機能していない行政組織

農水省が農業人口の大幅減少にも拘わらず行政組織だけは温存されている事実に憤慨しているが、昨日のTV番組(TBS「夢の扉」)を見て厚生労働省の機能不全には日本経済の停滞の原因が民間にあるのではなく行政組織=官僚組織の機能麻痺にあることを理解させられた。TV番組では医療業界に注目されている「細胞シート」を取り上げていたのだが、日本での早期実用化は行政の手続きの壁で難しいので、注目してきたフランスで実用化に協力すると言う内容であった。これと同様な事が中小企業が開発した人工心臓に関してもTV番組で放送されていたが、この中小企業は日本での実用化は行政の問題で困難であるために米国に活路を求め、その結果は人工心臓の評価が出て商業化が図れたために投資を回収することが出来る様になり、企業の存続が図れたと言う内容であった。この番組を見た誰もが思った事は、企業の活動の妨げになっているのは正に行政組織と言うことである。必要なセクションに人と予算が付けられていないのは、民主党のパフォーマンスの仕分け作業で公表されない現実である。尤も、政治家などは予算の仕組みも分からない者が大半なので論じる以前の話と思われる。行政の機能不全は当然に政治家の怠慢であり、衆参合わせて800名近くの国会議員など半分以下で十分と言える。農水省や厚生労働省ばかりでなく、全ての省が同様な機能不全に陥っていると考えられるが、特に公共事業が大幅に減少している管轄の国交省などは大幅に組織と出先機関の統廃合による縮小が当然なのにその動きがない。国民を馬鹿にしてるのも程がある。この様な現実を放置しておいて消費税値上げなど言語同断なのにマスコミまでグルになって巨額な赤字国債を盾に増税路線を打ち出している。官僚と政治家の既得権益を守るために国民を欺いての増税など断固反対すべきである。

2011年以降は実務家復帰の元年になるか!

昨今の日本ではデジタル社会とグローバル経済のために実務家よりパフォーマンスが旨い人と英語が話せるだけの人を中心に動いてきたが、その人たちでは何も解決しない事が分かり、漸く真の実務家達が登場して来る社会になりそうだ。幾つかの会社ではその傾向が現れてきている。勿論、英語を話す能力は必要とされると思うが、経営のトップに就く能力としてはプラスαで良いと考える。今求められる経営者像はクリーンであり、頭でっかちの管理部門を縮小して現場第一主義と顧客第一主義に戻すことが出来る人であると思われる。特に、IT社会では軽視されがちになってきている現場主義の復活であると考えられる。昨今の日本企業がすべての面で決断が遅いと悪評される原因のひとつには決断できないサラリーマン経営者の存在だが、それを助長しているのは肥大した管理部門の悪影響と考えられる。何故管理部門が肥大したかはそれぞれの会社によって原因は異なるのであろうが、情報化社会になりデータ重視が現場担当の人間を少なくし、管理部門に人を多く配置することになったと考えられる。勿論、データとその分析が重要なのは理解するが、現場の経験が浅い人や机上で考える管理担当ではデータ分析が正常に機能するかを考えれば一目瞭然である。データは飽くまで過去の数値であり、将来の参考にはなるが条件が変われば大きく内容が変わるリスクもある。情報化社会になり、人間の不完全性から経験と勘を軽視される様になったが、大きな事故に繋がる予兆はデータ分析では発見されないケースが多く、効率化の社会では必要以上にチェック機能に資金を投じられないので、サドンデスの予兆を発見するには日常的な人間のチェックしかないのである。特に、システムなど実務家を入れて作ったものでなければ機能しないことも知らない人が多いのも今の社会のリスクのひとつである。何れにしても、2011年は厳しい経済情勢を予想されるので、企業の経営者には経験を有した実務家が登場する年になる予感がする。

良心を失った社会

今朝のTVニュースで又検事が不正を行なった事が知らされた。最近は嫌になるほどその地位に相応しくない者が就いている事実を知る事が多い。電車に乗っても性質の悪い顔付きの者が多く、公共の場で自分勝手に振舞う人ばかりである。何故、この様な社会になったのかを考察すると、やはり20年前のバブル経済崩壊に辿り着く。良く考えると、少なくてもバブル経済崩壊前までは比較的能力がある人や上に立つのに相応しい人が地位を得ていたと思われる。ところが、未曾有の経済バブル崩壊後は上に立つに相応しい人が過剰融資や投資の責任を取って戦犯として退陣し、その後に上に立った人は地位に必ずしも相応しい者ではなかったと思われる。もちろん、業界によってもバブルの後遺症が違うので一概に言えないが、少なくても人間的に器量が小さい者が地位を得たと思われて仕方がない。政治の世界でも実力で権力を奪うのでなく、仲良しグループの盥回し政権の樹立が相次いでいる。この様な社会を見ると誰もが俺でもその様な地位に就けると錯覚し、気が付いたら真面目に仕事するのが馬鹿にされる社会になって行った。インチキ、嘘八百でもそれを見抜ける人達が相応しい地位に居ないので、可笑しげな人物がTVや成功者として評価され、誰もが一攫千金を狙う社会になってしまった。この結果、成功者になれず必要以上に不幸感を持つ人々が増え、他者に対して敵愾心を持つ社会が現出した。本当に今の社会は弱いもの虐めの現象ばかりであり、犯罪までもが同様である。自分の不遇を嘆くなら本来は政治家や官僚や財界人に矛先が行くはずなのに、現代の日本では自分と同様な者に刃を向ける負け犬根性の犯罪者ばかりとなった。先日、茨城県取手市で20代の青年が自分の人生を終わらすと言って刃物を振り回したが、やはり矛先は自分と同じ一般市民に対してであった。この現象を良く考えると、旨い事を遣った奴が良い思いをしていると勘違いしての行動と思われ、能力や努力による違いと思わないために起きる事件と解釈できるのではないかと推察する。このため、怒りの矛先が権力者に行かないで、一般市民が犠牲になる事件が多発すると考えると今の世相が良く分かる。しかし、この現象は良心を失った社会としか言いようがなく、何時になったら地位に相応しい人が地位に就く社会に戻るのかと思ってしまう。

阿久根市の市長リコールに見る日本人の愚かさ!

税収18億円、市職員等報酬25億円の改善を目指した鹿児島県の阿久根市長がリコールされた。リコールの理由の一つに議会と対立してイレギュラーな市政運営を行なったことが挙げられている。なお、市長の改革は賛成だが、急激過ぎるので議会と市職員の合意を得て段階的に遣るべきとの方々がリコールに賛成したらしいが、この様に考える人は何も理解していない人々であろう。利害関係者が話し合って着地する案では何等の改善は期待できない結果しか生まないのは歴然である。このリコール騒動で子供の頃の記憶が蘇えってきた。亡父は若い頃に政治家を志し、田舎の議員として頑張っていた。家庭を省みないで議員活動に注力していたので、家族は犠牲を強いられた記憶がある。その様な亡父に対して選挙民が下した判定は、亡父が若い頃労農党に属し、農地解放運動を率先して行なったことが亡父の改革に危険的な思想の持ち主として拒否であった。亡父が議員として無償で頑張った姿を見ていたので、無能力者や金で当選者を選び、亡父を二度も落選させた出生地に対して私は今でも何か尽くしたい気持ちにはなれない。市民所得の平均が200万円なのに市職員の給与の平均が700万円と言う馬鹿げた状況に対して市民が下した判定が僅差と言えどもリコール成立では遣り切れない。このリコールを成立させた背景には、マスコミ、官公庁労働組合、県、更には総務省などの阿久根市政に対する非難発言である。しかし、この発言でリコール票を入れた選挙民は一部の利害関係者以外は馬鹿としか言葉が出ない。市が破産財団の指定を受けて初めて分かる愚かさであろう。何れにしても阿久根市長は全国の自冶体に一石を投じた事は確かであり、期待はずれの片山総務大臣など百害合って一利なしである。所詮は元自冶官僚の小役人である。

財務省主導の政策では国家が滅ぶ

法人税率5%引き下げに対して相変わらず減収分の財源確保をどうするかと言う議論が出ている。一見すると当たり前の議論に思えるが、この予算の考え方が場当たり的な弥縫策となり、日本経済や社会の停滞を招いている。最近、国家の経営に企業会計の考え方がないから駄目なのだと言う声が主流になり、多くの自冶体で貸借対照表(B/S)や損益計算書(P/L)、更にはキャッシュフローなどを導入している所が増えてきている。しかし、これ等の議論の前に、予算が単年度主義と言う問題点が横たわっている事に手を加えないと枝葉末節の議論が横行することになる。また、国家百年の大計とは言わないが、少なくても20年後の日本の在り方で予算を組む長期的な対応が必要であり、その考え方で初めて計画期間中の事業の見直しで先の企業会計が生きてくるのである。幾ら優秀な頭脳を持っていても単年度予算主義に縛られている内は場当たり的な処理しか出来ず、凸凹を調整する能力しか発揮できなくなるのである。勿論、長期的な視点で政策を行うのは政治家であり、官僚ではないと反論が出るかもしれないが、行政の事務を取り仕切っている官僚以外に真っ向勝負できる組織や機関がないのが今の日本である。然も、官僚は頭が良いから各種委員会を設けて有識者が重要な政策を政府に上程した様に誤魔化しているから尚更始末に悪い。今の日本人はNHKドラマの"坂の上の雲"や史実に正確でない"坂本龍馬伝"などを見て英雄を待望しているが、戦後教育を受けた日本人に期待できる訳がない。昔の役人には天下国家を考えて清貧に甘んじていた者が多数いたが、今は大企業並みの報酬と生活の安定を求めて就職した間違ったエリート意識持ち主ばかりだから国が良くなる訳が無い。財務省の官僚は小泉を担いで国民のためにならない構造改革を断行したにも拘わらず、再度民主党政権に取り入って再度間違った道を進もうとしている。財政改革優先の財務官僚主導では日本経済や日本社会は没落するだけである。増税など断固反対である。日本国内に富があるから増税議論が起きて相変わらず政治家や役人が無駄使いをするのである。減税などを税収が不足するなら不要不急な事業支出を止めるべきである。仕分け作業で問題点になった事業の多くが閣議決定されない現状を見る限り、現内閣にも期待できない。国民は豊かになり怒りを忘れてしまったが、今怒りを上げないとウィキリークスで暴露された様にシンガポールの役人に馬鹿にされる二流国家になってしまう。

現状の政治体制を産み出した"タテマエ"社会の悪弊

首相が頻繁と変わるからデフレ脱却が出来ず、新しい時代に対応した社会も作れないとマスコミが報道し、世論も同様に認識している。しかし、現状の体制が出現した背景には、政治の浄化だけ優先して政治の本質を見誤ったマスコミや国民が招いた結果と言えば非難されるだろうか。ボスザル体制を壊したので政治の本質的な部分が欠落したのである。過っては総理大臣の椅子は力で得たものである。その力で権力を維持したのである。確か、自民党時代の中曽根後継の竹下・安倍・宮沢の時代から総理大臣の椅子は話し合いで決めることが習慣化し、尚且つ小泉政権の誕生後には一般党員の声が強く反映することになったので、ポピュリズムの影響が強くなり、政治が混迷するようになったと考えられる。政治浄化のツケが回ってきたと言うと叱られるかもしれないが、棚からぼた餅の政権では権力に執着する度合いが弱いのである。政治浄化の政党助成金が世論の声を聞かない政治家を産んだが、反面その親玉を決めるのには大衆迎合主義とも言えるポピュリズムを利用している。更に、中選挙区から小選挙区に変えたことにより、小粒の政治家しか出現しない先祖がえりの選挙制度により、戦前の悪しき政治体制である大連立などと言う言葉が言われるようになった。尤も、今日の政治の低俗化と経済社会の低迷の原因は、官僚の暴走の契機となった田中角栄と言う政治屋まで遡及しなければ説明する事が出来ない。800兆円もの赤字国債があるのに平気で無駄使いしている官僚を制御する事が出来ないのは、ボスザルを欠いた政治に原因がある。今年の暮れの役人に支給したボーナスを見る限り、デフレ経済で困窮している国民など眼中にないと思われる。今日、世界中で盛んに「正義」について論じられているが、哲学的に「正義」など論じても意味がない。奇麗事のタテマエ社会が無能な政治家を産んでいるのであり、閉塞感カら抜け出せない一因でもある。今日の政治の混迷は、棚からボタ餅の総理大臣を産んでいるマスコミと国民に起因するものであり、ボスザルの復活しか役人から政治を取り戻せないことを国民は知るべきである。

日本の社会は文系・理系のアンバランスが停滞の原因!

先日、NHKの現代クローズアップで先端医療技術の承認が米国と比べて大幅に遅く、医療現場で支障が出ていることを採り上げていた。日本のある会社が先端医療器具を開発して承認の手続きを進めようとしたら、基本的な問題で立ち往生してしまい、米国の承認に活路を求めて窮地を脱したことが放送されていた。米国の承認システムは専門家を配置し、承認期限を明確にしたもので、承認を受けようとした日本の会社は目を瞠ったそうだ。先端医療の承認現場だけでなく、日本の行政組織は至るところで疲弊しており、今の日本社会の閉塞感は全て行政組織が作り出したと言っても過言ではない。日本の行政組織が疲弊した原因の一つに行政組織の幹部に文系出身が圧倒的に多いことと考えられる。特に、法学部出身者を多く配置した弊害と断定できる。我々以上の世代では情報化に関して文系と理系の出身では大きな差が出てきている。理系の出身者は80歳を越えても常に新しい技術などに興味を持つが、文系出身者は50歳位でもPCなどに関して積極的に学ぶ姿勢に欠ける。公認会計士や弁護士という困難な国家試験を取得した連中でも同様であることを考えると、今の行政組織の重大な欠点が見えてくる。私が大学を卒業して10年位経った後に母校の大学の研究室を訪問した時に教授からカリキュラムが我々が学んだ時にと違い2学科を学ぶ様になったことを聞いた。その理由は、従来の学科単位では新しい時代には通用しないためとのことであった。それから20年以上の時間が経過したので、今の若い方は我々世代と頭の中身が違うと思っている。しかし、米国では古くから大学の専攻途中に大学を変わる事は勿論、専攻学部も変えられる教育システムであり、最近では3学科の学問を学ぶ必要性を打ち出している様だ。推測であるが、米国の映画を見ても非常に科学的であり、あらゆる部門に多才な者が出現するのは文系と理系のバランスが良く配置された社会組織だから、先の先端医療の承認システムに関しても日本が敵わないと考えられる。優秀な人とは一面的な学問しか学ばない人ではなく、多岐にわたった知識を有している人を指すのであり、その様な人でなければ急激に発展する情報化社会の指導者にはなれないと思う。その様に考えると大学で2学科を学んだ人達や更に3学科を学んできた多面的な発想を出せる世代が主要な地位に就くまで日本の社会は停滞すると予想できる。

議会制民主主義の限界は情報開示・暴露で打開できる

改革派首長と地方議会が対立している。もともと地方の首長選挙は市町村を二分して行なわれることが多いので、選挙後に議会の多数を握っている首長の当選でないと議会がスムーズに運ばないケースはこれまでも多かった。地方には自立した選挙民とでも言える存在が少数派なので、首長が改革を行なうのに必要な議員の支持を取り付けることは困難である。先般、市長と市職員の報酬の引き下げを議会で可決したが、議員の報酬は否決した新聞記事を見た。全国の市町村が財政難の折、議員が自分達の歳費だけ減額しないと言う現実を見る限り議会制民主主義の限界を感じる。勿論、先の議員報酬削減の否決結果を見て選挙民は議会のリコールを求めたにしても「自立した選挙民」が少数派の限り、地縁血縁の選挙で再度議員の多くは返り咲いてくるので、意味を持たない絶望感がある。議会制民主主義が欠点を抱えながら存続してきたのは、これ以上の方法が見出せなかったからだが、情報化の時代になってヒトラーが指摘した民衆「群盲像をなでる」の無知から抜け出せる期待が出てきた。先の「自立した選挙民」に成長するためには政治の世界で開示されなかった多くの情報が開示・暴露されることが必要であったからである。最近、世界を驚かせた「ウィキリークス」の米国外交電報文書の暴露などは典型的な「自立した選挙民」の出現には欠かせないと考えられる。日本には、古来より「本音」と「建前」と言う二律背反した言葉があるので、庶民が知らなくても良い事は聞きたくないと言う風潮がある。しかし、この風潮が政治を悪くし、行政の無駄を作ってきたことを選挙民は自省しなければならない。何れにしても、民衆は多くの情報源によって真偽を判断する事は可能になって来たので、アジテーター類の政治屋に騙されない「自立した選挙民」になる必要がある。

ニセモノが横行する時代

人でも物でもニセモノが社会を跳梁跋扈している。ニセモノが横行した背景には大学のビジネススクールのMBA資格者に由来するという説もある。その理由の一つには、ビジネススクールのカリキュラムが「科学的・学術的な業務モデル」で組まれており、多くのMBA出身者が会社の重要な地位に付く様になってより実務的・専門的な事柄が軽視された結果であると言われている。しかし、この現象はここ十数年の出来事であり、私の知る限りは年配者のMBA資格者は実務的・専門的な事柄を重視していた。昨今のニセモノの横行に関してはデータ重視の統計的な手法が重要な地位を占めてきた以降と考えると辻褄が合うことが分かる。この背景にはパソコンの性能向上によるデータ分析手法が金融資本主義の効率経営と相俟って実務家・専門家軽視となる若いMBA資格者の出現があったと考えられる。ニセモノの出現はMBA資格者を始めとしてあらゆる専門職に出現し、その結果社会にニセモノが横行し、人々は"ホンモノ"を探すようになった。しかし、始末が悪いのは物なら見分けるのに苦労はしないが、人間のニセモノは容易に見分ける事が出来ないので困ることになる。勿論、当の本人はニセモノと思っていないかもしれないので更に厄介である。尤も、物の中には"ホンモノ"の"ニセモノ"もあることに気が付いている人もいる。これが何かと言うと、ブランド品の製作を新興国などに発注した結果、新興国の更に下請け会社が"ホンモノ"を"ニセモノ"として闇で売るのである。グローバル経済が生んだマイナス面であろう。何れにしても、何がホンモノで何がニセモノかを見分けるのは簡単ではなく、プレゼンテーションが旨い人や会社に仕事を任せている間はホンモノよりニセモノが横行する時代と思われる。

裁判員制度の導入で法律の根底にある常識が活かされる

子供の頃父親から法律は常識である。法律に触れるかどうかの判断は常識なことかどうかを判断すれば大きな間違いがないと指摘された。それ以来、大学で法律を専門的に学んだ訳ではないが、人生において誤った判断はしていない。裁判員制度の導入で世間が喧しくなっている。法律家と称する裁判官の判決より裁判員の方が死刑判決が多い事を指摘して世界の趨勢から逆行していると批判している人もいる。人の生死を左右する判決には法律の専門家に任せるべきとの論調もある。しかし、良く考えると裁判で訴訟を行なった人が少ないから今の裁判が常識に欠けた裁判官によって多くの判決が出ている事を知らないで言える批判が多いと思われる。小泉改革の悪しき一例として裁判の効率(スピード化)がある。効率よく処理した裁判官が出世できるシステムに変えたことにより、刑事事件においては犯罪者の量刑が軽い判決となり、民事事件においては和解を受け入れなかった方に重い判決が出るよになった。驚くべき事である。それが一審に関しては、裁判員制度により刑事事件に関しては是正される可能性が出てきたから、社会人として常識に欠けた裁判官の判決よりはましになると思われる。勿論、裁判員制度が定着し、弁護士も裁判員制度に慣れて来ると米国の様に弁護士の作為的な演出で裁判員の理性的な判断を誤らしてしまう可能性もない訳ではない。しかし、現状では裁判員の判決の方が裁判官より常識に適った判決になると思われるので、裁判員制度を支持したいと思う。そう言えば、最近、裁判官が裁判員の死刑判決に対し、被告人に上告を勧めたことが報道されていた。この裁判官の発言に対してマスコミは裁判官のコメントを掲載していなかったので発言に対する前代未聞の理由は分からないが、この行動にも裁判官の非常識が分かる。マスコミなどは裁判員が下さした死刑判決に対して被告人の上告により裁判員の心の負担が軽くなることを考えての発言であると解釈していた。私はそれは事実なのかと考えてしまう。反省のない凶悪犯の被告人なら延命するために当然上告が予想されるので、裁判官の発言は蛇足と思われる。このため、推測でしかないが、この裁判官が死刑反対論者と考えれば、裁判員の判決が裁判官の判決より死刑の場合が多いことに対する警鐘の意味で発言したと解釈すれば理解できる。死刑反対論者の裁判官が凶悪犯を社会に戻して再度悲劇が起こるケースを考えると憤りを感じる。若い頃に凶悪な殺人を犯す人は遺伝子的に異常がある人であると書かれた本を読んだことがあった。もしそれが科学的に事実なら医学的に改善しなければ再犯の可能性がある訳なので、単なる法律論で片付けられる話ではない。裁判の世界に効率を持ち込むより、医学的や科学データ的、更に遺伝子的な判断材料を持ち込んで判決する方が重要と思われる。この様な意見は人権的な問題として反対を受けるが、犯罪者に人権があるかと言いたい。被害者の家族を考えたら犯罪者の人権など擁護するに値しない。

柳田法務大臣で考えさせられる田中角栄の悪夢!!

柳田法務大臣の舌下事件が世間を騒がせているが、柳田国会議員が法務大臣に就任した経緯の報道で田中角栄の悪夢が蘇えってきたと思った。柳田国会議員は厚労畑の族議員であり、法務関係は門外漢なのに法務大臣に就任させた管総理大臣、仙谷官房長官、そして岡田幹事長の政治姿勢は田中角栄が日本を悪くした政治を継承していると愕然とした。今日のように何故官僚が政治家を超えた力を持つようになったのかは、田中角栄と言う政治家が、いや政治屋が官僚をコントロール出来ない大臣を作ったことから始まったのである。それ以前の佐藤栄作までは、どんなに自民党総裁選で協力した国会議員でも大臣には就任させなかった。佐藤栄作までは大臣の存在を理解していたからであった。ところが、田中角栄になった途端に総裁選の論功報償的な大臣就任で内閣を作ってからその後の総理大臣は皆その遣り方を踏襲してきた。そして多く大臣就任で「私はこの分野はあまり知らないので、今後は勉強して役目に励みます」と言う言葉を誰も疑問もなしに受け入れてきたのである。国会議員には自分が遣りたい政策を勉強する場があり、少なくてもその政策勉強の場に属する委員会とは別な大臣に就任する事は国民のためになることではないので、本来なら断るべきなのである。しかし、田中角栄が「優秀な官僚がいるので大臣など誰でも良い」と言う考え方が、失敗しても責任を取らなくても良い官僚に政治を丸投げしたツケが今の日本の現状である。その事の反省なくして日本再生はないのだが、民主党政権になっても田中角栄の様な政治を行なっていたのでは、仕分け作業など行っても意味がないと言える。少なくても、大臣に就任させるには、その行政の仕組みや在り方を熟知したものでなければ改革や予算の餞別など出来るわけがない。門外漢の大臣が就任すれば官僚は大臣を好きな様にコントロールできるので万々歳であろう。尤も、前原前国交省大臣・現外務大臣の様に何も分からないのに主導権を握ろうとする大臣は最悪であり、尚更官僚が自分達が主導権を握らなければと思うようになっているので始末が悪い。何れにしても、日本の政治が何処で間違ったかを検証するには田中角栄と言う人物に焦点を当てて振り返ることが重要である。決して明治維新に遡ることではないのである。

民主・仕分け作業で明確になった問題解決に何でも弁護士に頼る誤り

民主仕分け人・蓮舫と民間仕分け人の弁護士との見解の違いの遣り取り報道で、問題解決に何でも弁護士起用が間違いであることが明確になったと思われる。不思議なのは昨今、弁護士をスーパーマンの様に色々な問題解決に起用していることである。私の経験から言えば、弁護士は法律には詳しいが、議論の対象となる業種に対する知識は門外漢であり、一般の大衆と変わらないレベルである。勿論、難関の司法試験に合格するのだから記憶力は優れているので、関係専門家からヒアリングすればある程度の知識を有するようになる事は間違いではない。しかし、長年その業種に携わらないと理解できない部分が多くあることも事実である。私も理不尽な訴訟で何度も矢面に立たされたので人一倍訴訟を経験しているが、陳述書の類は弁護士では書けないので殆んど私が作成したのである。勿論、弁護士は陳述書のテニオハの添削はしてくれたものの、専門的な知識の部分には立ち入ることが出来なかったのである。弁護士とはその様なものであることを認識している一般の人は少ないのではないかと懸念する。更に、弁護士も総ての法律分野に精通しているのではなく、刑事訴訟法か、民事訴訟法か、労働法かそれぞれに専門分野が細分化していることである。そのことを踏まえれば民間仕分け人に登場した弁護士が判断基準に"効率"一辺倒であった悲劇が理解できる。弁護士の世界ばかりでなくどの分野においても信頼の基準は人柄である。専門家に依頼する時にはその点が重要である。どうしても弁護士の起用になるのは破産管財人であろうが、これとて本来は資産処分や会社経営に関係する事なので、他の専門家の起用と合わせて処理すべき問題である。勿論、犯罪と関係した組織を立てなおす仕事には検事上がりの弁護士が必要であろうが、私の知る限り問題解決に弁護士を起用している多くが間違った選択と言える。そう言えば、民間仕分け人の弁護士事務所は、ヴァス・コダ・ガマとか言う名前であったが、この様な事務所名を付けるには実績が少ないので人が関心を持つ名前にしたのが見え見えである。今の様な価値観が錯綜し、混迷している社会では本物を見る目を養うのが大事だが、新しい幕開けの時代には偽者が横行するので気をつけなくてはならない。

尖閣ビデオは全て真実なのか?

尖閣ビデオが流失し世界中に流され、情報を流失させた海上保安官の行為に対して賛否両論が巻き起こっているが、私が素人として見た今回の海上保安庁の中国漁船退去命令には疑問点がある。確かに、ビデオ映像では中国船に領海からの退去の音声が流れているが、画像を見る限り海上保安庁の2隻が中国船を挟んでいる様に見え、この状況では当然に拿捕する態勢なのではないかと思えてしまう。資源調査船と看做して停船命令を行ったのかと考えると、映像を見る限り中国船は網を引いているのでどの様に見ても漁業としか判断できない。その様に考えると海上保安庁は網を上げて逃げようとする中国船に対してなぜ2隻が挟んだのだろうかと考えてしまう。私は尖閣諸島は国際法的にも日本の領土として主張できる考えの者として今回の出来事を論じているのである。何も中国に妥協しろと言うつもりはない。今回の事件に関して幾つかの疑問があるから問題を提起しているのである。海上保安庁の船を見た中国漁船は網を引き上げて逃げる態勢に入ったと思われる。単に領海内から退去させるならば追い立てるだけで良かったのではないかと思えるが、今回の海上保安庁の取った行動は素人の考えでも中国船に対して停船させる意図があったのではないかと思えて仕方がない。幾ら日本の領土でも国境紛争を抱えたエリアでは単に海上保安庁のレベルで対処出来る問題ではなく、停船命令を行なって臨検する場合には海上保安庁長官、更には国土交通省大臣にお伺いを立てるのではないかという点である。勿論、幾ら情報化の時代でも現場の切羽詰った状況の中では、時間的には間に合わない場面も当然に多いと考えられるので、対応策は事前に話し合われていた可能性が大きいということである。その様に推測すると、石垣漁民がコメントしている様にこのエリアには頻繁に台湾漁船や中国漁船が領海内操業を行なっているのに、何故今回に限り海上保安庁は強硬姿勢に出たのかと言う疑問である。この疑問の回答なくして今回の事件の本質には迫れないと考えるのが妥当であろう。私の疑問が流失したビデオを見て更に深まったのは、中国船に対する海上保安庁の対応映像であった。尖閣問題にはロシア大統領の北方領訪問のおまけまで付き一層問題点を複雑にしてしまった感がある。何れにしても今回の事件は前原前国土交通大臣が絡んでいることは疑いもない事実であり、その裏には米国の情報機関が介在していると推測できる。国家のインテリジェンスとはその様なものであり、米国が対中戦略を大きく変更した事実が根底にあると思われる。

名前とは!!

姓名判断を信じている訳ではないが、少なくても名前は親が子供に対する思いを込めて命名するものなので、その人が育った家庭環境を反映していると考えられる。何故この様な事を今更書くのかというと、名前でその人となりがある程度分かると最近思うようになって来たからである。今の経団連の会長は、住友化学出身の人で名前は「弘昌」である。私はこの名前を見たときに親はこの子供に金を儲ける事が上手な子供にしたいと思いを込めたものと推定した。その後、この人のプロフィールを見て納得したのだが、戦前の朝鮮で一旗上げた一族を親に持ち、政商の類の一族と分かった。同じ住友グループの住友電気工業社長の名前は「正義」と言う人であることを日経新聞の夕刊の"こころの玉手箱"の欄に寄稿した短文を読んで分かったのだが、この人が"こころの玉手箱"に書いた内容を見て正に親の思いが伝わった生き方の人であった。この方の場合は敢えてプロフィールを見なかった。見なくても立派な生き方をした親であることが推測できるからである。経団連の会長職に就く人の名前が「弘昌」で相応しいかどうかは敢えて論じないが、今後の日本経済を占うには理解しやすい名前ではある。政治家にしろ、経済人にしろ、官僚にしろ、学者にしろ、その人が育った家庭環境は大事であり、幾ら学歴が立派でも人格的に最低な育ち方をしている人がトップに立つと問題が生じると思われる。今の日本はその事例には暇がない。

海上保安官による情報流失で分かった心の羅針盤を失った日本人

社会の規範・道徳がなくなった社会とは正に日本を指す言葉と言える。15年前の日本経済バブル崩壊後の失われた10年間に日本人は心の羅針盤を失った様だ。今回の流失事件の報道を見ていると国益と言う視点に欠けて全て法律論で論じられている奇妙さである。海上保安庁内のITシステムに開示されていたから職員は誰でも見れたので、その映像を世界中に流しても国家公務員の機密保持違反で起訴するのは難しいと言う議論には驚かされる。また、別な議論では、命がけで海の国境を守っている海上保安官に対して今回の尖閣諸島問題に対する政府の対応が良くなかったので、情報流失は当然であるといった報道である。そもそも論から言えば、公務員と言う存在は政党に対して不偏不党でなくてはならないと言う原則があり、自衛官、警察官、海上保安官及び消防隊員などの職種は危険性を理解して就く仕事である。それが命がけで業務を推進しているのに政府の対応が悪いからと言って個人の考えで情報を流失することが認められる事かと言う問題である。命が惜しかったら危険な仕事に就く事はないし、況してや何も公務員になることはないのである。特に、他の一般公務員と違って武器の携行が許される公務員の立場は重いものである。本当かどうかは不明だが、新聞報道などによれば情報流失した海上保安官は罪の意識もなく行為を正当化して言われるが、今回の事件は政府が不正を行った故の告発とは全く性格が異なるものであり、公務員が犯してはならない政治的な行動の類である。特に、今回の件は外国との関係が背景にあり、特に慎重に対応しなけらばならない問題であった。勿論、愚かな一個人の判断で大きな戦争に到った歴史は枚挙に暇がない。第一次世界大戦の引き金もオーストリア皇太子を襲ったテロ行為であった。日本の明治時代にも警護の警察官がロシア皇太子を襲った事件が思い出される。ロシア皇太子は怪我で済んだので戦争には到らなかったが、一人の行為によって導かれる結果の恐ろしさは歴史が証明している。尤も、この種の事件は政党政治が堕落して国民を省みない政治が行なわれている時に起きやすいのだが、過去を見る限りこの種の行為を国民が肯定したが為に後で払った代償(軍部の独走)が大きかった事を思い出すべきである。戦前の軍部の独走も若い軍人の正義感から出たものであった。しかし、政治を否定する事になる直接行動を国民が認めると国家の規律が乱れ、将来に禍根の芽を産む事になることを歴史を振り返って思い出すべきである。それでなくても心の羅針盤を失った日本人が漂流しているのであるから、今回の流失事件を起こした海上保安官に対しては最大限の処罰を与えるべきであると考える。

明治時代の国会と変わらない予算審議で予算項目を議論しない愚!!

誰しもが思い、誰しもが可笑しいと考える国会の予算審議で予算項目に対する是非を論じないで予算が決まることである。民主党政権になって初めて仕分け作業で予算の計上に多くの無駄があることを国民は知らされたが、本来なら国会の予算審議の過程で与野党が必要の是非を議論するべきものである。それが明治時代の国会創設以来、予算審議で予算に関して国民の前で議論された事はない。明治時代は予算の内容を分かるのは行政に携わった役人位であり、税収不足の中で予算を組めるかどうかが審議の対象であったのでやむを得ない面があった。然し、現代においては予算の仕組みや財政論に関しては周知の事実であるので、政府提出の予算に関して中味を議論するのは困難なことではない。それが相も変わらず国会の予算審議では政権打倒に向けた政府の欠点を指弾する場となっており、肝心の予算の中味に関しては国民の目に触れずじまいとなっている。特に、一般会計に関して論じる事があっても特別会計に関してはブラックボックスの様な取り扱いであった。地方議員も国会議員も予算を読むことが仕事であり、予算を読めなくては国民の利する代表にはなれない。しかし、実際には官僚出身の議員以外に予算を読み取れる議員が少ないのが現実である。野党議員などは官僚が資料を請求しても出さないと言って言い訳しているが、与野党問わず国会議員の要請に応じない権限は役人にはないので、もし出さないなら公の場にその役人を引きずり出して国民に問題提起すれば良いのである。大分古い話で恐縮だが、私の若い頃会社の仕事で東京都や中央官庁の各部署に予算を貰いに行ったことがあった。その時の役人との話だが、議員などは予算の仕組みなどに関して少しも勉強していないので何も分かっていないと軽蔑していたことである。東京都などは議会の為にポンチ絵を挿入した予算資料を作成しており、当時の役人が子供に説明するように作らないと議員は理解できないからと言ってたことが印象的であった。中央官庁に至っては、私が貰った予算について無知ゆえの質問をしたのだが、それに対して良く勉強している評価され、通常は出さない予算資料まで頂いた記憶がある。更に詳しい予算資料があるとのことであったが、それに関しては出しても良いが理解できないと思うので出した予算レベルで十分と言われたことが今でも鮮明に覚えている。今はどうか知らないが私の若い頃は行政側は要請すれば予算資料を開示したし、逆に仕事をしっかりと行なっている事を理解して貰いたい姿勢があった。役人が好き勝手にするようになった背景には議員と言う種族が余りにも勉強せず、政争ばかり行って肝心の国民のための政治の研究をしないためと思料する。その一つに予算審議おいて予算に関して議論しない悪習があると考えられる。予算審議で予算審議を行なわない愚が900兆円もの赤字国債の発行に繋がったのであり、この悪習を変えなければ議会制民主主義は形骸化してしまうと思われる。国会の予算に計上するまでには財務省と各省庁との攻防があり、その攻防の中味を知れば何故各省庁に財団法人が多く設立されたのかも理解できる。予算計上は突如として現れるのではない。必要を検証した上で計上されて来るのである。その過程を知らずして予算の無駄の議論が出来ない。少なくても解散のない参議院の議員は勉強する時間と機会があるので、予算審議で予算を議論しない愚を改善できる筈である。何れにしても、大臣になると省庁の代弁者になってしまうのは、仕組みが分からないために言いなりになるしか選択の道がないからである。勿論、議会には各委員会があるがそこでは役所が考える自分達の都合の良い議員の養成機関になっているから問題外であり、議員個人や党が独自に役所と議論できるブレーンと組織を有する必要がある。世代交代で若い議員が多くなっても従来と変わらない遣り方ならば意味がないのである。民主党の仕分け作業も結果を出すには役人に任せず党が実現のための法律改正まで踏み込まないと問題提起だけで終わってしまう。明治時代と同じでは国が滅んでしまうことを考える時期に来ている。

日本の農業

私は茨城県の県北の寒村の生まれなので農業には従事した事は無いが、曾祖母や祖母と両親が農業をしている姿を記憶しており、子供の頃から農村の風景を眺めていたので農業の歴史は良く知っている。特に、亡父が地方議員の時に農業協同組合の役員や県の農業委員の要職に就いていたので、当家には頻繁と日本の農業を語る人達が集合して議論を重ねていたのを見聞きしていた。戦後の農業は農薬と近代的肥料の導入で一時的には生産が飛躍的に伸びた時代があった。しかし、機械化の導入は遅れていたので人口集約産業の域を出ず、隣近所との共同作業で成り立っていた。1960年代以降は工業立国とする高度経済成長によって農村の働き手は都市部に徐々に流失し、農村は次第に働き手を欠く様になった。1970年ごろには既に「三ちゃん農業(お爺ちゃん、お婆ちゃん、お母ちゃん)」と呼ばれ、日本の農業の将来に悲観的な見方が広まっていた。今は2010年である。農業に悲観的な見方が出てから40年以上も経過しているのである。この間、政治家や農水省は農業のために何を行なってきたかであるが、最悪だったのは田中角栄と言う政治屋が休耕田による補償制度を導入して農民を堕落させたことである。日本の場合は個人農業が主体なので耕作面積も少なく、然も農業は平面的な活用なので幾ら肥料を投入して農薬で害虫から防いでも工場生産の様な効率化には限度がある。1960年代には米作りと麦作りには既に限界が見えてきていたのである。このため、椎茸栽培や根菜類の生産活動に力を注いでいるが、問題は農村から働き手が少なくなったので、併せて機械化も進めたのである。しかし、収益と機械化導入コストとの収支が合わない農家も多く、農家は借金だけが増えたのである。1970年代以降には日本人の所得も向上しパン食も増えたので多くの日本の農家は畑を麦作りを止めて野菜作りを始めたのである。当然に寒い地方の農家が1年中野菜つくりを行なうにはビニールハウスを建てて暖房を必要としたのである。暖房の燃料は石油である。この野菜作りもオイルショックと言う出来事に遭遇し、燃料コストが掛かり途中で止めた農家も多かった。もちろん、止めた理由は他に台風によるビニールハウスの被害もあり、自己資金が少なく借入金過多の農家はビニールハウス事業を継続できない農家が多かった事も事実である。産業界の意向を受けてTPP参加を促すマスコミなどは如何にも農業従事者が補助金や個別補償に甘えて農業の効率化を行なわなかったから国際競争力がないなどを無責任に報道しているが、日本の農業の歴史は豊かな社会造りのために工業立国化する過程で若い働き手を取られ、農業に対する国家のビジョンがない中で農業従事者は頑張ってきたのである。マスコミがインチキなのは今回のTPPの参加に関する農業の問題に関して農業関係者の意見を掲載させないことである。掲載したのは農業など経験した事がない東海JRの会長などの電機産業と比較して農業は効率が悪い業界になっているので、効率化を図れば国際競争力が付くなどと言う与太話である。もし、マスコミが農業問題を報道するなら40年で壊滅的に縮小した農業なのに農水省の組織は何故縮小しないで残っているのかについてである。記者クラブ制度に縛られた事実上の報道管制でその事実も報道できないマスコミに農業問題を論じる資格はないと言いたい。なお、農業問題に関しては、悲憤慷慨していても始まらないので、日本の農業を残してゆくためにはどうすれば良いかを日本人全体で考えるラストチャンスとする必要があると考える。当社も微力ながら日本の農業を残すために何か出来ないかを考えてゆきたいと思っている。

現実を「経済成長が必要」と言う言葉で誤魔化している日本

高齢化社会を迎えて消費が年々落ちて行くのを避けられない現実を単に経済成長がなければ景気の回復は無理と言うロジックで誤魔化しているのが今の日本である。医療技術の進歩で長生き出来る様になり、日本の高齢者の人口増加は目を瞠るものがある。少子化でありながら全体の人口の減少はそれほど未だ起きてはいない。しかし、今後はターニングポイントを向かえ、少子化対策を打っても老人の死による人口減少は避けられずに年々一定規模で人口は減少すると推定される。これが何を意味するかを考えて議論しているケースは未だ少ない。誰でも分かる事だが、出生より死亡が増える事はその分消費が減ると言う現実である。この現実を数字で表すと、一人の老人が経済に貢献している消費を月10万円とし、年50万人の老人があの世に旅たったとすると、年間6千億円の消費が消える勘定となる。現在約1億2千万の人口が2千万人減少して1億人になると、6千億円×40倍=24兆円の消費が消えることになる。もちろん、この減少分を若い人が消費すれば帳尻は合うのだが、現実には"勿体無い"とか"節約"と言う標語で消費を少なくする宣伝が横行しているので、国内消費で補填するのは無理な話であろう。そうすると、経済成長を実現するには輸出と言うことになるのだが、40年前以上の日本のGDPなら兎も角500兆円を越す現在では国内消費の分を輸出で補う事は不可能なことである。この現実を分かっていながら国内の農業を犠牲にして輸出企業に対する助成策を声高に叫ぶ馬鹿な国会議員や学者が多くいる。この議論は20年前の経済バブル時代に言い古された言葉であるが、未だ間違った議論が横行しているのが日本である。マクロ的な見方からミクロ的な問題に目を移すと、分かり安い例として居酒屋戦争で低価格店が鎬を削っていることで理解できる。不思議な話だが、経済バブル崩壊以降に居酒屋が林立するようになったのだが、居酒屋戦争は需要と供給のバランスを欠いた典型的な事例であろう。この様な事例は今後多くの業種で起きてくる現象であり、需要と供給のバランスが合うまで続くと考えられる。不動産業界でも然りである。先進国と言われる国々は豊かになるにつれ皆少子化高齢者社会になるので、人口減少と消費の減少と言う経済的な問題に直面する。人口減少を向かえる国にとって国内消費の減少をどの様に防ぐかが課題であり、そのひとつに観光業が上げられるが、所詮は微々たる消費であり、人口減少で落ちる消費をカバーできるものではない。国として考えなければならないのは先ず国家予算を如何にして人口減少に備えて仕組み構造を変えるかが最重要となる。日本経済の繁栄など一炊の夢であり、消費減少の実態で地方が先行して衰退している現実に目を避けてはいけない。

貸ビル業とは!!

貸ビルにおける入居率は経済的なファンダメンタルと関係しているが、日本に不動産ファンドなるものが入ってきてから貸ビル業に対するオーナーの考え方の変化が賃料デフレを助長しているのではないかと考える様になった。デフレ経済のために容易に賃料の引き上げは出来なくなり、不動産ファンドを運営するアセットマネジメント会社は建物の管理費に注目し、管理費を引き下げて実質賃料を増やしたのである。確かに、建物管理の経費には無駄な部分も多くあったと思われるが、管理費の経費節減が行過ぎるとテナントに対するサービス面が後退し、それが賃料引き下げ要請に繋がる恐れが多いことを殆んどのアセマネ担当者は無視している。貸ビル業の定義について論じるつもりが無いが、貸ビル業とは単に箱物を貸して賃料をとることではない。貸ビル業も今では世間に認知された業種であるが、40~50年前には水商売と同じ信用しかなかったことを銀行マンから聞いたことがある。簡単に言えば、昔はテナントの入居に苦労したと言う話である。このために、今日アセマネの担当者が行なっている様な箱物(ハード)を貸す意識ではなく、テナントに対するサービス、いわゆるソフトも合せて成立していたのが貸ビル業であった。不動産ファンドが成立する前の貸ビル業界の管理費は何故高かったのかは、貸ビルオーナーは箱物(ハード)とサービス(ソフト)を提供していたので管理会社にそれ相当の費用を支払っていたのである。それが不動産ファンドの考え方が主流になってくると箱物(ハード)だけを提供する流れに変わり、テナントの確保に大事なサービス(ソフト)を失ったのである。箱物(ハード)だけを借りている意識はテナント側にも浸透したので、テナント側はオーナーに遠慮することなく賃料引き下げを要請することになり、今日の貸ビル業界の姿となっている。箱物と言えば無駄な公共投資の典型と同じだが、良く考えると役所も公共サービスの提供なのに昨今の貸ビル業界と同様な考え方であるのに気が付いた。全ての業界が若い世代の活躍する場所になったが、箱物提供は正に時宜を得て急速に進んだと考えられる。その理由はサービスには経験が必要だが、完成した箱物だけの提供にはサービスが必要ないからである。サービスの提供を忘れた貸ビルには未来はないと考える。

今の韓国を見れば日本の進むべき道が見えてくる!!

私は20代の時に韓国経済の動向を調べる仕事に従事していたので韓国経済の発展と弱点を他の人よりは知っていると自負している。今日の韓国はオリンピックも開催し、韓国を訪れる日本人も多くなり、韓流ブームで韓国語を学ぶ人も多いが、当時は軍事政権であり、財閥系企業が韓国経済を支えていた。私が韓国経済の担当になって2年目に朴大統領が暗殺され、その暗殺に米国の関与が囁かれていた。当時の米国の大統領は敬虔なクリスチャンで平和外交を進めた民主党のカーター大統領であった。勿論、私は古い韓国の話をするために今回のblogを書いているのではない。1998年のアジア危機で韓国もIMFの指導を受けることになり、極めて厳格な財政再建を強いられた。一般ではその結果、韓国は日本より早く経済が回復し今日の快進撃があるように報道されているが本当にそうなのであろうか。確かに、韓国の製品は軽装備の低価格によって輸出を延ばしているが、この低価格路線は何もグローバル経済に合わせて出現したのではない。所謂、日本製品と比較して性能が劣る製品を海外に輸出するために機能の一部を付けないことによって低価格を実現していたのである。この考え方がグローバル経済で経済発展著しい発展途上国や中進国の民衆に受け入れられ、想定以上に効果を発揮したのである。勿論、私が韓国経済を担当している30年前でも円とウォンとの通貨の交換比率は10分の1であったのに今の通貨比率は韓国とっては相当有利に働いているのは間違いが無い。勿論、サムソンの様に技術的にも日本企業と肩を並べるか追い越した企業も出てきたが、基本的には未だ日本企業の方が勝っている面は多い。更に、国民性の問題である妥協を許さない激しい気質が経営者と労働者の関係にリスクが内在している。しかし、それ以上に今後の動向に注目したいのは韓国が国内の農業を犠牲にして輸出を拡大してきたことである。今年は異常気象によって韓国最大の野菜需要の白菜が不作で国内生産では間に合わなくなり、急遽中国から輸入したと言う記事である。日本人には余り知られていないが、韓国人の無農薬などの有機野菜つくりは日本より早く行なっており、健康に関しては日本人以上に気を使う国民である。それが国策によって畜産農家は既に経営難になっており、野菜などの生産も今後は自由化により経営的に苦しくなり、海外の輸入依存が増すと推察される。韓国は輸出指向を強めて欧州との自由貿易協定を締結したり、米国と豪州が提案する環太平洋貿易協定(TPP)に逸早く参加を表明している。ここでよく考えないといけない事は、欧州各国及び米国、豪州などは農業生産の自給率が高いのである。輸出のために国内の農業を犠牲にする政策などおこなっていないことである。環太平洋貿易協定(TPP)は欧州共同体の貿易囲い込みに対抗するために米国と豪州が行なおうとしていることであり、グローバル経済の考えかとは異なる。ある意味ではローカル的な考え方である。この貿易囲い込みにアジアとしての存在感が無い。ややもすれば、TPPは貿易に関する中国包囲網になる危険性が高く、日本は米国以上に輸出率が高い中国と対立するリスクが高まることも考えられる。現在の様な先が見えない時には先行している韓国の動向を見て動く事が大事である。明治維新の時には開国しない朝鮮が割を食ったが、今回は日本が割を食うのかそれとも国内の農業を放棄しない日本が生き残るのか。韓国を注視しようではないか。

証券化が無責任社会を作り出した!!

1970年代に米国で始められた住宅ローンの証券化は1990年代後半から勢いが付き、2000年以降にはあらゆる債権が証券化されて販売された。リーマンショックの引き金となったサブプライムローンは証券化の一部に過ぎない。証券化の問題はお金の貸してである金融機関や建築主のデベロッパーの無責任さを助長させた。今となれば誰でも分かる事だが、証券化以前は住宅ローンは貸してが30年の年月を掛けて元利を回収したのである。しかし、証券化以降は直ぐに資金の回収と利益をもたらしたので審査基準が甘くなった。銀行の審査が甘くなると建築物の作り手のデベロッパーも時間と手間隙を掛けて良いものを作る考えが希薄になった。この様に書くと、識者は証券化に対しては厳格なデューデリジェンスを行なっている筈ではないかと反論が出ると思うが、組成する金融機関や企業は裏づけとなるローンを完済させる監督やデューデリジェンスを行なうインセンティブを殆んど持たないので、義務を果たす存在ではなかった。本来なら証券化を支援する証券会社がチェック機能を持つべきだが、この義務を果たさず、関係者全員がローンをまとめて販売し、簿外に移すことだけを意図していたのである。格付け会社なども格付けすることで大きな手数料を稼げるので、インチキ格付けを平気で行なったのである。ちなみに、米国では「職なし、所得なし、資産なし」の人に貸したNINJAローンあったそうだからモラルハザートどころではない。日本のバブル経済崩壊の金融機関のモラルハザートに対して米国などは非難を浴びせたが、日本の貸付や建築の状況は今回の米国ほど酷くはなかった。米国の証券化手法が日本にも導入された結果、物づくりの心を忘れたデベロッパーが多く出現し、リーマンショックで多くが消えていった。しかし、証券化が作り出した無責任社会はまだ続いており、この弊害は今後も続くと考えられる。要注意である。

世論とは

情報化の時代になり人々もマスメディ以外のインターネットによって情報を得ることが出来る様になり、マスメディアが提供する情報で世論が操作されていた事実をしることになった。基本的には新聞など営利事業であり、広告を抜きにして経営が考えられないことを理解すると日本で言えばトヨタに対する悪い記事には手心を加える可能性はある事は承知の事実である。翻って、新聞などに広告を出さない企業が何か社会的な問題を出すと一面に書かれてしまうことも事実である。更に、日本の記者クラブ制度は最も世論誘導する情報の提供の場であり、記者クラブ制度の互助会組織がなくならない限り日本の報道機関の中立性など笑止千万である。日本人は古来から教育水準が高く識字率も世界で最高水準であるがために一般紙の購読者は世界に類を見ない程である。日本人の多くは新聞報道を信じているがために無批判的に受け入れ、それが世論となっている。そう言えば、毎日新聞記者上がりの「鳥越俊太郎」氏などは、世論はリークされた新聞記事で動くので信じないと言っているが、語るに落ちた発言であろう。私自身も高い学歴と職歴を持っている人達が新聞報道の記事のままに自分の意見を構成しているのには度々驚かされた。この様な日本人に対して米国が世論を旨く誘導して日本をコントロールしている事は良く知られた事実である。以前にも書いたことがあるが、国税庁と税法的な解釈で争った会社が新聞に脱税報道をリークされ、その結果金融機関から融資を拒絶されて倒産したことがあった。この会社の社長が東京国税局で自殺を図ったことを後で知った。権力者側が一方的に情報をリークし、新聞などのメディアが何等の検証しないで報道する姿勢は憤りを感じるものである。勿論、情報化の時代になって漸く国民の新聞以外の情報も入るようになり、新聞などの情報を無批判的に受け入れる姿勢は一部ではなくなってきた。しかし、未だ大半の人は新聞・TVの報道を疑問を感じないで信じており、そういう意味では世論の信頼は低い。特に、マスコミが報道する世論調査などは質問設定如何によって何とでもなるので最も信用が出来ない代物である。選挙期間中には世論調査の発表など百害合って一利なしなので規制するべきと考える。この様にマスコミ批判を展開してきたが、良く考えると情報化時代のIT技術は米国の軍事技術から生まれたことを思い出し、米国などはマスコミ操作ではなくIT操作によって一国を情報操作する技術を確立しているのではないかと危惧を感じた。このため、流される情報に対しては直ぐに反応しないで誰が得するかを考えて真偽を判断するべきと思っている。そうすれば大きな間違いは犯さないと考えられる。また、blogのテーマが横道にされてしまったが何時の事なのでご容赦願いたい。

中国の不動産バブルは当面崩壊しない!!

中国の不動産バブルは何時崩壊するのかと相変わらず誌面を賑わしている。これまでの予想だと上海万博後と言われてきたが、その予想を裏切るように中国政府は上海万博閉会前に市場金利を上げてきた。中国の不動産バブルは中国政府が指導してきたものである。日本など欧米諸国の様に市場原理主義では動いていないので、市場の声で翻弄されるリスクは小さい。資本主義と民主主義を取り入れた国では歴史的に見ると大小はあるものの定期的なバブルと崩壊によって苦しまされてきた。資本主義は人間の欲望を肯定した制度なので果てしない欲望がバブルを発生させ、然る後に崩壊すると言う流れは防ぎようが無い。1929年-1933年の大恐慌はその後の世界経済の低迷の中で第二次世界大戦を引き起こしたのは承知の事実である。この反省により、これ以降は人間の欲望を抑える制度(銀行業務と証券業務の分離など)やバブル崩壊後の救済制度(IMF、世界銀行の創設など)によって30年程度は日本やドイツの様な高度経済成長はあったが、世界にバブル発生~崩壊はなかった。しかし、貿易の機軸通貨となったドルの発行国の米国がベトナム戦争の深入りで戦費が嵩み財政赤字となっために世界は再び為替の自由化が始まりそれまで安定していた世界経済は不安定になってきた。米国はその後20年掛けて財政収支と貿易収支の双子の赤字の解消を進め、2000年には財政黒字を実現したのは評価できる。だが、財政赤字を解消するために小さな政府と金融緩和がその後のリーマンショックを引き起こしたのは否定できない。この辺の事情は多くの書物に書かれていることなので割愛するが、中国は資本主義だが民主主義ではなく共産党一党独裁である点である。中国は歴史を学んでいるので何がバブルを発生させ崩壊させたかは熟知していると考えられる。1929年の世界大恐慌時に無傷であったのは世界経済から孤立していたソ連だけであった。勿論、今の中国は世界経済と連動しているので今回のリーマンショックは影響を受けているが、問題は民主主義の国家と異なり、危機に対して敏速に対応できる点である。今日の情報化の時代には日本企業も合議制のサラリーマン役員の会社でなく、敏速に決断できるオーナー企業の会社が評価されるようになった。政治体制も同様であろう。情報化の時代には敏速に対応できない民主主義は合わなくなってきている。尤も、資本主義と民主主義の結合が経済バブルと崩壊の原因かもしれないと最近考えてきており、それが経済の需要を生み出しているかもしれないと考える。何れにしても、中国の貿易収支が大幅な黒字である限りは不動産バブルに対して調整が可能と思われるが、中国の経済バブルを崩壊させて不良債権のホールセールで儲けたい連中との今後の中国政府との攻防は見物である。

週刊誌掲載の記事で質問する無能な国会議員を見るに付け故郷の大先輩「大森創造」氏を想起する

今の国会のお粗末な議論をTVで見るに付け、私の故郷の茨城県が生んだ尊敬できる政治家として「大森創造」氏を思い出す。大森氏は地主の息子として生まれ、水戸中学(現水戸一高)から中国に開校した東亜同文書院で学んだ方で、戦後は20代で村長、30代で県議会議員、40代で国会議員(参議院)になった故郷の立志伝の人物です。私の亡父も同年代の地方議員であり、30代で村議会の議長にも就任した傑物だったので、お互いに評価する間柄でありました。大森創造氏が国会議員を辞めた後に亡父が政治的手腕を惜しみ、彼を水戸市長選に担ぎ出した経緯もあります。残念ながら僅かな票差で負けてしまいました。彼が当選していれば水戸市政も今とは大分違っていたかもしれません。今の世代には大森創造と言う名前を聞いても分からない人が大半と思いますが、昭和40年初頭に国会で「共和精糖事件」などを追求し、新聞紙上で「黒い霧」として賑わし、国会を解散に追い込んだ国会議員と説明すれば興味がでると思います。大森氏は旧社会党の参議院として茨城選挙区から出ていたが、この黒い霧事件にはマスコミも書かない後日談があり、彼はマスコミと組んだ与野党の政治家及び官僚によって政治家としての道を絶たれてしまいました。大森氏は天才肌の人であったので、奇想天外の行動に出たこともあり、地元民にとっては別段なんでもないことでしたが、これを新聞紙上で精神異常として書かれ、次の選挙には公認されない理不尽なことが起きました。亡父から聞いた話ですが、大森氏が国会議員汚職の不正を追求した時に自民党だけでなく社会党からも逮捕者が出ることが分かり、当時の社会党の幹部から国会での追求を止める様に圧力が掛かったとのことです。これに対して、大森氏は譲歩せずに国会で弾劾したので社会党からも逮捕者が出てしまい、結果的には次の選挙には公認が得られない理不尽な結果となったとのことでした。大森氏は不正の情報を入手した時に大森機関と言われた調査スタッフを結成し、徹底的に調査した上で国会質問を行なったのです。翻って、昨今の国会での野党議員の質問は週刊誌に書かれた記事を鵜呑みにして単に質問するだけであり、何も仕事をしていない姿には唖然します。然も、大森氏の国会議員当時とは比べも無い多額の報酬や秘書手当てが支給されているにも拘わらずです。私は子供の頃亡父からマスコミなどが不正を暴くより別な意図で記事を作ることを教えられ、政治家も国会議員の様に上に行けば行くほど与野党問わず国民など考えない連中が多くなることを知らされた。この状況は最近の政治を見るに付け過去より良くなるどころか寧ろ悪くなっていると考えざるを得ない。このblogを見た方が一人でもおり、他者に大森創造の様な国会議員がいたことを伝えてもらえればと思う次第です。

近代日本を創った男「伊藤博文」を読んで

亡父が私に名づけた名前なので感心はあったが、書店でこれまで伝記らしきものを目にしていなかったので人並みな断片的な知識しかなく、その生涯については触れる機会が無かった。今回、書店で偶然に伊藤之雄氏が書いた伝記、特に主観を排除するために彼が接した人達との書簡の遣り取りから実像を描いた点に興味が引かれて購入した。読み進むうちに伊藤博文と言う人物が正に副題の「近代日本を創った男」に相応しく、そこには私が知らなかった伊藤博文がいた。伝記を読むと人の成長には何が必要かも理解できるが、伊藤博文に対して明治の元勲の木戸孝允の言葉「剛凌強直(強く厳しく正直)」は従来の歴史的な評価とは異なる人物であったことが分かる。明治新政府の要人になっても憲法を作るためにドイツに留学し、1年半以上も一学生の様に学ぶ姿勢には驚かされる。また、行政の実務から入り指導者になったのでリアリストでありながら理念を持った政治家であった。勿論、リアリスト故の現実的な段階的な対応が大正、昭和に対して彼の理想と違った方向に行ってしまった責任もあると思われた。しかし、江戸時代の封建社会を明治と言う近代民主主義に変えた中心人物として伊藤博文が存在した意義は大きいと思わざるを得ない。時代が人を作るとは言い古された言葉ではあるが、現代を見ていると本当にそうなのかと考えてしまう。尤も、明治時代に憲法が公布され議会政治が始まったのであるが、この始まりの時から現代の政治と変わらない国民を無視した党利党略と自己の栄達だけを希求した国会議員を見ると、議会制民主主義とは何かを考えてしまう。また、近代日本の行政組織も現代の組織と変わらず膨張主義であり、その縮小に対して国益を無視して反対する姿も愕然とさせられる。しかし、伊藤博文は悲観的な状況にも拘わらず理念を求めて行動する姿には良い国を作るには何が必要かも教えてくれている。日本の平和を維持するには隣国の近代化が不可欠と考えて晩年になりながらも朝鮮、清に対して啓蒙を進めた姿にも悲壮さがある。現代の日本の政治家はちっぽけな領土問題で目くじらを立てる様な小人物しかいない。尖閣諸島の周辺に資源があるなら共同開発すれば良いだけのことである。アジアの問題はアジアの国々が解決しなければ歴史が逆戻りする。日本と中国が対立して喜ぶのは誰かを考えるべきである。良い時期に良い伝記が出たと考える。

「都市再生機構(UR)のあり方に関する検討会」のインチキ報告

「都市再生機構のあり方に関する検討会」は、独立行政法人の都市再生機構(UR)の業務見直しについての報告書を発表したが、相も変わらず御用委員による見解であった。この結果を見る限り、民主党政権になっても何等変わることなく必要ない金食い虫の組織が温存される事が分かった。URなど今の社会に必要がない。民営化が事業資金の大半を国に依存している現状では難しいとの結論であるが、民営化でなく解散を前提として資産の売却と人員整理を提言すべきものである。20年以上前に住宅ローン会社が役目を終えたにも拘らず定款変更で貸付先を拡大した結果、不良債権の山を作って失われた10年となる原因のひとつとなった。同様に官僚の天下りに過ぎないURを存続させると無理やり仕事を作ることになり、財政難の国から無駄な資金が流失する事になる。政治屋もURの利権を利用するために官僚のUR存続に異議を唱えない。マスコミも検討会の報告に対して記者発表を掲載すだけで何等のコメントも載せていない。この国では亡国の輩が権限を持っているので私の意見などは蟷螂の斧に過ぎないが、それでも書き続けないとこの国は間違った方向に行くと思うので続けるのである。民間の不動産会社と変わらない業務を行なっているURの存続に反対である。

人権を大義名分にした米国のイラン攻撃に対抗できない情けない日本人

パキスタン、インド、北朝鮮との米国の外交対応を見るとイランが核開発に対して執着するのは当然であろう。米国のイランに対する執拗な原子力発電所に対する攻撃は、イスラエルによる要請なのは誰の目にも分かる。イランが指摘するようにイランに対して原子力発電所査察を強要するならばイスラエルに対しても核保有の疑惑を正す必要がある。人権を盾に日本企業などに原油開発から撤退させる米国の行為に対してイランとの仲介も果たせない日本政府を見ると政治家を辞めろと言いたい。今回の日本の石油開発国策企業のイラン撤退の報道を聞くと、戦後イランから英国の海上封鎖の中で原油を購入した出光興産の故出光佐三翁を思い出す。出光佐三翁は伝記を読むと反骨の人でもあった。行政の大手企業を利する制度に対して真っ向から戦いを挑んだ人でもあった。グローバル経済の中で多額の資金を必要とする石油開発には海外から資金を集めないと事業を推進できないとの理由でイランから撤退を考えている様だが、その様な理由は建前なのは子供でも知るであろう。資源開発競争の時代に海外の資金を充てにした開発など出来るわけがない。200億円以上の資金を投下した開発から撤退するなどの決定は一企業経営者の判断で出来る訳がないので、政治家と官僚が決定したものであろうことは直ぐに推察できる。少なくても、知恵のある日本人なら中国との提携を模索することも考えたのだろうが、今の日本の指導者にはその芸当が出来る人物がいない。米国は現在景気悪化の中におり克服するには戦争しかないのが現実である。米国の戦争屋がイランをターゲットにして事を構えようとしている中で、イランに原油などの権益を有する日本が取る立場はイランの擁護と米国との仲介役であろう。日本人が戦後失ったものは本当に大きいと今更ながら思う。

不正を行なった特捜検事に見た日本の将来

孔子は40歳過ぎたら自分の顔になると弟子に説いたそうだが、不正検事3人の顔を見る限り社会の正義を守る面構えでないのに気が付いた。そう言えば、バブル経済崩壊後の経済人の容貌を見るに付け、その地位に相応しい顔付きに出会うのは稀なのにも気が付いた。戦後の学校教育は知識の修得に主眼を置いた「知育」、「体育」に偏っているので、「徳育」、「食育」に関しては家庭教育に依存していたと考えると不正3人組の検事のそれぞれの親の生き方を知りたい思うのは私だけだあろうか。もちろん、江戸時代や明治時代にも不正はあり、何時の時代にも社会を騒がす輩がいるが、問題は検事と言う職業を選択したにも拘わらず、平気で証拠を改竄する人間がいたと言う驚きである。日本にはバブル経済崩壊後に米国の合理主義的な効率を目指した考えからが経済に導入されたが、小泉純一郎という男はその効率主義を行政にも取り入れた。その結果が今回の特捜検事の不正に繋がった考えられる。もちろん、検事の不正の前に効率主義は民事裁判の裁判官の判決にも現れてきており、効率の前に必ずしも正義が行なわれなくなった恐るべき事実も目にしていた。しかし、幾ら効率主義が導入されたからと言って本来の人間性が失われることはないと考えると、不正を行なった3人の検事や和解を蹴った訴訟人に対して間違った判決を出す裁判官の存在は何なのかと思うのである。核家族の増大と学力偏重の社会がもたらした個人主義が人間性も喪失させたと考えると日本の将来は悲観的にならざるを得ない。子供時代に祖父祖母や両親から受けた教えは何時までも忘れないものである。社会が良くなるには常に実務能力の他に人物評価を行なって地位を与えることが必要に思える。不正した検事の様な人間が出世コースにのる社会では日本の将来はないと思われる。尤も、今回の事件は特捜の内部の検事の告発によって発覚したのが救いであるが。

マスメディアが作りすぎる世代間の格差

先日、20代の住宅販売の営業をしている若い方と話す機会があった。彼は俺達はバブル経済崩壊後の世代ですから少しも良い目を見ていないと社会に対して被害者意識が強かった。私はその話しを聞いて懸念した事は、バブル経済など数年間のことであり、確かにその時期に就職した人達は恵まれていたかもしれないが、バブル経済だからと言って全てがばら色であったわけでもなく、何時の時代でもそうだが、バブル経済のために破綻している人も多いのであり、良い世代と悪い世代などと考えたら果てしない論争になるのに、マスコミが作り上げた世代間の格差で不満が募っている社会現象であった。私の世代を振り返ると子供の頃は政府が所得倍増の政策を打ち出すほど未だ貧しい時代であり、高校~大学時代は学園紛争の真っ只中で過ごし、更に大学時代には田中角栄の日本列島改造計画で大インフレに直面し、挙句には就職時にオイルショックに遭遇して就職難であった。社会に出ても第二次オイルショックに見舞われ、福田内閣のデフレ政策で経済は低迷していた。然も、年功序列主義のために20代には安い給料で働かされた。我々世代も決して恵まれた世代ではなかったが、今の20代の人達の様に生まれた時から良い事は何も無かった世代とは考えなかったし、マスメディアもその様な位置づけをしていない。確かに、今の20代の人達は生まれて物心付いた時にはデフレ経済であったかもしれないが、年功序列制度が崩壊し、明治維新の時の様に若い世代が評価されて多額の収入も得るチャンスが生まれているので本当に良いことがひとつも無い世代と言い切れるのかと疑問に思ってしまう。最近20代、30台の人達を取り上げたTV番組を見ると、仕事を評価されないとかで簡単に会社を辞めるケースが多いのに驚くと共に資格を取れば簡単に高収入の人生が待っていると安易に考えている人が多いのに驚く。ひとつの仕事を覚えるには最低でも3年位の年月を必要とすると思われるし、幾らドッグイヤーの時代でも人の上に立つには5年の歳月は必要と思われる。また、現在は企業の方でも正社員と派遣社員の区別をしていないで使っているので自分の立場を誤解している派遣社員の方も多く、勘違いして仕事を辞めてしまう方も多いようだ。我々の世代は簡単に会社を辞める考えはなく、辞めたら希望する再就職は出来ない時代であったので我慢して頑張った。資格を取得しても実務経験を積まなければお金を稼げないくらいは誰も知っていたことなのだが、今の世代は良い事はひとつもなかったと言う割には考え方が甘いのには驚くのである。我々の世代からすれば今の20代、30代の人達は転職の自由もあるし、頑張れば高収入の道もあるので羨ましくて仕方ないのである。今の若い世代には、メディアが作った世代間の格差などを信じるのではなく、歴史を学んで何時の時代にも厳しい面がある事を知り、自分達の恵まれた経済環境に感謝する心が大事であることを言いたい。

尖閣諸島事件を起こした管内閣の馬鹿大臣どもと国民を煽る国賊マスコミ

今回の尖閣諸島事件では大きな点が一回も論じられていない。石垣島の漁業関係者がTVのインタビューで答えていた様に尖閣諸島周辺で中国や台湾の漁船が操業したのは今回が初めてではない。何度も繰り返されていることと言う事実である。海上保安庁は尖閣諸島周辺で外国の漁船を見つけた時には幾ら日本の領域とは言え政治的な問題に発展する可能性が高いので同庁長官に報告し、同長官は大臣に報告して対応を求めていたと推測できる。それが今回に限ってはなぜ中国漁船に停船命令を出したのかが大きな問題と言える。勿論、当初は停船命令で臨検し、本来の目的の漁業だけなら解放する予定であったのかもしれないが、問題は停船命令に従わなかった時の対応などの不測の事態を想定していなかった事にある。前原前国土交通大臣の愚かさは中国の出方を見誤ったことであると思われる。歴史を学んだ者ならば中国が領土に拘る理由は痛いほど分かる筈である。蒋介石が戦争終了後に国土を侵略した日本兵を無事に帰したのは戦後に欧米諸国と対抗するには日本と組まなければ出来ないと言う判断からであった。戦後の日本は米国の支配下にあり、現在も状況的には何も変わっていないのである。それが民主鳩山政権になって中国も日本に期待した面もあったのであろうが、管内閣になって自民党と同様な対米追従主義に方向転換したことが分かり、今回の強硬手段となったのであると推測される。中国も当初は日本の政治的な早期解決を望んでいたのだろうが、管内閣の馬鹿大臣どもは政治問題にも拘らず司法に任せて状況を悪化させて最終的には検察に圧力を掛けて釈放すると言う世界に恥を晒した方法で解決した。弁護士上がりの法律論で行なった処理であろうが、官僚の入れ知恵に任せた愚かな判断と言えよう。政治家としての器の片鱗も見られない。前原外務大臣、仙谷官房長官の様な愚かな指導者に国を任せるリスクは高い。勿論、事件が大きくなって右往左往した管首相などは亡国の輩そのものである。これに付随して愚かなのはマスコミの報道であろう。日本政府が弱腰などと言いたい放題である。政治の延長が戦争であることを自覚して報道しているのかと言いたい。マスコミが尖閣諸島問題で囃し立てるなら、竹島に関しても奪いとる報道をしろと言いたい。尖閣諸島は日米防衛の範囲などの米国側のコメントを掲載しているが、中国に対しては今回の問題を余計に刺激する結果になるだけであろう。"トラの威を借る狐"としか写らないマスコミの報道は笑止千万である。中国に侵略戦争を起こした日本に対する中国国民の隠された怨念を忘れたのでは、危険この上ない。侵略した方は忘れても侵略された方は忘れるはずが無い。石原東京都知事の様に喧嘩も碌に出来ない輩が威勢の良い事を言っているが、喧嘩を遣ってきた者は悪戯に相手を刺激して喧嘩に誘うようなことはしない。前原外務大臣などもその類であろう。ペーパー試験で成績が良かった喧嘩も出来ない輩だ。仙谷官房長官の様に学生運動や労働運動に関わって来た者もいるが、学生運動や労働運動の指導者には碌な奴はいなかった。正義ずらした偽善者ばかりである。にマスコミも戦前に盛んに国民を煽り立てて国民を戦場に送り出した反省もなく又尖閣諸島事件を煽り立てるのは国賊者である。中国の当初の姿勢は偶発的な事件としての対応を日本に求めたのにそれを理解できずに司法処理を粛々と進めた結果が、腰砕けでは喧嘩も出来ないアホである。然も、司法に政治的な判断をさせた誤りは今後後悔することになろう。司法も身内がインチキを行なった事件もあったので内閣の意向に沿ったのだろうが、この国に人物はいないのかと考えてしまう。明治維新に生きた山岡鉄州のような「命もいらず、名もいらず」の様な人物の再来を願うのは現代では無理なのであろうか。この様に行き着くと戦後教育の間違いは取り返しが付かない。

情けない日本人

今朝は特捜検事のデータ改竄で逮捕されたニュースが流れていた。裁判所の裁判官に関しても和解を拒否した原告に対して不利な判決を言い渡す裁判官が増えてる事を承知していたが、検事の不正とは呆れてしまう。この様な人物が検事や裁判官に就いているのはペーパー試験だけで採用している弊害が出たのであろう。勿論、弁護士にも人格の欠片も無い非常識な者がいるが、これは最近に始まった事ではないので論外だが、少なくても公に従事する者に対してはペーパー試験以上に重要な人格的な面を判断する面接が疎かになっているとしか言いようが無い。尤も、財政赤字なのに報酬の引き下げを頑として認めない地方議員や国会議員を見るにつけこの国はどうなったのかと言いたい。そう言えば教養と言う言葉も死語になりつつあるかもしれない。今の日本は全てがお金の価値観で動いているので、お金を持っていない人に対しては蔑む様な目で見る傾向が強い。しかし、良く考えると今の社会にルンペンはいても乞食がいない。人生の綾でお金に恵まれない人達が増えているが、生活保護を受けない人達が多いのも事実である。人間としての矜持を失ったのではお終いであるが、最近の成功者と言える人達を見ると器が小さいと思えてならない。頭が良いので成功したのであろうが、トップに立つ器で無いのに頭が良いだけで偶々その地位を得ている人が多くなったので社会が歪んだのかもしれないと考える。何れにしても、政界にしても経済界にしても官界にしても小人物ばかりで規範となる人物がいない。明治維新は江戸時代の学問である朱子学・論語など道徳教養を身につけた人達が成し遂げたのであり、西洋の学問だけを学んだ人達ではない。人格形成には論語など中国の学問を学ぶことが重要であったことが分かる。少なくても公の仕事に就く人には論語などを学ばせることが必要なのではないかと考える。

前原外務大臣の就任で再び対米追従外交の復活か

戦前戦後ともアジアで孤独に欧米諸国と対峙してきた日本が漸くアジア諸国の経済発展で欧米諸国に発言権を有するエリアになろうとしている矢先に時代錯誤対米追従主義の考え方の持ち主の民主党の前原と言う議員の存在感が増してきた。日中韓の北東3国が連帯し、尚且つ東南アジア諸国と経済的融合を図るリーダーシップを取る時代になったが、前原が露骨な対米追従主義の考えで米国の思惑に沿った行動を開始した様だ。羽田空港の国際化で露骨な米国航空を優先した前原が、尖閣諸島で中国と軋轢を起こした。海上保安庁の今回の中国漁船の拿捕とも言える行動は、前原国土交通大臣でなければ発生しなかったものと思われる。推測だが、従来ならば単に警告を発して追い払ったのではないかと思われる。しかし、今回は従来と異なり停船命令を発し、中国漁船を拿捕する行動に海上保安庁が出た背景には、前原の強い意志が感じられる。海上保安庁が前原の意志に従った背景には、ヘリコプター墜落事件で前原に借りを作ったことに起因しているのではないかと思われる。以前のblogで書いたが、海上保安庁のヘリコプター墜落事件で前原が取った行動は完全に海上保安庁を擁護するものであった。米国の思惑で前原が中国と軋轢を起こしたとすれば戦前に多く見かけられた国賊者の政治家・官僚と一緒であるので要注意である。米国は国力を付けて来た中国の防波堤に日本を利用しようとしているのは間違いが無い。その戦略に乗ってしまうと折角のアジア共同体が吹き飛んでしまう。戦前はペーパー試験で出世した実務を知らない馬鹿な軍人のために中国を侵略し国を滅ばしたが、今回も又、前原の様なペーパー試験で上がってきた実務を積んでいない議員が国を誤らせる可能性が高い。私は尖閣諸島を放棄しろとは言っていない。トラの威を借りる狐の様な行動を慎めと言っているのである。尖閣諸島問題で中国と対峙するなら海軍同士の衝突も考慮した上で対処しろと言いたいのである。然も米軍などに頼らずである。悪戯に日中関係に水を差す行動は、日本がベトナムやフィリピンの中国との領土問題で日本の仲介の機会を失わせるばかりでなく、アジア諸国の分裂を招いて欧米を利する行為である。"政治の延長は戦争である"とはクラウゼビッツの戦争論の一説である。前原の今後の行動次第では政治的に失脚させることが国益に沿ったものであることを肝に銘じたい。

大阪府・橋下知事の維新の会発足による地方からの改革に期待

この国は国会からでは変えられないことがハッキリした。体制を変えるには明治維新と同様に地方から火の手を揚げて中央に登るしか方法がないと思われる。鎌倉武士が京都を兵で制圧しても公家に懐柔されてしまった同じ事が、自民党から民主党に変わっても公家の官僚が民主党政治家を篭絡して自民党政治と中味は変わらなくしてしまうことが判ったからだ。橋下知事も一時は国会議員に期待したこともあったのだろうが、現実と直面すると現在の日本の政治体制では改革が困難である事を理解したのであろう。同時に政治は力であり、力は議員の数であることも理解して自らの理想に共鳴してくれる同士を集めたと思われる。大阪府と同じ様に地方都市が改革派の首長の下に議員が多数を占めれば面白い世の中になる。地方で改革の道筋を付けて次の段階には中央に打って出ることで中央の改革が期待できる。阿久根市の様な物議を醸し出している首長もいるが、国民の1世帯当りの所得が400万円に下がったのに地方都市にも拘わらず1人あたり年収700万円である市役所職員の高給に何も言えないのでは政治ではない。尤も、宮崎県知事の様なタレント上がりの無能な知事も過渡的には出現するので要注意ではある。パフォーマンスより行政手腕が判断基準となるが、新聞報道だけで多くの国民が判断するので、何時も政治が誤った方向に行ってしまう。記者クラブ制度の中で役所の批判が出来ない記者が書いた記事など何等の価値が無い事を国民に知らせる必要がある。ひとつの例としては、円高は日本が構造改革を進めないと防げないと書いた新聞記事が多いことに気付くであろう。日本が構造改革を進めないと財政が破綻するなら円安に動く筈ではないかと常識的には思えてならない。構造改革をすれば何故円安になるのか聞いてみたいのは私一人ではないであろう。常識的には、日本が行政改革を含めた構造改革を断行すれば、日本経済に対する信頼が生まれ株式や不動産に対する投資が増えて円高になるのではないかと思われる。百歩譲って日本が何も行なわないので為替の投機に見舞われて円高になると言うならば、どっちにしても円高になるのではないかと思われる。話は逸れたが、今回の橋下知事の呼びかけで多くの議員が参集したのは朗報であり、今後の活動に期待したい。

日本の経済が不調なのは現実の経済活動と乖離した税体系に問題がある

米国の税体系は本当に現実の経済活動に即したものと言えるが、反面、日本の場合は逆に企業の活動を阻害する税体系となっている。消費税をアップするなら企業の経済活動に即した税体系に変更しなければ国民に負担を掛けて国家は疲弊するだけである。以前から指摘しているが、自動車税がその典型である。排気量に課税しているので新車も中古車も税金が変わらない。米国は売買価格に対して課税するので正に現実的である。また、固定資産税にも異議を唱えたい。日本の場合、米国の様な売買価格に対しての課税でなく固定資産税評価額で決定されるので住宅以外は小規模宅地の軽減措置はあるが、基本的には土地上の収益とは関係なく課税されるので、老朽化した建物でも土地価格が高ければ固定資産税が高い。特に、日本の場合には土地と建物に対する固定資産税は土地の方が圧倒的に高く、本来なら土地上の生産活動に対して課税する必要があるのに全く課税では無視されている。米国などは売買価格に従って固定資産税に相当する税金が課税されるので、正に現実的である。もちろん、別途教育税なるものが州によって課税されたりするので、財政赤字の州では一概に有利とは言えないかもしれないが、日本のように土地価格に比重を置いた不公平な現実の経済と乖離した課税ではないことは確かである。固定資産税の現実的な課税とは、売買価格に対する課税は当然だが、新築などに対しては建物7に対して土地3の比率で課税するのが経済原則に即していると考えられる。老朽化して賃料が取れない建物でも土地に対する課税基準は新築と同じでは不公平な税制度と言われても仕方が無い。情報化社会になって多くのデータ処理が出来る時代になったので、税制度も一律ではなく実態に合った課税に切り替えることは難しくないと思われる。しかし、何故か日本では、米国のオバマ大統領が景気回復で打ち出したような一定期間内の工場などの建物建設に対して2年で一挙に償却できる様な思い切った政策を打ち出せないかと嫌になる。推測だが、官僚に減税に相当する他に見合った税収先がないと出来ないなどと言われて馬鹿な政治家が納得してしまうからだろう。新築の減価償却税などは造ってナンボなのにである。マスコミも必ず官僚と同様に鸚鵡返しにその様な減税政策や支出をするのにそれに充てる税収先があるのかと必ず問題提起する。予算を固定した考え方にしたらその様な議論になるかもしれないが、不要不急な支出を先送りすれば幾らでも予算は捻出できるのである。また、その前に行政改革であるが、最近は官僚が強くなったので行政改革など過去の話の様にマスコミは沈黙している。尤も、マスコミなどは名目金利0.3~0.5%の報道しか流さないので国民の財布は締まるばかりで一層不景気になる。デフレ1.5%なので実質金利は2%位になっていることを伝えるのが必要なのにそれを知っている官僚だけが予算の無駄使いを行なっているのが実情である。兎に角、日本の場合は、抜本的な改革をしなければ景気回復はできないと思われるが、知識だけの優等生が支配する日本では沈没するまで何も出来ないと思われる。そう言えば、前原国交省大臣が海上保安庁のヘリコプター事故の時に他所のイベントで酒を飲んでいた事を指摘されたが、その時に「海上保安庁長官に大丈夫かと聞いてその結果を踏まえて適切に指示しした」と言ったそうだ。大分前に自民党の馬鹿総理であった森も水産学校の研修船が米国の原潜と衝突事故を起こし沈んだ時にもゴルフプレイをしていて事故後の一報が入った後もプレイを続けて顰蹙を買ったが、その時の台詞も官僚から問題ないと言われたのでプレーを続行したと釈明していたことを思い出した。この様に、官僚からの情報だけを信じて動かない政治家の姿を見ると失望せざるを得ない。平和になると昭和の軍人の様に出世だけを考える利己的な秀才だけが跳梁跋扈し、国家を誤らせる輩が精神論を振りかざすのは何時の時代も同じの様だ。自ら変える事が出来ずに経済戦争に勝てるわけが無い。

行政の形式主義が国民に負担を掛けている

雇用募集に際しては年齢・男女を特定することが出来ない。行政は雇用のチャンスを広げることの目的の他、男女や年齢の差別をなくす事も考えての事と思うが、全く現実社会にマッチしない形式主義の弊害が出ている。もちろん、世界的に人権主義の観点から同様な措置が取られているのかもしれないが、応募する側から言えばこれほど無駄なことはない。採用する側から言えば最初からターゲットを絞って募集するので、送付されてきた経歴書を見てターゲットを変更することはしない。このため、会社と希望者との無駄な遣り取りを強いているのが現状である。この様な表面を取り繕って責任逃れの遣り方は行政の最たるものである。これに準じる類は沢山があるが、機会平等の制度を作っても現実社会に受け入れられなければ話にもならない。昔から「仏作って魂入れず」の言葉がある。今の社会は高齢者の再就職に厳しいのは分かるが、自らが新しい時代に適応する努力をしない人に対しては同情できない。しかし、行政の立場からは単に募集に対する採用条件を規制することで事足れリの姿勢には腹が立つ。又、再就職に対する職業訓練や知識修得に補助金を出しているが、多くが机上の空論に過ぎず予算の無駄使いと思える支援策も多い。推測するには、多くの支援策が一般的な企業現場の経験者からの意見を反映したものではなく、偏った企業経営者の意見や頭だけで考える学者や評判のインチキ経営コンサルタントの意見を聞いた結果と思われる。昔から日本の行政は自らが作った政策をオーソライズするために肝いりのダミーの有識者の委員会を作って実行してきた。この遣り方が今でも通じると思ってやってきた結果が今の日本の姿である。行政が何か遣れば国民の負担が増すばかりである。行政規模を縮小して何も遣らない事が国民に負担を掛けない事を知るべきである。

管より小沢が評価されるのは消費税アップの前に行政改革を唱えている事

御用学者や御用新聞は盛んに日本の財政破綻の危機を紙面を通して喧伝しているが、学者や新聞記者の連中と違ってビジネス社会で実務を学んできた者から言えば日本の行政組織ほど無駄を抱えている国はない。この無駄は未だに先例主義に拘り、更に天下り先の組織つくりを行なっている亡国の役人が造り上げたものである。役人だけが70歳雇用維持のために多くの天下り先や出先機関に定年後の勤務先を用意している中で何が財政破綻だと言いいたい。そう言えば、慶応大学教授出身の御用学者であった政府税調の加藤何某は、公務員の給与など大した金額ではないと主張していたが、木を見て森を見ずの愚かな学者であった。公務員は「李下に冠を正さず」の姿勢で初めて国民に増税を求められるのである。現状の様な政治家や役人が予算の無駄使いを行なっている国に税金など馬鹿らしくて支払う気もなくなり、グローバル経済を理由に多くの企業と人々が日本から出て行ってしまうと思われる。私は小沢という政治家は嫌いだが、権力を維持するために財務省の役人の言いなりになった管などは論外である。管は絵に描いた餅の議員定数削減などを取り上げているが、それより先に必要なことは議員報酬の削減と公的助成金の削減、更には非現実的になった高額の公務員報酬の大幅削減である。報酬を削減されてやる気がなくなるような役人なら辞めてもらえば良い。お金が欲しければ民間企業で稼げば良いのであって自らの報酬が税金で賄われている事を忘れた役人など必要がない。財政赤字で国が破綻すると言うのに高額の報酬を貪っている役人に期待できるものは何もない。行政改革と構造改革は違うことを認識しなければならない。小泉・竹中コンビのインチキ構造改革のために構造改革が頓挫してしまったが、真の構造改革を進めなければ明日の日本はない。真の構造改革とは行政の権限を単に民間に移転するだけではない。日本の社会全体のシステムを変える構造改革である。この構造改革には官民一体となり、IT技術や環境技術、更には省エネ技術を総結集して向かわないとならない。それに必要な資金のために消費税をアップするなら賛成なのである。現状の社会システムで医療費や年金の財源確保の消費税アップなど更に財政難に陥るだけで役に立たないので反対なのである。クリーンな政治家でなくても真の構造改革が出来る政治家なら大歓迎である。

クリーンな政治が政治家の官僚化を招いた皮肉な結果

企業献金を不正の元凶として個人献金を主体とする政治システムに切り替えるのに政党助成金制度を設けたが、結果的に苦労しないでお金が政党に流れ込むことによって政治家が官僚化し、国民や経済界の声を聞かなくなった。中国に「水清ければ魚住まず」の故事があるが、「クリーンな政治は国家の危機の声聞かず」であろう。消費税を上げて財政悪化を食い止めるなどと簡単に言うが、その金は誰が稼いでいるものかを理解していない様だ。政治家と役人に金を与えてよい結果が生まれた試がない。現行の財政状態だと医療や年金の支給が出来なくなると国民を脅かしているが、必要な所にお金が流れないシステムにしている現行制度が問題なのであってその解決なくして健全財政など出来る筈もない。民主党の事業仕分けが今どうなっているかを追跡調査すれば何も予算の削減に結びついていないのが分かる。役人の悪知恵で法律を変えなければ大幅な予算の変更が出来ないなどと戯言を聞いて黙ってしまう政治家など話にならない。私のブログで何回も指摘しているが、農林水産業に係る就業人口が過去40年で何分の一かになっているのに農水省の役人の数や出先機関、関係団体などは少しも減少していない馬鹿げた結果を見ただけで予算の無駄使いが歴然としている。前原国交省大臣は偉そうに言っているが、公共投資事業を減らすなら国交省全体の役人の数から出先機関の統廃合、意味の無い団体を廃止を行なって初めて公共投資事業の予算を廃止した事になるのだが、これ等に関しては何も手をつけていない。何れの大臣も自民党と何等結果的には変わらない。官僚政治が続いているだけである。然も、政治家が官僚化して官僚の言い分に理解を示してくれるので、役人にとっては笑いが止まらないであろう。国民の声を聞かないクリーンな政治など何の意味もない。クリーンを売り物にして何の政策も持たない議員では役に立たないのである。昔の様に企業から献金を受けるのにこの円高では貰いにも行けないので、円高対策を敏速に行なったのである。しかし、今は政党助成金があるから円高を放置したままである。後の祭りとはこのことか。

赤字垂れ流しの実質的な倒産の地方公社(三セク)解散に対しては歴代関係者に責任を取らせるべきだ

昨年度から債務を肩代わりする赤字地方債の発行が認められたために漸く地方公社の解散を行なえる様になった。しかし、問題は少しも解決していないし、この様な解決の仕方では将来に再度同じ様な赤字を作る公社などが理由をつけて設立される可能性もあり、今回の責任処理に現職首長の減法位で済ましてはならない。住民としては、過去の設立経緯から慢性的な赤字を放置してきた歴代の首長や赤字を補填してきた予算を承認してきた与党議員など、更には公社の歴代の幹部達に対して私財を出させて少しでも将来の住民負担を無くす様に運動を起こすべきと考える。推測するに、粉飾紛いの行為もあると思われるので厳正に第三者の会計監査を入れて実態を明確にし、その後地方債の発行によって解散を認めるべきかどうかを判断する必要がある。それが、総務省の地方財政法の改正で身内を庇うような無責任な解散で救済する遣り方に対しては断固抗議しなければならない。私の出身地の茨城県の例をとると、県住宅供給公社が381億円の赤字を地方債発行によって調達して解散する予定だが、聞くところによれば1000億円の赤字を抱えていたという事なので、残りの600億円はどうなったのか不思議である。若しかしたら、最初から1000億円を出すと大きな問題に発展するので、他に飛ばして順次赤字地方債を発行して処理する算段かもしれない。この様な疑惑が出るのも解散対して第三者の監査機関を入れて実態を精査していないからであり、其処には真実を隠蔽する力が働いていると思われるからである。この様な役人の身内を庇うような事を行っていると国民は納税する気がなくなり、国家が破綻してしまう。1200兆円の預貯金があるから日本は再生できると考えたら大きな間違いだ。1200兆円の預貯金は箪笥預金ではないので金融機関に預けているのが大半だろう。その大半が国債で運用されているとしたらどうなるかは自明の理である。日本航空の様な馬鹿げた経営と同じ事が多くの行政で行なわれている。行政の無責任が日本を駄目にした。名古屋市長の職員の給与・賞与引き下げに対してマスコミは民間の平均給与を取り上げてカットしすぎると報道していたが、倒産会社に平均給与もなにもないのではないか。多くの地方行政が民間で言う倒産状態に陥っているのに何が平均給与より低いだ。然も、この平均給与の算出はどのデータを使ったのか知りたい。大企業をベースにした平均給与などフザケルなと言いたい。マスコミも議会も腐っているので、河村名古屋市長の孤立無援の戦いに拍手を送りたい。行政改革なくして日本はない。

記者クラブ制度と情報操作加担で日本の新聞は滅ぶ

日本の新聞が記者クラブと言う情報談合の制度を壊さないで何を言っているのかと思うのは私一人ではないだろう。その上、露骨に意図的な世論調査や似非学者の意見を掲載して情報操作している姿を見ると新聞の断末魔の声が聞こえてくる。インターネット以前の時代なら兎も角、現代の情報化時代に記者クラブの発表記事など掲載していたのでは購読者など減少する一方だろう。私が住んでいるマンションでも新聞配達は急激に減少しており、特に若い人たちは新聞を取っていない。私が若い頃に韓国関係の情報収集を担当していた当時、日本経済新聞の一面の記事が韓国の経済紙に掲載された記事と全く同じであった事に驚いた。企業で海外勤務を経験した人達には分かっていた日本の新聞の海外新聞丸写しの記事の掲載であった。記者クラブ制度で育った記者は取材する能力が鍛えられないので、海外に出たときには翻訳記事やインタビュー記事しか本社に遅れないのだと理解した。夜討ち朝駆けによる取材などと言われるが、実態は親しくなった政治家や企業人からリークされた記事を掲載して一方の暴露に組しているだけの話である。尤も、毎日新聞の記者の様に男女関係になった女性から寝物語で聞いた沖縄返還密約を記事を書いた者もいた。この記者が特ダネをとるために女性を利用したかの様に書かれているが、本当の話は男女の中になった偶然から拾った特ダネだろうと思料する。言論の自由などと大袈裟な事をマスコミは唱えるが、記者クラブや企業広報、更に意図的に流された情報を鵜呑みにして記事にする日本のマスコミ関係者がその背景にある信用を失くしたのでは、意味がない。最近の新聞は特に政治や外交に対して目に余る干渉を世論調査や学者などを利用して行なっている。米国のCIAや財務官僚の手先と思える記事を掲載していたのでは日本の新聞は風前の灯火であろう。先ず、新聞が生き残るには記者クラブ制度を否定し、企業広報の代理店を否定することしかないと考える。しかし、自らが出来ない事を書いているから信用を失っていることに気付くべきと思われるが、先ず無理と考えた方が正解であり、遅かれ早かれ日本の新聞は消え去る運命だろう。

司馬遼太郎の作家原点が今尚続く日本の悲劇

司馬遼太郎は昭和20年(1945年)8月15日に陸軍少尉で終戦を迎えた時に「なぜ、こんな愚かな指導者ばかりの国にうまれたのか。昔はそうでなかったのではないか。」と言う思いがあり、その疑問の答えを見つけるために歴史小説を書き続けたと言う。この愚かな指導者の言葉は正に現代の日本にも当て嵌まり、太平洋戦争の責任を問わなかった日本国民の未だに続く悲劇かもしれない。今は平成の時代だが、愚かな指導者を産んだ時代は昭和であった。私も昭和生まれだが終戦を大分過ぎ朝鮮戦争特需に沸いた世代であるので、子供時代に戦争の話は聞いたが実感の湧かない事であった。しかし、無謀な戦争に導いたのは日本陸軍参謀本部の作戦参謀と言われた陸軍大学卒のエリート官僚と聞いて今は、東大卒の財務省主計局のエリート官僚がオーバーラップする。昭和の時代にはテストの成績が良いものが要職に就き、次第に実務知らずの机上の妄想に走り、国家を破滅に導いてしまった。現代の霞ヶ関の官僚なども同様であろう。政治家や地方首長などに言葉遊びで翻弄して頭の良さを得意がっている姿は亡国以外の何物でもない。特に、官僚の問題点は、失敗の責任を取らないと言う正に致命的なシステムに国家の運命を委ねている点である。民主党の代表戦が始まったが、管にしても小沢にしても経済など何も分かっていないので期待は出来ないが、2人とも間違いなく司馬遼太郎の嘆いた「愚かな指導者」の範疇には入る。世の中は人脈で動くので仕方ないが、致命的な失敗をした輩が昔の陸軍参謀と同じ様に直ぐに要職に返り咲く。敗者復活戦をなくせと言うのではない。問題は失敗の原因を解明して責任を取った上での復帰なら問題が無いが、当の本人が反省も無いのに復活させている現代のエリートと呼ばれている連中の互助会組織が日本国家の崩壊に導く恐れがある。尤も、日本崩壊など既に始まっており、沈む船と運命を共にするのは何時も庶民である。しかし、平成の愚かな指導者に対しては断じて看過しないで責任を追求する必要があり、愚かな政治家、官僚、学者の氏名を挙げて責任を取らせる必要がある。

厳しい経済情勢の中でも社会・文化に貢献している企業

先週の土曜日に毎年恒例の株式会社ユーハムが主催する「ゲーテの詩の朗読大会」の一般審査員として参加しました。「ゲーテの詩の朗読会」の参加は今から20年以上前にユーハイム社長ご夫妻との出会いから一般審査員のチケットを頂くようになって参加してきました。当初は全国大会を勝ち抜いてきた優秀な方々の朗読であったので、私には評価に差を付ける能力がなく、私が評価した2名の方の殆んどが毎年賞に漏れたものでした。今年は珍しく選んだ2名の方が優勝者と入賞者となりましたが、これは私の朗読に対する能力の向上というよりは偶然の結果と謙虚に思いました。しかし、ユーハイムの河本社長の文化に対する貢献には頭が下がります。これまで何回も経済不況の中で経費を要する本大会に関しては社内的にも賛否両論があったと聞いています。1982年(昭和57年)に第1回の朗読大会が開催されてから今年で28回目となりますが、開催日は毎年ゲーテの誕生日である8月28日前後の土曜日としています。今年は正に誕生日と同じ日となり、河本社長の発声でハッピーバースディが会場に響きました。先日、ヤマハ発動機では多額な赤字を計上したが、これまで行なってきた各種スポーツ競技の団体を廃部せずに継続すると表明した。理由は他の会社と同じにはなりたくないと言うことであった。この言葉は何事も株主優先で株主に対する高配当と短期的な利益を追求して社員を大事にしない多くの会社を皮肉っていると思われます。現代の殺伐とした社会になった背景は企業が社員を大事にしなくなったことが根底にあると思われます。社員の団結を図らなければ企業の業績は短期的には回復しても中長期的には落ちてしまう。「企業は人なり」、「組織は人なり」です。ユーハイムがゲーテの詩の朗読大会を開催するのは文化に貢献する事はもとより、正に企業風土の確立であり、社員間の企業を支える力の養成ではないかと思われます。若き頃教育者を目指した河本社長らしい社員教育と企業経営と感心しています。現代の様な大きな変化が起きている時代こそ軸がぶれない経営が大事であり、社員が会社に企業理念を理解して動くことが必要と思われます。ユーハイムは正にそれを実践している企業であるので、私はユーハイムのお菓子を食べて今後も微力ながらエールを贈りたいと思っています。特に、マイスター手づくりのバームクーヘンの美味しさは格別であり、新年やお盆の帰郷には必ず田舎に送って貰い美味しく食べています。河本社長は早くから自然食品しか使わないお菓子作りを行なっており、企業家として高い理念を持った生き方の人でもありますので、彼の様な経営者にお会いできたのはお金儲けだけで動いている不動産業界に身をおく私に取っては意義のあることでした。今から来年のゲーテの詩の朗読大会が楽しみです。

若返りばかりでない熟年世代の活用

我々世代はトップの社長年齢の引き下げの時流で優秀だが役員になれずに子会社に出るケースが多いが、このほど仲間から学生時代の友人が某商社の執行役員に就任しブラジル現地法人社長兼米州本部長付きになったと連絡が入った。本社社長は彼より入社が3年次下と言うから大企業にしては珍しい人事であろう。私としては心から彼の役員就任を祝いたいとともに、若返りの声に押されて自身を失った我々世代に彼の役員就任を知らせて頑張れと励ましたい。彼の就任の言葉、「人が仕事をつくり、仕事が人を磨いて組織を強くする。強くなった人と組織はさらにまた新たな仕事を産み出す。」です。最近、日本企業が忘れていた人を大事にする事を改めて思い出した。彼は今後は次世代に活躍する人材の育成にも全力を尽くすと言う言葉を目にして逆境を乗り越えた彼の頑張りが言える言葉であると実感した。彼とは学生時代に初対面の時に私の下宿で夜を徹して語り合った思い出がある。都会育ちの彼は垢抜けており田舎育ちの私に取っては目映かったが、自分の生き方を持ち、人の意見に耳を傾ける彼の姿は今でも鮮明に覚えている。学生時代の友人に私が一目置いた者は3人居た。その内の2人は今でも海外で頑張っている。もちろん、私自身も大いに励まされる連絡であった。

オバマ大統領を苦しめているグリーンスパンの老害の大きな代償

全米で約20%の住宅の持ち主が住宅ローンに関して債務超過になっており、自己破産が簡単な米国では住宅を投げ出し、金融機関によるForeclosure(担保権の行使)が激増していることが報道されている。確か記憶では1980年代前半以前の米国の住宅ローンの比率は価格の20%程度であった。日本のインフレ経済を考えた価格の80%以上の住宅ローンの設定とは異なり、長いデフレ不況で苦しんだ米国人の堅実な知恵であったのかもしれない。それがITバブル経済崩壊後の景気対策でグリーンスパンが打ち出した住宅金融緩和によって米国に不動産バブルが起こり、誰もが過去に経験していないインフレに酔って上昇した住宅価格に対してクレジットを拡大した。日本経済のバブルと同様に花見の宴が何時までも続くと考えた人達が新種の手法(証券化)で宴を大きくしたのである。バブルの張本人のグリーンスパンは日本経済のバブルの失敗を教訓としているなどとデカイ口を叩いていたが、実際には何も知っていなかったのである。しかし、問題は日本人が考えている以上に住宅ローンに対する米国経済の影響は深刻であり、このままでは正に日本と同じ様にB/S不況に陥り、実体経済の回復にも影響が出てきそうだ。古い話だが、1920年代の大恐慌の引き金は米国フロリダのリゾートの大暴落から端を発して株式の暴落に繋がった経緯がある。これを機に不動産鑑定と言う手法と資格者が生まれたのだが、今回の米国の不動産バブルには何の効果も無かった様だ。グリーンスパンの大きな誤りは経験知から経済動向の判断としていた物価指標の選択に誤りがあったからであった。データは使う人の選択で大きく変わるし、データは飽くまでも過去の出来事であり、未来を予想するものではない。ましてグローバル経済となって生物多様化現象の坩堝では何が起きるか予測ることは至難の業である。尤も、一番の問題は時間の加速現象であるかもしれない。この米国の住宅問題は海の向こうの出来事として静観していられないので厄介だ。既に始まっている円高が良い例だ。また、日本人は米国が初めて広島の原爆記念日に米国大使が出席したと言って評価しているが、米国が意図は日本をイラン叩きの仲間に入れる踏み絵と言うことを理解しないと平和ボケで今後の展開で誤ってしまう。日本人は能天気なので世界から良い様に利用されてしまう。逆に、円高のメリットを最大限ニ利用する方法を考えて円高で国内のメーカーが居なくなるマイナスを補う他無いと思われるが、日本の金融機関は国債購入で前向きな融資を行なわないので話にならない。円高で動かなければ、世界不況が終わった時には日本は2流国家に成り下がっていることは断言できる。

理容師が40年以上使い続けている当時10万円の鋏

今は床屋さんとは言わないが、どうも理容室などとは言い難いので昔通りの床屋さんで話を進めることにする。30年近く通い続けている床屋さんとは散髪中に良く四方山話をするのだが、先日行った時には偶然に床屋さんが40年以上前に購入した鋏の話題になった。当時の散髪代300円位の時に1本10万円の鋏を買ったマスターも流石だが、その鋏が40年も使えるのには更に驚いた。もちろん、マスターの手入れもあっての事と思うが、それにしても昨今の安ければ良いと言う風潮と異なる時代に作られた物は違うと思った。尤も、当時も半値の1本5万円の物もあったそうだが、その鋏は10万円の物とは決定的な違いがあって使っている内に修理箇所が出てきたそうだ。この床屋さんは私のいびつな頭に対して見事に違和感を感じさせない腕の持ち主で、私が住まいの周辺で探していた時に出会った方であった。独身時代からで、最初は隣駅に住んでいた時に偶然入った床屋さんであった。腕が良いから引っ越しても電車を乗り継いで来るお客が多いらしい。なお、この鋏はステンレスではなく、鋼製で出来ているので研ぐのが容易だと言う事である。最近のステンレスの鋏は研げるのだが、旨く砥げないと言っていた。話を戻すと、一流の腕を持つ床屋さんは一流の道具(鋏)を知ると言う事を理解したが、今時の若い理容師さんはその様な投資をすることはない様に思える。マスター曰く、当時5本購入したのだが、支払が大変なので3本を返したが、今は返した事を後悔しているそうだ。確かに、40年以上も使い得るなら結果的には安い買い物をしたことになる。そう言えば、昔から"安物買いの銭失い"と言う言い伝えがあったことを思い出した。正に、グローバル経済のデフレ化の時代では安いものが出回っているが、現代でも安くて良い物はないことを理解すべきだと思う。私の床屋さんは、高い鋏を使うことによってお客さんが満足する様なカットの仕方が出来たのだと思われるが、正に職人の世界である。職人の世界は見て覚えさせるのだが、此処には"考えさせる"と言う事と、一流になるためには"たゆまない努力"が必要であることを教えている。今の日本が駄目になった理由は机上の空論が多いからだと思料する。私も若い頃なら1本10万円の話を聞いても聞き流していたかもしれないが、この年になって初めて価値と言うことはどの様なものか少しは分かってきたから理解できたのである。私は懐古主義者ではない。便利な情報化社会の恩恵も受けており、それを否定するつもりは無いが、グローバル経済の理想は政治の統合があって初めて実現する事を忘れれば痛い目にあうことになる。このため、少しは真の価値について考える時間を持っても良いのではないかと床屋さんの話を聞いて思った次第だ。

 

 

省エネ診断

東京都庁の外郭団体「財団法人 東京都環境整備公社」は省エネ対策工事の補助金申請に関連して依頼すると省エネ診断を行なってくれる。当社の管理ビルの一つも、今後の改修工事に際しては省エネ対策を取り入れることを想定して同公社にビルの省エネ診断をお願いした。結果から言えば、良く管理されているビルとのお褒めの言葉を頂いたが、今後は報告書を頂いて改修工事に対する補助金の申請を検討することになる。東京都の補助金及びこの省エネ診断の情報を頂いたのは空調工事会社からでしたが、省エネ診断は多岐に亘って行なわれ、然も補助金申請は診断内容と相俟って個別に申請が可能な事が分かり、大いに参考になった。今回の省エネ診断の報告者が出たらオーナーに結果を報告して今後の改修工事に際しては省エネ診断結果を参考に補助金申請も考慮する事を促す考えである。京都議定書のCO2削減に向けて東京都以外にも同様な補助金を検討している地方自冶体あるとされ、どうせ改修工事を行うなら省エネ対策を行なって補助金を得ることが大事と思われた。省エネ診断に訪れた公社の年配のスタッフの方はビル設備の事を熟知しており、空調工事会社の方の見方では都の職員の方ではないと指摘していた。確かに詳しかったのが印象的であった。診断の対象となったビルは築23年であったが、当時のビルとしては最新の良い設備を入れたことに感心された。日頃の取り組みと業者との良い関係を継続しているとオーナーにとってはプラスになる情報がもたらされるが、最近の人間関係を重視しない遣り方のオーナーにはこの様な情報は入らないと思われる。久し振りにプロ同士の遣り取りに立ち会ってホッとしたのは事実である。

アジア全域にフリーの日本語学校の設立が必要

高齢化社会が現実味を帯びてきたが、就業人口の減少に歯止めが掛からない現実を考えるとアジアの同胞を今以上に日本に来て貰って様々な場所で就業して貰うしか方法が無いように思える。しかし、問題は言葉の壁であり、多少の日本語を勉強して来日しても馴染むまでに時間が掛かり、その間に当初の意志を断念して帰国してしまうケースが多いようだ。勿論、残ったとしても言葉の問題から能力があっても高いスキルにあった地位や職場が得られず、不満をもって仕事に従事しているのでは、本人だけでなく日本にとっても損失である。このため、日本が遣るべき事は、アジア各国に無料で日本語を学べる教室を開設することであり、これは将来のアジア経済圏の統合にも役立つことでもある。この様なことを書くと当然にアジア各国では既に日本語教室が多く存在しており、インドネシアを始め幾つかの国で看護士などの日本就業が始まっていると反論されると思うが、私が言いたいのはスケールが小さいと言う事である。無料で開設すれば貧しい子供達が日本語教室に通い人生が開ける可能性もあり、日本が積極的に貧富の差を解消することに手を貸す事でもあると言いたいのである。日本の政治家や官僚の予算の無駄な仕組みを解消すれば幾らでも日本語教室の開設・運営などは出来るのである。

海外投資による円安誘導が不況脱出の切り札

欧米からすればお金を持っているのに投資で稼がない日本人を不思議がっていると思われる。ここ20年は欧米企業は日本人のマネーを投資に向けさせようと進出してきたが、結果的には成功とは言えなかった。それならばと、投資銀行などは日本で円を安い金利で調達して海外で運用して儲ける奇策、所謂円キャリーで稼いだ。この円キャリーは日本企業に円安という思わぬ恩恵をもたらした。また、海外から日本国内の不動産投資も相俟って平成ミニバブルが起きたのはご存知のとおりである。しかし、リーマンショック以降は欧米諸国も金利の引き下げなどを行なったために円キャリーが縮小し、本来の日本企業の力量を反映した円高基調に戻った。この円高が欧米企業の不良債権処理の資本にするために日本国内の株式や不動産が売却される結果となり、株式の下落は欧米諸国より大きくなった訳だ。不動産についても然りである。リーマンショックが起きた時点では、マスコミなどはサブプライムローンの購入リスクは欧米と比べて日本は低いと論じて経済的影響は少ないと報道していたが、日本市場の株式と不動産投資に関しては欧米の資金のウエイトが高い事を忘れていた愚かな判断であった。現在はギリシャなど欧州各国のソブリンリスクの演出で円高を強いられ、日本企業の輸出競争力の弱体と不況の影響で財政が一層悪化してきている。この様な状況を克服するには円高を利用しての海外に対する投資を活発化させる以外に方法はないのだが、多くがサラリーマン社長である日本企業はこの様な投資チャンスに動けないのは自明である。しかし、今こそ日本企業及び日本人は米国や欧州に対してあらゆる投資を行い景気回復後の利益を享受すべきと考える。特に、米国のNYCは欧州の投資家が不動産を投売りしている現在においては、買いチャンスが大きく、投資物件と時期さえ誤らなければ間違いなく数年後には大きなリターンが得られると思われる。言い古されたことだが、過去の日本企業や日本人の海外投資は常にピーク時にババを引かされ、然も金融機関の指導で売り時でない時期に大きな損失を出して売却した苦い思い出がある。このお先棒を担いだのは同じ日本人であったことも忘れてならないが、今回の経済不況は過去の事例とは全く違う面があり、然も円高と言う切り札を持ったことを考えれば、今こそ海外投資を積極的に行なって活路を見出すべきと思われる。結果的にはそれが円安を誘導し、日本の輸出競争力が回復し、将来的には一石二鳥の経済効果をもたらすと言えるものである。NYCの投資を考える方は当社にご相談下さい。全面的にバックアップいたします。

インテグリティ(Integrity)を喪失した上に立つ者

インテグリティの言葉は旨く日本語に該当する言葉は無いが、強いて言えば「正直さ、誠実さ、高潔さ、健全性、完全」などであろうか。バブル経済が崩壊し、その後IT社会が到来してグローバル経済となり、金融資本主義が謳歌されていた時には、"朝令暮改"は当たり前、何事もスピードが大事となり、然も社歴や伝統などの価値は省みられなかった。ところが、リーマンショックが世界を駆け巡り、世界同時不況の様相を見せると一転して今まで否定されてた物に価値観を求め始めた。尤も、日本人は全てにおいて時流に合せて社会の構造や指導者までも変えて生き延びてきた歴史がある。その点から言えば、インテグリティの言葉など空虚に聞こえるかもしれない。しかし、21世紀の社会がどの様な形に収束して行くか分からない現状では、古来の日本人の生き方はただ翻弄されてしまう様に思えてならない。このため、今こそ日本人に必要なのはインテグリティの生き方であると考える。特に、上に立つ者はこの言葉を反芻して意味を理解しなければ人は付いてこない。当社は過去にブッテックデベロッパーとして都心で共同開発を行なってきた。地上げと一口に言われるが、共同開発は単なる土地の買収でなく、一緒に事業を行なうので権利者の信頼を得なければ成就しないのである。長い時間を掛けて折衝してきてもたったひと言の失言で苦労してきたプロジェクトが一瞬で崩壊する場面を沢山見てきた。土地の買収なら金額を積めば解決するが、共同事業は「覆水盆に返らず」である。嫌と言う程言葉の重みを感じて生きてきた者に取っては、今の社会が言葉に責任を感じない人達が指導者の立場でいることを不思議で堪らない。しかし、今の世の中でも断言できるのは言葉に責任を持たない人は必ず他者に裏切られると言うことである。

今回の参議院選挙で分かった国民の怒り

官僚・政治家も国民を小馬鹿にしているが、財務官僚などは今回の選挙で国民が馬鹿でないことが漸く分かったと思われる。しかし、相変わらずマスコミを通して財政危機をを煽っているが、国民は真の行政改革と国会議員自らが議員定数大幅削減や議員報酬の大幅カットを行なわない限り、消費税の引き上げなど認めないと事が分かったので、何の意味も無い洗脳工作と思える。財務官僚でも国税庁は今の日本経済が大変な苦境に陥っているか知っているので未だ救いがあるが、本省の連中は全く理解していない。今の政治家で分かっているのは大阪府知事の橋下氏位である。その外は国民目線など持っていない。国民は真の日本の政治を動かしているのは官僚だと理解しているので、民主党の仕分けで分かった行政の無駄使いに多くの国民は怒りを覚えているのである。それが、管首相は財務省の甘言に弄されて消費税引き上げを選挙前に打ち出したので国民にしっぺ返しを喰らったのである。管の様な権力の塊りが判断を誤ったのは、小泉時代と違って官僚と米国に追随していれば長期政権が作れる時代ではないことである。民主党に仕分け作業は効果が少ない演出効果を狙ったものであったが、国民が官僚が勝手に国税を無駄使いにしている現状を曝け出したので、国民の怒りは半端でないのである。東京地方選では仕分け作業で有名になった蓮舫さんが圧倒的な180万票を獲得した事でも理解できる。しかし、馬鹿なマスコミは相変わらず消費税引き上げは鬼門だとか言っているが、国民自身は今となっては消費税引き上げには反対しないと思われ、引き上げには行政組織の大幅な整理と国会議員の大幅削減の政策と抱き合わせが必須条件である。役人にはスト権がないため悪質な犯罪を起こさない限りリストラできないならスト権を付与してリストラ出来る制度に公務員法を改正すべきである。何度もblogで書いているが、農業・漁業・林業人口が3分の1になったのに濃水省の職員と外郭団体が何故縮小されないで維持されてきているのかを見ると一目瞭然である。全ての行政組織は五十歩百歩である。民主党政権も公共投資を抑制するなら同時に官僚組織もそれに見合って縮小する事は当然なのにその声が聞かれない。今の政治家は力がないから官僚の顔色を窺っているので話しにならない。政界再編製による新しい党の出現を期待したい。

日本社会のモラル喪失で現場で起きている事!

先日、不動産管理会社の方と情報交換を兼ねた懇親会を開いた。その時に聞いた話で愕然とした。大手金融機関系列の不動産会社が仲介した物件を個人の投資家が購入してこの管理会社が管理を委託された直後に起きた事件と呼べるものである。この担当者は売却先の不動産会社に在籍していたこともあり、現在もその不動産会社の数物件を移籍先の管理会社が管理している関係から担当物件の一つになった経緯がある。当該物件は都内のJR線の駅近の物件であり、小規模で築年数も浅い上に満室なので個人の投資家が購入したと思われる。問題は売買後に発生したのだが、先ず1階に入居していたコンビニが価格の引き下げ申し入れもなく解約通知を出してきた。管理会社としては経験から先ず賃料の引き下げ交渉から始まり、折り合いが付かない場合に解約と言うケースが殆んどなので今回のケースには驚いたそうだ。驚いた理由は入居していたコンビニの賃料は相場より高めであったこともあり、管理会社としては賃料の引き下げ要請は予測していたのだが、突然解約に関しては想定外であった様だ。リーマン以降の経済停滞にあっては解約も仕方ない範疇だが、テナントの退出の原状回復に際してもっと驚いたのは建物の図面と現況が全く違っていたことであったそうだ。勿論、内装部分はテナント工事なので建築時はスケルトン仕様と思われるが、問題はガス引き込み菅の口径を始め、全ての建築設備仕様が全然違っており、担当者は当惑したそうだ。このため、売主に図面と現況の違いの説明を求めるとともに、管理会社としても次のテナント募集に対する対応のために改めて建物全体をチェックしたそうだ。その結果、手抜き工事に近い建物の実態が浮かび上がったそうだ。個人の投資家も騙された思いが強く、当該物件を仲介した金融機関系の不動産会社も面目が潰れた様だ。管理会社の担当は自分が在籍していた前の会社のことでもあり感情を抑えて話をしていたが、実際には相当腹が立ったと思われる。現在、売主側の設計士が窓口になって協議を進めているそうだが、推測するには売主側の不動産会社は同様な不良建物を何棟も造ったのではないかと思われる。金融資本主義が日本に入る前には、建設・不動産会社には建物の竣工に際して厳しい内部検査があり、その後発注主の竣工検査を受けたものである。今回の事件となった建物は売主の不動産会社の子会社の建設会社が造ったことを聞いたので、日本社会のモラル破壊も此処まで進んだのかと考えてしまった。

二重課税問題と時効、更に申告修正有効期間の問題

最高裁の判決で「年金払い生活保障特約付き終身保険」に対する相続税と所得税の課税が違法な2重課税とされたことにより、同様な課税に関して税還付の取り扱いが注目される。同時に、他の金融商品に関しての取り扱いでも二重課税の可能性もあり、複雑な様相を帯びてきた。2重課税に関してはガソリンに関する消費税課税なども厳密に言えば税金に税金を掛けており、業種によっては二重課税の額は相当な額と言えそうだ。尤も、消費税自体は他の税金とは異なる位置づけのために訴訟で簡単には結果を求められないかもしれないが、税の公平さの観点からは遠い存在の税金であることには変わりない。実際、裁判で争ってる人も居るそうなので、その内とんでもない判決が出るかもしれないと思われる。15年以上前の話だが、再開発建物に発生した架空の利益に対する課税問題で所轄税務署と議論を交わした事を思い出す。この時の問題は土地バブルを沈静化しようとして導入された租税特別措置法に係る「利子の損金不算入」であった。当社の様に共同事業で再開発を推進している会社に取っては架空の利益に対する課税を引き起こした悪法の典型的な措置法であった。確かに、複雑化した社会システムや金融商品、更には国際会計基準と税法の不整合など課税現場も課税される現場も相当混乱してきていると考えられる。この様な時代に5年の時効の壁で還付期間に限界がある措置は言語道断と言える。特に、申告の修正は1年以内にしか出来ない制度も時代遅れと言わざるを得ない。消費者金融で過払い金に対して時効の適用がなかったのであるから、税金などは尚更時効で片付けられては納得が行かないと思われる。以前来社した国税の職員の方が昔と違って現在は裁判に持ち込んで解決する事も認められていると言っていたが、今回の最高裁判決で後悔しているのではないかと推測される。何れにしても、日本も訴訟社会に突入したので国税庁も従来のような対応は難しくなってきていると思われ、過去には国税と税法の解釈が違うと一方的に脱税行為としてマスコミにリークされて脱税報道となり金融機関から取引停止を受けて自殺に追い込まれた経営者もいたが、今後は訴訟を有効に活用して是非を問う事が出来る様になっただけ改善された。これだけ見ると訴訟社会も悪くはない。

日本を捨てるのはどの様な企業か

最近色々な業界の方とお話しする機会があるのだが、時流に流されやすい大企業のサラリーマン経営者と違い下請け会社の中小企業の経営者は、グローバル経済だからと言って簡単に日本を捨てる考えはないことに気が付いた。大企業と下請けの中小企業とは以前は共存共栄の関係であったが、現在はドライな関係となっており、その原因は大企業の露骨な下請け会社の利益を考慮しない自己中の必要以上の収益追求であった。私が知人から聞いた下請け会社の経営者は、食べて行くこと位は現場で培った技術力があれば出来るとの信念から、自己中の大企業と決別している。この会社は海外にも技術を盗まれるだけと言って頑として出てゆかないそうだ。これと全く逆な話だが、不動産管理業でグローバル化の波に乗って海外に進出を図っている会社もある。この会社は日本で収益を上げられないので海外展開を図っている様だが、私の知る限りこの会社は全国展開しているものの中味のない不動産管理会社であり、低価格だけで受注しており、従業員を大事にする企業風土も育てていない。尤も、昔のセブンホールディングの様にスーパーが駄目なのでコンビニに進出して勝ち組になったケースもあるが、それは稀なケースであろう。国内において十分に実績を上げる事が出来ない企業が海外に出て成功する事はない。企業病が蔓延した英国においてスーパー経営で成功している記事を見たが、遣っている事は顧客重視と現場主義である。社長自らが現場感覚を失わないために定期的にレジに立って顧客サービスを行なっているとのことであった。この結果、欧州で3番目のスーパーを維持しているとのことである。日本企業の大半も同様な顧客サービスを行なっていたが、最近はコスト重視で現場主義から乖離して顧客の顔を見なくなった。国内で駄目だから日本を捨てて海外に出るのでは成功する筈もない。海外重視の会社はコスト重視の会社だから製品を購入する時には気をつける必要がある。当社が購入したコピー機はリース期間の5年が到来したらセンサーの不具合が頻繁と発生し、不便極まりない。必要以上に耐用年数を掛ける必要がないと言う事ならば国が電球や蛍光管と同様に限界基準を設けるべきと考える。勝手に5年持てば良いと言う考えで作られた製品を何も知らないで導入するのは理不尽である。そう言えばこの企業も海外展開で成長した会社なのに気が付いた。

消費税値上げを国民に訴える前に公務員に財政危機感を徹底周知させよ

財務省のスポークスマンになった菅首相の消費税10%アップ発言を切っ掛けとして新聞報道も普天間基地問題と同様にヒステリックに財政危機を論じ始めた。民主党の仕分け作業で分かったことは公務員は財政に対する危機感が全くなく、税金を無駄使いしている姿であった。この様な無駄使いの意識をなくさない限り、どの様に消費税の使い道を提示しようがサラ金財政から脱出する事は困難である。今日の省庁の姿は明治期に形成されているが、その時点で既に役人は目を離すと組織の増殖に邁進すると警告されている。現代は特に政治家の見識が低く、人物もいないから尚更厄介である。私は以前から叫んでいるのは国家に金を持たすなと言う事である。なければ使えないと言う仕組みの再構築が必要である。菅首相は悪戯に年金問題を取り上げて財政危機を国民に煽る事をしないで、先ず公務員に財政危機感を徹底周知させて無駄使いをさせなくしてから国民に消費税値上げを問うべきである。昔は公務員の給与は低かったので、退職金や年金が民間と比べて優遇されたのである。それが、給与も大企業並みに引き上げられた上に退職金や年金制度は従前のまま残されたので、公務員を目指す若者が増えてしまった。この結果、危機意識がない公務員が多く生まれて無駄使いするようになったので、再度公務員給与を中小企業並みの水準に引き下げ、それでも使命感を持って公務員を目指す若者を採用すべきである。お金を多く払わないと優秀な人材が公務員にならないなどは間違った考え方である。お金に引かれて公務員になった人達が国民のために頑張るわけがない。国民は行政の構造改革と公務員の給与水準の引き下げ、並びに国会議員の定数の大幅削減を実現するまで消費税引き上げに絶対に賛成してはならないと考える。

当社のホームページの求人欄に表示している当社の事業に対する考え方です

当社に興味を持ち入社を希望する方は、先ずホームページの会社情報欄の"社是"をご覧下さい。創業者の経営に対する考え方が記されています。

日本の近代資本主義の源泉として位置付けられている禅僧"鈴木正三"は愛知県豊田市の出身ですが、鈴木家は徳川家に使える地侍であったことから徳川家康の関東移封に従って創業者の故郷の茨城県東茨城県城里町に移住し少年~青年期を過ごしました。42才で武士の身分を捨て出家し、各地を巡り高僧から教え乞うたり、自らの思想を説いて回りました。この思想の中に、社是にもある"互恩"を説いています。又、士農工商の時代にあって「四民日用」を書き上げ、諸々の職業がお互いに助け合って世の中が成り立っていることを説いています。

正三禅師は四民が互いに助け合って世の中を支えている姿に"何の事業もみな仏行なり"として「仏行」そのものだと見なしました。この"仏行"とは、俗世間を出家した僧侶のみが行う宗教的行事ではなく、一般人が自らの仕事に打ち込む、その日常生活そのものにあたるとしたのです。

さらに、その"仏行"は自分自身に内在する仏性を引き出すための「修行」に他ならないと説いています。特に、昨今の耐震偽造の様に人を騙して利益を上げようとする社会の風潮に対して、「売買せん人は、先ず得利の増すべき心づかいを修行すべし。その心づかいと言うは他のことにあらず。身命を天道になげうって、一筋に正道の道を学ぶべし≪売買しようとする人は、先ず利益を増す心づかいを修行すべきである。その心づかいとは他でもない。身命を天道に捧げて、一筋に正道の道をまなぶべきである≫」の教えは心すべきことと思われます。

正三禅師の主張は、わが国で最も早く商業利潤の倫理的正当性を説いたものとして知られ、「一筋に正道の道」でなければならないと言う教えは、"約束を守る"、"信用を重んじる"など近代社会の基盤の確立に繋がっています。

創業者に影響を与えた正三禅師の教えを反映した"社是"を尊重し、常に"感謝"の気持ちを抱いて業務に携わる社員が当社の求める人材像です。小企業ですが、当社の企業理念に賛同される方の応募を期待しています。学歴・職歴・経験・資格は問いません。

何も、米国の大学でMBAを取らなくてもビジネスに対する優れた思想が日本にはあります。日本が相手に勝つ事だけや効率性だけを重視した社会を目指した結果、将来の希望を失っています。武道では心技体の修得によって完成の域に達すると言われていますが、事業も「心」を喪失したのでは未来はありません。時流に流されない生き方こそ今は必要と考えます。

消費税アップを議論する前に思い切った構造改革を実現しろ

ギリシアの財政危機を利用した日本の将来の財政に対する不安感を煽った様な消費税値上げ論が浮上してきた。私も将来的に消費税をアップする事は反対ではないが、少なくても現状の様な行政の予算の仕組みでは賛成しない。民主党の仕分け作業で分かった事は、行政に携わる人々が巨額な国の借金があるにも関わらず能天気に税金の無駄使いを行なっている現実である。この様な状況を改善しないで消費税をアップすれば果てしないサラ金財政を繰り返すだけとなってしまう。菅首相は財務省から財政の説明を受けて納得してしまったらしいが、一度作った組織は必要がなくなっても残してしまう行政の欠陥を是正しない限り、消費税などアップしても余り効果が期待できない。更に、現行の消費税は最初3%からスタートしているために衣食住にも掛けているが、もし10%に引き上げるなら医療品や食べ物に対しては課税しない様な配慮も必要である。しかも、石油税の上に課税している様な2重課税もあり、現行の消費税の仕組みを大幅に変えることが重要である。更に、菅首相は消費税値上げに対して所得税や法人税の税率引き下げを唱えているが、それなら現行の源泉徴収制度を改めて米国の様に全員申告制度を導入するべきである。サラリーマンに必要経費が認められない不公平な税制は改めるべきある。また、農水産業人口が3分の1以下に減少したのに農水省の役人や組織が従前と変わらない規模で存在している様なことでは消費税アップなど言語道断である。仕分け作業の無駄以前の問題であり、思い切った構造改革を行なわない限り財政再建など10%の消費税アップでは実現しない。

針小棒大の日本人気質が全てを悪くする!

最近読んだ本に「明石元二郎」と言う軍人の伝記がある。歴史に詳しい人なら直ぐに日露戦争を想起すると思われるが、私も此れまで読んだ本に何度か登場する人物であったが、明石元二郎の伝記は初めてであった。伝記を読むまでは明石と言う軍人は日露戦争の時に欧州で対露工作で多大な功績を挙げた位しか知らなかったのだが、明石と言う人物は朝鮮統合の立役者の一人であり、台湾総督の時にはその後の台湾の発展を支えた基礎を作った一人でもあったことが分かった。軍人であったので強硬な性格も持っていた様だが、明治時代の偉大な軍人である「児玉源太郎」、「川上操六」と並ぶ人物と評価されている。この明石元二郎が台湾総督時代に台湾総督府の役人を前にして語った言葉が、「日本人はすべてを針小棒大にして騒ぐのでなんでもないような事まで大きくしてしまうから気をつけないといけない」であった。更に、明石元二郎は新聞などはその典型的であると言っているのだが、現代の日本でもまったく同様と言わざるを得ない。進歩がないと言うか気質だから直らないと言えば話が終わってしまうが、情報化時代になっては更に針小棒大効果が大きくなって国民を突き動かしている様な気がする。沖縄の普天間移設問題も十数年掛けてきた事であるので1年~2年移転が遅れても余り影響がないと思われたが、新聞は挙って米国の不信を招くとか大騒ぎであった。これ等は正に過去に明石元二郎が恐れたことの様な気がする。郵政改革の時ももっと冷静に考えるべきであったが、小泉のアジテーターによって誰もが今直ぐ郵政民営化に着手しないと大変なことになると思って賛成してしまった。しかし、本当の問題は小泉のインチキ改革では姿を現さなかった予算の無駄使い構造であった。民主党の仕分け作業で行政の無駄使いを国民に認識させた成果は認めるが、その後は法律を変えなければ何も出来ない態度であるので失望してしまった。本来ならこの様な問題を針小棒大にして騒げば良いのだが、本当に必要なときには沈黙したままである。このため、日本人の針小棒大気質を煽って間違った方向に誘導しているのはマスコミであることは一目瞭然である。仕分け作業の材料は消費税大幅アップを目論んだ財務省の民主党に対する餌なので深追いさせない仕組みとなっている。馬鹿な国会議員はそれに踊らされているだけであるので、構造改革までには至らない。マスコミも記者クラブ制度があるのでネタを貰えないと困るので財務官僚の意向に従った記事しか載せない。過去も現在も日本人の針小棒大気質が国益を損なっているのだが、それを助長させているマスコミの責任は重いと言わざるを得ない。

今更乍の郵政改革論者の弁

フジサンケイビジネス紙に日本郵政公社初代総裁であった生田正治氏(商船三井最高顧問)の記事:生田氏「郵政改革、議論なき逆行」が載っていた。船会社の人は視点の対象が海の外であるので国内の事は新聞記事を通して見る程度の認識しかない事が分かった。この様な人物が郵政公社の初代総裁であったかと思うと情けない限りである。勿論、国民新党の亀井氏の様に郵政事業を昔に戻す事には賛成ではないが、生田氏の様に郵貯の問題と郵便事業サービスの採算性の視点からしか判断しない改革などは論外である。彼の考えでは郵便事業は企業のために存在するかの様に工場がなくなった地域では郵便局が不要なので整理し、新しいビルが建った所には新設しており、郵便事業に関しても郵便局の地方ネットワークを維持してきたと言っている。この自慢話には生活者に対する配慮が少しもなされていない。郵便集配事業は収益だけを考えて行なう事業でない事は誰しもが理解していることである。郵政集配事業は国家の基本的なサービスなのである。当然に情報化時代で郵便物が減少している現在に関しては抜本的な改革は必要であるが、その改革は生活者を前提としたものである。今回の民主党の仕分け作業で分かった事は行政が何兆円もの無駄を平気で垂れ流しているのが分かり国民は憤っている。郵政事業は切手や収入印紙を販売して事業を推進しているので、他の税収入だけに依存している事業とは基本的に異なる。郵政改革はもともと郵貯や簡易保険の問題であったが、情報化と相俟って郵便事業が赤字となったために全体を民営化の手法で改革しようとした訳だ。郵貯の問題は米国の圧力と財投の解消を考えた財務省の思惑が一致して進められたと推測するが、問題は郵便事業の改革を考える上で相応しい人物がいなかったことが失敗であった。物流界の人間なら良いと思った生田氏は陸の物流など素人同然であり、然も国家のシステム改革なのに収益でしか判断できない小物を起用してしまった事である。私の知る限り大企業のトップになった大半は過去の成功したビジネスモデルを信奉する裸の王様である。勿論、明治時代の企業人は天下国家を考えてビジネスを行なったが、現代の経済人は自分の所属する会社しか考えられない小物ばかりである。その様な小人物に国家の将来を賭けた根本の改革を任せた責任は重い。然も、誤りに未だ気が付かず俺の目指した郵政改革を行なわないのは大きな損失などと自己弁護している姿は見苦しい。株式上場の利益などと言っているが、国益をうしなうのに上場益とは恐れ入った言葉である。郵政事業から郵貯の切り離しは当然としても郵便事業は別な次元で論じる必要があったにも関わらず民営化による利権の餌食になってしまった改革論者の責任は重い。行政の仕事は民間で出来ない事業を推進することであり、国民生活の上で必要なものは税収を超えても行なうべきものである。何十年も前から郵貯を財投資金として活用してきて邪魔になったから民間にか肩代わりさせる様な責任転嫁の改革など断じて認めてはならない。官僚と政治家の責任をハッキリさせてから行なうべきである。米国では郵便事業は国営である。生田氏はこれにどの様に回答するか問うてみたい。

"はやぶさ"帰還の快挙を思う

遥か宇宙の彼方の小惑星「イトカワ」から満身創痍で帰ってきた探査機"はやぶさ"の快挙は日本人として誇りたい。今の日本は息苦しい程の閉塞感が漂う社会となってしまったが、久し振りに日本人らしいきめ細かい配慮が生きた成果と思える。最近では、日本の電気機器や設備がデリケート過ぎるとか余計なものを装備しているから価格が高くなって競争力がなくなっているとか喧しい。今の経済成長市場がアジアであり、南米のブラジルであるためにその国の人々が購入できる低価格帯の製品を作る事が求められている。売れるものを売るという考え方は一見正しいように思えるが、この考え方は棲み分けを無視した考え方であり、自然の理に反していると考えられる。日本の様な高い技術を修得した国の企業はより質の高い製品を先進国に売り込むべきであり、売らんが為に質の悪い部品を使ったり、必要なものを削除した製品に関しては他の発展途上国に譲るべきである。幾ら世界がフラット化したり、経済がグローバル化したと言っても同じ土俵に乗って戦うのは無理があると思う。今回の"はやぶさ"の製作に関しては色々なトラブルを想定して2重3重の予備回路を設置していたことが快挙をもたらしたと言われている。この予備回路は多くの現場経験を有した人でないと知恵が出なかったと思料する。机上の空論と予算ありきでは絶対に成功しないプロジェクトである。日本人の長所が改良思考なのは周知の事実である。発明発見の創造力の国民ではないが、改良して新たな高いレベルに持ってゆく工夫能力は世界一と思われる。物造りに携わった人なら直ぐに理解するが、今の社会は物造りなど経験していない輩が日本の設備機器は過剰設備になって高いから競争力がないなどと発言し、それが主流になっている。需要にあったものを作ることは一見正しいが、その様な物造りを考えると日本国内では先ず人件費から考えて無理なために海外に工場を作ることになり、工場設備も安くするには国内からの調達を行なわないと言う論理を展開して行くと日本に何が残るのであろうか。ユニクロは素晴らしいとマスコミなどは絶賛しているが、ユニクロの工場は日本には一つもなく、逆に日本の工場を閉鎖させたのである。柳井社長の方針では日本のマーケットが飽和状態になるので今後は海外展開をして成長を続けるとしており、このため今後採用する社員は半数以上が外国人となると宣言している。消費だけを日本に残し、製造・雇用を海外に求めたのでは日本は沈没してしまう。勿論、高齢化少子化社会を考えると仕方ない結論かもしれないが、それなら政治家は小さな政府に作り変えないと国家が破綻する事になる。世界が為しえなかった"はやぶさ"の帰還を成し遂げた技術と技術者に対してモット敬意を払うべきであり、その様な付加価値の技術を日本経済の柱に出来る様にバックアップするのが真の政治である。幾ら世の中の時間が早くなったからといって直ぐに壊れるような物を作っていたのでは日本企業は生き残れない。新聞に明治維新の時の様に日本は海外に学ぶべきだなどと馬鹿な事を言っている輩が増えてきているが、今の日本に必要なことは全くその逆である。"はやぶさ"を帰還させた様な知恵と技術を海外に輸出することである。

後藤忠政氏の「憚りながら」を読んで

後藤忠政氏は、日本最大の暴力団組織の山口組に所属する武闘派の後藤組組長として名を馳せた人物である。今は山口組から除名されて後藤組を解散し、新たな人生を歩き始めた所である。今回、興味があって後藤氏の著作「憚りながら」を読んで改めて思ったのはどの業界でもトップに立った男は流石のひと言であり、著作の中で後藤氏が指摘している様に最近は堅気の人の方が性質が悪いと言う言葉は正にそのとおりと思われる。著書の内容は過去に週刊誌を賑わした事件にも言及しており、興味深いものであった。その中で賭け事についての記述があり、勝ち負けに対する心構えと自制心に関しては、私も若い頃にマージャンや競馬に熱中したこともあったので成る程と思わされた。後藤組は武闘派でありながら経済ヤクザと呼ばれたのだが、武闘派を維持するにはお金が必要であり、必然的に経済ヤクザになったと考えられる。一般の人は知らないと思うが、ヤクザ組織の強い弱いは手下を何処まで面倒を見るかであるが、後藤組の強さは徹底した面倒見の良さであり、昔のヤクザ組織を維持して来たのであろう。後藤氏がやはり指摘していた様に現代社会は上に立つものの器量が小さくなったという言葉は私も同感である。経団連の会長であったキャノンの御手洗会長などは著書の中で罵倒されている。経団連会長がヤクザに罵倒される事実が、日本の経済がダメな理由であろう。後藤氏は裏社会を通して多くの情報を持っているから言えるるのであろうが、それにしても後藤氏が指摘している様にバブル経済を挟んで日本人が大きく変わったという点は頷けるものがある。後藤氏の著書は下手な学者や経済人、並びに評論家が書いた書物の何倍も読む価値があると思った次第だ。勿論、後藤氏がつい最近まで現役のヤクザの組長であったので、単純には著作の意図を論じる事は出来ないが、今は堅気の方が性質が悪いと書いており、また暴対法が暴力団に属さない愚連隊や外国人の犯罪を増加させている一面を指摘している事は全く同感であるので、読むに値する著作とは思える。20年前になるが、先代社長の葬儀の時にその筋の花輪が幾つか届き役員とその対応を協議したことがある。私は葬式には世俗の問題は関係ないと考え、折角のご厚志であるので花輪を目立たない所に飾ることにした。しかし、困ったのは関東二十日会に所属する義人党(今は解散してない)の高橋総裁の花輪であった。義理の世界で生きる人の花輪を粗末に扱う非礼は今後社長に就任する私にとっては器量を図られることになるので、思い切ってその花輪を正面の取引先金融機関や顧問の国会議員などの位置に置いたのである。結果的には高橋総裁自らが茨城の片田舎の葬儀に婦人を同行して焼香に見えられたので、非礼にならずに済んだ。尤も、今なら暴力団組織の花輪を飾ることは理由を問わずコンプライアンス問題となり、金融機関から取引停止措置を受けることになるであろうが、その当時は未だ社会に寛容さが残っていた時代でもあった。私の周辺には学生時代からの付き合いの知人でヤクザの組長や右翼の大幹部になっているものも少なくない。彼等は私に迷惑を掛けるのでと会社にも来ない位に律儀な連中である。ヤクザを擁護する訳ではないが、暴対法ができてからの方が犯罪が悪質化した様に思えてならない。一般の社会に容易に溶け込めない人達がいるのも事実であり、犯罪を犯せば刑務所に入れて更正させれば良いと言う考え方では社会は良くならない。特に、競争社会になれば貧富の差が拡大するので犯罪が起き易くなると思われ、後藤氏の「憚りながら」を読むと今後の社会には何が必要かが分かり、余生を冤罪や高齢者福祉に身を捧げる姿勢は彼が友として著作に登場した右翼の故野村秋介氏の影響を受けたのであろうと想像した。そう言えば、故野村秋介氏が風の党を結成して選挙に臨んだときに北海道の知人も候補者の一人であった。この知人は北海道で僧侶をしているが、日本の仏教会では数少ない行動する僧侶の一人である。

日本振興銀行の予測できた顛末

金融庁の検査で元日銀マンの木村剛が設立した日本振興銀行の不透明な融資と検査誤魔化しが判明した。木村と言えば、小泉内閣時代には竹中平蔵のブレーンとして政府の政策立案に影響があった人物である。小泉内閣の周辺には如何に胡散臭い人物が権力を握っていたかが証明された。日本振興銀行は発足当初から木村の親族企業に対して不正な貸し出しを行なっている事を指摘され、社長から会長に下がったのだが、現時点でも有数な株主であり、今回の不祥事で会長職を辞したからと言って影響力を持ち続ける事は明白である。デフレの時代に高い金利でお金を集めている銀行かと思ったら運営が滅茶苦茶であったとのことで、欲のない人なら予測できたと思われる。木村は職歴が日銀出身と言う事で信頼されたのかも知れないが、木村は余程たちの悪いDNAを持った一族に生まれたのであろう。今の日本は学歴や職歴は立派だが、人間的に最低な輩が大手を振って人を平気で人を騙している。これがグローバル経済なら経済の語源である「経世済民」など捨て去るべきである。"学歴、職歴でなく人を見よ"と言いたい。そう言えば、東京慈恵医科大学付属病院の通路に「病気を診ずに人を見ろ」と書いた標語がガラス窓に張られていた。金儲けが悪いわけではない。人を騙したりインサイダー情報でおこなった金儲けが悪いのである。田舎では良くその人を評価するときに「血統が悪い」などと言う場合がある。本能的に悪い遺伝子は継承することを経験則的に分かっていたと思われる。差別用語と批判されるかもしれないが、「血統が悪い人間」が政治家になったり、裁判官になったり、正義を行なう役職についてはいけないと考えるが、今の社会には間違った選択をしている人が多いので気をつけなければならない。日本振興銀行の木村剛は「血統が悪い」良い見本である。

再選の国会議員に関しては日々の政治活動を開示させて選挙民に選択させるべきだ

月給制の国会議員に関しては日々の政治活動に関して開示する義務を定め、その結果を踏まえて再選議員に投票するかどうかを選挙民に選択させる必要があると思われる。我々からすれば、国会議員の行動が見えるのは、政府の要職に就いた議員だけであり、多くの国会議員が日頃どの様な政治活動を行っているのか皆目分からない。自分の選挙活動しかしない国会議員を選んでいる訳ではないので、国民のために本当に一生懸命政治活動を行なっているかどうかを確認する必要がある。特に、小選挙区になり、政党政治になってからは一人一人の国会議の顔が見え難くなった気がする。国会議員は政党助成金や秘書手当てなどを含めると多額の金銭を得ている。尤も、多くの国会議員は今の手当てでも少ないと発言しているが、その様な者は血税で報酬が出ていることなど考えてはいない輩である。まあ、百歩譲って彼等が望む手当てを出すとするならば、今の全国会議員の日常の政治活動を開示させて本当にその人数が必要かどうかを吟味する必要がある。日頃、自分の利益追求ばかりで議員としての役割を果たしていないならば、改選の時にはその様な議員を選ぶべきでなく、選挙が分かりやすくなる。どうも、国会議員の感覚は江戸時代の旗本の様に行政の役職についていなければ自分の事を遣っていれば良いように思えて仕方がない。衆参合わせて800名弱の国会議員が大臣や副大臣以外に何も遣らないから官僚の天下になっていると思われ、怠慢を非難されるのは国会議員の方である。しかし、多くの国会議員を官僚の独走を阻止する名目で行政に多くの国会議員を参加させて報酬を出す事には絶対反対である。民主党の前幹事長の小沢一郎が100人の国会議員を省庁に送り込んで官僚をコントロールする意向であったが、国会議員などを送り込むと逆に利権を作ることにもなりかねない。今の国会議員の立場で何でも遣れる筈なのに遣っていないのは怠慢である。政策や省庁の勉強を行なっていないから官僚を管理できないだけなのに、中に入ればできるなど幻想である。新しく就任した菅首相も財務大臣に就任したら官僚の説明に納得して財政再建には消費税アップが必要不可欠と言い出した。財政に関して知識がない菅に対して財務省の役人は簡単に懐柔してしまった。情けない話である。特に、菅は理工系出身者に特有の数字の表現と論理的な説明には弱いと思われるので、財務官僚からすれば笑いが止まらない政治家であろう。デフレに消費税を上げればどの様な結果になるかは子供でも分かるのに、菅新首相がその事が分からないのは財務官僚に篭絡されたからである。話は横道にそれたが、勉強していない国会議員など不要なので、国民は国会議員全員の日々の活動を知る権利があると言う事である。

今の民間人に大使は適任か!

新聞辞令で元伊藤忠商事の社長である丹羽宇一郎氏を中国大使に任命すると言う記事が載っていた。自民党政権もそうだったが、民主党政権も何か大きな勘違いをしていると思えて仕方がない。丹羽氏が企業人としては有能な人であることは否定はしない。しかし、大使の役割はセールスマンではないのである。勿論、今日的な世界的な動きを見ていると各国とも政治家がセールスマンの如く政経一体となって輸出を促進し自国の経済成長や資源確保に走っているが、問題は今の日本人の経済人に愛国心を持った者がいるかどうかである。大使の職務はセールスマンではなく、国家と国家の信頼関係を築く事である。丹羽氏の国家感については巨額な赤字国債を消費税の増税で解消する位しか見えて来ない。特に、伊藤忠の場合には瀬島龍三の影響を受けた社員が出世した事を考えると今回の丹羽氏の大使起用などはもっての他としか言いようがない。明治時代に生きた民間人と比較すると昭和生まれの政治家も経済人も真の愛国者など一人もいない。特に、インフレ経済時代やバブル経済崩壊後に出世した人に優れた国家間を持った人は少ない。中国と日本との関係はアジアの未来を左右するものであるので、過去の過ちを正しく認識した歴史観を持った人が中国大使には適任である。民間人から大使を選任するなら少なくてもサラリーマン社長でなく創業社長の企業人すべきと思われる。

鳩山由紀夫の考え方の素

世の中には優秀な人がいるもので、鳩山首相が辞任の時に述べた言葉「私は10年、20年先を見ている~」の件について私が考えていた答えを出してくれた方がいた。その方は、鳩山由紀夫のスタンフォード大学院の博士論文のタイトルが「マルコフモデル」であったことに気がつき、鳩山と言う人物は過去を参考にする学習効果を持っていない発想をしていたのかと指摘していたことである。確かに、マルコフモデルは現在の状況が未来に影響することを説いた学問であるが、私は更に未来から現在を語る鳩山由紀夫の考え方は、今IT業界で主流のベイズ統計の中で重きをなすマルコフ連鎖モンテカルロ法(MCMC)の影響があるのではないかと思えて仕方がない。将来を仮定して現在の解決策の回答を得る手法は、彼が言う正に「私は未来を見ている~」と一致する。通常の人なら学問で学んだ事と現実社会とは実務経験により区別するものだが、鳩山由紀夫の場合には学問を学んでから大学に教職を得たものの、ビジネス社会で揉まれる様な経験がなかったために自分の考えの拠り所は博士論文で学んだマルコフモデルに準拠していたのであろう。鳩山由紀夫は辞任に際し、更に「国民が声を聞かなくなった」と言ったが、これもマルコフモデルの影響で何度も県外移設を唱えると県外移設が実現するとの読みと理解すれば全てが分かる。鳩山由紀夫は宇宙人と言われるのが好きだったらしいが、私から言わせれば偏屈なマルコフモデル信奉者としか写らない。また、鳩山由紀夫がマルコフモデルを選択した理由は、学問的に優秀な弟「鳩山邦夫」を持ったがために過去を振り切りたいと思ったからと言ったら語幣があるだろうか。私にはそう思えてならない。

人間の質を教えられた本「この命、義に捧ぐ」を読んで

偶然に新聞に掲載された本の広告で「この命、義に捧ぐ」知り、購入して一挙に読んだ。私が興味を持ったのは主人公の「根本陸軍中将」が昭和20年8月15日の終戦以降も日本人の帰国を守るために武装解除しないで多くの日本人を無事帰国させたことである。命令が厳格であった軍隊において命を賭して中国大陸の内モンゴルで生活していた日本人を帰国まで守り抜いた根本博と言う一個人に対して驚いたのである。勿論、多くの日本人が無事帰国できたのは、当時の中華民国の総統であった蒋介石の温情によるものであった事も確かである。私が戦後中国から引き上げてきた人達や以前話題になった中国に残された孤児に人より興味を持っているのは、私の祖母と母が引揚者だからである。特に、祖父は引き上げ途中に病死した事もあり、子供の頃から日本陸軍の無責任さとロシア兵の横暴を聞いていたためである。私の母は相当お転婆だったらしく、戦前に遠縁の祖母を頼って満州に渡り、学校の先生や満州国の出先の行政機関の暗号係りをしていたとのことであった。しかし、祖父の関係で満州の奥地に居た為に戦争が終結した事も分からず、気が付いたら軍隊はいなくなっていたことを聞いていた。このため、異常事態に気が付いた民間の人達が団結して今の中国の大連市まで苦労して引き上げてきた事も聞いていた。しかし、駐蒙軍司令官の根本中将の様に4万人に及ぶ在留邦人を帰国させるために命を賭けた軍人がいた事を知って人間の質とは何なのだろうかと考えてしまった。根本博氏は戦後一民間人になったが、今度は蒋介石に恩を返すために台湾に苦労して渡り、命を賭けて台湾防衛に尽くした生き方は凄いのひと言である。この様な人物がいた事さえ知らされず、逆にシベリア抑留の張本人である瀬島龍三などが英雄視される日本を思うと今の無責任な日本人の生き方が良く理解できた。明治維新以降、多くの優秀な子弟が陸軍士官学校や海軍兵学校に学んで軍人教育を受けたのだが、多くの軍人の生き様を見ると人間の質を形成するのは教育だけではなくその出身地域や家系であるかもしれないと思った。ちなみに、根本博氏は福島県の農家出身であり、明治維新の時には逆賊と言われた地域である。

沖縄・普天間基地問題で社民党の離脱は茶番か?

鳩山首相が言明していたように沖縄・普天間問題は日米間で5月に一応決着を見た。昨年9月に衆議院選挙で民主党が圧勝して政権に就いたが、参議院では単独過半数の議席を有していなかったので、政策協定を締結して国民新党と社民党が連立政権に加わった。民主党のマニフェストを読んでいないので沖縄・普天間基地移設先を県外と明記していたかどうかは知らないが、社民党を連立政権に参加させるには政策協定で県外移設を盛り込まなければならなかったのは明確である。しかし、これまでの動きを見ると、鳩山首相が本当に県外移設可能と判断して動いていたかどうかは疑わしい。本当に県外移設を実現化する意図があるならば何等の根回していない徳之島の名前を出す事は考えられない。平野官房長官の無能さを指摘する新聞記事もあるが、平野官房長官は労働組合出身者であるので、日本の組合運動を少しでも知る人は平野氏は根回しの世界で生きてきたと思分かり、根回しをしないアクションなど行なう筈がないのを理解できる。それならば此れまでの鳩山内閣の普天間基地移設問題での迷走は何なのかと考えると、当初からの解決のシナリオとすれば良く理解できる。社民党からすれば今回の福島消費者賞大臣の罷免は政策協定違反の裏切り行為なので連立離脱しか道はなかったのだが、離脱後の会見で参議院選挙での民主党との協力関係は変えないと説明した様に国民からすれば正に茶番なのである。しかし、小沢幹事長にとって誤算だったのは、鳩山首相の演技下手で内閣と民主党の支持率が落ちたことと推定される。今後は選挙に向けて支持率の回復を目指して手を打つと思われるが、現時点では鳩山首相の電撃的な退陣となるかどうかは予測し難い。

共同開発の分譲マンションの引渡し検査に立ち会って

先日、当社が資産コンサルティングを依頼されているお客様から目黒区に共同事業で建築された分譲仕様マンションの引渡し検査の立会いを求められた。お客様は完成したマンションには住まないで取得3住戸とも賃貸に出す予定になっていた。久し振りの検査立会であったので、大手不動産の分譲マンションの仕様を見ることには興味があった。特に、建築工事がグループ会社の建設会社であったことにも別な理由で関心があった。それは、当社がアドバイザリーしている不動産ファンドの親会社が何件かの工事をその建設会社に発注しており、完成後1年以上経過した時点で問題が生じてチェックを依頼されたことがあったので、施工の質について興味があった。なお、この大手不動産は工事部門に大手建設会社のOBを100名以上を雇用して施工監理体制を敷いている情報を得ていた。改めて建設会社と言うのは発注者側の監理によって施工の質を変える事が分かったのは、今回のマンション引渡し検査の立会いであった。もちろん、発注コストにも関係するので一概には判断できないが、少なくても昔から競争入札による発注に関しては良い仕事を行なうと言う意識はない。競争入札にすると見た目は低価格で発注できたと思えるが、この発注方法は飽くまで発注先側に見積りをチェック出来、施工監理を行なえる優秀な人材を抱えている事が前提である。破綻した新興不動産会社や不動産ファンドなどは短気的な視点出しか物事を見ていないので、競争入札によって安く造ることばかりに熱中していたと推測できる。尤も、見積り落としに気が付かず追加工事費を求められて余計に高くなった建築工事も大分あったと思われる。グローバル経済でコスト管理が厳しい時代だが、その事はイノベーションによって努力するしかなく、知恵を使うことが最良の方法である。しかし、今の時代は本質的な事柄が見えずに仕事をしている人々が多く、これは失敗した人を再度起用して敗者復活戦を行なわせる事がなくなったインフレ経済時代の負の遺産である。成功してきた人ばかりを重要な仕事に就かせると謙虚さが失われ会社経営の危機の原因となる。失敗とは何かを考えると、何も遣らなければ失敗はしないのでポジティブに仕事を行なった人と言えるが、失敗した人は物事を悲観的に見る傾向が強いので、事象の転換点に人より早く気づくと思われ、会社に取ってはプラスになると思われる。何れにしても、能力がなければダメなのだが、挫折は人を大きくすることを忘れてはならないと思う。

コスト削減などで起きる事件で考える力を失くす過保護社会に変貌か

大分前になるが製造物責任法(PL法)が制定されてビル造りにも大きな影響を受けた。最近では消費者契約法が成立して当事者同士が納得した契約でも後から異議を受けると否定される場合も出てきた。更に、使用期間が大分経過した改造ガス湯沸かし器の中毒死事件でメーカーが裁判で敗訴するなど自動車事故と同様な大きな立場の方が不利になる事例が多い。ガス湯沸かし器の事件に関しては裁判における疎明書や陳述書などを閲覧していないし、判決文も読んでいないのだが、耐用年数を大分経過し、且つ改造されていたガス湯沸かし器に対してメーカーが責任を問われるのは理不尽と思われる。本来ならば、耐用年数の大幅に経過し、改造していた貸主の責任と思われるが、検察はメーカーに対する刑事事件として取り扱ったことになる。民事の裁判は当然に遺族は家主相手に損害賠償事件を起こしていると推測できるので、両者とも裁かれる結果となるわけだ。今回の裁判で気になるのは、メーカー側の今後の対応である。IT社会であるのでリモコンや設備機器に耐用年数を超えた時点で警告を発する様なシステムを導入したり、設計的に自動的に動かなくするシステムも考えてくると思われる。メーカーでは経年劣化による故障で危険性が高い機器に関しては、万万が一の対策を取る必要が出てくることになるのだが、本件は何か間違っていると思わざるを得ない。10数年のデフレ社会がコスト削減を助長し、その結果過去には起きないような事故が多発している。極端なコスト削減がもたらす事故や事件に対して行政側が対応している姿はマトモとは思えない。安いにはそれなりの理由がある訳だが、それを自己責任としない過保護社会は行政に取っては権力を行使できる都合の良い社会である。過保護社会の延長線上には、他人に責任を転嫁する無責任な考える力を失った総認知症社会が出来上がる懸念がある。

小選挙区制度に一部比例制度を導入したので英国の様な2大政党にはならない日本

先見の明があると言っておこうかと思ったが、小選挙区制度は公明党の賛成がなければ成立しなかったのでやむを得ずに導入した小選挙区一部比例制度は英国が日本に学ぶことになりそうだ。英国は長年の保守党と労働党の2大政党が政権を担ってきたが、今回の選挙で両党とも単独過半数が取れずに自由党と保守党の連立政権となった。この連立協定では自由党が得票率が反映されるように小選挙区制度に比例制度の導入を保守党に求めたのである。確かに、英国の小選挙区制度は労働党や保守党に有利に設定されているので必ずしも得票率と議員数は比例しなかった。今回の選挙では自由党は2大政党に迫る得票率ながら両党の半数以下の議員数しか当選できなかったのである。良く考えると国民の意思を反映させる政党政治とは小選挙区制度ではなく、大選挙区制度と考えられる。尤も、小選挙区制度は政権交代が起き易いので各国とも導入しているのであろうが、時代の変化が激しく、政治が国民の要請に応えられなくなった今日では、少数政党にキャスティングボードを握られる可能性が高くても得票率が反映される選挙制度に改定する事が必要と考えられる。今から思えば、日本の中選挙区は情報化の時代には十分機能した制度であり、特に政治家個人を選べた制度であった。小選挙区制度とは、党が個人に対して絶対的となり、個人を選んでも意味がなくなってしまった感がある。少なくても中選挙区時代には選挙民に媚びない個性的な政治家が存在したが、小選挙区制度は個人を選ぶより党を選ぶ選挙であるので、政治家の発言まで国民目線でなく党目線になってしまった感がある。日本の場合は英国と違って小選挙区導入時に批判を浴びた一部比例制度の導入のお陰で得票率と懸離れた選挙結果でない可能性は残されている。特に、参議院選挙は大選挙区と比例制度の混合であるので、国民の意志が反映されやすい。今夏の選挙では衆議院選挙で勝ちすぎた民主党に対する反動が起き、民主党は負けはしないが勝てもしない結果となり、他党との連立政権が続く事を期待したい。

呆れた伊藤鹿児島県知事の民主・仕分け作業での発言

「宝くじ」の関係で必要と思われない複数の中間搾取会社について民主党議員が鹿児島県知事に存在の意義と最高責任者の給与2000万円について質問した時の返事には呆れた。大学を卒業して役人になり長く公務員を続けると世間とこんなにも考え方が乖離するのかと改めて思った次第である。この発言には同席した佐竹秋田県知事などもその発言に呆れて否定していた事でも伊藤知事の発言のレベルの低さを証明していると思われる。今の時代でも年収2000万円は高額と思われるが、伊藤知事は「宝くじ」に関わる中間会社の代表の給与2000万円は高くないと言い切り、然も選挙に選ばれた民主党議員に向かって皆さんもそれ位は貰っているでしょうと言った時には憐れに思った。伊藤知事は総務省(旧自冶省)出身の知事だが、同じ総務省出身の鳥取県知事であった片山善博氏は立派な人だったので役人出身と言うよりは生まれつきの性格が良くないのであろう。そう言えば、私の故郷の茨城県の知事も総務省出身の知事であることを思い出した。然も、何も功績がなく県住宅供給公社で1000億円の赤字を作ったのに現在5期目である。茨城県の知事の方は伊藤知事と違って偉そうにはしていない様だが、伊藤知事はさぞかしワンマン知事と思えるので、どの様な県政であるのか評判を聞いてみたい。エリート丸出しの裸の王様の知事では県民も期待できないだろうが、それにしても幾ら身内を庇うと言っても酷すぎる時代感覚には改めて驚いた。鹿児島県民には伊藤県知事の行動と財政支出に厳しい目を向けることを忠告したい。

ユーロー安の穿った見方

ギリシャのソブリン・リスクから始まったユーロー安に関しては、欧州共同体の政治統合なしの通貨統合を問題とする論調が主流だが、本当にそうなのだろうかと疑問を持つ。今回の世界的な株式暴落を引き起こしたギリシャ問題を別な観点から分析すると違った光景が現出する。金融危機以降の世界経済、特に米国と欧州は公的資金の市場投入で最悪な結果を防いだが、肝心の景気回復の設計は得られないのが実情である。米国は確かに大規模な財政投入で底打ち感が漸く出てきたものの追加の財源は厳しく、今年度以降の経済を浮上させる財政的な手立ては少ないので先行きの懸念がある。欧州各国に目を向けると米国と同様に最悪期は脱したものの景気回復を描く経済成長を促す材料はなく、各国の政権も英国同様の政権党の不人気で近づく選挙で大敗する可能性もあり、各国首脳は頭が痛い所であった。しかし、今回のギリシャのソブリン・リスク問題は、ユーロー安を招いたが通貨安は欧州各国の企業の輸出競争力を高める事になり、欧州共同体の問題とは別な面が見えてくる。特に、ドイツ、フランスなどの企業はユーロー安により海外への輸出競争力が増す事は大歓迎と推測される。又、米国を見ると短気的な株安は米国経済にマイナスだが、ギリシャのソブリン・リスクは世界中から資本が米国に流入する結果を生じ、次の一手に困っていた米国に大きな恩恵となっている。翻って、日本を見ると、アジア経済により景気の底打ち感が出てきた時期に大幅な円高に見舞われることになり、今後は輸出企業収益の減少によって景気回復が遠のく事にもなりかねない。アジア各国の経済成長で一番恩恵を受けると考えられる日本を狙い撃ちにした様な円高を見ると、ギリシャのソブリン・リスクはこの時期に何故引き起こされたのかを注意深く見る必要がある。特に、欧米の政治家は今でもマキャベリの君主論とクラウゼビッツの戦争論を座右の書としている現実を忘れると痛い目に会うことになる。

宮崎・口蹄疫の感染拡大は芸能人知事のパフォーマンス重視による県職員の危機意識の低下

宮崎県の畜産農家の今回の悲劇は、10年前に92年ぶりに発生した口蹄疫の沈静化に起因している様な報道が出ているが、私は異なる意見を持っている。3年前の2007年にそのまんま東こと東国原知事が誕生したのだが、同知事は宮崎県の新興と称して観光と農産物を全国的に知らしめるために頻繁と東京などのTVに出演した。確かに、宮崎県の知名度を挙げて観光客の増加や農産物の出荷に関して効果があったことは否定はしない。東国原知事誕生以降は他県の知事まで東国原知事を真似て此れまでの官僚出身者の知事の有り方とは違いパフォーマンスを競うようになった。しかし、この様な知事のパフォーマンスが県の組織や職員に危機意識を低下させたのではないかと思えてならない。特に、東国原知事が任期半ばで一時は国政に参加する報道などもあったので、県職員としても1期限りの知事として職務に集中することが出来なかったのではないかとも思える。報道されていないが、今回の口蹄疫に関する発生の危険性を東国原知事は何処で聞いたのかと言う事と、現場にどの時点で行ったのかと言う事を知りたい。先日、東京都知事を務めた鈴木元知事が逝去した記事が掲載されていた。本人は100歳を超えたかったと思料するが、遺族の方には申し訳ないが先ずは99歳なので大往生と言えると思う。鈴木知事は、学者出身の美濃部知事が放漫財政による赤字都政と都市づくりを停滞させた東京都を見事に再生させた手腕の持ち主として記憶している方が多いと思われる。その後は芸能パフォーマンスの青島幸男が知事になって再度東京都を駄目にしたのであるが、大衆は今日の様な閉塞感がある時には性格が明るいパフォーマンス型の政治家を求めてしまうらしい。しかし、今回の様な口蹄疫の発生危機に関しては行政実務の訓練を受けた官僚出身の知事でなければ、職員から第一報を受けたときの判断力に差が出ると推測される。もちろん、官僚出身だから優れている訳ではなく、実務経験豊富な優秀な官僚との条件付ではある。飽くまでも推測の域はでないのだが、東国原知事は第一報に対して県職員に判断を求めたのではないか。3年間の東国原知事のパフォーマンスに馴らされた県職員の危機意識も徐々に低下し、今回の初動対応の不味さが出てしまったのではないだろうか。幾ら10年前に起きた口蹄疫が予想以上に被害が最小限に抑えられたからと言ってもその原因だけでは説明し切れないと思われる。

司法試験合格者の研修期間の給費問題と弁護士の見極め方

仕事柄多くの弁護士を使い、又交渉してきた。結論から言えば弁護士は他の職業とも同じことが言えるのだが、その人にとって天職と言えるものかどうかである。記憶力が良いために弁護士になった人や口下手な人が弁護士になったのでは本人も悲劇だが、その弁護士に依頼した方はもっと悲劇である。弁護士に依頼したことのない一般の方が誤解しているのは弁護士はゼネラリストと勘違いしていることである。私の知る限り弁護士は自分の得意とする分野以外は信頼できないスペシャリストであると言う結論である。即ち、労働法を学なびその分野を得意とする弁護士に不動産に係る交渉を依頼しても期待できない結果に終わると言うことである。話は弁護士の見極め方から入ってしまったが、最近、新聞に司法試験合格者に義務付けている研修期間中の給費問題が載っていた。記事の内容は研修期間中に出ていた給費を取り止めて貸付にする事に対して弁護士会が反対しているものであった。財政難の時代に明治時代の名残の様な給費制度が残されていたのには驚きだが、法学院大学制度による弁護士の増加で給費の支給額が大きくなったので行政側では貸付制度に変更することにしたのであろう。しかし、私の考えでは研修制度自体が過去の遺物であり、研修を通して判事や検事になる優秀な法律家を探す制度なら廃止した方が良いと考える。良く考えると国家試験でこの種の研修制度は司法試験の合格者だけであり、後の資格者は民間などの会社で実務を学ぶのである。司法試験合格者に対して別途判事や検事を目指す試験を実施すれば良い事であり、現在の様な研修制度は逆に判事と検事と弁護士の癒着の制度にもなりかねない代物である。さて、弁護士の見極め方だが、先ずは誠実さであり、次に柔軟性があるかどうかと人を見抜く感受性の能力である。良く交渉能力と言われるが、先の能力があってこその交渉能力である。一番先に誠実さを挙げたのは、弁護士は正義の味方ではなく報酬によって左右されるから依頼した弁護士に裏切られることも想定していた方が良いということである。特に、野心家の弁護士やお金儲けに聡い弁護士は要注意である。なお、悪い弁護士でなくても能力が無い場合には尚更厄介である。私の知る限り和解書も作れない専門外の弁護士も多くおり、当社に取っては有利であったが複雑な思いであった。また、知人の親戚が依頼した弁護士が頼りなくて私が弁護士でもないのに知人に訴訟の準備書面作成のお手伝いを依頼されたこともあった。確かに当たり前の事だが、弁護士は法律関係の知識は豊富だが依頼者の必要とする専門知識はないので訴訟に必要な陳述書を依頼者が書く必要があることだ。この件は余り一般の方は知らないことであり、誰もが考えるのは弁護士に依頼すれば全て遣ってくれると言う間違いである。勿論、訴訟には刑事事件、民事事件があり、私が言っているのは後者についてであるが。更に、有能な弁護士でも法廷外が得意な弁護士と法廷内の得意な弁護士とがいるのでその適正を見極めて依頼する必要がある。最後に、全ての分野で同様なのだが、裁判官、検事、弁護士ともレベルが低下しており、気をつける必要があることを申し上げる。

低金利では優れたマネジャーが不動産業界では育たない!

日本は10年以上低金利が続いている。低金利は事業資金の調達には有利だが、不動産業界を見ればこの低金利は多くの杜撰なプロジェクトを生み出していると思われる。企業、特に不動産業界では事業に多額の資金が必要となるので、「調達」と「調達金利」が重要となる。古い話で恐縮だが、27年以上前は金融機関から資金を調達するのは至難の業であった。その上に調達金利も高い時には10%を超えていた。私がプロジェクトマネジャーとして上司から事業計画の立案を指示されたときには、金融機関に差し出す担保物件の評価、更に調達金利の予測することから始めた。もちろん、この事業計画と平行して地権者との折衝なども行なったのだが、プロジェクト推進に対して担保物件による資金が不足する時には不本意だが発注先のゼネコンの完成保証を取り付けて乗り切ったものである。然も、調達金利は7%を超えていたので早期に完成物件の売却部分の買い手を見つけなければプロジェクト利益がなくなってしまうので大変であった。私が低金利では優れたマネージャーが育たないと指摘したのは、現在の様な低金利では過去の様な資金調達の困難さとと高金利のリスクに対して危機感を持つことがないので、絵に描いた餅の様なプロジェクトやインフレでもないのにその内何とかなるだろうと言う考え方が蔓延していると思われるからである。もちろん、それ以上にレバリッジを聞かした資金調達と高収益のビジネスモデルが本来のプロジェクトリスクを軽減化した様に思える。多くの不動産運営はアセットマネジメント(AM)によって行なわれているが、AMのスタッフの多くが不動産・建築の現場を知らない人で構成されており、その下に組み入れられているプロパティマネジメント(PM)会社やコンストラクションマネジメント(CM)会社の幹部も畑違いの分野から入った人が多いので後で問題が起きる処理が多い。特に、不動産証券化や不動産ファンドなどの出現により引継ぎの概念が異なる金融機関の出身者が不動産・建築業界の幹部になったことが多くの間違いを生じさせている。即ち、極端な例だが、金融機関の引継ぎとは前任者の不正を見つける機会を得る事だが、不動産・建築業界では顧客サービスを継承することである。また、金融機関の方には耳の痛い話だが、金融機関は顧客に対する嘘を許される業界であり、不動産・建築業界は誠実さと一貫性が重んじられる全く正反対の業界である。話が横道にされてしまったが、現在の低金利は不動産業界に携わる人達ばかりでなく、一般の人達もお金に対しての調達意識が甘くなっており、プロジェクトだけでなく人生のマネジメントまでも狂わしている様に思える。

情報化(IT)社会で失われる雇用の受け皿や報酬低下の問題解決は国民幸福度の思考へ

情報化(IT)は確実に雇用や費用を減らしているが、費用の減少はそれを実現する初期投資が起きるから絶対マイナスでないとしても雇用の方は余剰分の受け皿が用意されていないように思える。最近の傾向ではIT化による余剰人員をサービス業や第一産業の農業などに誘導する様な動きが見られるが、IT化で失われる職場で働いている人達は肉体労働とは懸離れているので受け皿としては簡単ではない。勿論、農業も今後はIT化による工場生産方式に変わると思われるので少なくても土日の休みもない様な現行の個人農業とは違ってくると思われるが、それには未だ時間が掛かると考えられるので現時点では受け皿としては難しい。サービス産業に関してもIT化のグローバル経済よるデフレでコスト削減が著しい職場なので正社員としての雇用は少なく大半はアルバイトで構成されているので報酬に低下は避けられない。尤も、最近の若い人達は最初から正社員の雇用の厳しさを知っており、昼夜のアルバイトの掛け持ちで生活しているのが実情であるので、IT化がもたらした格差社会では正社員雇用が当たり前の時代の人たちとは考え方を事にすると思われる。インフレ経済に育ち就職した者にとっては将来に対して楽観的な考え方が一般的であったが、経済成長など期待できない現代社会では将来に対する不安が先立つので縮み思考になって来ている。新聞・TVで20代、30代の自殺が多くなっていると報道されていたが、将来が展望できない時代の悲劇と思われる。マスコミが盛んにバイオテクノロジーや省エネ技術の開発など新しい時代の技術による産業の勃興によって雇用が創出されるので未来は期待できと報道しているが、新しい技術が雇用を奪ってきた過去を見ると眉唾にしか思えない。人口が減少すると経済力が低下すると言う理論は過去のものであり、今の日本社会はIT化によるグローバル経済の未来を先んじているのかも知れない。その様に考えると従来のGNP(国内総生産)思考からGNH(国民幸福度)思考に切り替えて人生の価値観を金銭的重視思考からIT化の反対である時間を遅く進ませる自然的重視思考に転換させる必要がある。

普天間基地移設問題だけが政治ではないのに馬鹿騒ぎには疑問!

連日マスコミは鳩山首相の普天間基地移設問題を取り上げて「日米関係を損なう」とか「決断できない政治家」とか喧しい。普天間基地移設以上に大事な政治的課題は沢山あるのに肝心の問題は普天間基地移設問題で消されている。米国にとっては普天間基地は必要なのだろうが、移設先の埋立てなどの具体的な事項に対しては日本に一任している筈である。綺麗な珊瑚礁を埋立てて移設基地を建設する問題は旧政権の自民党政権時代の悪しき土木政治の延長である。新たに発足した民主党政権がそれを否定するのは当然なことだが、日本のマスコミなどはどこかの政府のスポークスマン宜しく問題をすり替えている。珊瑚礁の埋立など言語道断なので百歩譲ったとして基地は海上に浮体工法で行なうべきなのである。関西新空港の建設時にも話題に出たのだが、日本は造船会社より建設会社が政治に影響力が強かったので土木工事の建設になってしまった。関西新空港を浮体工法で作ったならば工事費も遥かに少なくて済んだ上に、今日的な多くの問題は生じていなかったのである。普天間基地移設に関しても移動出来る浮体工法による基地建設を打ち出すことが先決であり、建設地の物色はその後で良いと考える。鳩山首相の無能振りを批判するより建設的な代替案を指示してこそ論争の意味があるのである。政治家として大事な事は歴史を勉強して二度と同じ過ちを犯さない事であるが、今回の馬鹿騒ぎには与野党とも呆れるばかりである。もっとも、鳩山・小沢チームは普天間基地問題を社民党と国民新党の責任にして参議院での過半数獲得を狙ったのが失敗した結果かもしれないが。何時の時代も国民を無視する政治なのでマスコミの馬鹿騒ぎと政治家の言動には注意が必要である。

米国フロリダ沖の油田事故による原油流失でバタフライエフェクトを考える

BT油田の爆発事故で原油の流失が起きており、フロリダ沿岸は原油で自然が破壊される危険性が大きくなった。原油流失事故で思い出すのは30年以上前のオランダのハーグで起きた原油流失事故である。この時には日本の関係者も多数視察に行き、その後の原油流失における被害と事後処理を研究する切っ掛けとなった。日本でも十数年前に日本海で沈没したロシアの小型タンカーの原油が流失し、島根県などの沿岸の市町村は押し寄せた原油を始末するのに大変であった。油田の事故での原油流失はアラビア海で起きた事故と北海油田の事故が記憶される。しかし、今回のフロリダ沖のBTの事故は現在に到っても原油の流失が止まらずにいるので、今後の被害は想定外の被害となり可能性が高い。特に、フロリダ沖の潮流は米国本土の気候にも多大な影響を及ぼすと言われているので、海洋自然の破壊だけでなく、米国本土にも何かしらの影響が出ると考えられる。特に、カオス理論のバタフライエフェクトによって地球規模的に影響が出てくる可能性も否定できず、今年から来年に掛けては世界中の農業生産などに影響が出てくるかもしれない。金融危機の後にはギリシャなどの国家破綻不安が起き、更にアイスランドの様な数百年に一度の火山爆発や大規模な油田事故による原油流失による自然破壊の出来事が続くと何かが地球のバランスを壊したとしか思えない。この様な時代には人間の脳も狂わせるので為政者には気をつける必要がある。

情報化社会がもたらしたデザイナーズマンションなど外見重視偏重の問題点

その時代その時代に起きた革命的な変化は人間の脳にも大きな影響を与えて新しい考え方が生まれるが、その様な視点で情報化社会を見ると、不動産業界などには"見た目重視"に大きな影響を与えたと思われる。もちろん、何も見た目重視は情報化社会だけが生み出したものではないが、今回の見た目重視の問題には極端なハード軽視に繋がっている怖さを指摘したいのである。グローバル経済が物の価格を引き下げているが、短期間で消費されるIT機器と建築物は基本的には異なるので、見た目も大切だが自然災害に対する配慮も重要となる。今日的な問題ではないのだが、建築士に設計を依頼するとデザイン重視の人と機能重視の人に分かれる。前者は使い勝手が悪く、後者は野暮ったいので発注者としてはこの中間の人を常に探している。この様に書くと躯体等ハード面の事に触れていないと思われるかもしれないが、地震災害の多い日本ではハード面で手抜きをすることは想定外のことであった。もっとも、阪神大震災で分かった事だが、関西は大地震が起きないと言う間違った考え方が浸透して関西の建築物の多くは許容範囲を下回っていたために地震規模以上に被害が大きくなったと言われている。少なくても、東京を中心としたエリアでは許容範囲を下回る手抜き工事はなかったと思われる。しかし、情報化社会やグローバル経済の浸透に相俟ってハード軽視の考え方は建築業界にも波及し、「物造り」を重視しない人達が不動産業界に進出し大きな利益を挙げるようになり、何時の間にか極端な見た目重視に変わり、ハード面のチェックは二の次になってしまった。その結果は耐震偽装事件に繋がっているのだが、この耐震偽装の様な犯罪は極端な例だが、問題は工事費の削減要請から生じたハード軽視の不良建物が2000年以降多く出現している事実である。外観や設備的には古い建物より優れているが、建物の基礎の部分や建築物の内部、更には工事費削減を目的とした材料は時間が経過しないと判断できないので怖い。不動産業界に関わる人の多くが、家電などの例を挙げて日本の家電はフル装備で価格が高く競争力が弱くなっている例を引き出して装備の簡素化に対する考え方を建築業界にも波及させていることが問題と思える。もちろん、経済力のない国々の人に対する物販の考え方を幾らグロバル経済だからと言って日本にも適用すること自体が考え方に間違いがあると思われる。ひとつの大きな変革をもたらす技術的な思想は多くの分野に波及するが、それは必要条件であって十分条件ではないことを理解して取り入れるべきと思える。不動産業界は、ipodとウォークマンとの競争結果とは違うのである。

今の政治・経済界に武藤山治はいるか!

連休中は自宅周辺の散歩に終始したが、その間に何冊かの本を読んだ。書店の売り場に行っても読みたい本がなかったので、過去に購入して読んでいなかった本を探し出して紐解いたのが、鐘紡の中興の祖と言われた「武藤山治」の伝記であった。読むに連れて武藤が活躍した大正・昭和初期の時代が現代と共通する場面が多いことに気づかされた。何の事はない、大正・昭和初期は正に弱肉強食の資本主義経済下にあったのだが、現代の規制緩和そして市場経済と同様の姿が逆先祖がえりの如く描かれているのには驚いた。その上、政治の混乱も現代の政治の混乱と本質的には同じであったので、人間が進歩しないのには愕然とした。その中で実業家の武藤山治の生き方は晩年に政治家に転身したとは言え、経営者としては株主に高配当を続け、従業員にはその時代の先を行く福利厚生施設と高額の給与を支払い続けた姿勢にはM&Aに怯える今の経営者達とは人間のレベルが違う事を思い知らされた。もちろん、武藤山治と同世代の多くが現代人と変わらない私欲で動いている輩なので、尚更に人の成長には何が大事なのかを考えさせられる。14歳で岐阜の田舎から上京し、福沢諭吉の慶応義塾で学び、更に17歳で米国に渡り3年間仕事を遣りながら大学に通っている。武藤山治は地主の息子に生まれたので生活には困らなかったのだが、最初の挫折は英国留学を株の暴落の煽りで断念し米国に苦学生として渡米したことだが、この挫折が武藤山治には人間的成長を遂げさせたと思われる。帰国してからも最初は必ずしも恵まれた境遇ではなかったが、時代は武藤山治を見捨てておかなかった。紆余曲折を経て鐘紡の支配人に就いてから当時誰もがなし得なかった企業経営を行って鐘紡の中興の祖と呼ばれる存在になった訳である。読んだ本には恐慌に打ち勝った男として描かれているのだが、政治家に転身した後は必ずしも成功者とは言いがたいものの、当時の政府が収入以上に予算を拡大し、その財源として郵便貯金を財投資金として活用する危険性を議会で指摘するなどその先見性には驚くべきものがある。正に、今の日本に必要な人材であるが、何処を見渡しても武藤山治の様な存在は見当たらないのが悲劇かもしれないと思う。

貸ビル・貸マンション業も差別化の推進でデフレを克服!

デフレ社会だと全てが安くなって当然的な風潮が出てくるが、不動産などは固定資産税などが異なるので先ず立地による差があり、更に施設の設備やサービスによって差を付けるのは当たり前なので、貸す側は差別化を明確にするためには入居前にテナント側にそれらの説明を充分に行なうべきと考える。日本社会は農耕民族のため誰もが同じ行動をすることをムラ社会が要求してきたために学校教育から無意識に訓練されてきているが、今日的な社会では価値観の多様化の中でサービス提供を行なう必要があり、貸ビル・貸マンション業でも社会に「サービスの質による差」を認知させることが重要と思える。もちろん、テナントの多数は理解している事だが、土地が下がれば賃料も当然下がるなどと言う事は取得価格から言えば間違った考えである。しかし、多くの者が不良債権によって取得した建物と償却中の建物の区別が付かないので、現場では混乱が生じている。これからの社会は従来と異なりグローバル経済化のマネーゲームによる経済の混乱が短期的に繰り替えされると思われるので、賃料設定などに関しては差別化を前提にサービス内容を決定することでデフレ社会を克服することが必要と考える。

火山の冬

火山の冬とは火山灰や霧状の硫酸が太陽光を遮り温度を低下させる減少とのことだが、アイスランドの大噴火の影響が天候不順の形で世界中に影響が出そうだ。少なくても今年は天候不順に悩まされ、最も影響を受けるのは野菜などの栽培不調による価格の上昇だが、衣料品なども天候不順で買い控えが出そうだ。金融危機が峠を越えたと思ったら今度は火山の大噴火によって経済の影響を受けることになるとは「泣きっ面に蜂」と言った表現が相応しい。ITによるグローバル化が世界の経済成長のスピードを速めたが、世の中良い事ばかりでない譬えは生きている様だ。もちろん、今回の様な火山の大爆発は古代より何度も起きて地球上の生物に影響を与えてきたわけだが、凡人の私としてはこの減少が経済に吉と出るか蛇とでるかが気になるところである。お金儲けに長けた輩は既に商品相場の先物取引で買い注文を出しているのであろうが、情報化の時代では昔の様に時間差や歴史で大金を儲ける機会が少ないと思われる。しかし、今回の火山の影響でアジア経済成長の恩恵で持ち直してきた日本企業の業績が再度悪化したりすれば、「火山の冬」が「経済の冬」に成りかねないので困った事ではある。

現実的な解決を優先して先送りした関西新空港と伊丹空港の問題

大阪府の橋下知事と前原国土交通省大臣とが、伊丹空港廃止問題を関西新空港と伊丹空港を持ち株会社で統合し伊丹空港の廃止問題に関しては将来のリニア開通を絡めた先送りで解決を図った。この解決は一見すると良く知恵を絞った様に見えるが、本質的な問題は何も変わっていない事に気が付く。橋下知事の目先の財政負担問題を解決すれば良しの態度はやはり弁護士出身政治家の欠点である長期的視野に欠けた政治家としての限界と思える。橋下知事が大阪府と大阪市を合併させて行政の無駄をなくす姿勢に対しては敬服するが、今回の関西新空港と伊丹空港の持ち株会社による統合は、関西新空港の土木的欠陥を隠す以外の何物でもない事に気が付くべきである。然も、将来的にはこの持ち株会社を民間に売却する案も公表しているが、関西新空港の現状維持に多額の金を要するのを考えると全くナンセンスと言わざるを得ない。特に、東海JRが打ち出しているリニア計画を鵜呑みにした伊丹空港廃止などは滑稽としか言いようがない。前原大臣の周りには胡散臭い助言者がいるとは思っていたが、私欲でインチキ投資ファンドを立ち上げている輩がブレーンでは政治家として先が思い遣られる。前横浜市長の中田宏と言い、前原国土交通大臣の様な姑息な人物を育てた松下政経塾を思うとあの世で松下幸之助も松下政経塾を創設した事を後悔しているのではと推測する。偉大と言われる経営者が造った塾に出入りしている輩は胡散臭い人物が多いが、そう言えばJAL再建を引き受けた京セラの稲盛氏も塾を持っている。

遠い親戚より近くの他人

標題の見本みたいな事例が私の周辺に存在している。高齢化が進んだ小子化の社会にあって考えさせられるのは「遠い親戚より近くの他人」の故事である。政治に期待できない庶民が作り出した知恵かもしれないが、古い時代には共同社会で他人同士が助け合って生きてきた。それが経済成長や欧米の個人主義の浸透で共同体社会はプライバシーなどから希薄化が進み、更に個人情報制度などによって他人同士が親戚の様な付き合いをすることは難しくなった。私の義母が東京近郊の街に一人で住んでいるが、その生活は他人によって支えられているのである。誤解のないように説明を加えると、息子二人が義母を引き取らないために一人で生活をしているのではなくその逆である。息子達は高齢化した母を一人で生活させておく訳には行かないと同居を進めているのだが、義母が一人暮らしの気ままな生活を優先しているのである。高齢化した親に関しては子供がいれば同居となるのだが、子供に世話になれば居候となり、生活には遠慮が出てしまう。仕方ないと言えばそれまでだが、苦労して子供を育て更に教育まで行いながら余生を息子夫婦や孫に遠慮して生活する様な現代社会は理不尽と思える。義母の場合は偶然が重なって今の一人暮らしの環境が育まれたのだが、他の人が参考になると思えるので書いて見たい。今の家は元々は借家でしたが、その後地主から土地を購入して家を建てたのである。このため、このエリアには何件かの借家が存在していたが、現在は地主から土地を買った人と借家のままの人とが混在したエリアに変わった。実は東北地方から出てきて青果市場に勤務していた夫婦がそのエリアの借家に住んでおり、その後2人の男の子が誕生したのだが、亡義父が名付け親の様な関係となり、その家族(Kさん)と親戚の様な交流が開始されたのである。その後長い年月が経過し、妻の実家は義母一人になったのでKさんの長男が下宿する様になった次第である。Kさんの子供達は生まれた時から義母が祖母の様な存在であったので血縁関係はないが他人とは思えないほどの間柄となった。祖母が急病の時などは背負って近くの医院に運んでくれたり、休日にはドライブに連れて行ってくれたりしている。義母にも孫は何人かいるのだが、一緒に住んでいた訳ではないので、殆んど寄り付かないのが現実である。勿論、全て良い事ばかりではないが、少なくても義母が子供家族との同居で遠慮している生活ではなく、近くの他人のお陰で元気で生きがいを持って一人で生活している姿を見ると幸福とは何かを思わざるを得ない。現代において孤独な高齢者が不安な生活を送っている姿を見ると、義母の様な近くの他人との交わりの大事な事を痛感する。欧米主義の個人主義ではなく、他人を包含してのアジアの大家族主義が人生の楽園を造るんではないかと思える。

新党乱立の中で大阪府橋下知事の「大阪府維新の会」を評価する

今の新党騒ぎなど権力亡者の類で真に国民のためになる新党など皆無だが、大阪府の橋下知事が掲げる「大阪府と大阪市を統合して大阪都にする」ための「大阪府維新の会」は評価に値すると思われる。大阪府と大阪市の行政を知る人ならば行政の多くの無駄が分かると思う。この合併は、議員数と府と市の職員の大幅削減による経費節減効果もあるが、現行の行政組織を情報化社会に即した行政サービスの仕組みに大きく変える可能性を持っている。もちろん、橋下知事は弁護士出身のため偏った知識で判断している面もあり、全部が全部賛成できるものではないが、インフレ経済下で麻痺した地方行政の財政の建て直しには有効と見られる。日本社会の中でいちばん行政を信用していない大阪府で橋下知事の様な人材が現れて地方行政の改革が始まったのは面白い。今の議員や公務員は地方も国も国民が税金を支払うのは当たり前の感覚だが、国民からすれば議員や公務員を喰わせる為に税金を支払っているのではない。橋下知事の行動は正にその点を改めようとしているのだが、他の新党などは国民に対して課税強化で解決することばかりを強調しており、従来の国民を食い物にしている連中と何等変わらない。大阪府の改革のウエーブが全国に波及する事を期待したい。

学校の副担任制度の導入

副担任制度の導入は一学級に一人の担任制の壁を壊した快挙と捉えられるかもしれないが、良く考えると企業の経営の失敗の基本である2頭体制とどう違うのか疑問に思った。教室に二人の担任がいると言うことは、成長過程の子供達が二人の先生と向き合うことになり、二人に教育方針の違いがあった場合の事を考えると副担任制度は正しい選択なのかと思ってしまう。この様に書くと正と副であるので副は正に従うから問題ないと反論がでると思うが、副担任制度の導入は教師の側からのもので子供達のためのものでないのが気になるのである。私の子供時代には一クラスの人数は45~50名であったが、今は多くても一クラスは30名前後と思われる。この人数を二人で授業しなければならないほど教師のレベルが下がったのかと思うと情けないのひと言である。もちろん、教育に情熱を持った多くの教師がいると思うが、最近の教師を見ていると威厳が感じられない。これは単なる生活のために教師の職業を選択した者が多すぎると言う事とであろう。個人のリスクばかり考えて子供と接しているから子供達にそれを見抜かれ教室内の子供を制御できないだと思われる。私の時代にもダメな教師はいたが、多くの教師は教育と言う職業を自覚して真剣に子供と向き合ってくれた。私などはやんちゃだったので大分教師には迷惑を掛けたが、当時の先生方は子供達を決して見捨てたりしなかった。子供達のための副担任なら未だしも教師のための副担任制度の導入は情けない大人を見せるだけとなり、教育にプラスにはならないと考える。私の母方は母を始めとして教育に携わった家系なので余計に今の教育の有り方を考えてしまう。

心眼を持つ

現代社会の情報の氾濫の中にあって心眼を持つこと必要であると思う。新聞の記事ひとつとっても誰が何の意図を持って記者に書かせたのかを読み取れなければ新聞を読むことは害になるだけである。知人に日本の新聞は判断を間違うからと読まない方がおり、彼は専ら海外の新聞を読んでいる。勿論、海外の新聞も意図を持って編集されているので基本的には変わらないと思うが、日本のマスコミは酷すぎると言う事であろう。中国は共産党一党支配で報道に制限を加えているのが誰にも分かるから良いが、日本や欧米諸国などの法治国家では報道の自由が許されているので中国の様な事はないと多くの人が思っていることが問題なのである。尤も、マスコミが流すニュースは論説でもない限り時間に追われて検証する暇がないので間違いが多いのは当然である。このため、心眼を持つ事が如何に大事かである。多くの人とお会いして驚くのは殆んどの方が新聞・TVで流した内容をそのまま信じて話すことである。相当に社会的の地位が高い人でも同様である。米国が日本のマスコミを通して世論を誘導してコントロールしていると言う話を聞いたことがあるが、普天間基地移設問題などの報道を見ると正にはその裏づけが取れた思いがする。この様に書くと被害妄想の類と非難する人が出てくると思われるが、記事を書いた本人さえも分からない位に海外の情報機関は巧妙だということである。況して、今日のマスコミに従事する人達には愛国心がある人物が少ないと思われるので尚更である。そう言えば、平成ミニバブルの頃は電車で若い男女が日経を読んでた姿を見かけたが、最近は少なくなった様な気がする。先人の言葉に「書物に書かれた事を全て信じるなら読まないより害となる」があるが、正に新聞報道にも言えることである。

今は地方自冶体が面白い

大阪府の橋下知事、名古屋の河村市長、鹿児島県阿久根市の竹原市長など中央の多くの政治家と違い直接行政を執っているいる分、面白い人物が出てきている。この面白い人物に宮崎県知事を入れないのは、彼に関しては宮崎県産の産物を知らしめた成果は認めるが、政治家としては古い枠組みから出ていなく、創造的な改革を期待できないからである。この方々以外にも全国の市町村には名物首長がおり、気骨がある町長としては福島県矢祭町の根本町長などは群を抜いている。また、同じく福島県双葉町の井戸川町長などは財政難から給与を一時的に無給にする議案を議会に提出した。翻って、国はどうかと見れば800兆円もの赤字国債を抱えているにも拘わらず誰一人として議員定数の大幅削減や公務員の大幅削減、議員報酬の返上などの意見が聞かれず、聞こえるのは消費税などのアップばかりである。マスコミまでも官僚の宣伝に乗って消費税率を「上げなければ国が滅ぶ様な報道ばかりである。もちろん、地方自冶体の首長経験者の中には前横浜市長や前宮城県知事の様な市民や県民の期待を裏切ったにも拘わらず、政治家の野望を捨てず未だ税金を食い物にする様な輩もいるので、玉石混交を承知で頑張っている地方自冶体の首長を評価しているのである。鹿児島県古久根市の竹原市長などは孤軍奮闘で頑張っており、今の常識からすればとんでもない事を行っていると見えるのであろうが、本当にそうなのかと言いたい。今の無責任な世の中に一石を投じているドンキホーテの様な姿は貴重である。名古屋の河村市長も財政難を立て直すために正論を吐いているのである。政治家など無給の覚悟がなければ立候補する資格はないのである。田中角栄と言う馬鹿者の出現以降、世の中金が全ての物差しになってしまったが、お金は後から付いてくる物なのである。先に金がありきで物事が良くなった例がない。地方自冶から真の改革が起こり、国の改革に繋がる動きを期待したい。

物件キャッチボールの不動産リート

全く驚く話だが、森トラスト総合リート投資法人が森トラスト所有の東京汐留ビルディングを取得し、逆に同リートが保有する赤坂見付MTビル(ビル名からリート取得前は森トラスト所有と考えられる)を森トラストに売却する記事が掲載されていた。本物件の賃貸収入から得られるNOIが昨年9月の同リート全体の利回りを下回るとのことであった。更に、その日経の記事には取得に伴って負債比率が上昇するため公募増資で財務内容を改善する公算が大きく、そうなれば分配金が希薄化する可能性が高いと書かれていた。上場している不動産リートが同リート立ち上げ会社の新旧の物件をキャッチボールする様な行為は利回りが向上したり負債率が下がるのなら兎も角両方ともマイナス要因なのだから物件自体が入れ替えで良くなったとしても世間で言う利益相反以外の何物でもないのではないか。そう言えば、兄弟会社の森ビルの森ヒルズリート投資法人も同じ様な自分の所有物件を同リートに売却するなど不透明な行為があった。不動産リート自体がもともと不良債権の処理容器として立ち上げられたことを考えると他の不動産リートも似たり拠ったなのであうと推測される。新興の不動産会社が同じ様なことを行なうと叩かれるが、大手不動産会社などは問題化されもしない。この様な不動産リートを購入する一般投資家は馬鹿を見るだけである。市場万能主義の政治家や学者にこの様な行為が当然であるのかと聞きたい。尤も、資本主義社会では騙されるのが悪いと言う格言もあったのを思い出した。インサイダー取引は禁止されているが、実際には見つからなければ良いと言う考えで動いている現実を見ると社会が悪くなるのは当たり前と思われる。

日本経済の低迷は創造力を貧困にする教育制度にあり

平成ミニバブルで破綻した不動産会社のひとつの特徴は、企業規模の拡大により有名大学出身の社員が多くなって他の会社との事業の差別化がなくなったことである。事業の着想は経験知に基づくものであるが、それ以上に重要と思われるのは自由な発想や創造力である。今の社会を見ると学歴社会なので当然ではあるが、有名大学出資者の社長や社員の会社が目立っている。不動産業界などは不動産の証券化もあり、金融技術を駆使できる高学歴の社員が集中した。この結果、金太郎飴的な会社となり事業の差別化もなくなり、机上の空論のプロジェクトを推し進めて破綻した。不動産業界だけではないが、日本の有名大学出身者の多くは創造力や自由な発想に関して貧困であり、然も同じ様な発想しか出来ない。更に、大企業に入ると必要以上にリスクに敏感となり、能力を半減してしまう。日本の教育はふり返ってみると、同じ様な人間を育てる事に注力しており、個性的な生徒の出現は望んでいない教育システムである。このため、中卒より高卒、高卒より大学卒と上の教育を受けた人ほど発想が似ると同時に創造力が貧困になってしまうと思われる。勿論、学校教育の他、家庭教育の影響もあるが、日本人は農耕民族であるので本質的に他人と別な行動を取ることを避けるDNAがあるので、殆んどの家庭が学校教育の範疇にあり、個性的な性格は変わり者扱いされてしまう。今の日本経済に求められている人材は変わり者なのだが、折角変わり者が成功しても有名大学出身者を幹部に登用して他社と変わらない道を歩み始めてしまう。これは日本社会では変わり者が企業を大きくして行くのには限界を感じて方向転換するのであろうが、殆んどの会社はこの方向転換で失敗する。マスコミや学者などは創造力を求めた経営努力を促すが、それが出来ない原因が教育制度などにある事に触れないので解決しないのが実情である。この様に書くと「ゆとり教育」を取り上げて反論するであろうが、押し付けたゆとり教育では人材が育たない事を知るべきである。学ぶ場所は、「常在社会」である。

全くナンセンスな日本と新興国との比較

日本経済に対する多くの論調が日本経済を立て直すには海外からの投資が必要不可欠であるとしているが、本当にそうかと疑問が湧いてくる。新興国に流れるマネーに負けないように日本企業もアジアで見劣りしない収益力へ経営を立て直す考え方は一見正しいように見えるが、新興国と先進国の日本とは経済成長率一つとっても同じではなく、幾らグローバル経済と言っても投資効率から見たら新興国の方が良いに決まっている。投資家とすれば日本はリスクマネーの投資先ではなく、逆にリスクをヘッジする資金の投資先としてのポジションではないかと考える。リーマンショック以来円高になっているのはリスクヘッジの期待度が高いことを証明している。もちろん、日本企業に株の配当や株価の上昇を期待できる経営内容がなければ問題外だが、日本の株式市場が規制緩和以降の安易な企業の上場推進と上場企業の倒産の増加で新興国と同様のリスクマネー対象の市場に変貌してしまったことにも問題があると思われる。日本人や日本企業がリスク投資を好まないのは国民性もあろうが、それ以上に政治を信頼していないことが最大の原因である。世界に類を見ない金融資産を国民が保有している日本においてリスクマネーを導入しなければ世界の中で日本が沈んでしまうなど論説はナンセンスである。日本が経済も含め国民が内向きになったのは20年前の経済バブルの後遺症もあるが、それ以外にも教育や行政の腐敗、政治の貧困さに大きな原因があり、国民が将来に不安を覚えているからである。アジア各国が成長してきている今こそ日本が主体的にアジア各国にリスクマネーを注ぎ込んで日本とアジア諸国が一体化する経済の構築を推進することが大事なのである。リスクマネーを日本に呼び込んで経済を活性化するなどは時代遅れの発想である。グローバル経済の本質を見誤った論調など百害合って一利なしである。

与謝野・平沼の新党は高齢者を代弁する政党となれ

自民党執行部に若い人を起用しろと言って受け入れらずに党を割った与謝野議員だが、与謝野・平沼新党の発足を見ると、正に高齢者党に相応しい陣容である。良く考えると高齢者が増加する中で高齢者を代弁する政党がないことに気づいた。選挙民は自分達の考えを代弁する政党を選ぶ儀式なのだから高齢者の意見を政策に反映してくれる候補者は高齢者ではないかと考える。若い人に高齢者の問題が理解できるとは思えないし、今は鎖国後の明治維新ではないのだから全て若い人に託せば良いと言う考え方がそもそも間違っている。与謝野・平沼新党も若い人に媚びず、自分達が培った経験と知識をフルに活用して新しい日本を造る気概を持って欲しい。逆に、50才以上の候補者しか擁立しない政党でも良いと考える。若いから全てが良いなどは幻想である。特に、経済成長を遂げた後の世代の教育を受けた人達は政治家の適性を持っている人は少ないと思える。もちろん、利権三昧の高齢な政治家や候補者を指して高齢者政党を造れと言っている訳ではない。高齢者でも若い人が適わない頭脳と斬新な考え方を持っている人はいるのである。高齢者が全て時代遅れの考え方を持っていると決め付けるのは間違っているし、その反対に若い人でも保守的な考え方であれば期待できるわけがないからである。TVや新聞では明治維新期を殊更取り上げて社会を鼓舞しているが、あの世代と今の若い世代は似て非なる存在と気づかないと日本の先行きは悲観的に成る。

閑話休題

不動産の仲介や開発などで多くの人達とお会いしたが、初めてお会いする人を判断するのに今でも役に立っているのは先代の教えです。先代も誰かから教えを受けたことかどうかは知りませんが、少なくても人生を長く生きて来ないと出ない知恵です。科学的な根拠はありませんが、顔の似た人は考え方が似ていると言う人生観です。閑話と言いながら何故今頃になってblogで書くのかといいますと、最近の出来事でその教えが蘇えったからです。その出来事とは、今後の展開の予測はつきませんが、現状ではビジネスのパートナーとして歩む方向で協議している人を観察した結果です。二人とも営業力は抜群であるが、専門家と呼ばれる人を直ぐ信用して過大な評価をしてしまう。又、セッカチであると同時に気に入らない話は聞かない。人情味があるので部下には慕われるが、結構人の好き嫌いが激しい。人間的な長所は沢山あるものの、経営者として見た場合には重要な判断に専門家の意見を聞きすぎると言う致命的な欠点を持っています。また、一度自分の中に築き上げた人の評価はどんな事があろうとも変えない。この欠点は優れた営業マンに多く、頭は良いのだが、大手会社のサラリーマンの如く専門的な知識を自ら勉強するのではなく、専門家を信頼過ぎて任せてしまうことです。若くして経営者になった人は専門家を余り信用しません。その理由については本blogでは言及せず別な機会に述べることにします。この様に書き進めてきて気が付いたが、二人に大きな違いがありました。それは一人は酒が強く毎晩晩酌を欠かさないタイプだが、もう一人は余り好きではないとのことであった。勿論、車の運転が好きな事やゴルフの腕前が違うことなど枝葉末節なパートナーとしての評価には関係ないことでの違いはあります。一番重要な事は、思考能力において似ていることなのです。そう言えば、人を褒め上げる事も上手ですが、仕事が上手く行かないと直ぐにけなす癖もあります。一人の方は他界しましたが、その方は私にとっては仲人であり、後年はビジネスパートナーであった恩人です。新たなパートナーなる人は既に私の恩人ですが、気になるのは余り性格が似ているので錯覚しそうな事です。

ダムと河川堤防と将来の災害リスク

日本人はと言うより世界はと言った方が良いかもしれないが、人は河川の洪水を防ぐために堤防を構築して災害を防いできた。自然からすれば大きな迷惑だが、人は水資源がなければ豊かな生活が得られないので水をコントロールすることが重要な事であった。しかし、自然から見れば河川が洪水して土砂が四方に散乱するのは土地の豊饒さの上で良い事であった。自然のシステムでは山の恵みが河川を通して海に流れ魚が育つサイクルがある。この自然のサイクルをダムや河川堤防、更に海岸堤防などを構築して壊しているのが人間である。以前、元長野県知事の田中康夫がダムを造らず河川堤防で自然を守ると宣言し、民主党の国土交通省の前原大臣が別な視点ではあるが、ダムを造らず河川堤防で対応することを同様に説明していた。確かに、ダムは水をコントロールするには役に立ったが、その反面海資源に対しては大きなマイナスを生み出した。田中氏と前原氏が口を揃えて河川堤防で自然災害に対応する方法は大丈夫なのかとは一般国民は誰も考えていないと思われる。都市部の公共事業の減少に伴って国土交通省などは20年以上前から上部に建物を構築出来るスーパー堤防の築造計画を推進しているが、正にこの様な堤防の建設計画は河口付近に堆積した河川土砂の捨て場に利用すると言う代物であった。殆んどの人は知らないのだが、ダムの影響で河川の土砂が問題になってきており、その土砂の捨て場に困って堤防付近に浚渫土砂を積み上げているのが現状である。近年は首都圏に大きな台風が到来していないので現時点では問題になっていないが、河川土砂は大きな災害リスクを孕んでいると言われている。また、堤防の巨大化は堤防周辺の地下水にも影響があると言われており、知らずにいるうちに災害リスクを大きくしている可能性が高い。良かれと思ってきた事やそれに伴うマイナス部分の対策が結果的に別な大きな災害リスクを造ってきていることを考えると従来の国土改造の遣り方は人間だけしか見ていない方法であったために問題が生じてきたと断言できるので、今後は自然と人間の両方を考えたバランスが取れた対策が必要と思われる。しかし、行政の都合の悪い事は国民に明らかにしない考え方は国を滅ばすことになると改めて思料する。今回のblogは長く民間の立場で活躍してきた技術士の方との雑談で教えて頂いた事柄である。

郵貯限度額の引き上げに反対

狙いは国債購入資金であろうが、海外にも郵貯の資金運用先を求めるとのことに関しても大きな疑問を持たざるを得ない。何故今、郵貯限度額を引き上げる必要があるのかは冒頭に述べたように国債の購入が目的なのであろうが、この決定は赤字国債の更なる拡大を招く愚策としか言えない。今年度の予算が92兆円と大きくなったが、この予算は参議院選挙を考えてのもので、日本や国民のためになるものではない。確かに、郵政民営化の過程では不正があり、貴重な資産が投売りされたのであるが、体質的には今も変わらないので資金運用においてアドバイザリーを介在した同じ様な不正が起きないとは言えない。日本国中、インサイダー紛いの行為が行なわれており、不正など意に関しない輩が横行している現在、郵貯限度額の引き上げなど持っての他である。郵政関係が小泉・竹中以降、政治家や悪徳官僚や政商に食い物にされてきているが、民主党政権になってもその図式は変わらない様だ。今夏の参議院選挙で鉄槌を下したくても受け皿となる政党がいない現状は本当に憂慮すべきものであり、鳩山邦夫ではないが新党結成大賛成である。既成の政党の流れを汲む自民党や民主党の政治を吹っ飛ばす新党に期待したい。

東京都心の周辺と孤立した大型開発

六本木ヒルズ、東京ミッドタウンの周辺の街並みを無視した自己完結型の高層ビル、新橋汐留地区の全く整合性のない高層ビルの林立を見ると本当に島国根性の世界観が小さい人々の集団なのが分かる。現在進行中の大型開発の全てが自己完結型の高層ビル建設であることを見せ付けられると東京都心の将来像を描けているのかと心配でならない。確かに、古い建物を耐震性と防災性の優れた建物に変えるのは必要と考えるが、問題は街の歴史を全て吹き飛ばして孤高の高層ビルを建てることに意味があるのかといいたい。現在の開発思考は歴史を持たない米国の開発の考え方に準拠していると思われるが、少なくても再開発で街を再生するならその町の文化的な香りも残した差別化した開発を行なう必要がある。六本木ヒルズなどは一時は珍しくて多くの人が見学に訪れたが、他に同様なビルが出来た時点で物珍しさがなくなり店舗などは閑散としている。日本人は将来像を見て建築物を計画するのは苦手な国民と思えるのは、日本を取り巻く自然と関係があるかもしれない。確かに、大型建築物は中国などから伝来した仏教寺院で、その外は武士が防御のために築造した城だけである。本来、日本人は大型開発や将来を見据えた考え方などは苦手なのかもしれないと思い、それなら日本に適した開発を考える時期に来たのではないかと思料する。馬鹿の一つ覚えの様に大型開発を推進するのは、公共事業の減少で経営に厳しいゼネコンの救済を意味するならば価値ある街並みを一掃してしまう大型開発は百害あって一利なしと言わざるを得ない。特に、その後押しをする行政については税金の無駄使いの典型的な姿である。特に、容積の割り増しで作らせた公開空地などはただ通行人の通る位しか活用する事ができず、然もビル同士の公開空地を跨ぐ様な活用は余り出来ない状態である。現場を知らない役人や知識人が描いたものなど実際には役に立たないものばかりである。東京都のマスタープランなどはお題目ばかりで現実的な開発を優先するあまり意味を成していない。今の日本人は日本的な良さに精神的な安らぎを求めているのに大型開発は逆行した考えで進められているので間違いなく失敗すると思われる。

デザイナーズマンションリフォームのその後

以前に私が借りているマンションで行なわれたリフォームに関してblogに書いたが、今回はリフォーム1年後の現状についてお知らせすることにする。古い賃貸マンションをデザイナーズマンションにリフォームして入居率を高めるビジネスシステムを展開している企業(大手都市銀行も出資している)が行なったリフォームである。私の入居しているマンションは築38年経過していたので空室が目立ちオーナーとしてはリフォームか建替えを検討する時期になっていた。入居者の多くは建替えで退去を求められると思っていたが、実際にはリフォームとなり、リフォーム提案の会社はリフォームの騒音で入居者全員が退去することを考えているかのような酷い工事を行った。しかし、リフォーム後のサブリース対象となった部屋は若い男女が好むようなスタイルに改修したことと立地環境は素晴らしかったこともあり、リフォームした部屋は直ぐに賃借人が決まった。そして1年が経過して現状はと言うと流石に新たな賃借人の退出はないが、共用部の廊下の塗装が一部剥げ落ちて汚くなったおり、エントランスは北向きに変えたので冬は木の葉が入って常に汚れている状態となっている。また、廊下のライトをダウンライトに変えたので頻繁と電球が切れており、然も直ぐに交換しないので不便極まりない。予想したとおり廊下や階段の塗装は基本に忠実に行なっていないので、塗装が剥げ落ちることは予想できたが、階段の壁も内部からの漏水で見た目が悪くなってきている。リフォームの全てを否定しているわけではないが、老朽化したマンションは人間に譬えれば高齢者になっているので、厚化粧しても長くは維持できないし、問題は鉄筋やコンクリートなどは改善できないので目先の誤魔化しの様なリフォーム提案に関しては疑問を持たざるを得ない。リフォームした会社のHPを見るとデザイナーズマンションにリフォームして入居率が高まった事例を載せているが、私が入居しているマンションのリフォームを見る限り経験が不足していると見られるものの短期間は有効と思われるので、ビジュアル社会の弊害が起きているのかと思わざるを得ない。

住宅購入相談に関する四方山話

私は職業からこれまでに大勢の方から住宅の購入を検討するに際に意見を求められてきた。当社は建築設計事務所として住宅の設計に携わってきており、然も不動産仲介業として多くの住宅の仲介業務の実績もある。また、デベロッパーとして再開発事業の実績もあり、不動産ファンドのアドバイザリーなど不動産に関する経験は手前味噌になるが枚挙に暇が無いと自負している。しかし、不思議な事に実際購入するに際しては私の意見は一部の方を除き無視され、大分経ってから私のアドバイスを無視した事を後悔する話を聞かされるのである。後悔した人の中には、私の専門が不動産業であることを改めて気が付いた人もいて唖然とする。最近、不動産購入に関するアドバイス本などが人気があるらしいが、私に言わせれば悪戯に面白可笑しく書いてあるだけであり、中には何の科学的な根拠も提示しないで恐怖感を煽っているだけの事例を平気で書いている本もある。この種の本の新聞の書評欄には、「不動産購入前に知識を得よ」などと推薦しているのである。多くの人は公に販売された本などには信頼を置くが、私の様な専門業者の意見を聞き流すと言う行動に関して理解できない。ちなみに、悪く言うわけではないが不動産購入に関するアドバイス本などは素人では分からない専門的な知識を有する内容であり、悪徳業者の酷い事例を恰も一般論的に取り扱っているので、実際の購入においては信頼にたらないものである。私が相談された方に先ず指摘するのは、「不動産に掘り出し物件はない」と言う事であり、価格的に掘り出し物件と思えるのは瑕疵物件(自殺・殺人など)であると言う事実である。更に、マンションと戸建住宅の将来的な資産価値の違いやデフレ経済時での不動産購入のリスクなど基本的な問題からアドバイスをしている。私の不徳の致すところなのだが、当社女子社員などは結婚時の中古マンション購入時と数年前の戸建建築の2度ともアドバイスを無視した結果、大きな損失と現在進行形の損失を蒙っている。世の中は大企業や著名人の意見は信用するが、私の様な小企業の経営者の意見などに関しては評価しない様だ。尤も、知人の会計士の様にアドバイスは理解していたが、年齢と将来的な収入見通しを甘く考えて高額な新築物件を購入して失敗した事例もあり、人は時として必要以上に楽観的になるので致し方ないと思料する。デフレ経済であるが不動産はドメステックな産業なので、価格がユニクロの商品の様には下がらないのが現実である。ここ15年を振り返ると必要以上にコストダウンの流れになっており、それが構造偽造事件に繋がっているのである。別に不動産業界の言葉ではないが、「安くて良い物はない」のである。もちろん、短期的な商品ならば耐久性を考慮する必要はないのでそれなりに良くて安いものはあるが、不動産は長期的な商品であるので難しいが、もし強いて言うならば個別的な要因によって価格が変動する商品である点を考慮すれば、価格的に満足する物件お購入できるチャンスはある。一生に一度の高い買い物となる可能性が高い住宅の購入に関しては、設計事務所などにアドバイスして貰うことが必要と思われる。アドバイス・フィーなど安心を得る事を考えれば安いものである。

河村名古屋市長が投じた議員数大幅削減の一石を評価

河村市長が名古屋市会議員の現行定数70名を半分の35名にする提案は、名古屋市民ばかりでなく国民にも評価された行動と思料する。これに対して市議会議員は、「半分にする根拠が無い」とか、「議員報酬が減らされたら議員になる人がいなくなる」とか説得力が無い反論を主張していたが、真の議員なら財政難に陥っている現況を考えて自ずから議員数の削減か議員報酬の減額を申し出るのが当たり前と思われる。しかし、国会議員から村議会議員まで大幅な定数削減の発議など聞いたことが無い。議員報酬が高いからお金が掛かる選挙になるので、議員報酬を大幅削減するか日当制にすれば、お金に関係なく社会や政治を良くしたい人たちが立候補して当選する可能性に期待がもてる。そすれば「議員報酬が少なくなると議員になる人がいなくなる」などとの戯言を聞かないで済む。特に、ITによる情報化社会になったので議員が個人の意見を汲み上げて政治に反映するシステムが不要に成りつつある現況では、議員数の削減や議員報酬の削減と同時に新しい時代にあった政治システムを考える時代に突入したのである。過渡的には多党化による連立内閣が続くものと思われるので、時代を見通した少数政党が連立内閣に参加して思い切った政治改革と社会改革の断行を期待したい。

雑談

先日、不動産の仲介でお会いした社長さんはユニークな方であった。年齢は44歳前後と推定したが、今後の日本の不動産に対する鋭い洞察力を持っており、不動産業界には珍しくハッタリがなくストレートなものの言い方でした。この方は大学卒業して就職した22年前は経済バブルの真っ最中であったので、当時の不動産経営者達と会う機会があったとのことでした。彼は今回の平成ミニバブルでは会社の上場を目指した不動産会社の経営者の立場であり、上場寸前でトラブルに巻き込まれて係争中にリーマンショックで当初目標の変更を余儀なくされています。この彼が平成ミニバブルで有名になった人達を評して言った言葉は、小人物ばかりであったと言う事でした。一つの理由としては、今回の不動産のミニバブルの原因は不動産が金融化して不動産開発に対する物づくりを知らない連中が多かったと指摘していた。私も彼に意見に肯く点があったが、私のもう一つの見方は20年以上前の経済バブルと大きく異なるのは、経済バブル時代は事業の欲であったが、今回の平成ミニバブルでは単なる金儲けの私欲であったために小人物にしか見えなかった様に思える。名門灘高校から東大に入った村上ファンドの村上や名門久留米代付属から東大に入ったライブドアの堀江などは、私欲で能力を使った典型的な人物であった。彼等には大物感は少しも感じられなかったのは私欲しか感じられなかったからと思われる。この様に書くと私欲と事業欲の違いは何かと質問がでると思うが、一言で言えば事業欲の方は人を育てたり、地域社会に貢献する可能性があることと考える。最近の経営者は短期間で利益を出すことを強いられているので、私欲はなくてもスケール感を出せる機会が得られないために小物として評価されてしまうのかもしれない。尤も、経済バブル後の経済不況化ではスケールの大きい人物は淘汰されてしまったと思われるが、今の日本に政治経済とも必要なのは大物の出現であろう。

現場無視の介護保険法の弊害

介護保険法の成立は一見すると高齢者社会の到来に対する備えと見えるが、実際は厚生予算削減を狙った現場無視の制度の導入であり、その上多くの認可制度の導入で厚生労働省の天下り組織を作ったのである。今回グループホームの火事で焼け死んだ老人達は正にその犠牲者である。役人の生活を保証するために税金を払っているわけではない。NPO法人の運営のグループホームはオランダのグループホームを模範にして導入したと言われるが、私の推測だが「仏を作って魂入れず」の類の導入と思われる。オランダは基本的に人を大事にする国家であるが、日本は未だに官尊民卑の考えと相俟って米国流の格差社会の考え方で正に姥捨て山のグループホームとなっている。マスコミなどはこの種の事件が起きると設備不良や運営者の怠慢を指摘するが、根本的な原因は事業の採算性を考慮していないで制度だけを導入した行政の責任を問う声は余り聞かれない。行政などは事故が起きる度に自己保身のために法令や制度改正で民間会社などに大きな負担を強いる設備機器の設置を求めてきている。しかし、制度が持つ欠陥には一度たりとも目を向ける事が無い。もちろん、行政だけの責任でなく、政治が機能していないから起きる問題でもある。民主党政権になっても自民党とその点では何等変わる事は無い。民主党は大きな政府の予算を組んでいるが、国民が期待しているのは自民党時代のばら撒き予算の復活ではなく制度の改善であり、天下りの阻止でなく団体そのものの存在意義を検証することである。この点から言えば、民主党は未だ何等国民の要請に応えてはいない。介護保険法の成立で多くの老人を死に追いやっている現実と新たな無駄にメスを入れるべきである。先ず、役人の首を切れない法律を変えることから始めなければこの国は内から崩壊してしまう。

資源争奪競争の懸念

大西洋・地中海のクロマグロの取引禁止がEUの発議でほぼ確定する状況になった様だ。環境や自然資源の保全と言う大義名分は理解するが、この取引禁止に養殖のクロマグロまで含まれるとなれば話は違ってくる。グローバル経済は発展途上国の経済を急速に成長させたが、その反面、各資源の需要が従来にない速度で伸びてきている。マグロは日本人の食生活に欠かせないものであるが、クロマグロの取引が大西洋・地中海で禁止されれば、次は他の地域で捕れる別な種類のマグロの取引禁止に繋がる可能性は大きい。狂牛病や健康志向と相俟って「マグロ」の世界的需要は増大する傾向にあるが、くじら同様にマグロは日本人の食文化であるので、それらの食文化に関係ない国々に一方的に禁止される理不尽さには憤りを感じる。日本人の多くはデフレ経済に洗脳されてしまったので食糧まで自給自足を否定する傾向にあるが、大きな自然変動で食料不足になった時には金があっても買えないことを肝に銘じるべきである。なお、今回のクロマグロの教訓としては、今後の資源争奪競争において力を発揮するには地域の共有意識が必要であり、日本はアジア諸国と共通の価値観を持って欧米に対抗する必要があるということである。クロマグロやくじらを見ても日米の価値観は大きく異なるので、日米条約など資源争奪競争においては何の価値もないことを国民は知るべきである。今後はあらゆる資源で争奪競争が起き、今のままでは日本は後手に回る懸念が大きい。今日本に必要な政治家は"友愛"などを唱える政治家ではなく、資源争奪競争に勝ち抜ける政治家である。何時までたっても経済は一流、政治は二流では国が滅ぶのである。

今こそ押し付けの教育制度を見直す好機

デフレ経済で失職する人が多くなったのでインフレ経済で構築された教育システムにも問題が出てきた。民主党は高校の義務教育化をマニフェストに掲げているが、人材教育を考えた場合に本当に18歳迄義務教育を続ける必要があるのだろうかと考えざるを得ない。私の時代には金の卵と言われた中学卒業の集団就職が存在した。私の故郷は茨城県北部の寒村であったために高校の進学率は50%は超えていたと思うが、大学進学率は20%以下であったと記憶している。この時代には能力があるにも拘らず進学できなかった者も多くいたので、その後の豊かな社会で進学率が上がった事に関しては否定しない。しかし、文部科学省は教育の質よりインフレ経済下の予算増により教育の量を求めてきた結果、高校進学率や大学進学率は向上したが、自発的に進学を希望しない子供達まで進学させる教育制度が親子関係を崩壊させ、教育者の無気力を生じさせてしまった責任は重い。戦後の教育制度は米国の教育システムを導入したものだが、基本的に米国と違うのは日本の教育制度にはレベルアップの柔軟性と入学後の厳しさが欠如している点である。高学歴イコール高収入・安定と言う幻想を作り上げた結果、普通教育偏重の教育評価システムとなり、我々の時代にはレベルの高かった工業高等学校、商業高等学校、工業高等専門学校などが普通高校と比較して地盤沈下してしまった。本当の教育制度とは普通課教育に偏重することなく低年齢における専門教育制度を充実させて子供達の選択肢を広げることと考える。大学進学を前提とした普通課教育偏重は間違っており、専門学校からも優先的に大学進学のルートを設けておけば偏重することはなかったと思われる。米国では軍隊に入って一定期間勤務して奨学金を得て大学に進学している者もいると聞くので、日本でも自衛隊に入隊して一定期間勤務すれば大学進学と奨学金が得られるようにすれば、親の負担も無くて良いと思われる。何れにしても、親の資力と関係なく専門教育を得る事が出来る制度を作る必要もあると考える。今回の経済不況では、親が失職して学校を中退を余儀なくされる子供達も多いと思われるが、経済的に問題があって中退する必要があった時には①夜間部の転入、②再入学の権利によって救済する制度も必要と考える。なお、夜間部の開始時間が早いので勤務している場合には問題が多いので、少なくても開始時間を午後7時にする配慮も必要である。財政難もあって教育に対しての予算も今後は縮小を余儀なくされると思われるので、教育制度自体を大幅に変更して子供達にとって有意義な教育システムにすることが重要であり、見直す好機と思われる。

高齢者用の賃貸住宅の問題を考える

日本の高齢化社会到来は20年以上前から予測されていた。しかし、政治家と行政はこの間に何を政策として実現してきたのだろうかと考えざるを得ない。昨日のTVで東京都品川区役所が高齢者用賃貸住宅の建設に着手した事が放送された。その放送の中で高齢な女性が不動産屋に賃貸住宅を依頼しても殆んど断られると発言していた。若い方がこのTVを見ても深刻に考えることはなく、「逆になぜ借り難いエリアに住んでいるのかとか」、「子供と一緒に住めば良いのにとか」、「若いとき浪費して家も買っていないのだから仕方ないとか」考えて聞き流すのではないかと推測できる。同様に、長く政権を担っていた自民党の政治家連中の口癖が、若い時に倹約した生活を送らなかった人達まで救済する必要があるのかという発言であった。更に、現代社会は能力のある人達が高収入を得られる様なシステムでなければ社会が活性化されず経済成長も望めないと言う意見が主流となる格差社会が現出して弱者に対する救済が形骸化してしまった。経済バブルが崩壊した15年以上前に「勝ち組」、「負け組」などの言葉が流行語になり、日本社会は優しさを失っていった。私が若い頃上司から「給料以上の仕事が出来る社員は2割」、「給料に見合った仕事しか出来ない社員が6割」、「給料以下の仕事しか出来ない社員が2割」と言う話を聞かされた。私も若かったのでその上司に駄目な社員の2割をなぜ首にしないのかと質問したのである。その質問に対して上司は2割を辞めさせても組織と言うのは必ず又給料以下の2割りの社員が出現すると言うことであった。この話はイソップ物語と混同するが、子供にでも分かるのは一所懸命努力しても報われない事があり、社会は必然的に「負け組」を作り出して全体のバランスを保っていると言う現実である。このために、行政機関はセーフティネットを構築しているのであるが、弱者の痛みを理解出来ない政治家や行政マンによって高齢者用の賃貸住宅問題は放置されてきたのである。財政難で高齢者用賃貸住宅建設が難しいと言うなら未だ建替える必要のない議員宿舎の建設は何なのだと言いたい。独立行政法人の都市整備機構など高額な賃貸住宅を建設しているが、民間が出来る事業など機構などが行なう必要はないのに、なぜ定額の高齢者用賃貸住宅の建設を行なわないのかと憤慨する。高額の税金を納めた人達だけに行政サービスを行なえば良い様な考え方は国家の喪失に繋がるのである。今の政治家と役人に聖徳太子を学べと言いたいと思ったが、連中は聖徳太子を煙たがって紙幣から肖像画を消してしまったことに気が付いた。地方行政でも心ある所は高齢者用住宅の建設などに乗り出しているので、民間側としても企画力や知恵で側面支援を行う事が出来ればと考える。

過剰公共投資事業の責任を国民に転嫁する世論誘導は言語道断

過去の予算編成によって生み出された巨大な国家借金は国民がおねだりした結果の様な論調であるが、八ツ場ダム計画一つとってもが地元住民の要請で始まったものではなく、官僚と政治家が勝手に地元の意見など無視して決定したものである。道路計画でも予算ありきから地元に要望を聞いたのである。逆に、国民が希望した施設などは無視されるか、受け入れられたとしても話にならない程小規模な事業なのが現実であった。「おねだり民主主義の限界」などと書いた記事を見ると、現場を何も知らない記者や学者が意図的に政治家や官僚でなく国民に責任転嫁させる悪質な世論誘導と思わざるを得ない。民主党政権になって「子供手当て」や「農業個別所得補償制度」などが予算計上される様だが、国民は財政赤字を拡大してまで要求していないのである。又、高校まで義務教育化に関しても国民が優先的に行なって欲しい事でもないのである。今の政治は正に街頭で行なわれているアンケート調査と同じで、本人が答えを出す前に意図的に答えを誘導するやり方である。今、国民が一番願っているのは国会議員から地方議員までの大幅な議員数の削減であり、行政組織の整理統合である。私の故郷の茨城県の県会議員どもは県の住宅供給公社が1000億円ものの赤字を作っているにも拘わらず放置しており、市町村議員が合併により削減されているのに議員定数を減らす考えもない。もちろん、それらの議員を選んでいるのは県民なのでそういう意味では県民の責任ある。しかし、マスコミなどが報道を行なわなければ国民は日常生活に追われて県や国の財政問題などは普通は考えられないのが実情である。現行制度では投票率に拘わらず議員が選ばれてしまうことや拒否権はない。このため、政治を良くするには選挙イコール議員選出でない制度の確立を求めることが必要であり、その実現を約束する政治家を選べば社会は変わると考える。

人格の話

今朝電車の中で工事現場で働く作業員の方が仲間と雑談をしていたが、一人の年配の作業員が「人格がない奴は上に立ってはいけないよ」と大きな声で言っていた。作業員の方の指摘は正にその通りであるが、彼が憤って言ったのを聞くと彼等の職場も上に立っている者に人格者はいないのであろうと思われた。最近、書店では"人格"とか"品格"とかを取り上げた本が多く並んでいるのを目にする。私の理解では人格や品格の喪失は高学歴の人達の問題と思ったら今朝の作業員の会話で社会全体であることが分かった。そう言えば、当社が管理しているビルのテナントで同じ職業なのだが好対照の事例があった。それぞれのテナントの入居しているビルは違うのだが、職業は同じ弁護士である。両弁護士とも個別的な事情があり賃料の引き下げを要請してきたのである。一人の弁護士は当社担当者に対し横柄な態度で一方的に大幅な賃料引き下げを要請してきた。もう一方の弁護士の方は、現行賃料がビルの格から言えば妥当と思うが、諸般の事情により多少でも賃料を引き下げて頂けないかと当社担当者に対し低姿勢で要請してきた。当然に両物件共に管理物件であるため要請に対してはオーナーの了解が必要であるので、当社ではオーナーに要請を伝えたがこの要請に対してオーナーの方も又対応が好対照であった。良いテナントには良いオーナーが、人格に問題があるテナントには同様なオーナーの典型的な例となった。結果は言うまでもなく、良いテナントの方はオーナーの理解を得て直ぐに解決したが、悪いテナントの方は現在調停に入っており、間違いなく調停は不調に終わるので裁判となるものと推測される。しかし、本当に現在の社会は地位に相応しくない者が地位を得ているので良い社会にはならないと思われる。人格、品格そして器量が上に立つ者や経営者の資質であることを肝に銘じたい。

海外の大使館にお抱え料理人は必要か

先日TVを見ていたら海外の日本大使館付き料理人に関する番組を放送していた。危険な地域の大使館には日本の料理人が募集に応じないので、アジア人の料理人に日本料理を覚えさせて派遣するためにアジア人料理人達に日本料理を指導している番組であった。料理人派遣の目的は、海外の諸国の政府要人に日本料理を食させて友好を図ることと説明していた。派遣料理人はパーティ以外には大使や公使の家族に料理を作ることの仕事も兼務しているらしいが、実際には大使等の家族用の料理人であろう。今は日本国家が経費節減しなければならない時であるので先ず切り捨てなければ成らないのはお抱え料理人制度であろう。日本料理を食させて親交を深めるなどお笑い種であるのは、国賓ないしは国賓待遇が来日した時に迎賓館で出す料理がフランス料理であることで自明である。確か、有名なフランス料理店キハチのオーナーシェフは大使館のお抱え料理人出身と雑誌に書かれていたので、何がお抱え料理人は日本料理人かと言いたい。日本航空の救済と同様で、政治家の馬鹿野郎共は海外に行った時に大使館員に世話させるために出先の大使館に対する厚遇措置を継続しているのである。民主党も無駄使いを失くす作業を行なうなら国益を得るのに役にも立っていない海外の大使館の人数や施設、システムに対して合理化を行なうべきである。大使婦人も外交を担っているから専属の料理人が必要と言うかもしれないが、女性が必要なら女子職員を使うことで充分である。お抱え料理人を必要とする時代ではないことを知るべきである。

日本のマスコミは何処の国の代弁者か

イラン問題、日本国債、増税問題などの記事を読むと何処の国の代弁者かと勘違いする内容である。耳学問だけで記事を書いている新聞記者が外国の情報機関に取り込まれるケースは今に始まったことではないが、最近の記事を読むと特にその傾向が強まっている。イラン問題然り。欧米諸国が北朝鮮の核問題に対して日本を無視した頭越しの外交を非難せずに、イランの核問題では必要以上に危機感を煽り、日本も同調するのは当たり前と言わんばかりの論調である。イランの核問題などユダヤ・キリスト教とイスラム教の争いに日本が巻き込まれる事は国益を損なうのである。フランスとドイツなどイラク攻撃に対してはイラク国内に利権を有していたので攻撃に対して反対したが、イランに対しては利権を有していないので一転して今度は米国に追従している。日本がイランにおいてどの位国益を有しているかを考えれば制裁強化などに同調する事は出来ないのは自明の利である。他国が国益で動いているのに、日本のマスコミはその様な事を無視してイラン問題を欧米に同調させる論調を展開する事は国賊ものである。日本国債問題でも然りである。悪戯に危機感ばかり煽って増税が避けられないとの論調だが、その前に国会議員数の大幅な削減と行政組織の大リストラが前提であるのに、その様な記事を書いた新聞を読んだことがない。民主党が2大政党のモデルにしている英国など両党の国会議員が歳費の増大ばかりを行なっているので、両党とも過半数を取れない状況に追い込まれている。その様な状況を承知の上で2大政党論を支持しているマスコミなど過去の遺物に過ぎない。普天間基地問題でもマスコミは大騒ぎしているが、グローバル経済にあって局地戦以外の戦争など起こりはしないのに必要以上の冷戦前の危機感を煽らせている。局地戦の戦力位自前で行なわなければ世界から相手にされないのに属国意識が抜けないマスコミには呆れる。欧米諸国は北朝鮮を利用して北東アジアの分裂を考えているので日本の意見など無視されるのは当然なのにマスコミはその延長の報道ばかりである。国益とは国民の生命財産を守る事も意味しているが、日本のマスコミなど口先ばかりで真の国益を考えた報道など一つも行っていない。新聞報道など信じないことが人生を間違わない方法である。

大阪高裁の更新料支払無効判決を考える

大阪高裁が更新料の支払は消費契約に抵触するとして無効判決を決定した。判決文を読んでいないので詳細は不明だが、インターネット情報を見ると契約概要は賃料38,000円、契約1年毎に更新料賃料の2ヶ月、他に定額補修分担金なるものを課していたとのことである。確かに、契約1年毎に更新料として賃料の2ヶ月分、更に定額補修分担金を見る限り、一般的な契約から逸脱していると判断出来る。しかし、契約形式は様々な形態があった方が借りる人に取っては選択肢が広がるのでプラスの面がある。今回の契約で問題なのは、通常の契約と比較して賃借人が著しく不利な契約を強いられていると言う事なのであろうが、現代は多くの賃貸しマンションが様々な条件で入居者を募集しており、賃借人はこの物件以外の選択肢が無かったわけではないと推測する。誰が見ても、賃料38,000円は安いと判断できるので、1年毎の更新料として支払った賃料の2ヶ月分を月額に換算すると6,333円であり、この金額を賃料38,000円に加算した場合には、賃料は44,333円となる。入居物件の相場としてこの賃料が高いのか安いのかであろう。この契約方式は後払い方式の変形と看做すことも出来る。厄介な問題は定額補修費の徴収と考えられるが、此れにしても上記の考え方で月額に均したとすれば賃料は相場と比較して高いのか安いのかと言うことであろう。選択肢の多い時代に消費契約から判断すれば違法であると結論付けられては、管理会社の企画力が否定されてしまう。高齢化社会で判断が劣る高齢者の保護のために成立したと考えられる諸費者契約法が過剰な消費者保護となれば企業の自由度が失われてしまい、日本全体の活力がなくなる恐れがある。実務を知らない裁判官が誤った方向に導いてしまう怖さがある。

賃借人保護法案の閣議決定に異議申す

政治家の人気取りや馬鹿さ加減には本当に呆れる。この法案は推測するに弁護士に意見を求めた結果であろうが、弁護士が商売になる件を弁護士に聞くのは「泥棒に店番させる様なもの」であることを分かっていない。最近、賃料を延滞した賃借人に対して強引に部屋を明渡させる業者がいることを新聞で取り上げられているが、この強引な明け渡しを行なっているのは殆んどが賃料保証会社である。従来の建物管理を行なっている不動産業者ではないことにTVや新聞では触れていない。日本の場合は既に借家借家法で賃借人は手厚く保護されているにも関わらず、民主党は大衆迎合主義的な発想で屋上屋を重ねる賃借人保護法など成立させようとしている。賃料延滞の件に関して行き過ぎ行為を規制するなら保証会社に対して行なうべきであり、新たな賃借人保護法案などモラル欠如の助長を促すだけである。当社も長く建物管理を行なってきているが、問題となる滞納者は連絡が取れなかったりする悪質者が多い。特に悪質者は契約書を逆手にとって小額のお金を振り込んで滞納額を減らさない者がいるからである。尤も、同法案に反対する最大の理由は、この法案により入居審査が厳しくなり賃借人に不利な状況が起きる可能性を憂慮するからである。一つの法案がどの様な結果をもたらすかのシュミレーションも余りせずに場当たり的な発想で問題処理が行なわれていることを思うと憤りを感じる。

増税路線の政治では日本社会は崩壊する

民主党は財務省主導で増税路線に舵を切ろうとしているが、この政策は企業と国民を苦しめるだけで何の益ももたらさない。景気回復の大義名分で財政赤字を垂れ流し、金銭的な感覚を失った官僚は更に財政危機を助長している。日本はサラ金財政を続けているので更に赤字国債を発行するのは緊急的な一時的な措置以外考えられないものであった。しかし、驚くべき事に過去15年で600兆円の財政赤字を増やしながら政治家も官僚も無責任な先送りに終始してきた。それは増税すればどうにかなると言う資産家の馬鹿息子が親の財産を当てにして放蕩を繰り返す様と何等変わらない考えである。その状況に対し国民は期待して民主党政権を選択したのではなく、自民党では国が消滅する危機感でやむを得ない選択であったが、民主党もパフォーマンスだけで財務省主導の増税路線に舵を切ろうとしている。増税によって国民から富を奪い、企業から含み利益をを収奪した後は日本と言う国の未来はない。極めて遺憾なのは、全政党が赤字財政を改善するのに増税しか念頭にないことである。増税こそ官僚の思う壺である事に気づく政治家は一人もいない。馬鹿な政治家は行政にもバランスシートを導入して赤字の事業をなくすると言っているが、利益を出せる事業なら行政機関が行なう必要はないことにも気づかないでいる。独立行政法人で民間企業と同様な事業を行なっているにも拘らず民営化しないのは言語道断である。新聞報道によれば民主党は予算の仕分け作業の強化で無駄を省く様だが、先にやる事は自分達国会議員に対する各種手当てのカットからである。身を正しくしなければ人は付いてこないのは自明の理である。また、仕分けのパフォーマンスで誤魔化されて行政機構の大リストラが手付かずになっていることに国民は危惧すべきである。民主党政権は労働組合の支援を受けているので基本的には高級官僚の天下りの規制は出来るが、公務員の民間レベルのリストラなど出来はしないことが明確に分かった。増税の前に政治と官僚組織の大リストラが先である。増税しなければ国が滅ぶと言っているが、滅ぶのは国会と官僚組織であり、国ではない。

マスコミの無責任な報道姿勢

マスコミは盛んに民主党のマニフェストに対して理想と現実対応を指摘してマニフェスト通りに政治を行なう弊害を報道している。マスコミのこの様な無責任は今に始まった訳ではないが、フザケルなと言いたい。選挙民が唯一政党間の政策の違いと将来を託して投票の基準にするのがマニフェストであろう。ただ政権交代だけすれば良いと言う考え方で投票している訳ではない。それがマスコミは学者などの言葉を借りて現実的でないマニフェストなど守らなくても良いとか見直すべきだと紙面で扇動している。国民に選ばれた存在でもないのに偉そうな態度で無責任に報じている姿は国民を馬鹿にしたものである。IT社会では新聞の存在感は薄れており、どうにかチラシの存在で生き残っている程新聞と国民の考え方は乖離していることをマスコミは知るべきである。特に、記者クラブ制度で碌に取材もしないで発表記事しか書いていない記者など時代遅れの遺物である。情報化時代になって多くの情報が新聞以外に得られる時代になったので、漸く国民は自分の頭で考えられる様になった。上から目線でなく国民目線で考えられるようにマスコミに高い給与を払わせないように広告料を下げさせるべきである。

不安を煽る社会と情報化社会の間違った希少性評価

現代の日本は豊かになり過ぎたので皆が不満と不安を抱えて生きている。しかも、マスコミなどは一生懸命国民の不安を煽って商売にしているから特に性質が悪い。政府も多額の国の借金を国民に転嫁するために消費税アップなどの増税の必要性をマスコミを操作して流しているので余計に厄介だ。情報社会になって個人情報保護法などが出来て逆に息苦しい社会が構築されている。今更、情報化社会が後退することはありえないが、人間は考える生き物だけに情報の氾濫は正しい選択といえないと考える。情報が少ないと人は騙されたり誤魔化されたりすると言う危惧があるが、意図的に流される情報に対しての真偽が判断できなければ情報は逆効果になる。そう言えば、コピー機のリース契約などに際しては会社のHPがないと与信的に駄目だそうだ。胡散臭い会社ほど立派なHPを作っている事実からすれば情報化社会の偏った見方の弊害が出ていると思わざるを得ない。また、情報化社会で気が付いた事は、同じ情報を共有することが多くなるので希少性が尊ばれる様になった社会現象である。バンクーバーオリンピックの国母選手の服装問題などは典型的な誤った希少性の考え方である。何代目かの政治家の河野太郎と言う自民党政治家が国母選手の服装について擁護したらしいが、典型的な希少性に対する誤った考え方と言える。この様な発想をする政治家が自民党の若手の有望株なら危なくて国を任せられない。オリンピックに参加するのに競技で自己主張するのでなく服装で自己主張して何なのだと言いたい。日本国民は政治かも国民も本当に知的水準が下がった様な気がしてならない。"沈黙が金"と言われた社会が情報化社会になったので、口先だけの輩が跳梁跋扈する社会になってしまった。正に憂いる事態である。

モラル喪失の世代

日本国にとって悲劇なのは20年前にバブル経済が崩壊した後に出てきた社会の牽引世代が、太平洋戦争敗戦後の価値観混乱時代に幼少期を過ごした人達であったことである。もちろん、その世代をひと括りにして論じるつもりも無いが、その世代のモラル喪失は他の世代と比べて目に余るからである。政治家で言えば、小泉純一郎元首相であり、現民主党の小沢一郎を含めた上の世代である。小泉が先鞭を付けたのが、不祥事を起こしても閣僚を辞めさせなかったことである。小沢一郎も問題とされたのは政治資金規正法に係る形式的なミスであると居直っている姿は典型的なモラル欠如世代の生き様である。法律を作る側の政治家は罪状の軽重に関わらず重い責任がある事を省みない態度は最低である。経済界を見ても不倫写真を撮られても意に介さず居座っている姿を見ると情けないのひと言である。この世代が引き起こした刑事事件は枚挙に暇が無いが、困った事にはモラル喪失世代の子供達が親の生き方を継承して社会に悪影響をもたらしている事である。更に、問題なのはモラル喪失世代がトップの地位にいるためにその後継者達もモラル喪失の踏み絵を踏んだ者たちであることである。この様な悪循環が何時まで続くのかと思い遣られるが、今回の世界的な金融危機を乗り越えるには「ニューノーマル」が必要といわれているので、モラル喪失世代や後継者などが淘汰され、新しい指導者の出現を期待したい。

政治のレベルは国民のレベルで国民のレベルはマスコミのレベル

良く政治のレベルは国民のレベルと言われるが、一般新聞や経済新聞を読む人が多い日本の様な国ではマスコミの影響力が大きく、国民の意見は即マスコミの報道姿勢に直結しているので、国民のレベルはマスコミのレベルと3段論法的に言えるかも知れない。この様に考えると、マスコミのレベルが低いため政治のレベルも低いと結論付けられる。本当に驚くのは多くの人たちの意見はマスコミが流した報道を鵜呑みにしたものである事実である。かなり知的水準が高い人でも同様なのだから怖い話である。なお、良く世論調査などの結果を新聞・TVは報道しているが、多くの場合は答えに迷っている時に誘導尋問的な言い方によって答えているケースが多いので当てにならないと思われるのに、マスコミは金科玉条の如く世論調査を国民に流して恣意的に世論を誘導している。現代のIT社会では漸くマスコミ以外の情報も入手出来る様になったが、問題は信憑性の基準が不明確なためインサイダーの様な情報以外には信憑性の面で疑問視されていることである。しかし、IT社会の普及で新聞を購読しない世代が増え、デジタル放送になれば双方向の情報やTV番組も提供されるので、一般紙の購読はチラシによって支えられる主婦レベルに落ちてしまうかもしれない。そうなればマスコミが誘導してきた世論が終わり、漸く政治が変わるかもしれない。

荒唐無稽かどうか皆様で判断

民主党・小沢一郎が不起訴措置となった。小沢が検察の任意調査に応じてから不起訴にいたる過程で検事側と何か取引があったと思わせるのは、任意調査後の小沢一郎の検察側に対する姿勢である。検察庁も小沢一郎程の大物なので取り調べに対しては無礼が無いように進めたと思われるが、今回の展開で気になるのは水谷建設が賄賂を供述しているのに拘わらず秘書達は政治資金規正法で起訴したが、収賄罪に対しては自白や決定的な証拠が無く公判が維持できない等の理由で捜査が終了することである。勿論、検察側も無闇に政治に介入する事は避けたいであろうが、今回の顛末など当初から分かっていた事なのにここまで行なったのには別な理由があり、小沢と検察側はそれに対して話し合いをする必要があったと思わざるを得ない。この答えとしては、小沢の不起訴前に米国の国務次官補が小沢と面談している事実である。この先に語ることは推測の域をでないが、小沢が頻繁に心臓病の治療として英国に行ったことがヒントかもしれない。大分古い話になるが、マッチポンプ議員として名を馳せた自民党に田中彰治と言う国会議員がいた。年配の方で記憶が良いかたなら恐喝で逮捕されたことを思い出すと思うが、国会の予算委員会を利用したマッチポンプで稼いだ金をスイスの銀行に預金していたとの週刊誌の記事もあった。余談だが、当時の検察は汚職政治家として2人の田中の逮捕を狙っていたが、もう一人の田中とは小沢一郎の親分の田中角栄である。さて、今回の金融危機では思わぬ副産物があったが、それはスイスの各銀行が米国政府に対して屈辱的な預金口座の開示であった。小沢一郎が英国に行って一時的に所在不明となった記事を良く読んだが、穿った見方をすればスイスの隠し口座に対してのアクションと考えられる。この口座を米国国務省に握られ、検察庁は米国から口頭で情報を開示された可能性がある。この推測に基づく今後の展開だが、小沢と検察が取引をしたとすれば小沢は病気を理由に公職から身を引くシナリオである。しかし、米国政府は小沢を利用したいので、小沢が引退に追い込まれるシナリオは好まず隠し口座の資料は検察庁に渡さない事を小沢に伝えたのが不起訴前の小沢と米国国務次官補の会談であると思われる。真実はどうかは今後の小沢の行動で分かるので、このblogが荒唐無稽かどうか判断して下さい。

トヨタの問題はグローバル化の企業規模拡大を目指した当然の帰結

トヨタのリコール問題がマスコミなどに大きく取り上げられているが、何をマスコミは大騒ぎしているのかと余りに無知に驚いている。トヨタの信頼性など国内の部品会社との連携によって作り出されていたもので、海外企業の部品会社に依存すればトヨタの信頼性などGMレベルになることは至極当然なことなのである。この様な事は20年以上前からコスト的に合わなくなって国外に工場が移転した段階で起きていることである。当社の業界でも、ビル内の設備に関しては部品調達を海外に依存するようになってから故障が増加し、日本製品の信頼性などその時点から低くなっているのである。勿論、日本のメーカーの多くは下請け会社も一緒に海外に出ているケース多く、品質管理に気を使っていた事は確かだが、グローバル化にあって果てしないコスト削減努力を必要となってからは日本メーカーの信頼性は年々低下してきている。日本メーカーにとって大変なのは国内と海外との販売を考慮すれば別基準で製造しなければならないことである。確かに、国内のユーザーは海外のユーザーに比べて性能評価やフル装備を要求するなど大変な面があったが、その反面価格的には旨みがあった。しかし、グローバル化の波と考え方が日本人にも浸透し、機能面に比較して価格が取れない様になって来て従来の物づくりの考え方が限界に来てしまったのである。皆が忘れているが、トヨタは自動車の技術が高くて伸びた企業ではなかったのである。日本の道路事情の悪い点を考慮するなど販売戦略で他の自動車国内メーカーを凌駕して行ったのである。その後は看板方式など在庫を持たない工夫で製造コストを抑え、利益率を向上させたが、トヨタなど日本の自動車メーカーが世界で評価される様になったのは、制御装置にIC化を導入し飛躍的に性能がアップしたからである。それまでは海外自動車メーカーの油圧方式に太刀打ち出来なかったのである。新社長となった豊田家の御曹司は金融機関出身と聞くが、私の知る限り「金融機関」と「商社」出身の創業家社長は失敗しているケースが多い。トヨタは技術より販売が企業の成長に大きく貢献してきたが、正に販売を通してユーザーの声を聞いて車造りを行なってきたのでトヨタは強かったのである。それが何時の間にか製造技術や看板方式など販売軽視とは言わないが、製造部門のコスト削減などの声が経営の主流になって来てしまい、今回のリコールの問題が発生したと思料される。グローバル化では企業規模を目指さないと生き残れないと言う考え方が浸透し、更にIT社会ではナンバーワンが圧倒的なシェアを確保すると言われるが、トヨタの新社長も自動車のIT推進派であったことが雑誌か何かに掲載されていた。トヨタがIT社会の法則でナンバーワン企業を目指した結果が今回の欠陥車に繋がったとしたら悲劇である。

汚職政治家と検察

小沢一郎と検察の戦いには多くの人達の意見で世間を賑わしているが、小沢一郎を擁護している人の殆んどは容疑の理由が「政治資金規制法」の点を指摘している。勿論、擁護派の人達も「政治資金規制法」は別件であり、狙いは汚職摘発に追い込むことである事を承知の上でのことと思われる。更に、検察の小沢一郎に対する執拗な追求が、小沢が反米的な姿勢を強めている事と官僚から政治を取り戻すなどの言動もあって今回の捜査に疑いを持たれているのも事実である。しかし、小沢一郎と秘書達の傲慢な態度や小沢のマスコミを使った政敵に対する攻撃を知ってる者は検察の追及を歓迎するであろう。小沢は毎日新聞の政治部の記者を使って自分に邪魔になる政治家のスキャンダルを暴露してきた。又、小沢の秘書連中がビル内の駐車場で接触した大手電機メーカーの社員に対して行なった恫喝紛いの事も聞いた。日本の政治は汚職政治家「田中角栄」の負の遺産を継承する小沢一郎を葬ってこそ良くなると思われる。田中角栄が警察庁出身の後藤田正晴と手を組んで以来、検察が汚職政治家に対する唯一の権力となったことも事実である。国税もそうだが、検察のマスコミに対するリークで国民の支持を得る姿勢は賛成しないが、今回の捜査では小沢一郎と言う強力な政治家相手なので検察庁の人事に介入されるのを防ぐ意味から認めざるを得ないと考える。何れにしても、小沢一郎と言う政治家は権力闘争能力は優れているのであろうが、政策的には評価できる面は一つもなく、闇将軍的な存在は日本にとってはマイナスと思われる。混迷した世の中では強力な権力者を願望するが、歴史的に見るとその時の選択が殆んどは失敗しているのは事実である。検察が小沢に行なっているのは国策捜査ではなく、田中角栄の延長線の汚職政治家摘発であることを国民は理解する必要がある。

未だに海外に回答を求める姿勢が混乱を招いている

日本人は余りにも長い間海外からの知識の導入で国づくりや会社の経営を行なってきたので世界の流れが変わる大事な時代に答えが出せず混迷しているだけである。NHK総合の「坂の上の雲」や「坂本龍馬」は今日的な状況を打破する狙いで放送しているかもしれないが、現代の日本が明治維新時の日本人の意識で活路が見出せる訳が無い。世界中が答えを持っていない今こそ多神教の許容ある国づくりを行なってきた日本の出番である。グローバル化は逆に国の価値を見出した民族が生き残れるのであり、国の誇りを失った民族など世界から相手にされないのである。アフガン戦争など古代から続くイスラム世界とキリスト世界の形を変えた宗教戦争である。欧米諸国と同様に日本が日本人の血を流す支援を行なう様な考え方は基本的に誤っている。9.11事件をテロと言うひと言で世界がイスラム原理主義と対立しなくてはならない様な情報操作が行なわれている。更に言えば、米国の金融資本主義の格差社会の貧困がテロを生み出しているのであり、アフガンなども貧困が原因である。IEAの会長に日本人が選ばれたが、イランと対立しなくてはならない地位に立候補する馬鹿はいないが、現代の日本人は何の考えも為しに地位に拘る姿勢は世界の笑いものである。この地位獲得に動いた外務省など国賊である。マスコミも国連より日米2国間の関係を重視する姿勢は相変わらずであり、CIAの情報操作が歴然である。米軍が駐留していると国防費が安く付くなどの幻想は20世紀の産物である。日本の安全を真に考えるならば自衛隊を国連軍に衣替えすれば、米軍駐留の日米2国同盟より遥かに安全なのである。21世紀は20世紀以前の思考を完全に消去する事からはじめる必要があり、その答えは多神教が共存してきた日本こそ主導的な役割が出来るのである。経済一辺倒の考え方からブータン国の様に国民幸福度を尺度にした国家造りが必要な時代に来たのである。答えは明治維新ではないことに気づくべきである。

エコに向かない低価格商品販売と低価格居酒屋

エコが社会のテーマになり、当然に企業もそれに右倣えとなりますが、グローバル経済はエコに逆行していると思われる。誰でも考えれば分かる事だが、ユニクロが出現して驚くほど安い衣料品が巷に溢れるようになった。多くの人は安い商品の取り扱いは無造作となり、短期間で破棄されることは間違いない。良く考えて欲しいが、高い物を購入すると大事に保管し、長年使用することになるので結果的にはエコとなる。豊かでない時代は否応なしにエコになったのである。更に、不景気で最近250円均一の居酒屋が出現しているが、人間の心理として安ければツマミも余分に注文することになり、結果的には廃棄物が多量に出る可能性もある。この様な考え方は本質を曲解していると言われるかもしれないが、グローバル経済は間違いなくエコには逆行している。例えば、電力が安くなれば価格に反して使用料は間違いなく増えることになるので、経済の発展には寄与するかもしれないが、エネルギー資源の観点から言えばマイナス効果である。最近まで物価が安くなるのは当然とばかりに多くの人々は考えていたが、グローバル経済が及ぼす地球環境の悪化に気づき、今や太陽光発電など高いエネルギーの導入に向かってきている。しかし、高いエネルギーコストは経済成長率を阻害するのでIT技術によるスマート電力の実現に向けて研究をスタートさせた訳だが、良く考えると資本主義の典型的な原理である「破壊と創造」の循環ーメビウスの輪ーで動いているのが分かる。自然の摂理を壊す人間の行為は最終的に人口増大でなく現象の方向へ大きく舵を取ることになると予想され、共棲を失くす遺伝子組み換え農産物などがその引き金になる可能性は高いと推測される。

「建築確認申請手続き」における期間短縮緩和の問題

国土交通省が構造偽造事件以降厳しくした「建築確認申請手続き」に関して期間短縮の緩和を行うと言う新聞記事が掲載されていた。誰でも分かる事だが、通常の手続きで日数が掛かるのを短縮すると言う事は、現場から言えば人を増やすか、人に変わる審査マシンを導入するかであり、その何れでもなければ審査する内容を省くと言うことである。現行の手続きフィーからすれば日数短縮を行なうには、いわゆる手抜きすると言う事であり、手続き日数を緩和した以降の建物には要注意が必要となる。国交省では、手続き日数の緩和に対して工事中の抜き打ち検査等で問題が起きないように対応するとのことだが、不思議なのは低金利時代に建築確認手続きに掛かる日数の短縮などそれ程意味があるのかと思われて仕方ない。地震国の日本では建物の構造計算が重要であり、幾ら経済がグローバルになっているからと言って緩和できるものと出来ないものがあるのは当たり前である。デフレ経済では価格競争が激化し、その結果不正が起きている。構造偽造事件に関しても準備不足で建築確認申請関係の民間委託制度を立ち上げた結果、不正が起きたのである。この不正後の対応も行政と民間審査会社に最終的な責任があるにも拘らず民間会社に責任を転嫁して一件落着させた。そして規制緩和以前より厳しい審査となり業界の負担を増したのである。今の社会は実務をしらない者が机上の理論ばかりで物事を決めているので矛盾と弊害だらけである。誰も責任を取らなくなった社会に不正が発生するのは当然な事である。尤も、規制緩和によって安心感が消えた社会では新たなビジネスが必要となるので、穿った見方をすればそれが狙いなのかもしれない。前原国土交通省大臣は就任前から建築基準手続きの日数緩和の持論者と言うことであるが、日本航空の時のタクスチームの様なインチキブレーンの意見を聞いて不正後のビジネスで儲けようとしている輩に騙されているのかもしれない。今後の国交省の動きには要注意である。

「他喜力」を実践する真の経営者がいなくなった

1月24日(日)の読売新聞の出版紹介の記事を読んで考えさせられた。新著「最幸の法則(ダイヤモンド社)」の著者はメンタルトレーナーとして有名な西田文朗さんと紹介されていたが、私は著者の事を知らなかった。記事の要約によれば、成功には、ビジネスで他者に勝つ「社会的成功」と、他者を受け入れる「人間的成功」があり、「かっての経営者は、社会的成功とともに、人間的成功を目指す思想家であり、教育者だった」と言う。ところが最近は、「社会的成功だけを求める人が増え、家族を喜ばさせた、社員を喜ばせたいと言った、一番大切にすべきところが崩壊している」と著者は指摘しているとのことであった。更に、究極の成功とは、生きて喜ばれ、死んでも人に惜しまれる。これこそが、人間の成功だと言われてきたが、現代では感謝の心を忘れ、攻めて勝つだけを考える経営者が増えてしまったと著者は語っているとのことであった。日本の商人には、売り手、買い手の他に世間も良くする「三方良し」の理念があったとのことで、「増収増益を目指す社会的成功も大事だが、仕事を通じて世間を良くするという志がないと、子供が立派に育たない」と言う言葉は身に沁みた。確かに、現代の社会で成功者と言われる経営者には上記に該当する人物が殆んどいない。当社の創業者は正に著者が指摘する「他喜力」を実践する真の経営者であった。当社のHPの社是は創業者が作ったものだが、興味の有る方はHPをご覧頂きたい。現社長の私は「社会的成功」には程遠い経営者だが、「人間的成功」だけは実現したいと思っている。

車内で新聞を読むマナー

私が乗車した地下鉄車両の私の周囲で日経新聞を読んでいた乗客が3人居た。2人は男性で私の横で読んでいたのは若い女性であった。以前と違って車内で読んでいる新聞は圧倒的に日本経済新聞となった。現代の日本が如何に社会問題より経済問題の関心に比重が移ったかを証明している。勿論、日経のCMが効果を発揮している面も否定できないが、それ以上に私の若い時代には官庁や企業の御用新聞の位置づけであったのが今や一般紙以上にビジネスマンに読まれている光景は世の中がお金中心になった証であることを実感する。先の3人の内1人が横に座っている乗客の顔近くまで新聞を広げて読んでおり、然も詰めれば一人座れるスペースを占有していたために横の乗客から注意された。この様な光景は珍しいが、横の方は余ほど無神経に新聞を読んでいた男性に腹が立ったのであろうと推測された。注意された後にこの男性はスペースを空けたが新聞は相変わらず広げて読んでいた。少し時間を置いてからその男性は注意された乗客に何か言っていた。多分、「此れで良いでしょう」とか言ったのではないかと思われる。ちなみに、他の2人は新聞を四つ折りにして左右の乗客に迷惑を掛けないように読んでいた。注意された男性は40歳前後で身なりも顔付きも立派であり、勤務先の会社では能力が評価された者である様に窺い知れた。しかし、初歩的なマナーも身に着けてない姿を見ると頭は良いのであろうが育ちは良くないことが直ぐ分かった。この様な場面に出会う度に、私はお金持ちの息子に生まれたわけではないが、成長する過程で社会人として基本的なマナーを教えてくれた家族、教師、学校の先輩に感謝の念を改めて思う。

日航(JAL)の会社更生法申請で真の航空行政を!!

日本航空(JAL)に対する最近の論調を見ると政治と行政に翻弄された犠牲者の様な意見が目立つが、これは会社再生に多額の税金を投入する必要があるために意図的な情報操作を行なっていると思わざるを得ない。勿論、日航は国策企業として政治と深く関わりあってきた事は確かだが、その反面国が潰す事はないと言う慢心でホテルなどの不採算事業を多く行なってきた事や必要以上の高賃金体制で会社経営を行った事も事実である。国民や国にお金が無かった時には皆謙虚であったが、戦後の経済成長で世界第2位の経済大国になってから国家も国民も無駄使いを何とも思わなくなった。その結果が1000兆円に届こうかと言う国の借金である。ただし、この背景には日米貿易の不均衡に対する米国の内需拡大の強要も関係していたことも又事実である。誰しもが忘却の彼方に置いて来た米国の内需拡大要請による公共投資500兆円プロジェクトの実施計画である。記憶では米国の要請で国内の公共投資プロジェクトが洗い出され積み上げ方式でリストに上がったのだが、当初はとても500兆円のリストなど作れなかったのである。このため、米国に提出するために経済性が低い多くのプロジェクトがリストに載る事になったのである。東京湾横断道路プロジェクトなどはその典型的なものであった。マスコミはその様な事実関係を忘れて無駄な公共投資と国民を煽り立ているが、膨大な公共投資を遣らなければいけなかった理由とそれに便乗した政治家の利権を理解した上で報道すべきと思われる。確か、30年以上前の運輸省の航空行政は今日の様な無駄な飛行場建設など目指してはいなかったのである。地方の飛行場と大都市圏の飛行場はコミュータ(小型航空機)システムで確立し、実需の少ない地方飛行場には大型ジェット機用の滑走路や必要以上の乗降施設の建設などは考えていなかったのである。それが何時の間にか軌道修正されて地方の飛行場も殆んどが2500m規模の大型機が離着陸出来る滑走路とそれに見合う施設が作られたのである。勿論、時代の変化で軌道修正された面もあると思うが、何時の間にか地方の飛行場まで海外乗り入れを目指したのは正しい選択だったかどうかと思われる面もある。海外乗り入れには貨物の需要と相俟っての事と推測できるが、それにしても効率の良い投資の考え方があれば現在の様な無駄な投資はなかったと思われる。何れにしても、日本航空の破綻を機会に日本の航空行政が政治家などに翻弄されない真の姿に戻る事を期待したい。尤も、民主党政権が政策の主導権を官僚から取り戻すことを表明しているのでダーティな部分を持つ政治家が主導する航空行政を国民は今こそ選挙権を有効に活かして監視する必要があることは論を待たない。

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