設備機器を更新していたと言っても新しい原発と比べれば設計基準も異なり、大地震の衝撃には脆い部分も出てきたと考えられる。然も、日本の古い建築物はすべて同様なのだが、工事履歴を作る習慣を持っていなかった。このため、事故が起きたときには設計と現況が異なり、原因を調べて事故対応をするには時間が掛かってしまうのが当たり前だった。原子力発電所も同様とは考えたくないが、何れにしても最近の様な履歴はなかったと思われる。聞いた話では、福島原子力発電所は、IEAの視察で弁の設置の必要性を指摘され、しぶしぶ取り付けた経緯があるそうだ。しかし、この弁がなかったら今頃はもっと悲惨であったらしい。さて、今回の被害対応の本題に入るが、菅総理は少なくても発電所の仕組みについて理解していなかったと思われる。これも推測だが、今回の大地震では稼動していた原発が停止した報告を受けて一安心したと思われる。東京電力では地震と津波による原発の点検中に総理が視察に見えることになったので、所長などはその受け入れに神経を使ったものと思われる。幾ら総理の視察が短時間でも、現場では至急に点検して異常の有無などを確認する必要があったので、迷惑な総理のパフォーマンスだったと考えられる。その上、点検確認中で詳細が分からない中で受けた報告を真に受けたために、被害対応を東電に任せてしまった間違いを生じたと思われる。福島原子力発電所内にはどの様な故障対応の設備・機器などを置いてるか知らないが、何基もの原発の同時の事故対応を想定していないと考えるのが普通である。そうすると、何基もの原発が同時に不具合を起こした時には外部から運んで来なければならない訳で、それが可能かどうかの判断が重要である。今回の大地震は多くのエリアでライフラインを破壊したのである。幾ら東電が大企業とは言え、民間企業が非常時に出来ることは限られて来る筈だ。管総理は今回の原発地震被害に対して東電技術者を官邸に呼び何故直せないのだと言ったとの報道が流れたが、この報道ほど管総理が何も分かっていない証拠である。今回の被害では格納容器への給水対応が難しいのは津波で多くの給水関連設備機器が壊されたことであり、給水装置を作動させる電源の問題から遅かれ早かれ格納容器への海水をいれなければならないのは一目瞭然なことは現場では分かったはずである。又、この様な廃炉にする行為を民間企業経営者では素早い決断が出来ないのは当然であった。15日の時点になって漸く海江田経済産業大臣が4号機に海水を入れることを法律により命じたが、本来ならば被害当初の段階で命じる行為であった。保安院の官僚は必要性が分かっていたが、管総理がその命令を阻害したとすれば大問題である。何れにしても、福島原発に対する地震と津波による被害に対しては、大地震後に直ちに国が緊急対策本部を作り、全力を投入しなくてはならないものであった。それが東電だけに被害対応を任せたので、絶体絶命の危機に陥ってしまったのである。この責任は、管総理と枝野官房長官、仙石副代表など管内閣を支える全員が責任を負うものである。特に、15日に海江田大臣が出した4号機に対する海水投入は、東電としては当初から国に命じられ、株主からの批判を軽減したい被害対応であったのではないかと推定できる。尤も、社長が3日間も姿を現さなかったことを考えると、小沢に近い海江田大臣が管轄する経済産業省抜きで、管総理と東電社長が解決を図る事にしたのが裏目に出たのかもしれない。何れも推定の域をでないが、明確なのは管総理一派が原発に対する無知から引き起こした死刑に値する指示である。今回の原発地震被害に対する対応がどの様に展開するか不明だが、原発を放棄しなければならない様な事態になればその影響は東日本の死を意味し、国民は疫病神を総理にしたことを後悔することになる。
今回の大震災で日本人は当然以上に喪に服す必要がある
石原都知事が一言居士らしくまた被災者の神経を逆撫でる言葉「天罰」を吐いた。新聞の報道だから本人の意思が曲解されているのは分かるが、この時期では誤解を受けるものと思われる。しかし、今回の東北関東地震において亡くなられた人は3万人規模に達するかもしれないが、この3万人の人数で思い当たる(連想する)人はどの位いるだろうか。この数字はここ10年以上も続いている毎年の自殺者の数である。大震災で3万人が亡くなったと報道されれば皆驚き悲しむだろうが、毎年3万人の自殺者に対して驚き悲しむ人は身内や知り合い以外にどの位いるのだろうか。この比較の反論として当然に自殺はその人の意思の結果であり、災害による死亡は意図的な死ではないので比較できないと言うと思われる。だが、3万人の人達が自殺に追い込まれた社会で何の悲しみも共有しないで自分達の豊かな生活を享受してきた人達に天はどの様に見ていたのだろうか。悲しみを共有するどころかマスコミも世論を誘導して競争社会を作り上げてきた人々に対する天の怒りだといったら不謹慎だと叱られるだろうか。勿論、過去の歴史において日本社会で常に試練を与えられてきた東北地方の人達が何故天の犠牲になるのかと言う思いはある。大地震に対する犠牲者に対しては滂沱の涙が止まらない。社会は常に理不尽である。悪党が大手を振って闊歩しているので、宗教など信じられなくなってしまう。多分、昭和のバブル経済崩壊後の日本人は理不尽と戦い続けてきたと思われる。いや、若しかしたら太平洋戦争後から日本人の心の中には理不尽が潜んでいたのかもしれない。それが経済成長で社会が豊かになるにつれ忘却の彼方に追いやられていたが、昭和の経済バブル後に再度顔を現したと思われて仕方がない。特に、小泉純一郎と言う男が総理大臣になってからは日本人が大きく変質していったのが良く分かる。金融資本主義の悪い面だけを日本に持ち込み、道徳観の欠片もない連中が金儲けに走った。そう言えば、耐震偽装事件の主役の男は宮城県の臨海部の出身者であった。14日以降計画停電により電車の運行が大幅に減少したので各電車は100%以上の混みようであった。何でもない時なら悲鳴や不満の声、更には乗客同士の言い争いの声が聞こえたものだが、誰もが耐えて不満を口に出していない。被災者の事を考えたらその程度の不満は恥ずかしくて言えないと思ったからであろう。日本人は「恥の文化」と指摘した人がいた。聖徳太子は「和を持て尊し」と17条憲法に書いたのである。日本人の遺伝士には出アフリカのDNA全てが残されていると言われ、細長い日本列島には騒乱から逃れてきた人達が共生してきた国なのである。本来、競争社会に向かない遺伝子を有した国民が、戦闘的な遺伝子を持った子孫の支配者によって利己主義的な金儲けに走った結果が今の社会である。日本は必要以上に豊かな社会なのに常に不満を持ち、他人に対する思い遣りなど何処かに置いて来てしまったツケは大きい。電力供給や道路がなどが完全復旧するまで首都圏の経済は頑張っても地震前には戻らないので、大災害の犠牲者に対して喪に服し、改めて東北地区の復興計画を考える必要がある。この機会を失うと日本人は天から見放されると思われる。
今回の東北関東大震災で何が分かったか
2千年に1回の多発地震と大津波には臨海部におけるリスク対策は効果がなかったことである。公共投資事業は予算規模に限度があるので過去に起きた大きな災害を基準に従って行なわれているが、津波に対しても今回の様な大きな津波は想定していなかったと推定できる。今回の地震でこの想定を非難するのは簡単であり、現実的な点から犠牲者になった方々には気の毒だが、誰も責められない事でもある。しかし、津波に対して堤防だけでなく市街地内に幾つかの津波に対する対策を施していればと残念でならない。最近は公共レベルまで全て経済コストで考えられているので過去と比べてリスクが高まっているのは確かである。民間レベルは更に災害に弱い設備機器が導入されてきており、自然の怖さを忘れると災害が発生した時にはなす術がない。以前のblogで書いたが、建物の設備機器に無駄を省いたものがコスト面やデザイン面から採用されてきているが災害には極めて脆弱になっていることである。東京電力も福島原発に過度に依存したために電力供給で問題が生じている。集中投資は効率が良いが一旦何か起きれば痛い目にあうのである。大災害は効率一辺倒の社会に対する警告である。尤も、ソニー本社ビルは水対策を施していると思われる施設がビルの周りに配置されているとの情報もあり、もしそうであれば企業のリスク管理能力の高さが窺える。最近特にスマートと言う言葉やクールと言う言葉が流行しているが、この様なスタイルの設備機器は災害に弱いと推定できる。マンションの建築一つとっても屋上に給水タンクを持たずにポンプによる直接供給方式に代わって来ているが、計画停電で直ぐに供給が止まってしまう。トイレも然り。タンクを失くしたトイレが殆んどであるので、供給が止まれば直ぐに使えなくなる。環境面ばかり強調されるので二酸化炭素の排出が大きいガスは敬遠されてきているが、電力だけに頼る怖さが今回の災害で思い知らされた。災害に対しては全て効率が悪いかもしれないが分散化はリスクを下げる最大の方法である。幾ら技術が発達しても平時の備えでは災害に役に立たなく、天災は忘れたことに遣ってくるとは故人の教えである。何れは東京にも直下型地震が起きる可能性があり、建築技術が良くなってもライフラインが脆弱では意味がない。今後はどうすれば良いかを一人一人が考える事である。時には無駄も必要な事を知るべきであり、地球外探査衛生の「はやぶさ」がその教訓を与えてくれているのである。
中国歴史に生きる教え
科学技術が飛躍的に進歩した現代社会だが、人間の思想に関しては近代以前の時間にゆとりがあった時代を超えていないと言われている。勿論、最近はやたらと人間の行動などを分析してマーケティングに繋げる学問分野が隆盛となっており、自分の決断と思っていることでさえ、実際は情報ツールを通して動かされているので、人の考え方が進歩しているかどうかを議論するのは意味がないのかもしれない。しかし、中国の歴史における教訓を含んだ格言などは現代の社会でも十分に通用することであり、それらを理解すると特に競争社会においては自分を見失うことがないと思われる。先日、ある方の出版した本「昼マシは座って食べるな!」を贈呈されたのだが、その寄贈に際して「鴻鵠高飛不集汚池」の言葉が添えられていた。この熟語は正式には「呑舟之魚不泳枝流 鴻鵠高飛不集汚池」である。この熟語は大人物の心構えを意味しているが、著者が誰にも書いた言葉なのか、私に対して個人的に贈った言葉なのかは不明だが、私にとっては心すべき言葉と有り難く頂戴した。偶然であるが、本を寄贈される前に、塚本青史の「春申君」の本を購入した。この本の主人公は戦国四君のひとりと称される「春申君」で、楚の宰相まで登りつめ、強国秦と渡り合った英雄の書である。昔は戦に破れれば命まで失ったのである。このため、全知全能を駆使して考え抜いて事に当ったのであるから、その時代の教訓は現代でも十分に通用する重みのある言葉である。
錯覚の怖さ
人は色々な面で錯覚をする。現代社会は競争社会であり、競争社会では自信が裏づけとなる。しかし、この自信に対する見分け方に関して人は錯覚に陥る事が多い。特に、科学技術が進歩した社会では能力以上に見せる技術が出来た為に尚更である。当社の設計業務でも以前は図面は全て手書きで作成した。然し、今はCADが主流となり、幾ら優秀な設計士でもCADが使えなければ評価してもらえなくなった。実はこのCADが手書き時代と違い、設計における自信のなさを覆い隠している。面白いもので手書きの時には自身のなさが図面の線の強弱に出たものだが、CADになってからは消えてしまった。その他、手書きと違って細かい作業は用意されたものを当てはめる作業で良いので、経験の浅い設計士の場合には、実際の工事に必要な機器の納まりに不具合を生じてしまうケースが多い。これも錯覚の一例であろう。日常的な生活で詐欺師に騙されるのは詐欺師の自信に錯覚して信用した結果である。本来は詐欺師の様に自信たっぷりに言えないのが当たり前なのに、その事実を理解する人は少ない。今の時代はプレゼンテーションが仕事の受注に大きく影響される。このため、パワーポイントを駆使したプレゼンが多いが、このプレゼンにも錯覚が入り込む。尤も、能力の評価には実績を基にしていると言う反論もあると思われるが、実は過去の実績を見て判断すると言う作業は錯覚をしない一つの方法ではあるものの、新しい才能を否定するので良い選択にはほど遠い。何かの本で能力のない人ほど自信過剰になると書かれていた。技術の世界では自信過剰はリスクを隠してしまう事になるので怖い。競争社会では自信を持つ事が成功の道とまで言われ、誰もが自信を持った口調になる。これこそ正に錯覚の社会となり、大きなリスクを抱えることになる。
政治不在を考慮した行政機能の権限の問題点
厚生労働省が課長通達で処理した年金問題で世間を騒がしている。年金に関する事ばかりでなく行政側の国民に対する広報活動は受動的であるが、最近のトレンドの自己責任と言う考え方からすれば知る努力を怠った者が悪いとなる。しかし、行政サービスと言うことからすればサラリーマンから自営業に変わった時点で役所から専業主婦に対して年金加入の通知を出す位の親切があっても良いとは考える。前長妻大臣もその様に考えたかどうかは知らないが、行政側の落ち度として救済措置を講じたのである。しかし、その措置が不公平であるとの声が出たために急遽取り扱いを中止したのだが、今回はこの議論ではないので取り敢えずその問題を横において、本題の通達で処理したことに言及したい。本来ならば国会で議論する必要がある問題を簡単に課長通達で処理できる制度が官僚の権限を大きくし、惹いては国会議員の存在を貶めていると言っても過言ではない。では何故この様な強力な権限を官僚に持たせているかと言うと、日本国会の与野党対立の中で政治不在が続いたからだと推定できる。また、国民生活などに大きく影響がでる問題に関しても政治家は政治闘争で国民を省みないことが多いので緊急避難措置的に与えた権限と考えられる。しかし、この権限は考え方によっては国会を軽視しすることになり、三権分立の考え方を根本から揺るがす問題でもある。先の年金問題も正式には法律を改正して対応するのが当然なのだが、すべての議論を政争の具にされると言う観点から、法律の改正を待っていたのでは遅すぎると言う理由で現場処理しており、その正当性を与えている。政治家が官僚から政治を取り戻すと言う声が最近頓に聞かれるが、政争ばかりで政策の議論をしない国会の存在が官僚に権限を持たせたことを知る必要である。民主党が政治主導を唄って政権に就いたが、行政の何たるかも知らないで民間のビジネスモデルを持ち込んでも行政は機能しないのである。国民は官僚を非難する前に如何に政治が機能していなかったかを知るべきであり、その上で官僚に持たせた権限の必要性を論じる必要がある。勿論、官僚組織は規制しないと増殖する習性があるのだが、これに関してもチェックするのは政治である。国民の一部には前原外務大臣の辞任に対して金額が小さい事を理由に庇う発言が聞かれたが、法律を守るということは金額の多寡ではないことを肝に銘じるべきである。今の政治には時間軸の速さを正当事由に「言葉の重み」など否定する風潮にあるが、政治家が「言葉の重み」を否定したら社会に欠かせない信頼がなくなくなる。最近のマスコミなどは平気でマニフェストを否定しても問題ないと書いているが、国民に対する約束を破るなら如何なる理由があろうとも議会を解散して国民に信を問うべきである。長期政権が出来ないために日本経済が低迷しているなどと言う幻想を国民に持たせているが、今の日本が駄目になった理由は正に「言葉の重み」を省みず、平気で約束を破る社会になったからである。それは政治とマスコミの責任である。官僚を悪者にしても何の解決にもならない。
日本政策投資銀行の職員のTV出演時のコメントに唖然
日曜日の午前中にTBSの番組でサンデーモーニングと言う番組がある。6日にはゲストとして日本政策投資銀行職員の藻谷と言う者がゲスト出演していた。司会の関口宏が当日の多彩なゲストに対して色々な出来事に関してコメントを求めるのだが、藻谷ゲストも幾つかのコメントを述べていた。この藻谷ゲストは日本のデフレ経済は人口減少で起きていると言う見解の本を出版した話題の人物であった。幾つかのコメントのうちに日本経済の景気回復に言及したときであるが、彼は政府の対策には限界があるので、景気を良くするには国民一人一人と企業が持てる資金を景気回復のために使うことを考える必要があると発言した。この発言は正論の様に思えるが、実はこの発言では日本経済が低迷から脱しきれない重要な点を取り上げていないのである。何故企業や国民が前向きにお金を使わないかは政治不信があるからである。将来に増税や年金支給の時期や金額に不安がある社会で国民はお金を使わないし、政治家が国家のグランドデザインを示さなければ企業は投資できないのである。国民誰もが景気回復にはお金を使う事くらい知っているのだが、政府系金融機関に勤務している藻谷ゲストには理解できないらしい。藻谷ゲストの発言の裏には企業と国民の"おねだり"先入観が根底にあると考えられる。赤字国債が増加するにつれ増発の責任を国民に転嫁する様な発言が出てきているが、国民は国家予算についての知識などないし、予算を動かす力もないのである。碌でもない政治家を選らんだ責任はあるとしても、実際の国家予算は国民などを無視して政治家と官僚が決めてきたのである。自分達の責任を回避した発言は言語道断である。先の藻谷ゲストの発言を聞く限り、彼が書いた本も偏った考え方に基づいたものと推定できる。