年末オムニバス

民主党政権3年を問う選挙で今年の幕が下りることになったが、日本の失われた15年の立役者は小沢一郎という政治家の存在に尽きる。田中角栄という土建型政治家の下で学び、政治家としては政策立案能力を見せることはなく、徹底した政争政治家であった。自民党の単独政権が諸悪の根源として二大政党作りに政治家もマスメディアも踊り、その結果が分裂統合を繰り返し、結果的に生まれた民主党政権は野合の集まりで、1000年に一度の大災害である東日本大震災と副次的な福島第一原発の事故処理と震災後復興を等閑にし、民意を無視した増税に突き進み自滅した。政治は金と数と思い込んで政策など無視した最後の政治家の末路が小沢一郎と言える。今回の選挙で注目していた選挙区の一つに民主党元首相の管直人の選挙区があった。ここは東京都の国立市と武蔵野市の住民の選挙区であるが、今回の選挙結果は驚くべきものであった。それは管が善戦し、小選挙区では落ちたが比例で当選を果たしたことだ。東日本大震災の時の首相として無能なだけでなく、福島第一原発の事故処理に対して鎮静させるどころか彼の行動が被害を拡大してしまったからだ。今更言っても仕方がないことだが、管が首相でなければ少なくても原発1基の爆発で済んだと言われることは事実な様だ。私の故郷の茨城北部は福島第一原発から116kmに位置している。そこに居住する姉の飼い犬が内部被ばくしているのが昨年正月に偶然分かったが、現在は死の床に横たわっている。周辺地域の犬も足などに痛みを訴えていると言う話も聞くと、骨にセシウムが入った可能性は否定できない。管直人は原発事故を拡大させた責任を取るどころか、代替エネルギー法案を成立させたことを自慢するなど万死に値する政治家だ。それなのに東京都国立市と武蔵野市の住民の選挙で取った行動には日本の将来に不安を起こすものであった。そう言えば、国立市では法律的に問題がなかったのに住民がマンション建設に反対して後から条例を制定させて建築計画を変えた場所であったことを思い出した。

近年マスメディアは決める政治とか盛んに政治家を挑発しているが、民主主義とは何かを全く考えない意見だ。民主主義は手続きに時間が掛る制度だ。情報化時代で社会がスピードアップしたから政治も同様だと考えると民主主義の否定に繋がる。決められないのは社会の価値観が多様化し、複雑な社会になったからだ。マスメディアが決められない政治を攻撃すると結果的にアジテータ政治家の出現となり、政治が一層貧困化する。政治家が無能なので官僚が政治に口出ししてきており、意に沿わない政治家や議員立法に対してネガティブキャンペーンを行って国民を洗脳しておる。これは由々しき問題なのだが、記者クラブ制度の日本では利用されることがあってもその危険を訴えることはない。

安倍自民党政権の発足で経済再生に注力する姿勢を打ち出しているが、多くの人は本当に景気が良くなるか不安視している。民主党政権3年間の政治が如何に国民を裏切ったものであるか今更ながら驚く。私の個人的な見解では、安倍政権で景気は良くなると考える。理由としてはマスメディアが安倍政権を脱財務省とか論じているが全く筋違いと思うからである。財務官僚は民主党野田政権で悲願の増税法案を通したので今後は実施に向けた環境つくりと思われる。国民は財務官僚に騙されているので、円高は増税を実現するために財務省が仕組んだものと疑問にも思わない。その点から言えば、増税法案実施の条件の景気回復を実現するために財務省は動くことになり、それは選挙前の円安株高で良く理解できる。安倍政権の経済再生は増税の為の道標であり、脱財務省ではない。尤も、経済産業省の改革派と呼ばれる元官僚がTPP参加や電力自由化の拡大、更には国民の為にならない規制緩和を仕掛けなければの話だが。財政しか考えない財務官僚は失われた15年のA戦犯だが、経済産業省もグローバル経済を読み誤った政策を続けて産業界をリードしたのでB級戦犯は免れない。

 何れにしても、二度目の登板となる安倍政権は財務大臣に麻生さんを就任させたことで経済再生の意気込みが伝わる。麻生さんが平成の高橋是清になるのを願うばかりだ。笑ったのは石原伸晃を環境大臣に任命したことだ。今回の安倍総理は良く考えている。久し振りに期待出来る内閣と思われるが、後は米国対する面従腹背を成し遂げられるかだ。それはTPPと沖縄・普天間基地移設問題が踏み絵となる。この問題を上手く処理しないと短命内閣に終わる可能性が高いが、安倍総理は乗り越える自信があると思われる。期待したい。

朴槿恵さんの韓国大統領選挙の勝利を祝す

韓国の大統領選挙で朴槿恵さんが勝利したのには感慨深いものがある。私は彼女の父親が大統領であり、不幸にも側近に暗殺された時に日韓経済交流の仕事に携わっており、ポスト朴の情報を上司から命じられたが、その後の予想もつかない展開に翻弄された苦い思い出がある。今回の大統領選挙に朴槿恵さんは父親の軍事政権時代と戦前の日本軍人としての経歴を糾弾され、心ならずも謝罪した苦痛には同情を禁じ得ない。軍事政権以降で野党側から選出された大統領の殆どが歴史の見直しを行い、戦後50年以上経過したにも拘わらず、恰も昨日の如く対日協力者が資産まで収奪されるのは決して未来志向の姿ではないと思われた。時代時代において人は生きるために行動するのであって、現在の様な民主国家の成立以前の国において反国家的な問題で糾弾することの誤りに気づいていない。歴史学者の誤りは現在から過去を見て分析する姿勢と言われている。確かに、現在から過去を見るとその後の経過を見た者にとっては幾つかの選択肢が見えるが、過去の時点ではその選択肢が考えられたどうかは疑問だ。韓国の民主化は1987年6月29日に盧泰愚大統領の民主化宣言で初めて実現したのである。何故民主化が遅れたかは自明の如く隣国の北朝鮮と軍事的に対峙していたからである。朝鮮戦争を挟んで政権を担当した李承晩大統領時代の韓国は現在のアフリカ諸国より貧困であった。この状況を憂いた若手軍人が軍事クーデターで維新を断行し、その後日韓国交回復を果たして経済成長路線を築いたのである。その立役者が朴槿恵さんお父親であった。漢江の奇跡と言われた高度経済成長を実現し、今日の韓国経済の礎を築いた功労者であったことは事実である。特に、清貧な軍人政治家であり、後の歴代の大統領の様に親族一党で資産蓄積に走った者たちとは大きく違ったのである。何時のどの様な時代もそうだが、人々の欲求には節度がなく、何かを得られれば別なものが欲しくなる。政治は常に国民の何かしらの不満を受けなければならない宿命を持つ。勿論、この様な不満を持つことに対して国民が甘えているなどと言う政治家がいるが、国民から選ばれた政治家が言う言葉ではない。国民とはそういうものだ。しかし、戦後50年経過した後も対日協力者の弾劾を続ける姿は単に国民の不満を煽り、政敵を潰すのに利用していると見做されても仕方がないものである。その様な意味で、今回の大統領の選挙で朴槿恵さんが大統領に選出されたことは日韓関係のターニングポイントになる可能性が高い。日本に韓流ブームが起き、韓国民が日本に対して自信を深めた今こそ、日本と韓国が未来志向で経済的文化的交流を拡大し、相互繁栄する提携関係の構築が必要なのである。ちっぽけな島の竹島問題で壊してならない流れなのである。朴槿恵さんを大統領に選んだ韓国民は過去ではなく未来志向を求めたのである。日本国民もこれに答える必要がある。

経済産業省から資源エネルギー庁を分離すべきだ

経済産業省に資源エネルギー庁を所属させることは日本のエネルギー政策に大きな問題点を生じさせるばかりでなく、福島原発事故の誘因を作った電力自由化にも国民の為の真の自由化かどうか検証する必要がある。当世は規制緩和や自由化という言葉を使うと官僚の利権を壊し国民の全て利益になると思われがちだが、実態は必ずしもそうではない。日本維新の会の顧問の竹中平蔵の様な政治ブローカーの新たな利権を生み出しているケースも多い。国民は電力の安定供給に慣れ過ぎてこの状態が当たり前になっている。電力自由化を考える場合には先ずこの当たり前の疑問から考える必要がある。私も良い自由化なら賛成だ。問題は国が進めた電力安定供給の為に電力会社の過剰に抱えている設備投資だ。電力自由化や送配電分離に関して誰もそのことに言及していない。太陽光発電にしても高い電力を電力会社が購入しなければ成り立たない現実を考えれば、最終的に税金という形で国民に転嫁されることは明らかだ。現在でも国民は大企業に電力料金を安く供給するために高い使用料を強いられているのだ。これに関しても殆どの国民が知らない。経済産業省が進めている電力自由化は国民のためでなく、企業の為である。勿論、昔の様に終身雇用制が維持され、失業率の低い時代なら国民に高い電力使用料を課して企業に安い電力使用料金とすることには異論がないだろうが、金融資本主義になり、格差社会が現出した状況では、企業のために全国民が犠牲を強いられる必要はないという事だ。経済成長を遂げて世界第二位(現在は第三位)になる前は、電力の安定供給などなく停電も良くあった。この為に、重厚長大産業と言われる企業は自前の発電設備を所有していたのである。それが何時の間にか安い電力を供給するシステムが構築され、企業は電力設備を持つことがなくなったか、非常用に近い設備となった。原子力発電所の建設推進は企業に安い電力を安定的に供給するためのものであり、国民生活の向上は二の次であった。何故かと言うと、経済産業省に資源エネルギー庁が置かれたからである。経済産業省は国民の福利厚生のための行政ではない。企業の為の役所である。尤も、経済が良くなれば国民生活も向上するので、間接的には国民に為でもあるのだが、官民尊卑の思想が残されている官庁には国民とは犠牲を強いるものと理解されている。経済産業省の企業とは官庁の指導に従うものを指し、指導に従わない企業に対しては悪辣な嫌がらせをするのである。これに関してはホンダ創業者の本田宗一郎翁や出光興産の出光佐三翁が指摘している。グローバル化の中で電力自由化で安い電力を求めている企業の為に経済産業省は動いているが、過剰な電力設備の問題を考慮しないで電力自由化を進めたために、電力会社は経費節減に走り、必要な安全対策を怠ったり、老朽化した原発の稼働の延長を決めたことが福島原発の事故を招いたのである。東日本大地震直後は想定外の大地震のために起きた事故と言われたが、40年以上経過した原発の稼働延長や津波対策を指摘されていたのに行わなかったことに関する問題には言及されることはなかった。確かに、電力会社も政治家を使ったり、天下りの官僚を受け入れて行政に対する指導に従わなかった面もあったと思われるが、従わなくなった背景には電力自由化に端を発しているのではないかと思われる。日本原子力発電の東海第二原発は津波対策を施していたので間一髪で事故が防げた。東電の福島第一原発の津波対策が行われなく、日本原電の東海第二原発の津波対策が行われたかは一目瞭然である。理由は30㎞圏内の人口である。東海第二原発の30km圏内には80万人の居住者がおり、原発周辺の人口としては最も多いエリアだからである。何れにしても、全体を見て電力自由化を進める知見がなかったために起きたのが福島第一原発事故であった。資源エネルギー政策は国家的国民的なな視点から行うべきものであり、経済発展の視点からしか見れない経済産業省に関係部門を置くべきでない。原子力規制委員会は第三条委員会と経済産業省から独立したが、原子力だけ切り離しても意味がない。この際、経済産業省から資源エネルギー庁を分離独立させてから電力自由化の問題を議論すべきである。日本維新の会などは電力自由化を進めれば脱原発できるなどと戯言を言っているが、本当に国民を考えた議論をするなら、先ず経済産業省から資源エネルギー庁を独立させることが重要だ。

中央高速道・笹子トンネル崩落事故は民営化のツケ

今の日本は民営化を唱える人達が主導権を握っているので、笹子トンネル崩壊事故の本当の原因も隠蔽される恐れがある。その第一弾の記事が出た。打音検査は2000年以降行っていなかったという報道記事だ。小泉内閣が発足したのは2001年以降で道路公団の民営化はそれ以降の事なので、今回の事故と関係ないという正に予想された内容だ。少なくても、それが事実であったとしても日本道路公団が民営化を逃れるために経費節減を行ったという解釈も成り立つ。何れにしても、打音検査自体が経験豊富な従業員がいることを前提としたものであり、打音検査を辞めた理由は経費節減でなく、リストラによる年配者の経験者の切り捨てから生じた可能性も否定はできない。民営化も同様だが、米国主義の経験者軽視の社会にシフトしたマイナス部分だ。日本人は情緒的な国民性なので、いったん振り子が逆になると一斉にその方向にベクトルが動き止まらなくなり、盲目的になる。民営化問題も然りである。日本道路公団の問題は民営化でない有効な方法があったにも拘わらず、道路公団の改革は民営化しかないという方向付けがなされた。何故なのか。簡単である。民営化の方が簡単であり、株式市場の上場などの利権絡みで儲けることが出来るからである。日本社会の構造改革で抜け落ちているのは国民の安全という言葉である。国民の命に関係する高速道路に関して営団の民営化は適切かどうかの議論は少なかった。民営化により利益追求企業になれば経費節減が第一となる。勿論、経費節減とは理想論からいえば無駄な部分や必要以上に掛けている費用を削減して適正化図ることだが、実際には利益を出すために無理な経費削減が行われるのは普通だ。笹子トンネルの目視点検に関しては開いた口が塞がらないほど驚くが、人の命より利益を重視した結果であるので、今後とも起きる事故と思われる。リストラで経験者を切った時点で打設点検も効果がなくなり、本来なら赤外線点検が必要であったと思われる。2000年以降に打設点検が行われなかった理由を検証しないと問題点をぼかしてしまうことになる。国民は中央高速道路の笹子崩落事故は道路公団の民営化による起こるべくして起きた事故としてとらえないと同じような事故が再び起きる。話が変わるが、米国NYを襲ったハリケーンによる市街地の混乱は、公共施設にお金を掛けない考え方が原因であり、現在の日本では考えられない被害と言われておる。日本社会も間違いなく、米国の破たんの道を追っている。

政党の第三極Aチーム、Bチームの見方

ビジネス業界にBプランという言葉があるが、マスコミが滋賀県知事の嘉田由紀子さんが造る新党に結集する集団に対して命名した第三極Bチームの表現は面白い。第三極Aチームはもちろん橋下大阪市長が造った「日本維新の会」であり、第三極Bチームは嘉田知事の「日本未来の党」は承知の事実であるが、両方とも地方自治体の首長が造った政党であることは中央集権政治が地方を犠牲にした結果であることが分かる。民主党政権に対して国民が抱いた嫌悪感は政治的信念がなく、ぶれまくったことである。自民党、民主党以外の新しい政党に求めることは先ずぶれない事であると思われる。ぶれると言うことは政治的信念が欠如していることであり、ポピュリズムに陥るということであるし、それ以前に政策の勉強が絶対的に不足していることでもある。日本維新の会に危惧するのは、環境エネルギー問題の顧問として大阪市に迎えた飯田哲也さんが反原発で山口県の知事選に出馬したのに支援しなかったことである。支援しなかった理由は山口県選出の自民党の安倍晋三議員と提携の話をしていたからと推定されるが、瑣末なことと思われるかもしれないが、私としては橋下大阪市長の政治信念について疑問がわいた。その後、日本維新の会が石原太陽の党の合流で重要な政策などを曖昧化した事を問題視してなく、政治は数という旧来の考え方で政治を考えていることが良く分かった。この様な集団は形勢が不利になれば容易く空中分解することは目に見えている。第三局Bチームの嘉田滋賀県知事は経歴から判断して政治的信念がある人物と分かる。大学で農学部を専攻し、農業と環境に対しては専門家である。組織票を持たずに知事になったのは橋下大阪市長と似ているが、二期目に入った嘉田滋賀県知事は橋下市長の様なアジテータ-手法でなく、正に地についた手法で県民の支持を得ている。脱原発を標榜しながらコロコロと変わる橋下市長に比べて嘉田知事の"卒原発"の主張は現実的である。日本未来の党に先の飯田哲也さんが副代表で加わる話もあり、それが実現すればエネルギー・環境に関しては非常に大きな力となることは間違いない。既成政党の如く数の論理を優先して国政に参加する日本維新の会より、政治的信念をもって国政に参加する嘉田知事の日本未来の党の方が国民にとっては信頼できるものと思われる。ビジネス界でも実際に評価されるのはBプランなので、政治でも第三極はBチームに期待したい。

円の為替問題

私も最近まで円安論者であったが、ここにきて世界経済の動向を見ると円高を維持する必要があるのではと考え始めた。円高でも地獄、円安でも地獄なら円高の方が、比較論からいえば、日本は救われるのではないかと。ミスター円と言われた榊原元財務官は今は円高論者である。当社の様なドメステックな会社からすれば円高は過去の経験から判断して厳しいのは事実である。18年前の経済バブル崩壊後の不思議な円高を経験しているので特に円高には否定的になっている。しかし、リーマンショック以降の世界金融と過去の円高の時とはかなり違う状況と考えられ、輸出推進主義者の様な円安一辺倒の考え方は間違っていると思うようになった。リーマンショック以降の欧米は景気対策で通貨供給量を大幅に増大させた。欧米諸国は当初は数年で景気回復基調に乗り、過剰流動性となった通貨を市場から引き揚げる算段であったことは間違いない。ところが、5年を経過するのに一向に景気が回復しないどころか更に通貨を市場に供給しなければならないほど肝心な所では通貨が不足になったと同時に、欧州の国々のソブリンりスクが台頭してきた。日本はリーマンショック時には平成ミニバブルと程よい円安を享受していたのと、財政再建の御旗があったことと、更には米国経済の景気対策の側面支援もあり円高に対しては容認政策を推進した。冷静に考えれば、多くの工場が海外移転した日本では輸出産業に関しても過去の様な円高の影響は少なくなっているのは確かであり、組み立て用の部品の一部を海外の工場から輸入することを考えれば輸出に対する円高危機と呼ぶには全く環境が違ってきているのが分かる。

翻って、少子高齢化社会で年金生活者が年々増えている現況を考慮すれば、円高によって物価がデフレになっていることは歓迎すべきことではある。特に、世界経済が通貨の過剰流動性になってエネルギー資源市場や食糧市場に投機資金が流入して価格を上げている状況を考えれば円安が日本経済、いや日本国民に及ぼす悪影響は大きいものとなるのは間違いないと思われる。

勿論、為替問題は一筋縄では行かない代物であり、現況の円高は日本経済の強さではなく、単に通貨の供給量不足なのは日銀の二度の景気対策の通貨供給量増加で多少の円安になった事でわかる。為替操作は一国で対応できる代物ではないことも真実であり、隣国の韓国の経済対策でウォン安が招いた結果を見る限り、現代の世界経済が過去の様に通貨安だけでは解決出来ないことが分かる。少なくても、韓国を見る限り、今の世界経済の動向から通貨安でなく通貨高の方が国家の経済は安定することが分かる。そうは言っても、米国のノーベル受賞者のFRBバーナンキ議長はドル安で景気対策を行っているのを見ると有効なのは否定できないが、反面、米国では物価が上昇し稼ぎに追いつかに現象も生じている。バーナンキ議長は資産デフレを深刻にしないために物価上昇を容認していると推定できるが、日本の場合は急激な資産デフレが起きていない状況なので、通貨安の物価上昇の方が経済にマイナスとなると思われる。しかし、円高容認も中国経済が好調であったことが前提と考えられ、東日本大震災の回復による需要も期待したほどでない状況を考えれば、円安誘導も仕方がないと推定できるが、問題は適度な円安が操作できない為替の難しさを政治家が分かっているかだろう。総てを壊すのは何時の時代でも政治家だ。

維新の幻想

橋下大阪市長が日本維新の会と言う政党を立ち上げた。日本社会では維新と言う言葉で想起するのは"明治維新"と思われる。昭和初期にも軍人と一部民間人が昭和維新(2.26事件)を掲げて立ち上がったが、失敗した。確かに、世情が混沌として将来に不安が蔓延すると維新と言う言葉は魅力的に聞こえる。昭和維新には思想的的指導者の北一輝などがおり、確かに大きく日本社会を変える思想を持って立ち上がった。維新は「変革」、和語では「これあらた」であるが、明治維新の時には欧米の近代社会が変革に値する目標になり、正に社会制度の変革が人々の意識の変革まで作用したのである。では、現代日本で維新とは何かを考えると、人々の意識まで変革できる社会モデルが存在しないことは明白である。規制緩和の促進や財政再建、更には憲法改正が維新であると思うならお門違いだ。橋下大阪市長及び同士が掲げる維新八策など維新に値する代物ではない。世界中の政治家や経済学者が未来社会を想像できない時代に思想と呼べる理論もなしに維新を掲げるのはアジテーターとしか理解できない。何度も言うが明治維新には西欧の近代社会モデルがあったから実現したのである。少なくても昭和に維新を掲げた人達にはその事が分かっていた。平成の維新にはどの様な社会を構築するのか全く見えない。実現したい政治思想がないからである。垂直的な社会から水平的な社会が情報化社会で求められているにも拘わらず、相変わらず行政組織が対応できていないことに起因する事に関して単なる規制緩和などでは解決しないことは明白だ。欧米社会も対応できていないので混乱しているのに、明治時代の時の様に海外に学べ的な論調が維新の根底にあるのは笑止千万だ。橋下大阪市長には悪いが、お金儲けに専心していた人が哲学が必要な社会変革の勉強をしたのか聞きたい。本当に維新を標榜するなら情報化社会に必要な社会制度を構築する思想を発表する必要がある。そうでなければ百年以上掛けて構築された官僚組織を壊せるわけがない。民主党の様に国民に幻想を持たせて出来ませんでは万死に値する。馬鹿な政治家が冷戦が消失したから政治に思想が必要でなくなったとか、思想で判断できなくなったとか発言しているが、未来社会を想像するのに思想がなくて政治を行えるわけがない。政治家と官僚の大きな違いは正に此処にある。それを知らない政治家など選挙で落とすべきだ。

正規分布社会からべき乗分布社会への移行は本当に正しいのか

日本社会の今の苦しみは正に戦後に日本が作り上げてきた正規分布社会を否定し、べき乗分布社会に移行するための産みの苦しみと言える。若い世代の人の多くは正規分布社会を社会主義国家として日本経済の停滞を招いた張本人と見做して非難する傾向が強い。しかし、正規分布社会に関しては、米国かぶれの若い世代は驚くかもしれないが、米国の若手官僚が戦後の日本で実験を試みた理想の社会モデルであったことである。勿論、白紙の状態で正規分布社会を植え付けることに成功したわけではなく、日本の若手官僚も国家社会主義的な考え方を持っていたことと同期したためでもある。何れにしても、戦後の日本は財閥が解体され、個人の資本家がいなくなり、企業の持ち合い株方式で企業利潤の追求が行われたが、この点も正規分布社会を作り上げる一因であったと思われる。欧米の資本家にとっては、共産主義国家を凌ぐ社会主義国家の出現は鬱陶しいものであったが、米ソ対立の冷戦時代には地政学的に日本を重視するしかなく、他国への波及がないことから黙認していたのが本音と思われる。しかし、冷戦構造消失し、軍事的に米国の独り勝ちになった時点で日本の社会主義的な正規分布社会を敵と見做すことになったと考えられる。その前に日本経済は為替問題で急激な円高を強いられて国内的にバブルが起こり、冷戦構造の消失後にバブルは吹っ飛んだために大きなダメージを受けていた。欧米の資本家にとっては日本の社会主義的な正規分布社会を壊す千載一遇と考えたかもしれない。余り陰謀説を強調すると主題から離れると同時に論点に関しても疑問を持たれるので推測はこの程度で終わりにするが、正規分布社会の崩壊は欧米の資本家にとっては歓迎すべきものであったのは事実である。つい最近まで経済は正規分布で成り立っていると考えられていた。正規分布の左右5%が異常値として無視できるとさえ言われた。しかし、リーマンショック後はブラックスワンなどの解説書が出版され、経済は常に異常値で変動することを言い出した。経済と社会はどの様な相関関係にあるのだろうか。子供のころに正規分布は学業成績の分布図と教えられたが、基本的に人の能力の分布は正しいことが証明されている。5段階成績評価では、2,3,4の成績で80%以上の大多数占める。最低の1と最高の5は少数である。人間社会の能力からみれば、正規分布社会が理想的であることが分かるのである。経済的な消費の観点からも正規分布社会であれば過去の日本の社会の様に80%の人が中流意識を持って購買力に期待が持てるのである。それでは当世風のべき乗分布社会に言及すると、経済的な富は20%の人に集中し、80%の人は平均以下の生活が強いられる社会である。この点からも消費が伸びて景気が良くなるという社会構造ではない。何を勘違いしたか、金持ちを作れば景気が回復するなどと言う戯言が蔓延したが、金持ちが投資したからと言って景気回復などあり得るわけがない。百歩譲って金持ちが生まれるとベンチャー企業に投資するので新しい技術や会社が増大し、景気回復に繋がるという考え方は間違いではない。特に、今の日本社会は行政が社会主義的な考え方が強く、大企業だけを見ているのでベンチャー企業が育たないことは確かだ。しかしながら、その点だけを見てべき乗分布社会が正しいとは言えない。日本は規制緩和前は競争社会でなかったと言うのも木を見て森を見ずの類だ。確かに、多くの業種に規制の網は掛けられていたが、網の中での競争は激しいものであった。公共事業の談合問題もインフレ時代を経験しない人達の認識不足だ。枝葉末節の議論ではなく、経済的には正規分布社会の方が良いか、べき乗分布社会の方の何れが良いかと言われれば、80%の人達が消費に動く正規分布社会の方が優れていると言わざるをえない。インターネットの出現で経済は否応なしにべき乗分布に移行せざるを得ないので、日本が正規分布社会に戻ることは出来ないかもしれないが、それでも理想的な社会は正規分布の社会主義社会と思われる。

冲方丁の光圀伝を読んで

冲方丁の「光圀伝」を読んだ。この作家は「天地明察」と言う本を書いた作家だが非常に博識だ。歴史小説は若い時は読んだが、年を取るに従って理由はないが余り読まなくなった。徳川光圀公、本名より水戸黄門の名前で親しまれた水戸徳川家の二代藩主である。長い期間に亘ってTBSTVで放送された典型的な勧善懲悪の水戸黄門ドラマで有名になったが、私自身は江戸時代の領地区分から言えば水戸藩の領地の出身にも拘わらず興味がなかった。理由の一つは出身高校の所在地が旧領主の佐竹藩の発祥の地であり、応援歌にも徳川でなく「佐竹源氏の白幡~」などの歌詞があることと思われる。それ以外にも、水戸光圀公の父親の時代に徳川に反抗する多くの民を殺した事が領民の心の中に残り、水戸徳川は占領軍的意識が潜在的にあるかもしれない。そうは言っても、私の母の母親の実家は水戸徳川に使えた武士の家系であり、母は時代錯誤的に平民出身の父に対して良く、私は士族の出だからと父に腹が立つことがあると言っていた記憶があり、水戸徳川家とは関係ないわけでもない。特に、明治時代には私の曽祖父が水戸家所有の山林の管理を請け負って木材切り出しで貢献し、水戸徳川家から銀時計を賜った経緯もある。この銀時計は祖父が戦前に満州から引き上げる時に馬賊に取られたと言われ、私は見たことがないのだが、幕末の時に水戸家の領主が徳川幕府の名代でパリの万博に行く途中にローマ法王に謁見したときにローマ法王から賜った銀時計であったらしい。今残っていたならば家宝に値する価値があったと思われ残念である。話は横道にされたが、今回光圀伝を読む考えに到ったのは、故郷の歴史上の人物に対して余りにも無知であることを思ったからであった。又、茨城の地に文武両道の教えが生きているのは、旧佐竹藩と言うよりは、水戸徳川家の教えと理解したからであった。光圀伝は歴史小説だが史実に基づいて書いていると言われ、読むにつれて徳川光圀公の偉大さに驚いた。同時に、日本人の欠点も余すところなく書かれており、太平になった世の徳川幕府を見ると、正に現代日本の政治家と官僚を表わしていると思われた。わが母校の近くに光圀公が隠居した西山荘や水戸徳川家の歴代のお墓のある瑞龍山も遠くない場所にあったことを思い出した。記憶では高校生ながら水戸藩主の隠居家屋の西山荘の粗末さに驚いたものである。光圀公は若いときには派手な衣装で江戸市中を徘徊し、暴れん坊であったと言われている。その後、文事に目覚めて学問を学び、当代一流の学者にも引けを取らないほどであった様だ。現代日本の政治家や高級官僚に欠けているのは武道の稽古で養われる胆力であり、当時の学問である論語、朱子学なのど「義」や「考」の教えであることが分かった。私自身は光圀伝を書店で見て不思議と迷いなく手に取り読むことになったのは何かに導かれた様な気がした。この時代のこの年で光圀伝を読んだ事が、今後のわが人生に大きな影響を齎すのは間違いない。光圀伝は自分が歩んできた生き方を振り返り、今後に生きる指針となる歴史小説と思われた。

百田尚樹氏の「海賊と呼ばれた男(上下)」を読んで

ノンフィクション・ノベル誕生と謳った標題の本を読んだ。読むと誰でも出光興産の創業者の出光佐三翁と分かるのだが、以前に読んだ出光佐三翁の伝記と内容的には変わらなかったが、ノベルにした理由は史実に近いものの裏づけ資料や主要な人物が既に亡くなっているために敢えて想像力を働かして真に迫ったからと推察される。尤も、事実と相違する歴史小説と勘違いされたくなくてノンフィクション・ノベルと言う範疇を作ったものとも思われるが、何れにしても本書は事実に近いものと看做せる。今の時代にこそ、出光佐三翁の様な日本人がいたことを思い出して現代の困難さに立ち向かう勇気が必要と思われる。少し前に、東京都の石原都知事が時代が時代だから随意契約など無視して解約しても良いと発言した新聞記事を見て、出光佐三翁が生きていたらその言葉に嘆いたものとおもわれる。いや、出光翁はこの様な日本人とも思えない日本人を多く見てきているので、石原の様な卑屈な日本人を憐れんだものと推測できる。最近読んだ雑誌で宇宙は計画的に出来上がった事が宇宙誕生時に発生したマイクロを分析して分かったと書かれていたが、その視点で言えば戦後の日本人に出光佐三翁と言う人物は天が与えてくれた存在と言える。然しながら、現代を見る限り、出光翁の教訓を生かしたとは思えない日本人ばかりが跳梁跋扈している。一企業人より国家の利益を常に考えた明治人の気概には感服する。勿論、明治人の生き方が総て出光翁かと問われれば否としかいえないが、少なくても明治生まれの私の母方の祖父(父方の祖父は私の生まれる前に他界した)は明治人の気概があった。今でも思い出すのは、3歳頃の記憶だが、祖母が2杯目のご飯のお替わりを私の意思に反して多かったので残したときの強烈な言葉であった。その言葉とは、「博文、お前は自分の腹が分からないのか」であった。現代のお爺ちゃんはその様な言葉を孫に投げかけるであろうか。明治人は物の大事さや他者を考えることを小さいときから躾の一つとしていたものと思われる。同じ様な話だが、子供の頃に大工の棟梁が弟子に夕方出された食事について出された物を手をつけて残したときに言った言葉も印象的だった。それは、"残すなら手をつけてはいけない"であった。アフリカ系の女性が日本語の「モッタイナイ」を世界に広め日本に逆流してきたが、私は祖父の言葉や大工の棟梁の言葉がモッタイナイとは意味が違うと考える。「モッタイナイ」は飽くまで自分のことや物が豊富にある事を前提としているが、「ご飯を残さない」や「残すなら手を付けない」には他者の利益と物不足を前提にしているからである。私が企業人として敬意を表している人に「出光佐三翁」や「本田宗一郎翁」などがいるが、この人達の特徴は官の理不尽さと戦ってきたということである。翻って、現代は官と戦うより、官と共同で利益を貪る輩ばかりが目立つ。この様に書くと、私が村上ファンドの村上やライブドアのホリエモンを評価していると誤解されると思われるので、念のために言うが法律を犯す行為を正当化する企業人を評価する考えはない。過っての日本人にはスケールが大きな人物がいたのである。グローバルな時代にこそこの様なスケールの大きい日本人の生き方を学ぶ必要がある。士魂商才は出光佐三翁が生涯を貫いた思想である。そう言えば、当社と出光興産は一つの共通点がある。当社の社訓にある「社員は家族であると言う家族主義」である。人を大事にしない企業が栄えるわけがないことは確かである。

表参道で今年も9月24日~10月28日に「NORA × Haisyakkei」の展示会が開催

東京都渋谷区表参道に所在する有名サロン「NORA HAIR SALON」と現代美術のアート集団「Haisyakkei」のコラボレーションで現代美術のアート展が、9月24日~12月2日の日程でNORA HAIR SALON内(東京都渋谷区神宮前5-1-6 イルパラッツーノ表参道1F)のSPACEで開催される。芸術の鑑賞は好きだが、作品つくりとは縁のない私が標記の展示会をご案内するのは不思議と思われるかもしれないが、茨城県取手市にある「拝借景(Haisyakkei)」の借家の大家さんが当社のお客様と言う関係からです。お客様は大家さんでありHaisyakkeiの活動の支援者でありと言うことです。偶然ですが、このblogでもご案内しているので"あれっ"と思った方はいるかもしれませんが、毎年10月に表参道で開催されている表参道アートフェアの中心企業のアッシュ・ペー・フランス㈱の社長さんとは親しくしており、お二人が同じ表参道でアート展を行い、日本の文化普及に貢献しているのには驚きました。現代美術と言うことから言えば、私の親しくしている方に原美術館の関係者がおります。伊香保にも別館があり、何度か案内されて現代美術については説明をうけましたが、作品の創造性と事業家としての創造性に共通点もあると感じたものです。取手の大家さんは、お客様の奥様になります。お客様は二代目で、亡くなられたご尊父様は当社の成長においての恩人であり、ご子息の奥様が私と同郷とは不思議な縁を感じます。先日読んだ雑誌で宇宙に飛び交っている宇宙誕生36万年後のマイクロ波を分析すると、宇宙の誕生とその後は予定されていた結果とになっていると書かれていました。驚くべき結果に学者は真実かどうかは今後の研究に委ねることにしたそうだが、宇宙創世記に地球と人間の誕生が決められていたとは、人生で限られた出会いの意味を考える必要がありそうです。なお、「6次の隔たり」と言う言葉もあり、6人知っていれば世界中が繋がるらしいので、私のblogを読んだ少数の方が展示会を宣伝していただければ広く伝わりますので、何卒ご案内をお願いいたします。

㈱ユーハイム主催の第31回「ゲーテの詩の朗読会」について

今年の夏も㈱ユーハイムから「ゲーテの詩の朗読会」の案内状を頂いた。何時から河本社長ご夫妻から案内状を頂く様になったかは日記や手帳の類を一切付けない私としては定かでないが、少なくても20回以上はお誘いを受けていると思われる。ご案内を頂いたが都合が悪く参加できない時は知人に差し上げて大変喜ばれた思い出もある。今年は31回目を迎えた「ゲーテの詩の朗読会」であるが、昨年の第30回の時には悲しいお知らせがあった。同会の第1回目から審査委員長を務めてきた慶応大学名誉教授の宮下啓三さんが病にも拘らず委員長としての役割を果たし、委員長の職務が最後である事を自ら告げた。宮下さんが今年5月6日に亡くなられたことを知り、最後まで同会の委員長としてウイットに富んだ講評には頭が下がる思いがした。そして今年8月25日(土)に第31回のゲーテの詩の朗読会が開催され、新しい委員長として東京大学大学院の准教授の石原あえかさんの名前がプログラムに掲載されていた。同会は年々選抜者の決勝大会のレベルが上がり、一般審査員としての評点が難しいのを感じた。尤も、学生時代から余り詩を親しんだことがない私にとっては評価の基準が曖昧だったこともある。しかし、今年は隣の席に偶然に河本ご夫妻の三男のお嫁さんのご両親が座られたので、ご主人様とゴルフなどの雑談も行い、何時もの緊張感から開放された気分もあった。それでも入賞者と私が高得点を与えた人とは開きがあったらしく、一致したのは5人の内1人だけであった。入賞者に対する表彰式も終わり、最後に新審査委員長が総評と委員長就任の経緯を述べたのだが、この中で印象的だったのは故宮下前審査委員長が石原新審査委員長を推薦したことであり、石原さんは宮下慶応大学名誉教授の愛弟子であったことである。流石に宮下慶応大学名誉教授が推薦した石原さんの総評は素晴らしかったが、同時に来年以降の私の一般審査に関して大きなヒントを与えてくれたことである。今までゲーテ自身に関してとゲーテの詩に関しては区別のことなど関係なく感性だけで評価していたのだが、大きな間違いをしていたことに第31回に参加して漸く気づかされた。勿論、来年以降もご案内状を頂くことを前提にしての図々しいことだが、来年は入賞者と私の評価が大分近づくのではないかと期待している。それにしても、多くの大企業が目先の利益だけを追求する時代に、㈱ユーハイムは31年に渡り、創業者の出身のドイツ国の詩人の詩の朗読会を続けるという文化的な活動には敬意を表したい。河本社長は若いときに教育学者を目指したことを聞いたことがあるが、経営者としてのレベルの高さは若い経営者などは足元にも及ばない。手作りの美味しいバームクーヘンを定期的に注文する位ししか出来ないが、立派な経営者の商品を使うことが日本を良くする事だと思うので、微力ながら応援したいと思う。

石原都知事が固定資産税等を下げられる理由を作ってくれた

東京都は石原知事の指示で東京電力に売電している水力発電所の随意契約を打ち切って25年度から競争入札で売電先を切り替える方針を打ち出した。この切り替えが何故固定資産税等を下げられるかと言うと、この随意契約は2009年度から2018年度の10年間にも拘わらず一方的に破棄してのもであるからだ。石原知事によれば、時代が時代だから随意契約など守る必要がないとのことである。この論理を斟酌すれば、状況が変わればその対応には契約など関係がないと言うことであり、固定資産の価格も現状では大きく下がっているので、見直し期間などに拘わらず、都民は都に評価替えを求めることが出来ると言うことになる。都の地価は高い水準のままであり、今秋には道路用地の買収に係る土地評価に関しては下げる計画だが、この評価替えも現状に合わしたものとはならない高い水準の評価替えと見られている。幾ら随意契約でも契約は契約だ。これを無視できるなら、法律なども同様なはずだ。当社は今後固定資産価格の見直しのコンサルタント業務を立ち上げ、都と交渉に当たる考えだ。時代が時代なら約束守る必要がないとの知事のご託宣を頂戴したので、非常にありがたい。企業も個人も是非当社に固定資産税・都市計画税の引き下げの相談に来られたい。全力を挙げて固定資産税・都市計画税の引き下げに当たります。勿論、この業務は成功報酬で結構です。実現した場合のみ報酬を頂戴いたします。

誠に、石原都知事は庶民の味方だ。正当な値段が時代に適ったものなので、契約など破棄してよいとの事だ。都民は都内の企業は都と契約を結んでいる関係だ。その契約を破棄しても良いとの事なので、皆さん頑張ろうではないか。

韓国大統領候補の朴槿恵に対する米国の卑劣な動き

韓国で大統領候補に朴槿恵さんが選出された。朴槿恵さんは漢江の奇跡と言われた経済成長を実現した朴大統領の長女である。私が20代の時に日本と韓国の経済交流に携わった時の大統領であり、然も暗殺されると言う事件に遭遇したので今でも鮮明に当時の事を記憶している。朴大統領はクーデターによって政権を樹立し、その後長期政権を維持していた。然し、長期政権に有りがちな側近たちの腐敗も指摘されていたが、朴大統領自身は金銭的に綺麗な人物と評価されていた。この事実は暗殺されてから資産らしきものは軍人時代に購入した家だけであったことで証明されている。朴大統領の暗殺に到った背景は、当時冷戦時代にも拘わらず世界平和を唱えた米国民主党のカーター政権との意見の相違が原因であった。米国にとっては極東の小国である韓国の大統領が米国の指示を拒絶することなどは思いも拠らないことであり、言語道断なことであった。然しながら、北朝鮮と対峙し、北朝鮮の武力スパイに大統領官邸周辺まで攻撃された朴大統領にとっては幾ら米国の指示とは言え、韓国の民主化を受け入れる状況にはなかった。敬虔なクリスチャンで平和を唱えていても所詮はカーターは米国の大統領である。言うことを聞かない朴大統領の排除を計画し、在韓米軍を動かして韓国軍の参謀長など朴大統領の側近を裏切らせて暗殺を実行したのである。米国の思惑通りは暗殺まで、その後は朴大統領が可愛がっていた全斗換の逆クーデターで暗殺に関与した一派は排除され、米国の計画は元の木阿弥に帰したのは周知の事実である。尤も、朴槿恵さんににとっては母親が在日韓国人のテロリストに暗殺され、父親までも暗殺される二重の悲劇に見舞われていることを考えれば、国会議員となり、今回大統領候補に到ったのは感慨深いものがあると推察される。勿論、米国が民主党政権であり、今でも北朝鮮に対する使者などに元カーター大統領を重用している状況を考えれば、朴槿恵さんが大統領になることは懸念すべきものと推定できる。特に、米国はアジア重視で経済と軍事力のウエイトを高める計画であるので、本音としては大統領選出を阻止したいものと思われる。李大統領の竹島訪問は米国の差し金であり、万一でも朴槿恵さんが大統領になっても日本と韓国が今以上の親密な関係になることを阻止する計画と推察できる。米国は朴槿恵さんに父親の朴大統領の影を見て復讐に怯えているのであろうか。米国の民主化など自国の企業の利益追求に過ぎず笑止千万だ。今後とも米国は韓国の支配に策謀を巡らすであろうし、日韓中の連携を妨害する工作に従事するものと予想される。私は朴槿恵さんが米国の卑劣な動きにも負けず韓国の大統領になり、二重の悲劇を超えることを願うばかりである。

大局観で見る日本の領土問題

ロシア首相の北方四島の訪問から始まった日本の領土問題は竹島から尖閣諸島に拡大し、日本国内の世論は俄か愛国者の出現で騒々しくなった。日本を取り巻く領土問題は3地域だが、それぞれに関して性質も相手国との関係も異なるので、同じ視点では議論が出来ない。マスコミを通すと総てが同じ扱いで議論されるので間違った世論が起き易い。面白いことに、領土問題で日本に如何なる対抗もできないロシアと韓国が実効支配しているのが違いと言えば違いだ。マスコミなどは日本の経済力が弱まったので、日本頼みの経済発展を必要としなくなり、日本に強行に出て来たと皮相な解釈を行っている。この様なメディアの解釈が今回の領土問題の一連の動きの本質を見逃し、日本を間違った方向に導くのは戦前と同様だ。政治とは何か。政治は何を必要としているかの観点から今回の事件を読み解く必要がある。日本は政治の浄化と称して政治と企業の結びつきを薄くしたために見えなくなった一面がある。民主主義の旗頭の米国を見れば一目瞭然だ。政治家とは企業の利益を代行した存在と言うことだ。歴代の米国大統領は支持者の有力企業の為に政策や他国に対して色々な圧力を掛けてきている。中国は共産党の独裁なので企業と一体なのは誰もが知っているが、民主主義の国々が中国と同じと思わないことが間違いの始まりだ。過去を学ぶことが未来を読むことだとは先人の教えだが、正に最近の国際情勢を取り巻く動きは戦前の植民地主義を髣髴させるものがある。勿論、今の世の中で昔の植民地主義が同じように復活する事はありえないが、現在中東で起きている民主主義の嵐と同じ現象がハワイで起きたことを考えるものは少ないと思われる。明治維新にハワイのカメハメハ王は日本の皇室に姻戚関係を求めてきた。その理由は米国による王制の打倒が予感されたからであった。然し、日本はハワイの申し出を米国を刺激するものとして断った。この為、米国在住のハワイ人と米国人の偽りの移民がハワイで武力蜂起してハワイ王制を打倒し、米国の領土にした歴史がある。米国のやり方は昔も今も全く変わらないのには驚く。ハワイ方式の遣り方が直接関与していないように見せかけるのに最も良い手だと思ったからであろう。翻って、イラク、アフガニスタン、リビア、そしてシリアに目を転じれば、民主主義の革命が全くハワイ方式であるのが理解する。亡命している人達に資金と武器を与え、裏では正規軍をカムフラージュして国内に潜り込ませて戦闘を有利に導く方式だ。それでは何故民主化を強引に進めるかというとリーマンショック後に発生した金融危機の後遺症を克服するために独裁国で自由貿易でない国々を民主化という旗印で荒廃させ、その後の国土復興で欧米企業が稼ぐ図式を描いているからだ。

短気な方ならば、中東の民主化と日本の領土問題と関係があるのか言われると思うが、世界の政治は企業と連携しているので各国の日本を見る目も当然に同様と写っている。欧米各国は景気回復に躍起になっており、欧米諸国は日本に対しては円高で企業の力を弱め、欧米はドル安、ユーロ安で輸出の拡大を目論んでいるが、彼らにとっては思わぬ誤算が起きていると推定される。ひとつには、円高により日本企業が欧米の不動産購入や欧米企業のM&Aを推進し景気回復の手助けになる思惑が違った方向に向いていることである。二つには、東日本大地震と原発事故で多額の資金が国内の復興に使われることになり、円高が助長されたと言う点である。三つにはこの必要以上に強くなった円が欧米でなくアジアに流れ込み中国の市場ばかりでなく、アジア市場も日本企業が席巻する勢いになったことである。アジア市場にウエイトを置きつつあるロシアがいち早く気づき北方四島で揺さぶりを掛けてきた。更に、韓国の李大統領もウォン安で輸出の拡大を図ってきたが、アジア市場の投資にはこのウォン安がマイナスに働いている事がわかり、慰安婦問題などを取り上げて心理的な面で日本企業のアジア市場の席巻を阻止する動きに出ていたのである。その集大成が竹島問題や天皇に対する謝罪問題の発言である。尖閣諸島問題は中国政府の意向とは違うものと推察される。今年10月に体制の交代が行われる時期に日本と事を構えている余裕はないはずである。胡主席の反対派が起きしたとする説も違うと思われる。香港の中国人活動家に資金を与えた人物と企業は誰かと言う問題に突き当たる。この問題を冷静に読むと、米国に行った石原都知事が滞在先で尖閣諸島購入問題に触れた点で理解できる。米国の中国に対する揺さぶりは殆どが米国在住華僑によるインターネットを駆使した動きである。香港は長い間英国の租借地であったことを考えると、香港在住の中国人活動家がCIAの手先と考えられなくもない。中国本土からでなく、香港から動きが出ることに要注意である。尖閣諸島問題は米国とっては中国政府と日本及び日本企業を揺さぶれる一石二鳥の手段である。李韓国大統領は退任後には米国企業の顧問になるかもしれない。

何れにしても、三箇所の領土問題はマスコミなどが喧伝する内容ではなく、もっと奥が深いことを理解しないとロシアと韓国と中国と険悪な状況になり、多くの国益を失う恐れがある。アジア市場は韓国企業や中国企業などアジア諸国の企業と連帯して行い、欧米などの陰謀に負けないことが重要だ。

 

日本はロンドンオリンピックで浮かれてて良いのか!!

ロンドンオリンピックで沸き立っている中で、日本経済には想像を超えた逆風が吹いてくる予感がする。円高が定着した状況で資産デフレがオフィスビルの賃料下落と言う形で次第に大きくなってきており、更に電気料金の値上げが経費節減と言う経済縮小を助長し、且つ欧州の経済悪化が中国など新興国の経済成長を縮小する要因となってきている。中国バッシングで浮かれている内に、中国経済に依存した日本経済なのを思い知らされる時が近づいている。中国が駄目ならベトナムがあり、ミャンマーがあると嘯いている輩がいるが、果たしてそうだろうか。海外に目を向ける前に、現在日本に起きている現象を冷静に分析する必要がある。日本経済は民間企業はリーマンショック(2008年)の清算を行ってきたが、行政は今年に入り漸く着手した。地方の自治体などは分譲造成地などの価格を40%以上の価格引下げで時価に近づけている。然しながら、中小企業融資法案による貸し出しに伴う不良債権は全金融機関で50兆円とも言われ、来春から本格的に処理が始まることを考えると15年前のバブル経済崩壊後の資産デフレの悪夢が再来する可能性は高い。今年に着手した行政の土地価格の引き下げなど無に帰してしまうほどの下落もありえる。資産デフレの進行する過程で中国経済の大幅な減速に直面した場合、日本経済は消費費税増税の一体改革など出来る状況にはならないのではないか。石原都知事などが浮かれて尖閣諸島問題で中国と対立を煽っているが、米国以上に互いに依存している経済を無視して政治的対立を助長した場合のリスクは計り知れない。東京都などは都内の道路建設の用地買収を進めているが、買収価格は時価と比較するとかなり高い価格となっている。今秋に価格の見直しを計画しているが、現在起きつつある資産デフレの速度から見れば今後とも後手後手に回ることは必須だ。石原都知事は東京オリンピックを未だ諦めていないようだが、資産下落による都税収入の急激な減少が起きる可能性を考えれば多分吹き飛んでしまうと思われる。日本国民が考えている以上の日本経済の急激な悪化が近づいているのを危惧するが、高齢化社会になり,年金生活者が増大するに連れて危機感が薄れてきている様だ。昨日、セメント業界に詳しい人とランチをしたが、日本のセメントの出荷量はベトナム以下と言っていた。東日本大震災後の出荷量も1割程度増えた位と経済に与える影響は少ないようだ。政治家も官僚も花見の宴が続いており、未曾有の国難が迫ってきているのにも気づかない。心ある人は今後の悪化に備える必要がある。

ロンドン五輪の柔道に見る日本が駄目になった理由

オリンピックなどには興味がないので余り見ないのだが、以前と比べてTV番組の貧困さから今回は自然とオリンピックの競技にチャンネルを置いているケースが多くなった。久し振りに見た柔道競技で日本選手の柔道の変わりようには驚いた。柔道の本質を忘れて力任せになっているのを見ると、日本自体も経済大国と言われて久しいが、経済大国になり何時の間にか力技だけになってしまったのかもしれないと考えた。体の大きい人や力の強い人が勝つなら武道などやる意味がない。小さな人が大きな人を力のない人が力のある人に勝つからこそ妙味があり、鍛錬する意味がある。ひとつ救いだったのは、天才柔道家と言われた岡野功の弟子である選手が力技の柔道でない一面を見せてくれた事だ。岡野功さんは現在茨城の流通経済大学で柔道を教えているとのことだが、私の故郷の茨城出身なので彼が柔道の本質を継承してくれているのが嬉しい。柔道の本質は相手の力を利用して投げるのであるが、柔道が国際競技として認知されて行く過程で力技の競技になり、日本の柔道を指導する人達も何時しか柔道の本質を捨てて力技の舞台に乗ってしまった。日本の柔道が勝てなくなった理由を勘違いした結果というには余りにもお粗末過ぎるのだが、その様に考えるに到った背景には経済大国となった日本人の意識が反映しているものと思われ、弱いものに対する思いやりや配慮がなくなったことに起因しているのではないか。日本人が無謀な太平洋戦争を引き起こしたのも明治維新後に日清戦争、日露戦争に勝ち実力不相応の大国意識を持ったからであった。柔道の本質である相手の力を利用する技は謙虚さから生まれたものと言える。柔道と同様に相手の力を利用する武道に合気道がある。合気道の凄みは相手の力で投げる技である。日本の柔道も合気道を学べと言いたい。私の父と義父も柔道の有段者であり、確か義父の方が段は一段上であった。結婚前の挨拶に両親とパートナーの実家を訪れた時に、父が部屋に飾ってあった講道館柔道の段位の額を見て急に話が和やかになった記憶がある。父も十代から柔道を始め、大学で学徒出陣までの間柔道をやった猛者である。高校時代には茨城県を代表して全国大会に出場した実績があるが、義父の講道館の段位には敬服した様であった。私に父が柔道を勧めなかったのは上には上がいることを知ったのが理由の様だ。私と言えば、子供時代は柔道より剣道を好んだが、一番好きで強かったのは相撲であった。余談だが、高校時代の体育の授業の柔道でクラス内の対抗試合があり、私が中級で柔道部の部員に勝ったことがある。この時に体育の教師が柔道部の顧問であったので、私に負けた柔道部の部員が教師に罵倒されたので可哀想なことをした記憶がある。高校時代の話の序であるが、母校の校歌は最初4番まであった、明治に作られたために短い歌詞のために4番まで演奏しても高校野球の試合などでは他校の演奏より大分早く終わってしまう欠点があった。この為に、5番が作られたのだが、この歌詞は「雪折れあらぬ柳見よ 柔よく剛を制せずや 石のくぼめる滴見よ 念力岩をもとほさずや」とあり、今の日本人に欠けている内容が書かれている。尤も、校歌の作詞家である武島羽衣は隅田川の"花"を作詞した人物だ。5番を追加されてあの世で嘆いているかもしれないが。デフレ経済で苦しんでいる今こそ、力技でなく相手の力を利用する柔の心をもって日本再生を求める必要があるのではないかと思う次第だ。

長寿社会の対価

大層なタイトルだと思われそうだが、福祉についての話題ではないし、多くの問題を抱えている介護業界の話でもない。実は日本社会が駄目になった理由のひとつに長寿社会の出現がある様に考えたからである。大津市の中学生のいじめに起因した子供の自殺に対する教師の無責任さやあらゆる所で見られる無責任と自己保身は、生に対する執着の結果と思われるからである。日本人の中高年層は何時から死を忘れてしまったのかと考える。然しながら、死は我々の周囲の至る所に存在しているのだが、健康的な個人レベルでは、死の意識はそれほど身近な問題ではなく、定年やリタイアした後の長い時間の方に関心が強いと見られる。病気や自殺で死ぬ人に対しては不運な出来事と片付けて自分とは係わり合いのないことと思っている人が大半である。尤も、病気で入院した人でも自分が死ぬとは思わないし、思いたくもない筈である。特に、医療技術などの高度な発達で昔なら死んでいた人でも生かされているのは真実だ。一度きりの人生だから急いでこの世からお去らばしたくない気持ちは私も同様だが、長寿社会が人生で大事な物を失ったことも事実と思われる。その失ったものとは、人は死に直面して初めて人は真剣になれるし、人生の重要な場面に遭遇したときに立派な判断が出来ると思うからである。この事に言及しているのはアップルの創業者の一人で、IT界に偉大な業績を残して50代で亡くなったスチーブ・ジョブスである。彼は自分が死ぬと言うことを忘れずにいるといると、大きな人生の選択をする時に助けてくれる重要なツールになること述べている。ジョブスは、死を意識していると、外部からの期待、誇り、きまりの悪さや失敗を恐れる気持ちなど死を前にすると消えてしまい、本当に重要なことが残ると述べている。確かに、ジョブスが指摘するように死にたいと思う人はいないかもしれないが、人はいずれ死ぬ運命にあることは否定することはできないと。日本人は本来は古来より死生観を持った民族と思われる。自然の中に生命を感じ、人のみならず植物にさえ擬似的に生命を持たせた。生を感じるということは常時死を意識していたという事である。医薬品が発達する前の60年前には結核で死ぬ人も多かった。常に死と直面してきたことにより、他人に対する優しさも生まれてきたのである。しかし、秋葉原事件など無差別殺人に見る様に現代日本は自分の不遇を他者に転化し命まで奪う社会になっている。長寿社会に必要なのはお金と勘違いした多くの日本人が、お金と自己保身に走った姿が他者を省みない社会を生んだと思えて仕方がない。この殺伐とした現代社会が長寿社会の対価としたなら人は長生きしている意味さえない。地震、台風など自然の不条理な災害で生命を絶たれてきた日本人が培ってきた死生観が科学技術の進歩により失われていた所に、千年に一度の東日本大地震と未曾有の原発事故が起きたが、日本人が死生観を取り戻したとは言えないようだ。野田総理が決断する政治などと言っているが、死を忘れた政治家連中が良い選択の決断など出来るわけがない。政治家や官僚に目を開かせるには死を意識させる方法しかない。

ネガティブキャンペーンに一役買っている学者連中

最近のマスメディアの動きを見ていると政府や省庁のネガティブキャンペーンに関連したものばかりであることが良く分かる。ネガティブキャンペーンには哲学学者、心理学者、政治学者、経済学者などが登場するが、考えて見ればこれらの学者も権力者側に擦り寄ることで政府や省庁の何等かの委員に選ばれるメリットがあり、学者としての才能より政治力の能力のある専門分野では才能がない学者連中だ。昔からTVに出たり、新聞に投稿したりする学者は暇だからと言うのが定説で今でも変わらない事実と思われる。珍しい名前なので目に付いた哲学者(?)で適菜収と言う人物がいる。彼は「民意に従えば政治は自殺・・・・・」とか書いているらしい。この様なタイトルで本を書いたりすれば権力者側は喜ぶであろうし、政府の何らかの委員会に委員として招聘されることは間違いないであろう。マスメディアも盛んに民意に従うことはポピュリズムに陥りファシズムの危険性があると喧伝している。適菜収の書いたものやブログなどを見ていないが、民意に従わない政治が正しいと言う論法は何処からきたのか不思議だ。「国会議員の定数削減」、「縦割り行政の弊害の改善」、「公務員改革」が民意であるが、この民意に従わない事が正しい政治と言うことであろうか。政治家も官僚も泣いて喜ぶ理論だ。IT化による情報化の時代には縦割り組織の弊害が大きく、組織をフラットにしなければ機能しなくなっている。然しながら、日本の行政組織は明治以来の組織のままに温存されており、その上省庁会議と称する官庁横断の制度が政府法案を各省庁の思惑通りになるように骨抜きして正に民意に従わない政治になっている。適菜収と言う少壮の学者はその事実を知っているのであろうか。適菜収と言う人物の経歴、有名私大を卒業して出版会社に勤め、その後哲学者として執筆活動している37歳と言うだけで政治や役所の実態を知らないと断言しても良いと思われる。今回は適菜収と言う人物をターゲットにして政府や官僚のネガティブキャンペーンに貢献している学者に矛先を向けたが、この学者連中より最悪なのはマスメディアである。情報化の時代で消えてゆく存在の新聞は兎も角、戦前の金融資本主義が復活したと思ったらマスメディアや学者まで先祖帰りしてきたのには驚いた。マスメディアが政治を間違った方向に誘導し、太平洋戦争へと国民を地獄に落とした。同じ誤りを60年経過して再度行おうとしている。原発問題を含め民意を無視した報道を行うマスメディアに対し、購読中止、広告掲載取りやめの抵抗で示さなければならない。

日本は官僚組織を変えないと政権が変わっても何も変わらない

マスメディアは嘘を承知で日本の停滞を政治の責任にして政権の交代が日本を変えると叫んでいる。何時の間にマスメディアは官僚に支配されたのであろうか。記者クラブの制度だけの理由ではマスメディアの堕落は論じ得ない。今でも大多数、特に高齢者の多くがマスメディアの報道で社会の出来事を判断している。このために、官僚に対する批判は起きても最終的には政治の責任に帰結してしまい、本質が語られることはない。中曽根内閣で行政改革が行われたが、この改革も所詮は官僚機構に依存した改革であるので、省庁の統合と独立法人などに組織が変わっただけで中身は少しも変わっていないのが実情だ。官僚組織を変えられない原因のひとつには、官僚組織を変える法案作りを官僚に任せるしかないことである。尤も、官僚組織が機能しなくなったのは昔からではない。元官僚の方に聞くと、官僚になった人には左翼主義の考え方の人が多く、日本を良い方向に持ってゆこうとする気概があったとのことであった。それでは何時から官僚組織が自己利益の追求に也、国家国民を考えなくなったのかと言うと、ターニングポイントは田中政治に尽きる。給料が安いので公務員は汚職などを起こすととの考え方と優秀な役人を獲得するには高い給料が必要との理由から公務員の給与は大手企業並みに引き上げられてきた。この結果何が現場で起きたかと言うと、次官レースに蠢く官僚の姿である。学校の教師も同様だが、お金のために公務員の職業を選ぶ者に国家国民の利益を考えるわけがないことに誰も気が付かなかった。給料が安くても国家国民のために働く意志を持った人達を排除し、机上の学問だけが優秀な者を採用し続けた結果が今日の官僚の姿である。勿論、今の官僚の中にも立派な人はおり、国家国民の為に働こうとするのであるが、"悪貨は良貨を駆逐する如く"排除されている。官僚でさえ、政府案を検討する省庁会議が骨抜きにする癌であると言明するのであるから、官僚組織は末期症状である。この状況を打破するには、本来は米国の政党の様に政党自身が政策立案の機能を持つ組織を有するべきだが、実際には多額の資金が必要であり、今度は企業に依存することが大きくなり、米国の様に政治と企業の癒着が起きて国益を損なうので難しい問題なのは確かだ。この為、省庁の人事に政治が関与し、場合には拠ってはOBに再度次官に就任させて行政の改革を断行する必要がある。この様なことに対して官僚組織はマスメディアを利用してネガティブキャンペーンを繰り広げると思われるので、官僚のネガティブキャンペーンに加担するマスメディアに対して国民は購読や視聴を含めて"NO"を突きつける必要がある。日本の改革に対して一番の敵は官僚組織であり、二番目の敵はマスメディアだ。何れも机上の空論の輩であり、日本社会を外国勢力にコントロールされる素地を作っている。マスメディアを信用しないことから真の改革が始まる。

日本社会に見る大きな勘違い

当社が本社ビルを置く虎ノ門1丁目では環状二号線計画(通称・マッカーサー道路)の一環として道路上に超高層ビルの建築が進められている。事業主の森ビルは東京都の事業を受託したものであるが、建物自体は店舗、事務所、住宅、ホテルを包含した20世紀型工業化社会の概念を継承した評価に値しないものだ。この建物の建築のために長年親しまれてきた路地や色々な店や建物が消えた。シュンペンターの創造的破壊を不動産に持ち込んだわけではないだろうが、企業経営と異なり、不動産の創造的破壊は文化的破壊に直結するものであり、無機的な空間しか残らない街づくりと思われる。私も勉強不足であったが、日本の建築に関する用途地域の設定は米国の方式を導入したものであり、正に工業化社会に都合の良い方式であった様だ。然し、この用途方式は無理やり人の生活の場を区分することになり、昔の様な混然一体と化した街は消失することに繋がる。米国は歴史がない国だから破壊することには抵抗がなく、機能的な都市計画が受け入れられたものと考えられる。これに反して欧州は歴史があり、歴史的な建造物や人の営みは街並みに溶け込んでいるので、米国とは異なり、破壊でなく"つなぐ"建築が主流であり、今も同様らしい。翻って、日本は歴史が長い国ではあるが、自然災害の多い立地なので欧州の様な"つなぐ"文化はなく、壊れても直ぐに建て替えられる木の建築物が主体となってきたと言われている。しかし、日本は欧米の様な区画文化ではなく、襖や障子を外すと多面的な用途に使える文化を作ってきており、日本人の柔軟性が形成された由縁かもしれない。それが明治維新以降に近代社会を目指す過程で次第に柔軟性が失われて来て、更に第二次大戦以降は米国流の考え方が浸透した結果、街づくりに関しては創造的破壊どころか日本文化の良さを失った将来スラム化する高層マンションや人のつながりを消失させうる超高層ビルの建築を推進している。3.11で日本人は自然の怖さを改めて認識したにも拘わらず相変わらず米国主義的な20世紀型の建築物を造り続けている。21世紀に入り工業化社会から情報化社会に移り、環境に対する問題も意識に上り始めた今こそ日本文化を見直すべきであり、日本人の知恵を再度検証必要性があるもとと考える。路地をなくし人々の生活観をなくした街に未来はないはずである。日本人は稀に見る柔軟性や多様性を持った国民であり、その文化にこそ限られた資源の中での生き方に学ぶべきところがあると思料する。そう言えば、わが母校の校歌に「雪折れあらぬ柳見よ柔よく剛を制せずや」の一節があったことを思い出した。正に、日本の文化は剛の文化でなく、柔の文化であったものが、米国流の剛を追求した結果が現代の閉塞感を産んだものと推察される。経済大国世界2位などと有頂天になっている間にちっぽけな島国であることの己を見失い、他国の資源で贅沢三昧したのが長屋の花見であることも忘れたツケが今の結果か。それなのに、未だに大国気分が抜けず中国と張り合っている姿は見苦しいのひと言に尽きる。

不動産屋の独り言

スカイツリーの開業で東日本大震災の悪夢を一掃するかの様に高い建築物に対する憧れが戻ってきた。上から見下ろすと言う行為自体が権力的であり成功者に実感を与える存在になっている。昔は城の天守閣が高く聳え立ち人々を見下ろしていた。現代は高さを競うように世界各国で超高層建物が建築されている。日本では建築技術の発達により地震国でありながら高層建築物が建てられ人気を博している。現代社会は多くの分野で技術レベルが高くなり、多くの人は仕組みについて全くと言ってよいほど無知になっている。無知と安心感は表裏一体なのかと思えるほど高層建築物に対する不安な声は聞かれない。しかし、米国では9.11以降、日本では3.11以降に間違いなく高層建物に対する不安感を持つ人々が増えてきた。特に、最近のオフィスビルのテナント募集で感じることは、3.11以前と異なり、低層階を求めるテナントが確実に増えてきている。話は変わるが、格差社会と高層建築物の人気には相関関係があると思われて仕方がない。高層マンションはバブル崩壊後に埼玉県にマンションデベロッパーの大京が建築したのが最初で、その後は多くのデベロッパーが高層マンションを分譲している。この時の高層マンションは内陸部であり、今の様に臨海部ではなかったのは何を意味しているのかだ。高層マンションの増加は建築技術の発達が後押ししたのだが、一番の要因は高い地価を下げる意味もあったからである。専門家でなければ高層建物の建築にはコストが掛かるので価値があると思われがちだが、高層化する程に土地の持分は少なくなるので、日本的な不動産価値から言えば逆に高層化する程に原価は安くなるのである。本来ならば、高層化するに従いマンションの分譲価格は安くなり、オフィスビルの賃料は低くなって良いはずなのだ。然し、実際には高層化するほどマンションの分譲価格は高くなり、オフィスビル賃料は高くなる。デベロッパーは高層建物には笑いが止まらないのである。この為、何時起きるか分からない大地震のリスクより建築計画を優先するのである。万が一大地震で倒壊したりすれば想定外と言う便利な言葉が既にあるからである。尤も、土地の地盤が余り良くない場所に建てたスカイツリーは人気があるが、同じ敷地内に建てた高層オフィスビルは人気がない様だ。押上に何故オフィスビルだと言う指摘もあるだろうが、常駐する場所でなければ高い場所も相変わらずの人気だが、翻って常駐するとなれば人の意識が変わってきたのかもしれない。高い場所は確かに成功者の心を捉えるが、少なくても地震多発国の日本では企業の事業継続の観点から高層ビルにオフィスを構えるリスクについて考えられ始めたのかもしれない。インターネットで見たアップルの新本社ビルのイメージ図は森の中に4階建の円筒の建物であった。時代の最先端の企業が造る新本社ビルは今後の建物を暗示しているかもしれない。確かに、自社ビルであれば高層ビルでなければならない理由は何処にもない。環境や安全を考慮すれば、低層階の環境に良い建物を計画することになるのは必然だ。日本は少子高齢化社会に入り年間20万人規模で人口が減少して来ているのに、今更高層建物かと考えてしまう。近年の高層建築ブームはデベロッパーが多額の利益を生むために造っているもので、日本の未来社会を想像しているものではない。都市計画の観点がない日本だが、そろそろ成熟した社会にとって老朽化したインフラに対するメンテナンスの配慮を含めた建物や街づくりを考える時期に来ているのではないかと独り呟いてしまう。

笑止千万の中国スパイ事件報道

読売新聞やサンケイ新聞系の新聞が中国大使館の一等書記官のスパイ事件を報道しているが、内容が余りに牽強付会で現実無視なので驚いてしまう。日中国交40周年の祝い事に水を差したい連中のやらせ記事なのが一目瞭然だ。スパイが外国人登録証明を不正に使って商業活動するかと言いたい。スパイの定義も変わったのかもしれないが、スパイとして活動するには目立たないことが重要なのは過去も現在も変わらないと思うのは私一人であろうか。尤も、そのあたりを付かれると想定して中国のスパイは活動費が少ないので商業活動して稼いだ金をスパイ活動に充当していたのだろうとは何時の時代の中国を指しているのだろうかと笑ってしまう。今の中国人は米国の中華街に行けば資金力に圧倒される。中華街は拡大し、ベンツなどの高級外車を乗り回している中国人が本土より流入している現実だ。読売などの記者は井の中の蛙らしい。報道記事など常識的な目線で読むと嘘記事かどうか良く分かる。しかし、それに付けても中国大使館の一等書記官のスパイ事件報道は新聞自体の劣化と思わざるを得ない。昔は嘘記事でも今回の報道よりはましだった。そう言えば、反中の先頭にいる石原都知事は東京都の五輪招聘に日本国民が消極的なのに対し、自分の事ばかりしか考えない連中が多くなったと発言しているが、先の五輪招聘工作での多額な不明金や自分の息子の画家紛いを税金を支払ってまで委託しているのを見ると、何を偉そうにと言いたくなる。雉も鳴かずば撃たれまいと言う諺がある。石原都知事も肝に銘じた方が良い。尤も、本人は今の日本を進駐軍時代の日本と耄碌して理解しているので、米国だけに阿れば良いと考えているかもしれないが。不動産業界にも偉そうに言う輩は信用するなと言う経験知がある。長い人生でこの言葉だけは今でも真実だ。

財政赤字が政治の本質を勘違いさせている

財政赤字は予算の正しい使い方で陥ったのならば増税で解消することは当然である。問題は官僚の天下り先のためや政治家の選挙のために費やされた無用な予算の為に赤字になったのなら増税で解消など言語道断であり、その根を絶たないと再度赤字財政になるので増税など認めるべきではない。官僚も政治家も国民が過剰な要求をしたので財政赤字に陥ったなどと昨今は考えているらしいが、国民の大多数はサラ金財政なども求めてはいなかったし、何の対策も打てないで1000兆円近くの借金を国がするとは思いもしなかった筈だ。国会議員どもは自分の選挙の為に甘い言葉で国民に道路や橋などの建設を安請け合いして来たにも拘わらず、自分の責任を否定をするかの様な国民は国家に甘えてばかりで厳しさが足りないなどと放言している。此処での議論は過去に遡ることではないのでこの批判はいったん矛に納めて次の議論を展開したい。国も地方も箱物や過剰なインフラの投資で軒並みに財政難に陥っている。この現象は何も日本ばかりでなく世界的な問題だ。金融資本主義的な考え方はこの様な財政難から生まれてきたといっても過言ではない。国家や地方自治体が財政難に到った理由は色々とあると思われるが、今の問題は国家や地方自治体の財政難の解消の仕方である。行政も民間企業と同様にバランスシートを作るべきだとか企業の経営的な手法で支出を大幅に削減する方法とかが指摘されている。又、平行して運用益で支出過剰な分を補填する金融商品に投資する方法も提案されている。確かに、財政難を解消するには支出を大幅に減らして増税しか方法がないのは確かだが、最近の政治の動向を見ると財政難解消が目的化し、政治が行われていない危惧を感じる。無駄な支出を削減するのは当然なのだが、良く分析すると縦割り行政の中でバランス良く支出を削減しているので、本当に必要な所にお金が回っていない面も出てきている。又、制度を変えたことにより、弱い人達に皺寄せが出てきている面も多く見られる。

政治とは何かと問われれば、弱者の救済なのである。資本主義の中の競争社会にあって誰もが勝者になれる訳ではないし、社会は無用の用の様な存在があって初めて成り立っているので、そこに政治が必要なのである。企業経営者は弱者など省みることはないのである。無用な支出を切り捨て不要な社員を辞めさせて黒字経営になれば名経営者と呼ばれるのである。然し、政治家は企業経営者とはことなり、不法な競争を監視し、企業が切り捨てた弱者の再生や老後の仕組みを作ることなのである。尤も、企業経営者の中にも優れた人がおり、企業人でありながら政治家としての素質を兼ね備えて経営にあたった者もいる。戦前では、カネボウの中興の祖といわれている武藤山治、渋沢財閥を作った渋沢栄一、戦中戦後に出光興産創業者の出光佐三などである。ちなみに、松下政経塾を作った松下幸之助は先の人物と比較したら企業人としては上かも知れないが、政治は飽くまで企業の為と考えた人物なので、私の中では高い評価をしていない。翻って、最近話題の橋下大阪市長はどうかと言うと、彼も本質的には政治家とは言えない。その理由としては、彼の政策は金融資本主義的な考え方が根底にある様に見れるからであり、政治の本質を理解しているかどうか疑問だからである。勿論、私は大阪フィルハーモニー交響楽団の解散に反対している橋下市長は文化を蔑ろにしていると批判している人達とは考えを事にする。全国で最大の生活保護者を抱えている大阪市に対して文化云々の批判は当らないと思うからである。文化を守るには行政のアシストは必要だが、基本的には豊かな社会になって尖閣諸島の購入に短期間で5億円以上も寄付金が集まる日本なので、どうしても必要なら多くの人の寄付により財団を設立して守れば良いのである。全部税金で守る必要はない。大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽家たちも大阪市の職員に甘んじた為に採算を度外した演奏活動しか行わなかったと推定されるので、楽団員にとっては不幸なことと思われる。私は自助努力を怠るものを救済しろとは言わない。問題は財政赤字解消が目的化した政治が横行するのを懸念するからである。政治の世界は数の必要性を痛感するが故に小沢一郎の様な選挙に勝つだけを目的化した政治家を生み出したのである。同様に、財政赤字解消だけを目的化した政治家の出現は貧富の差を生み、犯罪を増やすだけだからである。日本人は世界にも類を見ない80%の国民が中流意識の社会を実現した国である。インフレ経済でない低成長経済において同様な社会を実現する政治を考える必要があると思料する。

尖閣諸島購入を巡る寄付金に対する疑問

石原都知事が尖閣諸島の購入を米国で宣言して以降、東京都には購入資金に対する寄付金が寄せられ、現時点で4億円に上るという。マスコミなどは領有権に対する日本政府の弱腰に対する国民の憤りが寄付金の形で現れたと言う報道をしている。しかし、私はこの俄か愛国心に対して全てがマスコミの報道する様な善意の寄付とは到底思われないのである。尖閣諸島は中国がどの様に主張しようが日本の領土であることは疑いもない。中国としても尖閣諸島の領有権を主張しているが、韓国の竹島占有の様な強引な手法を取ることは国際法上難しいのは確かである。今回の展開を冷静に分析しないと戦前に間違った方向に導かれた事の二の舞となる。先ず石原都知事が尖閣諸島の購入をこの時期に宣言した理由である。然も、米国において何故宣言したかであることを考える必要がある。石原と言えば、三男か四男か知らないが、選挙に落ちて浪人している息子がいる。先の都知事選の出馬や今回の新党に対する動きも全ては可愛い馬鹿息子の為といっても間違いはないだろう。その様な時期に尖閣諸島購入問題に言及したと言うことは、裏で何かの取引があったと考える必要がある。尖閣諸島問題はに日中間の大きな政治問題になっている。この問題に火をつけるのは日本と中国との政治的な関係以上に企業における経済的な関係に影響を及ぼすことは目に見えている。敢えてその様な問題提議を地方政治家である石原が行うことは国家に対する越権行為である。先ず、この様な問題を分析する時に必要なのはマスコミの動きである。日本のマスコミは間違いなく米国の情報戦略に組み込まれているので、石原都知事の尖閣諸島購入に対してどの様な報道姿勢かで判断できる部分もある。面白いのは尖閣諸島購入宣言に端を発した寄付金である。いち早く取り上げて報道するところを見ると、石原都知事の発言には外国勢力が絡んでいると分かる。東京都に要請したいのは、奇特な寄付者の氏名公表を是非行って欲しいことである。国際謀略に石原都知事が加担していなければ公表できるし、逆に寄付金が疑わしくないと分かれば、今の時代に身銭を切ってまで愛国心を持っている人達に敬意を表したい。日中間で紛争が起きれば得をするのは日本人ではない。外国勢力である。中国の経済に奥深く進出し他国の追従を許さないほど先行利権を有している日本を外国勢力が黙ってみている訳がない。民主党の前原誠司が起こした尖閣諸島における中国漁船の拿捕も京大の米国シンパの流れを汲む事件である。日本人は明治維新の時には優れた人達が国際謀略を乗り越えて国を守ってきたが、大正、昭和と変わり、島国の悪い面が出て国際謀略に弱くなった。況して戦後の平成の時代では、外国勢力に利用される国賊紛いの政治家や官僚、そして学者で溢れている。勿論、日本国民を無防備にしてコントロールしているのは米国だが、それに一役買っているのは電通など広告会社とマスメディアだ。最近の動きとして日本における中国シンパに対する攻撃が激しくなってきていることから、欧米諸国は中国に対して人権問題で揺さぶる計画であり、それに日本を尖兵として遣う考えと推測できる。尤も、フランスではサルコジに変わり社会党の大統領が出現したので中国に対する欧米の中国に対する足並みが揃うかどうか不明だ。何れにしても、東京都は尖閣諸島購入に対する寄付金の氏名を公表し、外国勢力の謀略に乗じていない事を証明すべきだ。

過去を語ることの大切さ

私は戦前生まれでないので残念ながら戦前戦中の事は経験していないので経験談として話す事は出来ない。勿論、戦後の事も少なくても1965年以降でないと記憶に残っていないので語れない。人の記憶も年月が経過すると塗り替えられて"虚偽の記憶"が形成されるとの事なので、その事を理解して過去については語るべきと思われる。なお、経験しない時代の記憶でも親などからの情報で記憶されることになるので、先の虚偽の記憶を踏まえても書籍の情報よりは確かな過去の記憶をを入手していると言える。私が過去を語るときは少なくても書籍を通して得た知識ではなく、私自身の経験や身近な人達から聞いた事実を通してである。尤も、身近な人達からの過去の経験だけでは世界観が狭くなるので、ドキュメンタリーの本や過去を記した資料なども渉猟して過去を広げてはいる。しかし、責任をもって言えるのは少なくても私自身の記憶と経験した本人から聞いた記憶と言える。何故、過去を語る事に拘るのかと言えば、最近は余りにも過去の出来事が歪められて伝えられてきている怖さを感じるからである。終戦後に20歳であった人達も今や87歳である。一方で平成生まれの人達は23歳になるのである。過去を語る事は後世の世代が同じ過ちを繰り返さないことに繋がるので大事な事と考える。特に、最近は明治維新に習って改革を推し進めようとする人達が多いが、その人達の歴史認識や当時功績のあった歴史的な人物に対して学んだ形跡が少ないと感じるのは私一人であろうか。維新や改革の言葉は今や安売りの商品の如くチープなものに成り果てている。情報が氾濫する時代にあって偽の情報に惑わされずに知見を育てるのは難しい時代になった。しかも、議論のすり替えの類の情報で溢れている。この様な時代には、それぞれが過去を語る事が重要であり、真実を見極めるのに役に立つからである。地位の高い人や有名人が語ると真実と錯覚する間違いを指摘するにも役立つからである。

 

関越自動車道で起きたバスの事故に見る小泉改革の弊害

建築確認申請・承認の民間委託で起きた構造偽造事件を始め、小泉改革が社会に害をなした事例は枚挙に暇がない。今回の関越自動車道のバスの事故も規制緩和の弊害が出たと思わざるを得ない。法律の改正で免許制度から登録制度に変更したことで免許制度の利権構造にメスを入れたことは理解できる。問題は規制緩和後の安全などに対する配慮が著しく小泉改革には欠けていると言う事実だ。今回の事故に繋がる運転手一人の問題も法律的には違反でないと言う。どの様な法律かと言うと、道路法による走行距離で決めているとのことの様だ。この走行距離以外に運転手の健康問題や渋滞問題を絡めていれば今回の様な事故は防げたと思えてならない。先の建築確認申請の問題も然りである。準備(=能力)も整わないのに時間軸で規制緩和を行ったために、構造偽造を起こしやすい状況を作り出してしまった。法曹界でも裁判の判決を時間軸で評価する様になったために正義ではなく、裁判官の出世競争に巻き込まれて不正義が罷り通っている。検察然りだ。マスメディアはデフレ社会に陥り、グローバル経済についてゆけない日本に対し、明治維新の改革を期待するかの様に世論を誘導しているが、江戸時代に教育を受けた日本人と現代社会の日本人との人間の質の違いを考えているのかと言いたい。今回のバスの事故を起こした会社の名前は、「陸援隊」と言うのを見ると、明治維新に憧れた社長だと直ぐに分かる。この社長が2002年にバス会社を設立したのを見ると正に小泉改革が産んだ申し子だろう。

小泉改革で良く言われる民営化とは、言葉を変えれば資本主義化と言うことだ。今の若い世代は社会主義と共産主義を混同して一方的に社会主義が悪いと批判している。明治維新で資本主義の欠点を見抜いていた経済人に渋沢栄一がいる。彼は資本主義に論語の考え方を入れることを唱えたのである。現代社会に明治維新と同じ改革が出来るわけがない。その大きな理由は人間の質の問題である。現代社会の日本人は倫理観も喪失し、「他人くたばれ、我繁盛」の連中が金儲けに走っている。尤も、日本人だけでなく世界中の人々が熱に浮かされた様に倫理観なき競争に陥っている。

私自身は規制緩和や競争を否定している訳ではない。問題は規制緩和を主導している人達の人間の質や能力を問題視しているのである。勿論、マスメディアに踊らされて効率主義や安い商品を血眼になって追い求める大衆にも責任はある。この様に書いているのも馬鹿らしいほど、人と言うは忘却することで生きている人種と言わざるを得ない。バスの事故の被害者には悪いが、安いものにはリスクがあると言う現実を突きつけてくれた事例としては少しの期間は人の記憶に残るのであろう。正に、現代の政治は大衆の忘却や表面の姿を変えただけで誤魔かせる中で行われている。維新を唱える前に倫理観について議論しろと言いたい。

久しぶりに登山家の伝記を読んで

メタボ対策で毎日ひと駅前で降りて帰宅するのだが、週末にはその駅ビルの本屋に立ち寄って面白い本があれば購入するのが習慣となった。先週末は購入してまでも読みたい本もなかったので店を出ようとした時に山岳コーナーが視界に入った。時間もあるので偶には山岳の本でも見るかと足を向け、「単独行者」の本のタイトルに惹かれて手に取った。本の主人公は、昭和初期に活躍した伝説の登山家「加藤文太郎」の生涯が書かれたもので、副題に「新・加藤文太郎伝」と記されていた。タイトルの単独行に惹かれたのは、私自身が学生時代に単独登山を多く経験していたからであった。私の山登りは18才になってからであった。東京の高田馬場の下宿先で出会った同郷の小野君に誘われて丹沢山系に足を踏み入れたのが登山に目覚める切欠だった。その後、彼とは秩父山系や南八ヶ岳などを一緒に登ったが、後は大学の同学科の南雲君を誘った以外は常に単独行であった。単独行は若さゆえの無茶であったかもしれないが、大学の山岳部やワンダーフォーゲル部に所属して集団で登山する事を好まなかったので、単独行は自然な成り行きであった。しかし、今考えると指導者もいない登山で何度も未熟さゆえの危険な目にあったことは確かであり、私クラスの登山で大袈裟かも知れないが、現在生きているのも不思議なくらいの体験も有している。今振り返ると、会社経営にも山登りの体験が生きていることは確かで、人生に「if」はないが、それでも私が山登りをしていなければ、現在と違った経営者になっていたことは間違いないと断定できる。その様に思えるほど自然に立ち向かった時の人間の弱さを思い知ったからである。今でも大学の同学科の南雲君と会えば、当時の登山の話が出て貴様の為に死ぬ所だったと酒の肴として皮肉を言われる。彼との登山は二回だけであったが、その二回とも私の無謀な計画で彼を窮地に追いやったことは否定できない。確かに、春山の北八ヶ岳と南八ヶ岳の縦走ではその年には例年になく残雪が多く、硫黄岳から横岳に入り赤岳に到る過程では困難を窮めた。然も、ピッケルもアイゼンも持たずに入山した報いが堪えた。死ぬ思いで赤岳山荘に着いた時に、山荘の主人に我々の軽装を見て驚かれ、山荘の土間に土下座をさせられて説教させられた苦い思い出である。遭難者を探すのには二重遭難のリスクもあり、我々の様な無謀な登山家に対して山荘の主人は腹が立ったのであろう。昭和初期の伝説の登山家の新伝記を読んで、登山の危険さが一方では登山の魅力であることに改めて気が付かされた。人と言うのは危険の中に身を晒すことで存在を確認するのかもしれない。勿論、登山の途中の絶景や登頂時の達成感は何事にも替えられないものであり、北アルプスの槍ヶ岳山頂に早朝一番乗りをして日の出を迎えた壮大なパノラマなどは言葉にならない程の感激である。又、雪渓の下を流れる水と雪渓の氷で飲むウイスキーは一番美味い酒であった。社会人になってからは組合活動で執行入りして文化部長時代に組合員を連れて登山したこともあったが、それも30才を過ぎて辞めてしまった。登山は不思議なもので辞めると急に熱が冷めるものである。しかし、バブル経済が崩壊後に一度山登りを再開したことがあった。多摩山系から始め、丹沢山系、秩父山系と足を伸ばしたのだが、日本アルプス山系には体力的に戻れずにその内に仕事も忙しくなり山登りを辞めてしまった。見果てぬ夢かもしれないが、もう一度北アルプスなどに登り美味い酒を飲んで見たい誘惑に駆られる。

福祉と税の一体改革による消費税増税のために隠されている真実

消費税の増税前には更なる行政改革も必要だが、消費税自体の中身の再検討も重要なのである。しかし、今回の増税には福祉と税の一体改革と称して議論されている為に5%以上にアップする際に検討しなければならない消費税の中身については全く言及されていない。海外の消費税は衣食住に掛けていないので20%以上になっても大きな反対運動は起きていない。マスコミは意図的であろうが、海外の消費税率は日本と比較して高いとだけ報道し、日本も国が多額の借金を抱え、然も高齢少子化社会に入ったので増税は必要の一点張りだ。特に、御用新聞の日経新聞の記事は読むに耐えない。業界紙だからと見過ごすには日経新聞は一般紙並みの信用性を持ってきたので看過するわけには行かなくなっている。日本人は忘れやすい国民と言われるが、特にTV文化が浸透してからは顕著と思える。自民党の竹下内閣の時に消費税が導入されたのであるが、この時の計画では3%などと低い数値ではなかった。しかし、国民の猛反発を受けて当時の大蔵官僚は将来に託して3%で妥協したのである。この妥協の産物が5%に引き上げられる時も今回の増税の時にも何等省みられることはない。妥協の産物とは、予定税収を確保する為に衣食住に掛けたことと二重課税の問題、更には売上げ税的な性格に変えてしまったことである。ガソリン税に課税するなど論外なのだが、自動者を乗らない人には関係がないので今でも改定されていない。都会の住民が田舎の住民より多くの税金を支払っていると不満を口にするが、都会の住民は田舎では車なしでは生活できない為にガソリン税に課税されている消費税の二重課税の負担を強いられている現実を知るべきと思われる。日本の消費税は売上税なので赤字会社でも当然に消費税は発生する。消費税の還付は物品を購入すると受けられるので、キャッシュフローが多い会社は有利な税金だ。中小企業などは常に資金不足に悩まされているので投資を増やすことは厳しいが、そうすると消費税の支払いが増えてくることになる。一方、個人も衣食住に課税されるので、増税は生活に直接影響が出てくる。特に、先進国では景気対策に住宅政策を織り込まなければならないのに、住宅取得に対する課税が増えれば景気回復にも悪影響を及ぼすのである。本来、3%の消費税だから許された衣食住に対する課税や二重課税問題も10%に引き上げられるとなれば話は違ってくるのである。民主党の藤井裕久議員は消費税アップで住宅取得に負担がますならば分割納税も考慮すべきと発言しているが、本末転倒の議論だ。幾ら間接税と言っても衣食住に対する課税は成長なしの経済で給与が上がらない状況では生活が苦しくなるだけである。本来、消費税とは贅沢税的なものとなるはずである。それがいつの間にか弱者を苦しめる税金に替えられ、金持ちの個人や企業が得をする税金に変わってしまったのである。財務官僚は知恵が回るので、消費税の本質的な問題で議論されるのを避ける為に、福祉と税の一体改革などと国民の目を誤魔化す方法を取ったと思われる。尤も、馬鹿な国会議員も同様に消費税の欠点を問題にするどころか現状ままで10%、更にはそれ以上にアップする考えでおり、消費税の真実が見えなくなっている。この為、消費税増税の反対ではなく、消費税の中身の議論に持ち込んで、増税の影響が弱者に及ばないようにする議論が必要な事を訴えかけるべきと思料する。

中野のサンモール&BROADWAY

"サンモール&BROADWAY"とは東京都中野区のJR中央線中野駅北口を出て目にするアーケード商店街の名称である。私は学生時代の一時期にアーケード商店街を横目で見て通学する場所に住居を構えていた。先日、設計士と打ち合わせていた時にこの商店街の事を設計士は「中野BROADWAY」と言ったので"?"と思った。私の学生時代には確かに「中野ブロードウェイ」と言ったのだが、卒業数年後に「中野サンモール」に名称が変わった記憶があったからである。この事が気になったので、先週土曜日に春真っ盛りの桜の花見とメタボ気味の体をスリムにするための一石二鳥を兼ねて自宅から中野まで散歩することにした。散歩ルートは自宅から高千穂大学と善福寺公園を通り抜けて善福寺川の桜並木までを一応考えたが、後は自由に動くことにした。この為、善福寺川の桜並木が一望できる五日市街道の橋から観桜した後は、取り合えず五日市街道を高円寺方面に向かった。同街道沿いには未だ昔懐かしい古い店が所々に残されてはいるが、全体的には新しい建物になり、個性がない街道沿いになってしまった。只管歩いていると青梅街道に交差したので、今度は青梅街道を新宿方面に向かった。環七を超えて少し歩くと、東高円寺商店街の町並みが見えたので散歩の時間は決めていなかったので寄り道を決めた。都内には未だこの様な商店街が結構残されてるが、東高円寺商店街も生き残っているひとつと思われた。面白いことに斜めの商店街を進んだ先の住宅街を行くと、このルートが意外と中野の近道であることが分かった。適切でないかもしれないが、頭に「急がば回れ」と言う言葉が浮かんだ。そう言えば、中野はクレジットを考案した丸井の本社がある町でもある。中野駅に近づくにつれて建築中の2棟の高層タワーマンションが見えてきた。反対運動も起きている様だが、工事はお構いなしに進んでいる。圧倒的な低層階の建物の場所に突如出現した様な29階建の2棟のマンションは確かに違和感のある光景となっている。不動産業界にとっては高層マンションは利益のでる美味しいプロジェクトだが、街つくりを考慮していない高層マンションの立地は論外と思われた。なお、今回の散歩は途中で花見をしたこともあり中野駅の到着には2時間位要した。中野駅北口に回り商店街の看板を見ると「サンモール」であった。変わっていないと思い乍ら、サンモールに入り散歩で喉が渇いたことと小腹も空いたので、先ずは喫茶店を探した。昔と違って何処でも喫茶店は少なくなっているが、サンモールにも同様であることが分かったが、1階には正に1件だけ昔の喫茶店が残っており、然も店内は新しい空間も演出されていた他、従業員のマナーも良く、更にコーヒーや軽食の類も美味しかった。腹を満たしサンモールを通過して反対側の看板を見ると「BROADWAY」となっていた。通りの何処で切り替わったのかと再度アーケード街を戻ったら、建築当事は高層マンションで有名になった側の入り口に「BROADWAY」の看板があった。学生時代にはカタカナの「ブロードウエイ」であったが、サンモールと棲み分けしてからはローマ字の「BROAWAY」になって復活したことを理解した。間際らしいと言えば間際らしいが、商店街の意見を纏めるのには両方の名前を付けることで解決したものと推測できた。サンモール商店街は2階位までだが、マンション階の部分は4階部分まで店舗があって昔は繁盛していた。卒業後大分経ってから一度懐かしくて来た時には3階以上は店舗の営業が少なかった記憶があった。今回も久しぶりに2階、3階、4階に上がったのだが、驚いたことに完全に店舗街として復活していた。復活の理由は外国製の時計売り屋とフィギアやマニアックな店舗がずらりと並んでいた。合間に占いの店もあった。中国人のお客もいた。そう言えば、中野サンプラザに事務所がある若い行政書士の方がfacebookに仕事を頑張った時には高級時計を買う事を載せていたが、成る程、BUROADWAYの商店街の時計売り場に触発されたことが分かった。何店舗もある高級時計店のお客は皆若い方であった。彼らが何十万もする高級時計を購入しているのには改めて時代の差を感じた。同時に中野BROADWAYの復活にも驚いたと同時に地方も商店街も含めて再生には何が必要かも考えさせられることであった。勿論、若い人にとっては中野BROADWAYは復活したのではなく、存在しか知らないのも事実なことも認識した。

東京タワー

東京タワーは、日本の経済成長の象徴的な存在として長い間親しまれてきた。小学生の修学旅行に上野動物園と浅草の浅草寺、そして東京タワーを見学した。初めて東京タワーに上った時には高いのに驚いた。当時の建物の大半は建築基準法の制約もあり、9階建てが最高の高さであったと記憶している。このため、高台に建設された東京タワーは一際高さの存在感を増していたのである。次に、東京タワーを訪れたのは中学3年の時であるが、東京の越中島にあった東京商船大学(現海洋大学)で行われた国立鳥羽商船高等学校(現国立鳥羽商船高等専門学校)の受験で上京した際に上った思い出がある。三度目は18才になり、東京の大学に入学する前の予備校時代に東京タワーを見学した記憶がある。この時代には既に千代田区の霞ヶ関に三井不動産が建築した日本の超高層建物の曙になった霞ヶ関ビルがあり、又上京した年に浜松町の世界貿易センタービルが竣工し、その翌年には新宿での超高層ビル第一号の京王プラザホテルが開業したが、東京タワーの美しさは貴婦人の如く衰えなかった。その後、大分時間が経過し、今から25年前に会社の本社 から東京タワーが見える港区虎ノ門1丁目で仕事をすることになった。特に、 社長室のデスクから見える東京タワーは格別であった。それが規制 緩和の悪影響で隣接の土地に従来にない高い 建物の建築が可能となり、会社からの東京タワーを眺望できる風景が失われてしまった。今では会社近くの路上でビルの谷間に上部だけ見えるのが精一杯となってしまった。直下型震度7以上の地震に怯える人々を見ると、何で地震の巣の上の東京で超高層ビルやマンションを造り続けたのか気が知れない。超高層ビルの林立でデジタル放送において東京タワーの高さでは難しくなり、スカイツリーの建設が行われて今年完成した。偏見かもしれないが、スカイツリーは東京タワーの様な美しさがなく、私から見ればお墓に聳え立つ塔としか見えない。職人技で建築した東京タワーに人間味が感じられ、コンピューターを駆使した多くの新技術で建築したスカイツリーに空虚さを感じるのは年を取った為なのであろうか。多分、私はスカイツリーに上ることはないと断言できる。単なる大人になる時代に東京タワーに出会ったノスタルジアで両タワーを比較しているのではない。東京タワーに温かみがあり、スカイツリーに寒々しさを感じるのは正に現代の世相を反映していると思われるからである。 NCM_0057.JPG  

 

液晶TVの故障と人間の質について

月曜日の朝突然にTVの画面が真っ黒で映らなくなり、出社前の天気予報とニュースが見れなかった。以前に電源の入り切りで直した経緯があるが、今回は音だけ出ているので基盤か何かが故障したものと推定され、買い替えなければならないと言う思いが過ぎった。出社して午後には地権者の方が来社され、今回の新規契約について説明を行ったのだが、80歳になられた地権者の方の頭の良さには敬服した。この方は文部科学省のつくば研究所の教授を勤められたかたで、定年後の10年間は私立大学の数学の教授であった。今は悠々自適の生活だが、今でも最新の技術に目を通して知識の豊富さには驚かされる。偶然なのだが、この方は私の出身地に所在した旧制水戸高等学校に学んでおり、その後東京工業大学の物理学科に進まれた。人生の大半を研究に費やされ、記憶ではノーベル賞を受賞した益川さんとはつくばの研究所で一緒だった事もある。私が最初にお目にかかったのはつくばの研究所に在籍中の今から25年前であった。当社が開発した共同開発ビルの地権者の一人であった。その後は共同ビルの管理組合の理事をお願いしたこともあり、管理組合の運営にも力を尽くされてきた。今回の契約の話は直ぐに終り、何時もの通り雑談に入ったのだが、政治経済はもとより、専門の領域の物理の最新動向や複雑性科学など知見の豊富さには恐れ入った。弟夫婦から80歳のお祝いを貰って初めて80歳になったことに気が付いたとのことで、頭の中は今でも青年なのかもしれないと思われた。しかし、この方と話をする度に人間の質について考えさせられる。この方の父親は朝日新聞に勤務していた方だが、当社が開発にお伺いした時に健在だったのは母親だけであった。私はお会いしていないが、先代社長からこの方の母親の頭の良さについて聞いていたので、その母親ありて息子かなと言う気がした。帰宅してTVが壊れたので何時もの生活とは変わり、ラジオをつけて音の世界で食事をし、その後寛いだ。この時にTVを見ていた時の素通り感と異なり、耳で聞いた音が頭の中で色々な物を想像しているのに気が付いた。学生時代にマクルーハンのこれからは映像の時代という事が指摘され、現代は正にその言葉が具現化した社会だが、それ以前にTVが出現して一般大衆に入り込んできた時代に大宅荘一と言う評論家が、TVについて「一億総白痴化」をもたらすと警鐘を鳴らしていたことを思い出した。TVが故障した為にラジオを聞いていたが、最近ボケ気味のパートナーも食事後に新聞などを読み出して面白いことが書いてあると言った時には、大宅荘一の言葉が改めて偉大な批判と気づかされた。現代人が昔の人のように思慮がなく、且つ配慮に欠け、知恵が不足しているのは正に映像社会の弊害と考えさせられた。推測だが、先の年配の地権者の方は余りTVを見ていないのではないかと思われた。残念ながら当家のパートナーはTVなしの生活には耐えられない見たいで、今日にも家電大量店に駆け込む勢いである。やれやれである。

福井市の散策

 先週、福井大学で原子力学会があり、学会に参加する知人から誘われて初めて福井市を訪れた。距離的に飛行機で行く事を考えて調べたら福井空港はあるのだが規模が小さく一般旅客の空港ではなかったことが分かった。この為に、最寄の空港を探したら石川県の小松空港であった。飛行機は移動時間は早いが、搭乗時間や空港から目的地までの走行距離を考慮したら新幹線で行く方が良いことが分かった。勿論、北陸新幹線は開通していないので、東海道線経由で行く時は京都乗換え、帰るときは米原乗り換えと言う選択をした。

今回の福井行きは最初にトラブルに巻き込まれた。不運にも新富士と三島間で人身事故が起きて1時間以上の足止めを喰らった。当然に京都乗り換えの予定の特急サンダーバードには間に合わず、京都駅で僅か15分で次の特急電車の乗車券に取り替えて漸く目的地の福井駅に向かうことが出来た。以前は新幹線で自殺など起きなかったが、ここ数年新幹線で起きている。然も、不思議なことに新富士と三島間である。

漸く、福井駅に着き、先ずは駅近くに取ったビジネスホテルにチェックインして市内の散策に出かけた。予定より1時間以上到着が遅れたので、先ずは福井城跡に行き、その後は幾つかの神社に参拝した。途中で小雨が降ってきたので、アーケードの商店街に飛び込んだが、休日の為に殆どの店が閉まっていた。尤も、良く見ると閉鎖している店舗が多いのに気が付いた。福井はメガネ製造で有名な町であり、全国の中小企業の社長の出身地としてトップになったこともある所だ。その福井でさえ市内はシャッター通りが多く、町に活気がないのが良く分かった。

  福井城1.jpg地方を訪れて何時も思うのだが、休日に店が休んでいるケースが多い。以前、大分の杵築に行ったときにも丁度日曜日で飲食店も開いてなく難渋した。一応、杵築は観光地としての位置づけと思われたのにである。

逆に、温泉場などは逆に日曜・祭日しか開いていないレジャー施設も多く、働いていないお年よりも平日に楽しめないちぐはぐな現象がある。

行政も最近は変わりつつあるが、以前は土・日、祭日は一切業務を行わなかった。この為に、役所から書類を取り付ける為に貴重な有給休暇を取って対応したものである。役所もサービス業なので業務によっては平日に休んで土・日、祭日に仕事をするのが普通と考える。それが出来なければその業務を民間委託か自動化を図れば良い。

確かに、地方の疲弊は円高で海外に工場移転した事も原因の一つだが、過剰な公共投資で地方経済を牽引してきたビジネスモデルにも問題があった。地方が公共投資に依存する体質は中央から地方に権限と税の移転を行わない限りなくならない。

地方都市の再生には全国共通化した考え方の除去が必要だが、新築の家を見る度に空しくなってしまう。地域の独自性は地産地消から始まって地域の伝統的な物を復活させることが重要だが、町の商店街が消えて大型スーパーで買い物をする限り無理なことが分かる。良く例えに出るが、地方鉄道の維持を叫ぶ人達が電車に乗らないで自動車を乗り回している現状だ。経済成長がマイナスになり、所得が減少する中では安い商品に頼らざるを得ないが、その事が悪循環となって地方経済を疲弊させているのが現実だ。今更ながらの議論だ。マスメディアは無責任に地方の努力が足りないと批判するが、公共投資経済のビジネスモデルを変えるには、中央集権化した行政を先ずなくすことから始める必要があるということに触れない。江戸時代の様な一つの藩が国であった時代に地方を戻すことが地方の活性化には必要なのである。ITC時代には、地方が一つの核となり中央を介さずに必要に応じて結びつくことが効率の良い在り方なのである。その点から言えば、二重行政は失くすべきだが、道州制は必要がない。行政区分は小さくして小回りが聞く効率の良いシステムを構築すべきだ。

さて、話は逸れてしまったが、福井で驚いたことがあった。市内で知人たちとミーティングを兼ねた夕食を鮨屋で採ったのだが、先ずこの鮨屋が分かりにくいのには難渋した。スマートフォンがなければ夜なので辿り着けなかったと思われた。

吉野鮨.JPG  写真では看板の明かりが灯っているが、満席の時にはこの明かりも消えており、然も暖簾も中にあるので店内の入り口は暗く、営業していないと勘違いする店であった。知人は良くこんな店を見つけたかと驚きだが、上手い鮨を食べながら更に驚いたことがあった。

鮨屋での食事で皆酒飲みなので自然に地酒に思いが行くことになる。

福井には黒龍などの銘酒もあることを知っていたので、仲居さんに地酒を注文したら、店では置いていないとの返事が帰ってきた。店内を見回すと確かに他県の酒で東京でも飲める酒しか置いていなかった。

その時に、同伴していた方が昨日の飲み屋にも地酒が置いてなかったことを不満顔で言った。これでは地方再生の意味がないと改めて感じてしまった。幾ら福井人は経済に長けていても、地元の酒を飲まずに安い他県の酒を飲んでいたのでは、論外と思われた。

この様なケースは全国津々浦々で見られる光景ならば、地方再生など夢のまた夢と思わざるを得なかった。

 

消費税の増税案は最終的に景気指数によって実施を決める条件付で成立か

財務省の消費税アップのシナリオが最終段階になったと思われる。財務省は東日本大震災と福島原発事故を巧みに利用して消費税アップのシナリオを描いたが、どうやら景気指数によって増税の実施を最終的に判断すると言う誤魔化しで成立の見通しだ。今回の財務省の役人の増税シナリオには隙がなかった。勿論、国民など無視した遣り方は悪例として残り、官僚と国民の乖離は一層増すであろう。民主党反対派の小沢一郎もホッとしている事だろう。消費税反対の拳を上げたものの、自民党の谷垣総裁と野田総理の謎の会談をマスコミがリークして周章狼狽したと推定される。小沢一郎自体は消費税の増税には反対ではなく、飽くまでタイミングの問題と言明している。それが、景気指数と言う実施に条件が付いた事で直ぐには拳が下ろせないものの、最終的には自分だけ国会決議に欠席して終わらせる事になるものと推察される。財務省官僚と野田は最初から決めていたシナリオであろう。小沢にとっても野田総理にとっても早期衆議院解散は避けたい所だ。然し、真っ向から小沢一郎が消費税のアップに反対している状況では、小沢が一番不安がっている解散を持ち出すのが良い方法であり、解散できないと高を括っていた小沢に対して、自民党の谷垣総裁との解散密約会談を流布して小沢に一撃を加えた。日銀が景気回復に向けて動き出したから可笑しいと思っていたら、消費税増税の道筋が見えて来たから、円安を誘導して株高に持って行き、野田政権の支持率アップに転換したのであろう。世論誘導で一役買ったのは財務省次官が天下りした読売新聞であり、情報操作でも事前に手を回していた。今回の消費税の増税で一番の問題点は、二重課税の問題その他を見直す必要があったのに、増税に反対か賛成か終始し、その手の議論が余り行われずに消費税の増税が決まることである。財務官僚は小泉純一郎と言い、野田圭彦と言い、馬鹿な国会議員を篭絡するのは上手い。

原発再稼動に野田政権の政治的決断など笑止千万

政治家で大成するのは昔から厚顔無恥の人間という言葉があるが、民主党の野田政権に係わる国会議員を見て改めて思い出した。当初は国民も福島原発事故は想定外の津波によるものとして理解していたが、これまでの多くの調査や有識者の分析で防げる事故を起こしてしまったと言うことが分かりつつある。国会で進められている黒川委員長の事故調査委員会がどこまで事故の真相に迫れるかだが、政府の事故対策本部に議事録が残されていなかったり、東電の録画ビデオに肝心の箇所で声が録音されなていなかった事を聞くに連れて情けないのひと言に尽きる。子供でも嘘をついているのが分かる事を平気で言うのを聞くに及び、この様な国民が原発など保有してはならないと改めて怒りを感じる。然も、野田総理は福島原発事故の総括も終えていないのに原発再稼動を政治判断すると言明するに至り、野田と言う人間は政治家に最も相応しくないと驚いた。民主党の野田政権の行動を見ていると正に法非官僚そのものの考え方だ。原発再稼動に向けたストレステストに関して原子力安全委員会の見解が一次試験では容認できないと言う言質に対して、二次試験を実施しても同じことの繰り返しであり、短期に解決できない見解を受け入れる訳には行かないと嘯いた。野田と言う男は原子力について何が分かっているのかと言いいたい。政治家として原発の早期の再稼動を行いたいなら福島原発事故の総括を行い、総力を挙げて事故を防ぐ体制を構築し、再稼動は最低でも最新の原子力発電所に限定するべきだ。9電力会社の電力設備は全体的には過剰なことは周知の事実だ。全国の電力需給網を構築するには東日本と西日本を分断している周波数問題を大至急解決させることが必要なことだ。25年以上前に円高で海外に工場移転が始まったにも拘わらず、電力長期需給計画を修正もしないで電力会社に指導してきた政府の責任は重い。特に、グローバル経済や少子高齢化により電力需要が急速に先細りするにも政府は電力会社任せで何も手を打っていなかった。それどころか電力自由化などを推し進め電力会社に効率経営を求めた結果が津波対策投資の先送りによって福島原発事故を誘発してしまった。政治家として原発の再稼動に対して遣らなければならない事は目白押しだが、何も遣らないで政治的決断とは恐れ入谷の鬼子母神だ。野田は松下政経塾で学んだそうだが、実業家の松下幸之助が国家や国民を考えた人物は思えない。一介の町工場から大企業に成長させた事業家の手腕は評価するが、飽くまで実業家としての手腕だけだ。政治家としての才能が有ったかどうか知らないが、松下政経塾の政治家が悉く国家と国民の役に立っていない事を考えると晩年に松下政経塾など余計な道楽をしてくれたと思わざるを得ない。今の政治家は官僚に聞くから法律の法を越えることが出来ず、国民の為になっていない。政治家は官僚の様に法律を守るのが仕事ではない。国民生活の為に法律を変えたり作るのが仕事である。議員立法の作れない政治家など国民に不要と言われる事を肝に銘ずべきだ。

構造構成主義のメタ理論は面白い

前回のblogで"文系と理系の対立"を書いたが、私が批判した文系とは法律至上主義者のことと訂正しなければならない程、構造構成主義のメタ理論は衝撃だった。私は最近1冊の本を手にした。書店でタイトルは見かけたが、余りにも野暮なタイトル「人を助けるすんごい仕組み」が付けられていたので、興味はあったが買うまでには至らなかった。この本は既に20万部以上も売れているとの事なので、人口に膾炙していると思われ改めて紹介する必要もないのだが、本の中で述べられている構造構成主義と幾つかの言葉にこの年齢で気づかされた事があったので敢えて書くことにした。著者は哲学・心理学を学び、現在教える立場になっている少壮の学者さんだ。彼は東日本大震災のボランティア(ふんばろう東日本支援プロジェクト)で驚くべき大きな組織を作り上げ、行政など足元にも及ばない活躍をした。何が凄いかは構造構成主義という理論を駆使して学問の世界以外に経験していない著者がソフトバンクの孫社長の様な事業家に匹敵する手腕を発揮したことである。勿論、事業家の経験がなくても研究会で1000名規模の人を統括する組織の責任者の経験はあるのだが。何れにしても、彼が指摘する時代の変動が大きいときには哲学が必要であると言うくだりは、哲学に対する私の考え方が間違っていた事に気づいた。哲学がこれ程実践的なものなら若い時に勉強しておけば良かったと悔やまれた。著者が社会正義に不審を抱いていたボランティアの方にニーチェの言葉を引用して話した戦略的ニヒリズムなどに関しては私自身も社会の見方に対する考え方を変える契機となった。折角、構造構成主義という哲学に触れる機会が出来たので、著者流に言えば私も何かの呼びかけがあった一人と考えてもう少し構造構成主義を学んで見たいと思った。なお、本の終章では理系を学んだ者からすれば同調できないかもしれない運命論的な話題が出たが、著者からすれば偶然か必然かも構造構成主義で考えると対立する概念ではなく建設的な方向に導くことが出来ることになる。正に、複雑性の科学の二者択一理論と言い、今回の構造構成主義と言い、新しい時代を予感する学問が育ってきていることが分かる。

文系と理系の対立

米国の上下院議員の構成は文系出身者と理系出身者がほぼ拮抗していると聞いたことがあった。私はその話を聞くまで米国の議員は弁護士出身の文系が圧倒的に多いと勝手に誤解していた。翻って、米国の議員構成を聞いた当時の日本は圧倒的に文系出身の議員が多かったと記憶している。最近、日米の政治についてNY在住の友人と話していた時に米国の議会も文系と理系の構成に変化がおきて今では文系出身者の方が多いと指摘し、米国が可笑しくなったのはその影響もあるかもしれないと彼は言った。それでは日本はと言えば、鳩山元首相と管前首相が理系出身の為に政治家として理系は向かない様な印象を与えてしまった。私は理系と言っても理学部系と工学部系があり、鳩山と管は理論重視の理学部系だから工学部系であれば違ったのではないかと思うのだが、理系の政治家は駄目だという声が大きくなり、鳩山も管も日本の政治における理系出身者にマイナスイメージを与えてしまった事は否めない。それでは過去の政治家、特に戦後の首相で理系出身者はいるかと探すと田中角栄がいる。私自身は田中について総体的には金権主義で官僚を堕落させ、無能な大臣を就任させて日本を駄目にした筆頭の政治家としてマイナスの評価であるが、個別的な政治課題の解決に振るった手腕は評価している。特に、日米繊維交渉では前任者の宮沢喜一が解決策を見出せなかったのに快刀乱麻を切る如く解決した手腕は見事であり、中小企業の経営者として経験と知恵が生かせた実績であった。この他にも、田中角栄と言う政治家は文系の政治家では考えられない様な多くの知恵を出した。田中角栄は理系出身と言っても建築工学なので芸術的な才能もあり、建物を設計すると言うより田中土建の経営者として工事施工で多くの経験を積んだために、時間軸やコストの意識が強かったと推測される。文系出身の政治家は法定主義に陥りやすく、時間の意識も希薄になる傾向が強い。今の国会を見ていると正に時間に関する意識が欠如していると思わざるを得ない。文系と理系の均衡がバランスを取ることは何も政治の世界ばかりではない。企業も同様に思われる。特に、米国主義の最近の経営は株主重視の短期利益を追求するもので法定主義の傾向が強い。このため、コンプライアンスなどを過度に重視し、マーケティング重視のガバナンスになっていると思われる。戦後の日本の経済成長は戦争で有能な文系出身者が失われ、理系出身のウエイトが高かったために成し遂げられたとも言われている。然しながら、バブル経済崩壊後に米国式経営を目指した日本企業はマーケティング重視と法定主義に陥り、日本企業の長所も失われてしまった。典型的な企業はソニーであり、長期的な視点にたった技術よりマーケティング重視で普通の企業になってしまった。当社の建築・不動産業界にも物づくりを軽視し、マーケティング重視に走り、コンプライアンスなどの法定主義に陥って破綻した会社も多い。勿論、私自身が理系出身なので理系出身者の欠点も熟知しているので、理系出身者を一方的に評価しているのではない。バランスを言っているのである。その様な視点から言えば、日本の官僚組織は文系重視に偏っているので法定主義に陥り自縄自縛となり、国民からバッシングされる存在になってしまった。この為に、福島原発事故に対する新たな原子力規制も法定主義の視点で進められており、技術的な視点が欠けた極めて問題が多いものとなっている。最近良い言葉を知った。出光興産の創業者の出光佐三翁の「モラルの奴隷になるな」である。内閣法制局が力を持ち、国会議員に対して悉く異議申し立てる姿は亡国そのものである。国会議員もダラシがないから最近は議員立法も作れない。文系出身者の現状維持を壊せるのは理系出身者であることを訴え、社会がバランスの取れたものになることを願いたい。

今後の政局の動向

民主党と自民党が話し合い解散で動き始めた。今年7月をターゲットに解散総選挙になる可能性が高い。理由としては、民主党は来年の任期まで待っても選挙に勝つ可能性は低く、この為に党の再生を掛けた勝負に出ると言う深読みだ。将来に掛けて打って出たのは消費税アップだ。次の次の選挙では評価されると考えて現状は憎まれ役を買って出る心境と思われる。更に、民主党の再生には小沢一郎を切り捨てることが重要との認識を高めたものと推測できる。仙谷議員が語った様に政権を獲得する為に政党を合併してから可笑しくなったとのことで政局を読むことが出来る。確かに、仙谷議員のみならず民主党の良識な議員なら誰しもが思う感想だろう。小沢一郎は一見して正論を吐いている様に国民には見えるが、民主党が政治主導で動いた時に小沢は何を行ったかである。政治主導として行った事は自民党の選挙地盤を切り崩す為に地方からの陳情窓口を官庁でなく民主党に切り替えたことである。この遣り方は昔の自民党の遣り方そのものだ。小沢の政治主導は政治改革でも行政改革でもなく、自民党と官僚の利権を民主党に奪うことであった。又、政治活動は野党を攻撃する代わりに民主党の反対派を攻撃することばかりに専念し、政権党の民主党を壊しただけである。この事に気づいた野田総理を取り巻く連中が漸く小沢を切る事を決断したと思われる。小沢としては、100名規模の議員がいるが殆ど一年生で次の選挙には勝てない連中だから民主党内に力を残す為には解散総選挙は避けなければならない事情がある。小沢は解散などさせないと発言しているが解散を決断した野田総理からすれば正に犬の遠吠えしか聞こえない。マスコミは野田が当初の発言の解散を引っ込めたと報道しているが、私から見れば逆である。解散総選挙を決断したからこそ解散に触れなくなったと推定できる。勿論、民主党の幹事長が小沢と親しいと言う理由で小沢が解散阻止できると読んでいる者もいるが、旧社会党の日教組上がりの幹事長は利に聡い筈だ。自分が選挙に勝てるかどうかが一つの判断であり、幹事長としてお金が使える立場で選挙を打ちたいと思われ、小沢の思惑が消える。野田総理としては解散総選挙を自民党に約束することで消費税増税の法案を通すことを決断したが、一方の自民党も橋下維新の会の動きに神経を尖らせた結果と思われる。解散総選挙が遅くなれば維新の会が勢力と支持を拡大するのは目に見えており、維新の会の準備が整わないうちの今年7月迄に選挙を行いたいと考えていると推定出来る。何れにしても、今後の政局は小沢切りと橋下維新の会の出鼻を挫くことで動くと思われる。

日本と米国の経済対策の違い

米国はリーマンショック後の金融危機に対する経済対策を見ると日本のバブル経済崩壊後の経済対策を教訓としてデフレ経済に陥らない政策を採用しているのが分かる。今年が大統領選挙の年なので特に景気回復に向けての対策が色々と打ち出されるものと思われる。米国がリーマンショック後に行ったのは金利の引き下げとドル安政策であった。又、財政の出動も可能な限り行った。同時に大手自動車会社GMの救済であった。オバマ政権は途中で議会が共和党に過半数を奪われるなど政策を実行するには厳しい環境におかれたが、それでも米国経済はドル安で自動車業界が息を吹き返して来ており、最悪な状態には陥らないで済んでいる。尤も、ドル安政策で物価の上昇は続いており、一方で住宅価格はの下げはとまっていないし、失業率の改善は十分ではないので、国民の不満は強い。然し乍ら、バブル経済崩壊後の日本のちぐはぐな経済政策と不運な推移と比較すると、金融危機と言う広域的な問題と経済バブル崩壊と言う局地的な問題の大きな違いがあるが、経済危機に対する対応の違いには驚かされると同時に現行の政策決定の仕組みを変えないと日本は再生できないことが良く理解できる。参考までに、日本のバブル経済崩壊後の動向を振り返ると、1994年のバブル経済崩壊後の翌年の1995年に阪神淡路大地震が起きて円高になった事が不運の始まりだったと思われる。然も、この円高を避ける為に東南アジアに工場移転したのだが、1997年には訳の分からないアジア通貨危機が起き、日本企業の円高回避のアジア迂回輸出のシステムが崩壊した。同時に、1997年に何を間違えたかバブル経済崩壊などで企業が業績を回復していないのに消費税を5%引き上げた。更に、2001年にデフレ経済に陥り、税収などが大幅に落ち込んでいる時に時価会計・減損会計を導入した。日本はバブル経済崩壊後の1994年~2001年の8年間において景気対策を行うどころかデフレ経済になる対策を相次いで実施し、今日の日本経済崩壊の原因を作り続けた。東日本大震災と二次被害の福島原発事故の政府の対応を見る限り、日本は終わったと考える人が多いと思われる。米国と日本の違いを指摘するのは簡単である。米国には強力な指導者がおり、日本にはその存在すら見えないと言うことだ。正に、官僚政治が行われており、その官僚政治は部分最適の実行と省庁間の縄張り争いで組織横断的な問題の解決能力が欠如している為である。勿論、日本に人材がいない訳ではない。日本にとって救いなのは、人材がいないのは政治家と役人の世界だけであり、IT情報化時代になって見える化が進み、政治家も役人も昔の様に国民に隠して勝手には出来難くなったことである。何れにしても、米国もリーマンショック後から経済が立ち直った訳ではなく、今後も悪戦苦闘が続くと思われるが、表面的に見る限りは日本の様な間違った政策を取っていないことは確かだ。

AIJ投資顧問の問題は日本人のリスク管理の考え方に帰結

独立系のAIJ投資顧問が中小企業の年金資金を運用して2000億円を消失した記事を見たときに、中小企業が良く独立系の投資顧問を信用して預けたと思ったが、この投資顧問会社のスタッフの殆どが元野村證券の社員であった事を知り、またかと思った。日本人は失敗の責任逃れる為に、誰もが結果責任を問えない対象を選択するのが一般的になっている。会社の人事なども同様に世間で有名大学の学生を取ることで責任を回避する。勿論、有名大学の学生を採用すれば、5人に3人は仕事が出来るが、二流大学の学生の場合は、5人に1人しか仕事が出来ないと言うデータを盲信して採用しているのを聞いたことがある。会社の将来に関わる新入社員の採用に人事担当者が面接重視でなく、自分の責任回避の採用を進めているのでは企業の将来はない。然し、日本の場合には全ての選択基準が人物や企業の内容を判断してでなく、有名大学出身か大企業かと言う表面的なものに左右されている。AIJ投資顧問に中小企業の年金資金担当が騙されたのも推測だが、天下の野村證券出身だからと思われる。マスコミも野村グループが年間に支払う広告料は膨大になるので、野村證券の不祥事や運用の失敗などに関しては記事にしないか埋め記事類で大きくは掲載しない。この為に、一般の人は野村證券の成功の凄さだけが脳裏に焼きついており、元社員の誰もがスーパーマンと錯覚していると思われる。特に、リーマンブラザーズのスタッフを採用して運用面の強化などの記事を眼にしていると、野村證券のOBの投資顧問会社にも大きな期待を寄せる素地が出来る。私も大きな口は叩けない失敗を過去にしている。私の場合は、大手銀行の外為担当の長いキャリアを持ち、米国NYで大手銀行の子会社の米国証券会社や米国投資信託会社の社長まで登りつめた方と友人を介して知り合いになり、彼が帰国して始めた為替取引のファンド運用で騙された。この人物はキャリアに相当する実務経験がなかったと同時に仕組みさえ良く分かっていなかった。その上、最初から逃げられるように自分の立場を置くなど、無責任極まりない人物であった。私自身不動産業界は長いので人を見る目を持っている心算であったが、業界が違えば一般的な日本人と同様に有名大学、大手企業の出身と言う肩書きに惑わされることを改めて学んだ。今から思えば、我々の世代で日本の有名大学を卒業して外資系の金融機関に長く勤務した知人は、同じ日本人でありながら学歴や企業で仕事の依頼先を選択しなかった事を思い出した。この方は米国勤務も経験し、その間にスタンフォード大学のMBAも習得している人であった。典型的な資本主義の米国企業で鍛えられたので、学歴や肩書きに左右されない目を養ったのであろう。彼が米国企業に学んでいた時代の日本は社会主義的な要素を持ち、経済成長で次第に豊かになり、マスコミに与えられた記事だけを読んでいた為に資本主義の厳しさが欠如してしまったのであろう。それがバブル経済が崩壊し、デフレ経済となり、小泉改革で戦前の様な資本主義社会が出現してきたにも拘らず、能天気な有名大学と大手企業の盲信だけが組織に残り、依然としてリスク管理が甘いのであろう。野村證券の資産運用などバブル経済後に立ち上げた1兆円ファンドが5年も立たずに元本が50%を切った事実を知っていれば、野村證券のOBの投資顧問会社だからと言って信頼しなかったと思われる。尤も、リーマンブラザーズの社員雇用で運用面の強化の記事を読んだことがAIJ投資顧問に対する委託に繋がっているかもしれないが、その前にリーマンブラザーズは運用面で失敗して破綻した事を忘れた報いが野村證券にも現在の経営難となって及んでいる。何れにしても、未だ日本社会に根付いている有名大学と大手企業でリスク管理を考える習慣を変えないとグローバル社会では生き残れない。ちなみに、AIJ投資顧問の預かり資金の移動は詐欺的な行為と思われるが、運用自体に元本保証はないと思われるので、刑事罰が問えるかどうかが今後の問題と思われる。

橋下維新の会他、新党の行方

橋下維新の会の出現で政党再編成の嵐が吹きそうだ。政治と経済は一体で切り離せないので、今後の政権政党が何処になるかで企業活動が大きく左右されることになる。新党結成、連立政権が発足しながら国民が望む政権が出来ない理由は何処にあるのかを考えたい。この様に書くと、殆どの人は官僚が替わらないので、如何なる政権も同じ道を歩む答えると思われる。然し、大事な点を忘れている為に全てを官僚の責任にしているのではないかと私は思っている。橋下維新の会もその壁に早かれ遅かれぶつかると思われ、それによっては船中八策など形骸化してしまう恐れもある。尤も、船中八策には防衛問題と経済問題に関しては従来の政党と変わらないと思われるので、今後の展開を読んだシナリオかもしれないが。さて、気を持たせたかもしれないが、新党を作るにはお金が必要だということである。今の民主党が出来たのは鳩山の資金と小沢の資金があったからである。以前の新党が先細りしたのは全て政治資金が不足したからである。勿論、昔は政党助成金などなかったので、現状で新党を作るより遥かに困難であった。今は少なくても政党助成金があるので、1回選挙を勝ち抜くと生き残れるチャンスはある。その視点で新党を考察すると、橋下維新の会は抜け目ない動きをしている。新党作りには党首の人気とお金が必要なのだが、前者は十分に満たしているものの、後者の資金に関しては疑問視していた。橋下さんもそのあたりを良く知っていたので、最初は国政に進出するのを慎重に発言していた思われる。ところが、此処に来て急速に国政参加に向けて動き出したので、どうやって資金を確保したのか、スポンサーは何処なのかと考えていたら、大阪地区の選挙区での公明党との協力が成立した。成る程、公明党の敵は共産党であり、共産党が橋下さんを攻撃したので必然的に公明党は橋下さんの支援に回る事になった。これを見て橋下さんは運が強いと思った。公明党の母体の創価学会が橋下維新に資金を出せば橋下維新の会は橋下人気と相俟って鬼に金棒だ。橋下さんは小沢一郎と距離を置いたのも創価学会との提携だと漸く理解した。そうなると、今後の新党の動きがどうなるかだが。石原新党は高齢者の集団との印象が強く、石原が幾ら国家の危機を叫んでも馬鹿息子の三男坊の選挙対策として受け止められるし、本音はそうだから成立するかどうかは難しい。愛知県の大村知事や名古屋の河村市長は地域的人気があるが、全国的には弱いし、資金がないので小沢に擦り寄るしか方法がないので期待できない。この為、橋下維新の会以外では小沢新党が出来るかどうかだが、橋下維新の会が距離を置いたなら選挙は厳しいと推定されるので、今後の政局としては、自民党、民主党、みんなの党を吸収した橋下維新の会の三極で動き、これ以外では石原新党、小沢新党が出来たとしても次の選挙では勝利者にはなれないと思われる。勿論、政界の一寸先は闇なので、今後の政局に関しては飽くまで現時点での読みであるが、新党乃至は連立政党のスポンサーがどこになるかで政策が変わるので注視する必要がある。

無能な政治家が生き残れる理由

今の政治家ほど気楽な時代はない。この様に書くと政治家から顰蹙を買うかもしれないが、私からすれば自分の無能さを全て役人に転嫁できるので、これ程良い時代は過去になかったと思われる。然も、その後押しをしてくれるのはマスコミだから政治家にとっては笑いが止まらない。民主党の小沢一郎が政治主導の標語で民主党に政権を取らせたが、その標語自体が政治家としての責任放棄と言わざるを得ない。三権分立では有るが、予算も法律の制定も議会を通さないと基本時には成立しない。勿論、議会を通さないで行える行政の行為もあるが、その事をもって役人が暴走することなど出来ない。今の日本社会は役人と言う悪党と正義の見方の国民と言う図式であるが、その間に議員と言う無責任な存在がいる。仕方がない事であるが、日本は明治時代に近代化を成し遂げる為に官僚機構が政治と行政の役割を果たしてきた。尤も、戦前には天皇直轄の軍隊や明治の元勲の元老院などが存在していたので、現代日本とは様相が異なっていたが、当時の役人には天下国家の意識が芽生えたことは確かだ。特に、議会制民主主義となってからも議員連中の無能さと私利私欲の争いを見たので、尚更役人は政治不信になったと推定できる。戦後に民主国家の日本になり、見かけ上は米国も手を引いたが、政治家は余り変わらなかったのが実情である。逆に、軍人と言う重石が取れた分だけ政治に命を掛けるリスクも少なくなり、一層私利私欲に走るようになった。その典型的な総理大臣が田中角栄であり、田中角栄に繋がる面々である。翻って、何時から政治家が自分の無能を役人の責任に転嫁できたのかと考えてしまう。私の亡父は地方の政治家として頑張った姿を子供の頃見てきた。私が政治の世界に入らなかったのは、亡父が私利私欲を捨てて頑張っているに票に結びつかなかったからである。尤も、亡父は一度も選挙で「お願いします」と言う言葉を言わなかった。亡父からして見れば、身銭を切って選挙に出て市民の為に頑張っているのでお願いするのは市民の方だろうとの思いが強かった。母は女性なのでその様に頑なな亡父に対して腹が立っていたと思われるが、亡父に投票してくれたのは元小作人の人々や部落出身の人達が多かったのを記憶している。私の記憶では役人が亡父に逆らった話など聞いたことがない。腕っ節も強く気性も荒かったので人に恐れられていたのは確かだが、今の政治家の様に役人には嘗められていなかった。勿論、当時と今の経済状況は大分異なり、役人の給料は安いので積極的に役所に就職する時代ではなかったのも事実である。然し、今でも変わらないと思うが、私利私欲を捨てて頑張っている政治家には役人も尊敬し、活動に協力すると思われる。亡父が生きていれば政治主導の標語に対して政治家になる資格がないと切り捨てたと推測できる。政治家が役人から尊敬されていれば政治が機能しないなどと言うことはないのである。政治家の私利私欲を見ているから政治家に任せられないので抵抗するのである。本当に立派な政策であれば役人は味方に出来るのである。全ての役人が利権を貪っているのではないことを知るべきだ。その様な意味で小泉純一郎と小沢一郎の二人は役人を悪者にして政治家としての地位を得た共通点がある。更に二人の共通点は政治家として無能なことだ。前者は米国追従の格差社会を作り上げ、後者は政治的機能を麻痺させた。衆参議員合わせて750名を超える政治家がいるが、そのうちどの位の者が社会を良くする為に活動しているかである。多くの国会議員は多くの時間を政治家としてより自分の私欲の為に活動している。何も遣っていない事を言われると役人の責任にして事なきを得ている。マスコミもその意見に追従している。これでは日本の政治が良くなるわけがない。自分の無能力を棚に上げて役人の責任にする政治家が居たら選挙で落とすべきだ。それが日本社会を良くする事と考える。国民は議員連中に騙されてはいけない。

劣化した社会

最近は不動産と建築の仕事を通してしか物事を見ていないので偏った見方かもしれないが、最近の設備機器などを見ると気配りが出来ていない製品が多いことに気づかされる。この原因は効率重視なのか、デザイン重視なのか分からないが、一つ言えるのは間違いなく日本社会は劣化していることである。炬燵の上に置くテーブル板ひとつ見ても、今のテーブル板は水をこぼした場合の配慮がない。以前のテーブル板は周囲が嵩上げされており、こぼす事を前提に作られていたが、最近のはその様な造作がなされていない。この種の製品はビル内の湯沸所の水周りにも共通点がある。25年以上前の製品には水道の蛇口の長さやステンレス板の造作に事故に対する設計上の気配りが成されていた。都心の建物の建築でもインフラが乏しい時代には台風などで下水が溢れた場合を想定して建物の位置の高さを決めていた。しかし、今の社会はインフラも充実し便利になった為か、事故に対する配慮が全くと言ってよいほどない。勿論、効率経済の時代には、起きる確立が低い事故を想定して建築するほどの工事費は与えられていないので無理もないかもしれない。IT社会は確かに過去の様な無駄をなくす役割を果たしているが、建築業界においてはその無駄が安全と想定外の状況に対する防波堤になっていたことは確かだ。ちなみに、最近の建築物は計算ぎりぎりに建築資材を使って建てるために余裕がない建物が多いと思われる。建築現場でも人手不足と効率のためにipadなどを使った映像を見て現場の確認をする傾向が強まっているが、実際の現場を見ない工事に対する信頼性において不安も過ぎる。複雑な社会なので分業体制が進んでいるが、この様な社会は"木を見て森を見ず"が当たり前になり、大事なものを見過ごしてしまう可能性が大きくなるのではないかと思われる。最近の例では、東京電力の福島第一原発の事故においても東電のスタッフは事故処理において終始監視室内の操作盤と睨みあって外部の状況を目視することはしていなかった。想定外の状況が起きているので操作盤が正常に動作していない可能性も高かったのに、誰一人疑った者が居なかったのには驚いた。この現象はビルの管理においても同様だ。現場の管理要員も監視用のPC画面を眺めているだけで余りビル内の点検には動かなくなった。不便な時代には管理要員はそれぞれの現場を確認しなければ実態が把握できないので、常時現場での点検が習性であったが、今の管理要員はPC画面に異常がなければ点検しない。しかし、異常が出たときには遅いのであるが、現代社会は監視機能が発達したので、逆に人々はそれに自縄自縛になっている。便利な社会と言うのは私からすれば劣化した社会としか映らない。複雑化した社会はスペシャリストは育つが、ゼネラリストがいなくなり、全てが部分最適な手法で処理されているので、事故が起きるまで誰も気が付かない。この社会現象に気づいた訳ではないだろうが、一部の人達はフラットな組織を作り、全員が情報を共有する体制を作っている。今更、昔に戻れるわけではないので、フラットで上下関係も超えた組織が劣化した社会の歯止めになるかもしれないと思われる。

孫正義伝「あんぽん」を読んで

私が今一番好きなノンフィクション作家の佐野眞一が書いたソフトバンク創業者の「孫正義」伝を読んだ。佐野作品はどの作品も読んだ瞬間から引き込まれる。佐野作品に惹かれる原因は正に取材力と世間に阿ねない姿勢、更に真実に少しでも近づこうとする気迫である。正に、孫正義伝はその様な視点で書かれた出色の作品と読むに連れて思った。尤も、此処まで真実を書かれた孫正義及び家族は居た堪れないかもしれない。しかし、虚像と実像が折り重なって評価されるより、在日出身と言う韓国社会でも日本社会でも差別的な扱いを受けながらのし上がって来た生き様を思うと、真実を書かれる事などどうでも良いのかもしれない。逆に、孫と言う性で帰化した事を考えると、生き様を隠すのではなく、堂々と晴天のもとに晒したい思いもあるのかもしれない。私は常々日本社会で在日と言う差別的な表現を耳にすると、在日と差別的な言葉を吐いた者の無知を軽蔑する。日本社会はそもそも2000年以上前に海を渡ってきた民が造った国である。今の日本人の半数位は朝鮮民族をルーツにしていると考えられる。私の持論だが、2000年以上前に来た朝鮮人と100年以内に来た朝鮮人と何処に違いがあるのかと言うことである。勿論、この期間を通して変わったのは気質だと思われるが、その気質の違いを以って同じDNAを持っていることを否定できない。日本人を形成する気質は、海外からの移民国家であることと自然の災害が多いことからDNAに我慢強さや争いを好まない性格、更には東日本大震災の時に見せた助け合い精神が生まれたと推定できる。孫一族は朝鮮民族の中で支配階級であった両班の出自と書かれている。孫正義の一族が今の韓国には余り愛着がなく、孫正義氏が日本に帰化したことを考えると故郷には複雑な思いがあるのが分かる。何れにしても不世出な事業家の孫正義氏を日本が持ったことに感謝する必要があるのだが、マスコミや多くの日本人は孫正義氏に反発する人が多いようだ。著者の佐野氏は孫正義氏に付き纏う胡散臭さが何に起因するのか取材を通じて解明しようとしたが、最後まで分からず仕舞いであった様だ。しかし、私から見れば一代で富を掴んだ人達には常に同様な胡散臭さは付いて回っていると思われる。この胡散臭さは常識的な考え方に捉われない事であり、斬新なアイデアのなせる業なのである。日本人は古来より考え方が同じでないと排斥する傾向が強く、考えの違う者に対しては異端児扱いをした。孫正義氏に対しては在日と言うことから特にその反発が強いのかもしれない。今の日本社会は常識な考え方では乗り切れない状況となっている。グローバル社会で日本人考え方がが通用しないと思っている人が多いが、私が逆な見方をしている。グローバル社会はITテクノロジーによって開かれたが、他民族の交流のダイバーシティと言うこを分析すれば、中東で生まれたキリスト教やイスラム教の一神教を信奉する民族でなく、日本の様な多宗教を包含する民族がリードすることになると予言する。日本人が良く知る七福神の神様は、3人がインド渡来、3人が中国渡来、一人だけが日本の神である。孫正義氏が日本に帰化した理由は正にそこにあるのである。グローバル社会は日本人が世界をリードできる時代が来た事と認識すべきであり、狭量な差別主観を排除すべきなのである。移民は日本に馴染まないと言う輩は日本の古代史を学べと言いたい。ダイバーシティこそ日本の姿である。

不動産仲介手数料について

私は不動産業界に長く身を置きながら不動産仲介手数料については深く考えてはこなかった。実は2年ほど前になるが、偶然知人と不動産売買手数料の話になり、私は両手(買主売主)は利益相反になるので取れないと思っていたが、その知人により私の考えが間違いなのに気づかされた。特に最近は信託銀行系の業者は両手しか取引しないとのことも聞き時代が変わったのを痛感させられた。私が仲介手数料で勘違いした原因は、賃貸物件の仲介手数料が賃料の1ヶ月分と言うことと混同していた為かもしれない。賃貸物件の場合には2ヶ月の仲介手数料は違法になるので、主として広告宣伝費として領収書を切るのが慣習となっている。然しながら、不動産売買手数料の両手を容認している事は利益相反問題にならないのかと考えてしまうのだが、良く考えると街の店舗不動産は家主から直接物件を得ていれば飛び込みの借主の場合、当然に両手の商売であるので両手の手数料を否定できない業界であり、力があれば両手に出来る業界だと思われる。基本的な不動産手数料について今更ながらであるが、当社の社員から不動産仲介手数料を無料と宣伝する業者が現れてきた事を知らされ、今後の会社の対応を聞かれたので、改めて不動産仲介手数料を考えてみた次第だ。先ず、不動産仲介手数料を両手で商売するのは利益相反になるので、当社としては行いたくないし、お客にも買主と売主の双方にそれぞれ仲介業者が付くべきと説明したい。次に、不動産仲介手数料を無料にする問題だが、売主と買主又は貸主と借主の両方から手数料を貰わないとなれば、そのビジネスモデルは宅地建物取引業者として稼ぐのではなく、全く別の視点で収入を得ることになるので此処では採り上げない。このため、論点としては、片方から仲介手数料を取ると言う考え方だが、手数料を取られないことに飛びつくのはリスクが伴うことだとどの位の人が知っているのかと考える。利益相反も考えものだが、それ以上に片方から取らないと言うことは、一方の利益を守る立場と考えると理解しやすい。良く昔から無料(タダ)より高いものはないと言われるが、正に真実である。勿論、最近は無料(フリー)で商売をするビジネスモデルが横行し話題になっている。然し、不動産仲介業は物販と違い1年間で保証期間が切れるものとは違い、取得後や入居後、退出後の責任も関わってくるので必要な手数料は支払った方が良いと思われる。グローバル社会になり、その国特有の商習慣が否定される時代ではあるが、何故その様なものが必要なのかを再考した上で選択することも重要なのではないかと思われる。時代に翻弄されないことが自分自身の利益を守ることである事を知る必要がある。

東京都知事・石原慎太郎の原発に対する妄言

産経新聞の一面"日本よ"に掲載された石原慎太郎の原発に対する妄言は哀れの一言に尽きる。石原慎太郎が作家と政治家の二足の草鞋を履いてから30年以上は経過していると推測する。自民党の参議院から衆議院に転出し、その間には運輸大臣にも就任して若い人には作家より政治家の石原慎太郎の方が通りが良いと思われる。然し、「日本よ」の文章を見る限り、この人は政治家でななく作家の域を出ていないことが分かった。この様に書くと今更と言われるかもしれないが、私自身は石原慎太郎の作品を読んだことがなかったし、況して政治家の石原慎太郎については興味がなかったので、彼の書いた文章を読んだことがなかったのである。今回は偶々産経新聞の"日本よ"の副題「原発に関するセンチメントの愚」に興味が引かれ読んだのだが、その牽強付会に驚いたのである。正に「駿馬も老いれば駄馬になる」を地で言った姿に哀れさを感じる。原子力行政に長く携わった知人でさえ、今回の事故に対して国民に申し開きが出来ないことをしたと悔いているのに、原発の技術や原発のリスクを省みない文官どもの跳梁跋扈も知らずに、1回の事故で原発を否定するにはセンチメントの愚と論じる愚かさには呆れて物が言えない。良く考えると、この様なインチキ政治家が日本を駄目にした張本人であり、語るに落ちたとは正に石原慎太郎を指す言葉だ。特に、新党参加に関しては日本を憂う様な事をほざいているが、実際には浪人中の馬鹿な次男坊を次の選挙に当選させたいだけのことだ。尤も、そのことは日本人のセンチメントだと逃げるのであろう。又、福島原発の放射能など問題ではないなら、自分の妻や子供や孫に福島産の米と野菜などを食わしているかと言う質問にもセンチメントと逃げる複線を用意しての狡さが見える。石原慎太郎に言いたい。言葉ではなく行動で示せと。福島に孫を住まわせ、福島産の米、野菜類、魚介類を食卓に上げてから福島事故の放射能などで騒ぐなと書けば敬服する。それが王陽明の陽明学の真髄「知行合一」である。

分を弁えない沖縄防衛局長の講話

真部と言う沖縄防衛局長は正に分を弁えない輩と言って良い。最近、役人風情がのさばって国民に物を申すようになった。格差社会になったら、役人が時代錯誤に陥って自分たちが偉くなったと錯覚している様だ。税金で飯を食っているものが国民に向かって高い所から物を言う自体が言語道断だ。然も、講話とは恐れ入った。役人になって相当の年月が経過するのに民主主義の基本も理解していない者が沖縄防衛局長に就いていたとは呆れて物が言えない。この様な輩が役人として、然も上級職にいることを考えると、役人だけに人事を任せておくのは危険であると思われる。沖縄の普天間問題は政治が処理する問題である。官僚が発言したり、何かの工作をする問題ではない。マスコミも講話などと書いているが、講話と言う言葉自体が問題だ。役人を国民より上位と考えているから講話などと言うことに抵抗もなく受け入れている。私から言えば官僚など狭い世界で仕事してきているので、話にならないほどレベルが低い。本当に井の中の蛙が多いのに呆れる。複雑な現代社会にあって役所組織が部分最適な遣り方で機能していることに日本の最大のリスクがある。然も、役人は責任を取らないシステムになっているので最悪だ。官僚は委員会と言う制度で自分たちの意思をオーソライズしているので、先ずはそのシステムを変えなければならない。多くの委員会は御用学者や御用評論家で構成され、彼らは手当てを貰っているから官僚の言いなりだ。何か問題が起きるとこの御用学者や御用評論家がマスコミに登場して官僚を擁護するのである。国民は役人の天下りばかりを諸悪の根源と見ているが、実際には委員会制度によって役人が好きなことを遣っていることの方が問題なのである。馬鹿な奴と自己利益の追求者しか政治家にならない時代には官僚がのさばってくる。橋下大阪市長が唱えるように日本を良くするには従来の制度を変えてゆくことしか方法がないのである。公務員にスト権を与えて首に出来るようにすることが先ず最初にやるべきことである。税収がないのに高級を取ったり、リストラもない組織が良い行政マンを作れる訳がない。政治家も役人も国民も同じ痛みを共有して初めて社会が良くなる。1000兆円もの借金を抱えているので、多くの価値もない無能力者の政治家などに多額の報酬を与える環境にはない。改革なくして増税はありえない。

新築時より25年間ご利用頂いた最後のテナントの退去

当社が共同開発した大型ビルの新築時に入居した最後のテナントが2月末で退去することになった。尤も、経営者が変わっても店名が同じ飲食店が未だ入居しているので厳密には違うかもしれないが、契約者名が同一と言う事であれば間違いなく新築時からの最後のテナントと言える。このテナントは特許事務所だが、代表の方が退去のご挨拶にお見えになられた時のお話で50年の特許人生を歩まれ、その内の半分の25年が当社の管理するビルで業務を従事したことが分かった。25年の歳月は生まれた子供が25歳になることでも分かるように、新築時入居のテナントが借り続ける確率は相当に低い。25年間の長い間に色々な出来事があったが、その中でも入居時の内装工事で不愉快な思いをしたらしく、25年の退去時の原状回復時の打ち合わせにも所長さんからその話が出たと担当者から聞いた。当時は未だ建設会社から引渡しを受けていなかったので、建設会社にお願いしてテナントの内装工事を認めてもらった。このため、テナントの内装工事に当社は関与出来なかったこともあり、建設会社との間で協力金などのトラブルに近いこともあった様だ。私が所長さんと初めてお会いしたのは部長時代であり、バブル経済真っ只中の賃料値上げの時であった。今から思えば、入居3年後とは言え20%の値上げに関してはテナントの顰蹙を買うのは当然であったので、ビル内のテナントが団結して反対行動を展開し、ビル内の9階の当社事務所に抗議してきた。当時は私も若かったので、団体交渉を拒否し、飽くまで20%の値上げを主張して押し切った。この時に、私が更新契約書に関して記載ミスをし、その訂正を部下を通し所長さんに求めたところ拒否された経緯があった。この事を部下から聞いた私はその場で電話を掛けて更新契約交渉で信頼関係を築こうと言った所長さんの言葉を取り上げて非難した。すると所長さんが私も短気だが、貴方も短気だねと返され、生まれがお互いに関東だと分かり、所長さんの配慮で契約書の訂正を受け入れてくれた経緯があった。今となっては懐かしい思い出になった。その後、何度か所長さんと話す機会があり、その時に入居している我々が三菱地所とは言わないが誇れる会社になって欲しいと助言された。長い間、貸しビル業の管理を行っていると管理面でクレームを付けてくれるテナントが大事なのを理解する。何も言わないテナントは退去を考えているからで、ビル側が愛想をつかされているのである。貸しビル業界も不動産ファンドが進出し、テナントと貸して側の関係も対立的になった。平成ミニバブルには40%の賃料値上げもあったそうだ。時代が変わったことを痛感した。特に、不動産ファンドの大半がスペースを貸している意識しかなく、貸しビル業がサービス業であることを理解していない。新築ビルと比較して古いビルは特にサービル業を意識しないと賃料の下落に歯止めが効かないことになる。当社も多くのビルの管理を通して教えられたことが多い。50年の長きに亘り特許事務所を経営してきた方の言葉には重みがある。今回の退去も年齢を考えて取引先等に迷惑を掛けない為に後輩が経営する特許事務所に経営を委ねるためとのことで引き際の素晴らしさにも敬服する。新築時入居の最後のテナントの退去には走馬灯のように25年間の色々な出来事が思い出される。

不毛な政界再編の動き

馬鹿な国会議員は再度国民を騙せると思っているのか最近は選挙に向けた政界再編の動きが活発だ。勿論、再編が活発化した背景には勝ち馬がとなれる橋下大阪市長の維新の会に便乗しようとする政治屋どもの動きだ。国家を食い物にする国会議員は思想信条もなく選挙に勝つ為だけの野合集団であるが、その典型的な政党は民主党だ。先頃、民主党の仙石議員が小沢一郎の主張する政権をとる為の数の論理で自由党と民主党が合併してから可笑しくなったと述べたことをwebニュースで見たが、今更乍に今の国会議員がそのレベルであることに驚いた。小沢一郎は最初から思想信条など持った議員ではない。単なる権力の味を覚えた封建領主の考えの持ち主だ。尤も、社会経験の皆無なのをカバーする為に法律を前提とした政治論で武装しているが、所詮は官僚の域を出ない机上の論理の政治家だ。国民を無視した政争だけの政治が続いているが、原因は政界再編に常に小沢一郎が関係していたことが原因だ。旧自民党時代の田中角栄と竹下登、更に金丸信の配下で数の論理とダーティな政治資金を学んだ小沢一郎と言う遺物の政治家をマスコミが政界再編の寵児の様に扱ったことが最大の失敗だ。本人は知らないだろうが、小沢一郎の政界再編は米国が意図した日本の安定した政治を壊す役割を持ち、更に小沢一郎の政治主導と言う言葉は同様に日本の優秀な官僚機構を壊すことに貢献したのである。20年間を振り返ると、小沢一郎は日本を壊した政治家の筆頭に上げられる。正に、米国に旨く使われてきた政治家だが、役割を終えて米国に捨てられたので、今度は中国に歩みよるなど節操のない政治屋だ。今回の再編の動きは国民の為でなく全て私欲から出ているので、この様な不毛な政界再編に対して国民は鉄槌を食わす必要がある。東日本大震災からの復興と福島原発事故に対して無力どころか国民に犠牲を強いた民主党の議員などは言語道断だ。石原都知事も晩節を汚す様な息子可愛さに政界再編に加わろうとしている。橋下大阪市長の真価は政界再編の動きの中で問われることになると思われる。小沢一郎の様に数の論理で国会議員立候補者を集めたり、既成政党の私欲の為だけの国会議員を糾合したりするなら、橋下大阪市長に期待することは出来ない。本来、政党とは同じ政治心情を持ち、国家のあるべき姿を共有する人達の集まりの筈だ。現職の国会議員が今の政治は昔の様に政治思想の対立軸がなくなり、政党の拠るべき価値観の判断が難しくなったとふざけた事をほざいているが、政治とは政治思想以前の国民の生活を守ることである。年間に3万人も自殺している国家なのに政党の拠るべき価値観の判断が難しくなったなどの暴言を聞くことは出来ない。一縷の光明を指した橋下大阪市長の維新の会が既成政党の汚濁に塗れ、私利私欲の国会議員連中と野合することを断じて避けて欲しいと願うばかりだ。中身が変わらないのに外見だけ変えた政界再編など御免蒙りたい。

福島原発事故の教訓が少しも生かされない日本社会

日本と言う国は福島原発事故に対する対応を見る限り滅ぶべき民族と考えざるを得ない。天の鉄槌とも思われる1000年に1回の東日本大地震と二次被害の福島原発事故が起きたにも拘わらず、何事もなかったかの様な原発稼動再開に向けた動きや東京電力の不誠意な原発賠償対応を見ると、更なる天の鉄槌が下ろされるかもしれない不安が過ぎる。原発の40年耐用年数などは新しい原発の基準で算定しているにも拘わらず、旧式の世代の原発まで使用延長が成されようとしている。勿論、福島原発事故の検証が終えていないのに事故前のストレステストで再稼動を決めること自体恐れ多いことだ。然も、原発事故時の政府が対策を議論した議事録がないなど非常識な出来事にも誰も責任を取っていない。議事録を採らないなどありえないことだが、百歩譲って採っていないとしたら、後から責任を追求されないことを前提に議論したことになり、大災害に対する危機感より自己保全を優先した驚くべき行為である。その一人が枝野前官房長官であり、現経済産業大臣とは驚くべきことである。官僚を使いこなすことも出来なかった鳩山や菅の総理大臣の後に官僚の言うがままの野田総理大臣など民主党は呪われた政党と言わざるを得ない。イラン情勢で原発の再稼動を急ぎたいなら、福島原発事故に対する誠意ある対応を政府も電力会社も行うべきである。又、事故を二度と起こさないためのシビアな事故の検証を行い、責任者の処罰と規制の強化と設備対応を緊急的に行う必要がある。それが出来ないなら原発の再稼動など問題外だ。

不動産の今昔で思う

不動産業界には今も昔も金銭的な成功を求める人達が集まる。尤も、私の時代には学生運動を行った為に通常の就職出来ない者が、余り経歴を問わない中小の不動産会社を職場とした。私も業界紙の記者からいきなり革マルですか、中核ですか、京浜安保ですかと聞かれて戸惑った記憶がある。勿論、不動産業界には学生運動とは反対の運動部出身者も多く、そういう意味では過っては極左と極右の思想の持ち主の呉越同舟の業界であった。不動産業界の最盛期は20年以上前の経済バブルであったが、このバブル崩壊を期にインフレ経済時代が終焉し、戦後生まれの人は経験したことがないデフレ経済の出現となった。デフレ経済も15年以上が経過し、社会に出てデフレ経済しか経験していない人達の年齢は大学卒なら38歳、高卒なら34歳である。どの業界も同様ではあるが、不動産業界も何時の時期にその業界で経験を積んだかで認識が異なる。不動産業界の場合には、デフレ経済の中で平成ミニバブルが起きているので、ミニバブル時代に不動産業界に入った若い世代の認識は過去のインフレ経済の時代と似た面がある。仄聞した話だが、新興住宅販売会社の若い幹部社員が部下に"住宅を買うのはコンビニでおむすびを買うのと一緒の感覚だと思って売れ"と指導している事を聞いて驚いた。インフレ経済時代には住宅を購入する時に土地の値上がりによる買い替えを前提にしていたので、住宅の造りが悪くても売れた経緯がある。然し、デフレ経済になってからは終の棲家として購入する人が殆どだと理解していたので、平成ミニバブルで不動産業界に従事した若い世代の感覚に危惧してしまう。デフレ経済なのに住宅を購入する人が多いのは幾つかの理由があると思われるが、分かりやすいのは借入金利が低いと言うことである。過去のインフレ経済時代には金利が高く、バブル経済時代で金利が安い時代にあっても4%台であり、金利は不動産事業の大きな要因であった。しかし、平成の不動産ミニバブルでは極めて金利が低く、事業収支における金利要因の重要性が軽視されるリスクがあった。平成ミニバブルには過去に失敗した経験が生かされずにインカムゲインよりキャピタルゲイン重視の事業が多かったのも特徴的であった。この為に、低金利時代にあって7%以上の不動産金融の借り手が多く出現したのであるが、多くの人に錯覚を起こしたのは不動産証券化バブルと思われる。不動産が物件から証券化手法で金融商品に変えられるという錯覚が招いた悲劇だが、この様な時期に不動産業界に入った若い人達はこの経験のために人生を左右される可能性もあり、笑い事では済まされない。特に、不動産事業には金融の調達が重要であり、その苦労をすれば一人前の不動産会社の経営者になれるのだが、資金調達で苦労しない経験しかなければ再度失敗する可能性が大きい。不動産業界に関係して30年以上経過するのだが、生き残ってきた不動産会社を見ると、社会に貢献する理念が必要なことが分かる。日本は地震国なので防災を重視した街づくりは必要なことだが、土地価格を急上昇させる様な事業を進めることではない。飽くまでも、需給バランスに従った開発計画であり、少なくても開発計画地区の人や会社を理不尽に立ち退かせて行うことではない。命の次に、人によっては命以上に大切な不動産を扱うには何が必要な資質かを自らが問いかけるべきと思われる。

東京都内の放射能の高さ

私の会社の所在地は東京都港区虎ノ門1丁目である。自宅は東京都杉並区浜田山1丁目である。なお、故郷は茨城県東茨城郡城里町(旧桂村)である。因みに、福島第一原子力発電所からの距離は、会社が約226km、自宅が約231km、故郷が約116kmである。私が使用しているガイガーカウンターは低価格では比較的性能が良いと言われている「Inspector」である。驚くべきことだが、3箇所の放射能の線量は大きくは違わないことである。寧ろ、自宅の杉並区浜田山~高井戸東地域などは故郷の茨城より全体的に線量が高い傾向が見られるのである。線量の計測ではどの場所でも2,3mの違いで大きく値が異なることであり、杉並区浜田山~高井戸東地区の計測と城里町の大きな違いは枯葉による線量である。故郷の城里では極端に枯葉の線量が高かったのだが、浜田山~高井戸東地区の枯葉にはその影響が比較的少なかった。浜田山・高井戸東地域の計測から類推できるのは低地の住宅地の線量が高かったことである。浜田山・高井戸東地域は比較的に樹木が多いので、原発の爆発で拡散した放射能を吸収し、その後雨などにより低地の住宅地に流れたものと思われる。勿論、故郷の城里町は放射能の汚染が比較的少なく、除染対象のエリアには属していない。然し、枯葉などは高い線量であるので、全く問題ないとは言えない場所である。所が自宅所在地の杉並区浜田山・高井戸東地域の線量が故郷より高い傾向があるのを考えると、原発事故の放射能の拡散は政府発表とは全く違うことが推定できる。更に、地方自治体が公表している線量データも信頼出来ないものと言わざるを得ない。新年の挨拶に見えられた金融機関関係に勤務していた方の話では、原発事故が起きた時には行政庁から危険について連絡が入り、金融機関が金融センターを停止させていたことを聞いた。国民、特に危険エリアに住んでいた人々に対して何もアナウンスしないで、金融機関などに危険を知らせていた事実には憤りを感じる。この様な国家に対して忠誠を示す必要はなく、況してや消費税率アップによる増税など絶対に認められない。福島原発事故の報道は最初から海外の報道が正しかった事が分かり、日本政府の発表は最初から嘘ばかりであった。識者の中には広島原爆と長崎原爆と比較して福島原発事故も大丈夫と言う人がいるが、原爆に使用するウランと福島原発事故のウランの量は比較にならないほど福島原発の方が大きいのである。然も、政府発表の様に収束などしていなく、現在も放射能を出し続けているのである。先週の日曜日に自宅近くを散策しながら放射能を計測したのだが、その時に井の頭線の浜田山駅近くの裏通りを通った時に周辺と倍くらい高い線量を計測した場所があった。理由が分からずに帰宅したのだが、その後偶然にスマートフォンのニュースで福島県二本松の新築マンションで高い線量が計測され、建築資材の関係と流されていたのを知り、浜田山駅近くの高い線量を計測した場所では、賃貸マンションの建築工事中の物件があったことを思い出した。屋外に置いた建築資材が放射能拡散で汚染されていたのを工事に使えば高い線量が出るのは当然であり、工事関係者は線量を計測して使っていないことを推測すると、思わぬ所で放射能を浴び続ける可能性は今後とも否定できない。愚妻などは知ってもどうすることも出来ないので、逆に知りたくないと言っているが、小さいお子さんを持つ親にとっては愚妻の様な考え方は出来ないと思われる。然し、民主党政権は放射能の影響の問題も国民に知らせずに、子孫に借金を残さない為に消費税のアップを訴えているが、子孫が健全に生息できるのかどうかも検証されないのに消費税のアップなど茶番の良い所だ。今後は国家を信用することなく、自分で身を守る方法を考え時代になったと本当に思われる。

消費税率アップの問題点

財務官僚は消費税率アップに関して福祉関連と一体改革との税金を使う方の議論にすり替えている為に、国会では消費税の問題点を議論しないままに税率10%の引き上げられる恐れが出てきた。消費税の導入は自民党の竹下政権時代に行われたものだが、この時の議論では税率3%ではなく、もっと大きな数値であったが、導入に対する反対意見も大きかったので、税額ありきで進められた感があった。この為に、従来あった贅沢税に相当する物品税を廃止する代わりに、衣食と住に対しては建物の取引に課税される事になった。なお、個人事業主に関しては1000万円以下は非課税扱いとなり不公平税制ともなった。又、ガソリンに関しては石油税に課税する二重課税の問題が起きたが、現在の5%に引き上げられても改善されないままである。マスメディアは海外諸国との比較で日本の消費税率は低いと報道しているが、日本の消費税と海外諸国の消費税とは似て非なるものなのである。財務省の発表記事を鵜呑みにして掲載しているから消費税議論において国民に誤解を与えており、看過できない問題となっている。多額の報酬を得ている政治家まで誤魔化されているのには驚くほかはない。特に、日本の消費税の問題点は当初の導入税率の低さから税収額ありきで始まった不公平税制と言うことであり、消費税と呼ぶのではなく本来は売り上げ税と呼ぶべき税なのである。企業にとっては浪費しなければ決算課税が大きくなる代物であり、誠に不思議な税なのである。金融機関の金利が消費税の支払いと関係することも一般的には知られていない。今回の消費税率アップに際しては、当初導入での問題点を整理し、先ずは改善することから始める必要があるのに、福祉との一体改革の様に使用目的に議論がすり替えられている。多くの馬鹿な国会議員を国民は税金で食わせていることを考えると、国会議員の定数を半減させるか、報酬を半減させる必要がある。東日本大地震の復旧や福島原発事故の解決を等閑にして問題点の多い消費税を本質的な議論もしないで税率アップを優先する財務官僚は万死に値する。

福島原発事故の放射能拡散の影響について

年末年始を故郷の茨城の実家で過ごす為に帰ったのだが、正月に御節や雑煮、故郷の味である芋の田楽を食べ過ぎて体重が増えた為に実家の周辺を散策した。帰郷は夏の盂蘭盆以来なので4ヶ月半振りである。夏休みにも携行したガイガーカウンターを正月休みにも携行したので、正月の周辺散策に携行して改めて田畑や里山、近くの小学校の周辺を計測してみた。私の茨城の実家は福島第一原子力発電所より116km離れた場所に位置し、原発事故の放射能拡散では比較的影響が少なく、除線対象外のエリアである。大気中の放射能は、変動があるが大体0.185μsv/h位であり、年間約1.6msvなので自然界に存在する数値1msvよりは高い。然し、この0.185μsv/hは数メートル離れた場所では0.235μsv/hになり、そうかと思えば0.075μsv/hに下がるなどバラツキが大きい。特に注目されたのは枯葉の放射能のレベルの高さである。近くの小学校校庭敷地境界側に掃き溜められていた枯葉の山では、0.38μsv/hの高さに跳ね上がった。小学校以外でも枯葉の放射能は大気中の放射能と比較して殆どが高い数値0.235μsv/h以上の数値を示していた。なお、樹木の葉っぱに関しては高い数値ではなかったので、飽くまでも枯葉になった場合に数値が上がると推定できる。この計測には予想外のハプニングが待っていた。散策から帰った時に母から隣地の姉の自宅周辺の計測も依頼されたので計測する為に向かったのだが、姉の家には大型犬のシェパードを飼っており、私一人では庭に入れないので、通用口の門扉の前に犬を小屋に入れるまで待っていた。しかし、この時、門扉に近すぎたのでシェパードにコートを噛まれて破れてしまった。この事が考えもしなかった結果をもたらす事になったのだが、その後に姉の自宅の周辺を計測し、やはり枯葉の放射能が高いことが分かった。計測後に姉の家でお茶をご馳走になった時にコートの脇に計測器を置いていた所、犬に噛まれた箇所で高い放射能の数値が計測されたので驚いた。数値的には枯葉と同じレベルであったが、このことを推測すると犬が体内被曝している可能性が大きいと言うことであった。姉の話では犬が理由不明の足の痛みで苦しんでいたとのことで、若しかしたら骨にセシウムが付着したために足に痛みが起きた可能性も否定できなかった。何れにしろ、政府は放射能汚染に関しては情報操作を強いていると思われ、真実が見えていないが、今回の帰郷で分かったことは、犬の汚染であり、この事実を類推すると自然界の野鳥や動物、更には川魚に関しても放射能の影響があると見なす必要があると思われる。原発から116km離れた場所でさえ予想外の放射能に見舞われているのであるから、福島県内に関しては一層の放射能監視体制で臨む必要があると思われる。正月早々に良い話題ではないが、健康に関する問題なので敢えてブログに掲載した。
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