米国に壊された世界経済

世界経済の今日の混乱の萌芽は米国のレーガン政権から始まっている。当時の米国はベトナム戦争の後遺症で物質的精神的にダメージを受けて経済が低迷していた。レーガン政権が行った政策は軍事と国家の再建であるが、軍事の方は旧ソ連との核競争に終止符を打つことであり、経済政策は規制緩和を進めて民間に任せられる部分は民間に任せて小さな政府で財政再建を果たすことであった。然し、レーガン政権時代には想定できなかった旧ソ連の崩壊と急激なIT革命による情報化社会の出現であった。レーガン政権時代には石油ショックから立ち直った日本が世界経済の先頭を走っていた。米国は太平洋戦争以来となる再度日本の強さの秘密を徹底的に研究し、日本弱体化のシナリオを書き始めていた。日本研究の結果、日本の経済の強さは、一つには含み経営、二つには政治の安定、三つには優秀な官僚組織と分析した。この分析に従って、米国は日本叩きを開始した。勿論、当時の日本人が米国本土の土地や建物を買い漁って米国人のプライドを傷つけたことが大きな原因と考えられる。日本叩きと同時に規制緩和や逆に世界に躍り出た日本の金融機関に対する規制となる資本率の問題も議論になった。今から振り返るとグローバル経済では当然な事だが、当時の日本は会計基準一つとってもグローバル化には遠い存在であった。しかし、この点に目をつけた欧米は会計基準の問題で日本の含み経済を攻撃し、更に資本率の低い日本の金融機関に対し海外の活動する場合には資本率の引き上げを求めたのである。この他に、プラザ合意で急激な円高と内需拡大の要請による500兆円公共投資プロジェクトの推進を求められた。この後の事は周知の事実だから書くのは止めるが、日本のバブル経済崩壊とその後のデフレ経済で日本は沈没した。この間、レーガンとブッシュ父政権の後に誕生したクリントン政権がゴールドマンサックス出身のルービン財務長官などを起用して金融緩和を更に進め、IT技術と相俟って多くの金融商品を開花させた。旧ソ連崩壊とIT技術がグローバル化を推進し、世界経済が繋がったのである。ベトナム戦争時に大量のドルを印刷したので、実体経済以上に世界にドルが流動する様になり、然も北朝鮮の偽ドルの蔓延もそれに拍車を掛けた。フローしたドルが獲物を狙って投機資金として動き回り、アジア通貨危機を招いた。その後、米国はIT経済に陰りが出てきたので、国内の住宅など不動産投資に資金を提供し、資産バブルを引き起こした。資産バブルに一役買ったのはサブプライムローンなどインチキ金融商品であった。金融商品のバブルには格付け会社が後押しし、金融化商品のリスクを避ける為の金融商品を生み出すに当っては、誰もが実態を解明できない迄に複雑化した金融商品が世界中にばら撒かれた。金融商品をばら撒いた主役はユダヤ人だ。ユダヤ人が経営する金融機関や投資ファンドは儲けを企んでマッチポンプ紛いの行為を行い、獲物を捜し求めた。ギリシャの問題などは、ギリシャに財政問題でゴールドマンサックスがインチキを教えてEU加盟させた事が発端だ。今回のEU各国の国債発行金利の上昇は全て米国の投資家が仕組んだ危機であり、金儲けのために国家まで破壊させる動きは看過できないもである。ドイツなどは米国の企みに気づき、金融資本主義からの脱却を模索する動きに出て来ている。米国に破壊された世界経済は米国不動産の資産担保証券(ABS)の時限爆弾を抱えており、予断を許さない状況が続いている。

業界紙の日本経済新聞が一般紙並みに影響力を持ってきた危なさ

日本経済新聞と言えば業界の太鼓持ちと相場が決まっていたので記事の信頼性など評価していなかった。特に、政府関係の記事に関しては、政府が国民の反応を探るために意図的にリークしていることが通説だったので、日経はまたお先棒を担いだかと理解したものであった。日経新聞と言っても所詮は業界紙なので、バイアスが掛かった記事に関しても軽視していたが、若い世代が一般紙以上に日経新聞を読んでおり、記事の信憑性に疑問を持っていない姿を見ると本当にやばいと思うようになった。TVのCMも旨いのだろうが、新興企業の社長などが社員に日経新聞を読まない奴は駄目だと発言しているのも普及の手助けをしている様だ。社会経験の浅い若い社員にのみならず、ある程度成功した人達まで日経新聞を無批判に信用していると思うと、戦前に軍部のお先棒を担いで国民を戦争に駆り立てた朝日新聞を思わざるを得ない。確かに、日本が競争社会になり、年功序列制度が崩れてきた現代においては、一般社会の記事より、経済専門の新聞の方が有用と考えるかもしれない。然し、人間の成長を促し、大局的に物事を見れる力を養うには、何事も偏らない情報を得ることが肝要なのである。私が20代に海外、特に韓国経済をウォッチする仕事をしていたために、ソウル経済新聞と言う業界紙を読んでいた。日経新聞は海外の経済紙と提携してたかもしれないが、ソウル経済新聞の一面に掲載された記事を一日後に日経新聞の一面に一字一句違わずに掲載されたのを見た時には驚いた。日経新聞の関連雑誌の日経ビジネスに元日経新聞の記者が、ソフトバンクの孫社長に取材すると孫社長は記者を媒介人としか見ないので空しさを感じると書いている誌面を見た。私は日経の元記者の考えかには驚いた。確かに、記事を面白くするために何かを引き出すやり取りも必要なのだろうが、無理に聞き出す内容に真実があるのだろうかと思うと同時に、嘘でない限りは取材した相手の言葉をそのまま伝えるのが仕事だろうとも思った。記者に勝手に解釈されて記事を掛かれては取材を受ける側にとっては危険極まりないことになる。況してや、記者も他の業界や政治家に繋がっていたら余計にリスクが生じてしまう。海外の新聞記事を丸ごと載せている新聞社の記者の言うことではないと笑ってしまった。国民にとって新聞記事は媒介人として何も思惑がなく掲載してくれることが重要であり、記者のバイアスが掛かった記事など読みたくもない。最近の日経新聞を読むと、財務省の言いなりで記事を書いていることが良く分かる。財務省の主張が国家のためになると信じて財務省の政策を支援しているなら、取材源が財務省と書くことだ。財務省を隠して記事を書いていること自体がやましいと言わざるを得ない。一般紙以上に業界や政府の影響を受けて書いている業界紙が、国民に大きな影響力を持つこと自体が国家の先行きに危うさを感じる。新聞記者など耳学問の最たるものなのに、取材先の業界で汗を流した経験もないくせに偉そうな物言いをする記者を見ると反吐が出る。一般紙も酷いが業界の日経新聞はそれ以上に政府の言いなり記事を書いているので、日本の先行きに不安を感じる。

財務官僚主導の日本は日露戦争の旅順攻撃と同じだ

現代日本の社会を見ていると、日露戦争の時の乃木希典と配下の参謀が行った旅順攻撃と同じ過ちを犯していると思わざるを得ない。日本人の欠点の最たるものは、目的を目的化して他が見えなくなるということである。財務官僚が野田総理を洗脳して断行しようとしている消費税大幅アップなどはその典型的な事例になると思われる。財務官僚が日本の政治を主導する限り、日本国民は正に旅順攻撃に向かわされる攻撃将兵と同様に死地に行かされることになる。学問中心主義のエリート教育の弊害が頭の固い柔軟性がない人間を指導者に育成してしまう。学問エリートは机上の理論を組み立てるのは旨いので、論理的には反論できない様に見える。然し、実戦(実践)を経験してきた者から見れば、本質を見ていないで枝葉末節に拘ったものであることが直ぐに分かる。木を見て森を見ずの類である。先日放送されたNHK「坂の上の雲」で日露戦争の二〇三高地攻撃に対する児玉源太郎と乃木の参謀との遣り取りに興味深い部分があった。児玉が攻撃に際して大型大砲を15分間隔で砲撃することを指示した時に、砲兵参謀が攻撃将兵を誤射する可能性があり、天皇の御子を天皇の砲弾で殺すことは出来ないと反論した件である。それに対して児玉は、此れまでの無謀な攻撃で多くの将兵を殺したのに何が誤射するから出来ないと怒って言った言葉が印象的で、正に現代社会では"公平"と"平等"とかの言葉に置き換えれば同様の理屈で全てが反論できない状況となっていることが理解できる。その為に毎年3万人の自殺者が出ている社会が改善もされずに放置されてきているのである。サラ金予算の仕組みも変えずに消費税だけ上げる遣り方は正に無謀な旅順攻撃と同じである。太平洋戦争においてエリート軍人は国民を消耗品として考えていたが、現代社会の財務官僚も同様ではないかと推定できる。学問エリートの政策などに従わないことがグローバル社会で生き残る方法であり、無能な政治家に対する反論である。現状維持の消費税アップなど言語道断であり、行政の大改革と国会議員定数の半減なくして断固消費税など値上げさせてはならない。財務官僚の「公平」や「平等」と言うインチキ言葉に騙されてはならない。

"坂の上の雲"に見る人間教育の問題点

NHKが年末に特別番組を組んで放送している司馬遼太郎「坂の上の雲」のドラマが3年目の今年で完結編を迎えている。昨日は乃木希典の旅順攻撃の場面であったが、この戦では人の教育と言うものを考えさせられる。乃木は吉田松陰も教えを受けた人物から幼少の時から学問を学び、乃木の書いた文章や詩は天才的であった。一方、乃木の窮地を救った児玉源太郎は、毛利藩の支藩である徳山藩の中級武士の子供として育ち、幼少の頃に身内の暗殺死体を一人で処理するなど学問では学べない経験を有している。幕末の戊辰戦争には二人とも10代で参加しているが、二人とも多くの戦場を経験した訳ではない様だ。しかし、児玉源太郎の方は明治期に起きた多くの騒乱の鎮圧に参加して手柄を立てている。又、児玉源太郎は明治陸軍に教師として招聘したドイツ人将校メッケルから多大な評価を受けている。学問主体に作られたエリートの乃木と幼少の頃から逆境にあって実務で頭角を顕した児玉との差は歴然であった。乃木と配下のエリート参謀が正攻法の作戦しか立てられずに多くの将兵を突撃だけで死なせたのだが、児玉は機転と戦争における非常さの中での最小限の被害で勝利すると言う考え方で作戦を立てる柔軟な思考の持ち主だった。この様な柔軟な思考は幼少よりの実践の中で培った能力と思われる。翻って、現代社会の指導者を見ると、正に学問主体の乃木の様なエリートしか見当たらない。乃木は確かに頭がよく学問の能力にも秀でていたのだろうが、今言われている地頭の良さは養われていなかったと推定できる。学問が出来る者には良く見かけるのだが、融通が利かない頭でっかちと言う欠点である。今の日本は幼少の頃から塾に通わせられて正解だけを追い求める子供が指導者になっている。現代社会の悲劇は、日露戦争の時の無謀な旅順攻撃を何度も行った乃木と配下の参謀の様なエリートが、国などの指導者に君臨していることである。日本社会は非エリートから這い上がった優秀な人物が度々国を救ってきた歴史があるが、近代社会になって教育一辺倒の人材が登用されるようになってからは国家の方針に間違いが生じてきている。その最たるものが官僚政治である。昭和の陸軍が無謀な戦争に走ったのは、幼年学校から入学した学問エリートの参謀たちが支配したからである。知識があっても知恵がない輩が偉そうに国の進路を決めている姿に慄然とする。財務官僚などはその筆頭であろう。並みの頭でも子供の頃から勉強すれば一流大学には入れるのである。一流大学イコール頭の良さではないことを認識しなければ日本社会は良くならない。知恵がない学問エリートを評価しないことが良き社会を作る最も重要な点だ。

欧米諸国のイラン攻撃が迫ってきているのか!

欧米の経済危機の報道と相俟って欧米諸国から独裁政治国家と名指しされている国々が倒れたり混乱している。ICTなどの情報技術がアラブの春など民衆の蜂起の原因と言っているが、シリアとリビアで異なった現象が起きている。シリアの様に資源がない国には欧米諸国は武器等を供給するなどの支援を行わないが、リビアには人まで送って支援している。勿論、欧米諸国はリビアから原油を輸入しているので、内紛が続くと経済がより悪化するので沈静に手を貸したと言う大義名分はある。然し、米国のイラク戦争が捏造した情報で開始された様に、真実は別な所にあると見るのが常識だ。欧米の経済危機と資源争奪戦争とが平行して起きていると見るのは穿ちすぎだろうか。昔から経済危機を乗り切るのは戦争が一番効果的と言われている。米国の9.11事件も未だにCIA関与説が消えないのも、イラク戦争は9.11によって引き起こされたもので、その背景には米国のITブーム崩壊の不況期に入っていたからである。その様な視点で見ると、次のターゲットはイランであることは間違いない。今朝のNHKニュースで野田政権は欧米に追随してイランに対して経済制裁を強化したことを報道していた。これにより、野田総理のスタンスが見えたのだが、野田が公務員の息子、然も自衛官の息子であることが米国追従政治になり、今後は中国と軋轢を生む可能性が高いことを予想される。日本の間違いは明治維新後にロシアと戦うために英国と同盟を結び植民地主義政策を進めたからに他ならない。日清戦争後、日本が中国と手を結んで中国の近代化に協力したならば全く別な日本社会が存在していたと思われる。日露戦争に戦時国債を購入して資金を出したのはユダヤ人であったが、購入したのはロシア内に生存していた500万人のユダヤ人がロシア帝国の圧制から解放したい一念からであったことが現代になり分かった。マスメディアも金融もユダヤ人が支配している状況は現代でも変わらない。尤も、エジプトの様にイスラエル国家に対してプラスに働かない動きもあるが、欧米政治が関与しているので、それも織り込み済みかもしれない。過去の歴史から見れば、イスラエルを脅かすイランの存在は看過できないと思われるので、イランの原子力開発に難癖を付けて戦争を仕掛ける可能性は高いのである。然も、欧米諸国は戦争をしたくて獲物を探し求めている。野田総理は父親に勧められて政治家の道を目指したと述べているが、父親が自衛隊でどの様な職務についていたか一切報道されていないことに疑問を感じる。穿った見方をすれば必要以上に米国に協力する自衛官であったならば、その息子の野田総理も自ずからその道が正しいと信じて突き進むかもしれない。消費税値上げの一直線、TPP参加問題、今回のイラン経済制裁強化と見てくると、米国は野田総理を親密なパートナーとして機密情報を提供する代わりに、日本のコントロールを強める可能性がある。もし、現防衛大臣が辞職し、次の防衛大臣に誰を就任させるかで推測が当っているかどうか分かる。その観点から言えば、大阪市長選の橋下攻撃の主体は米国であったと思われる。橋下大阪市長の動きは米国にとっては日本支配において目の上のタンコブと言えそうだ。荒唐無稽と言われそうだが、ひとつ言えるのは欧米諸国のイラン攻撃が迫っていることだ。欧州のソブリン危機ばかりに気を取られていると間違った見方をしてしまうので要注意だ。

「Beフラット」を読んで

30台の若手女流作家「中村安希」の書いたノンフィクション"Beフラット"を読んだ。日経ビジネスの誌面で採り上げていたので、興味が湧いて週末に住まい近くの書店を覗いたが置かれてなく、アマゾンで購入するしかないのかと考えていたら隣駅の駅ビル内にある書店で1冊だけ置かれていたのを見つけて購入した。本の内容は日本の若手国会議員、世襲政治家でない者を対象にインタビューしたものだが、単なるインタビューの記載ではなく、作家の留学体験や帰国後の派遣社員の体験、そして海外諸国訪問の体験を交えながらの国会議員の考え方に言及したものであった。著者の中村安希は高校を卒業後米国の大学に留学し、卒業後3年間米国で働いて帰国し、その後は派遣社員として色々な体験を積んでいる変わった経歴の女性だ。彼女は当然に米国社会の良い面と悪い面を見てきている。帰国後の派遣社員として働いて日本社会の酷さも知った。そして海外諸国を歩いて多くの国で日本の評価も体験した。この様な体験の持ち主の作家が若手国会議員18人にインタビューして感じた日本の政治の印象は私が想像したことと同じであった。少数の議員を除けば殆どの議員は通常の社会ではうだつの上がらない連中が政治家になっていたと言う現実だ。この本を読むと日本の政治は変わらないと言う思いを強くした。実社会の経験が少ない者が机上の理論を唱えている姿にはあきれる他ない。その様な者が国民が国家に甘えているとか、耐える精神が欠如しているとか非難する自体に呆れる。この本の中に実名で登場している政治家は評価できるとしても「良貨を悪貨が駆逐する」と言う諺を思い浮かべると日本の将来は暗い。著者は特に最初から政治家を目指し政経塾などに学んで政治家になった人物に対して批判的であり、少なくても政治家として志すなら実社会を経験する必要があると書いた場面である。私も同感であるが、その観点から言えば、実社会経験のない現在の野田総理は最悪になりかねない。尤も、官僚にとっては洗脳出来やすいので好都合であろう。官僚の催眠術に掛かった様に行政改革など無視して消費税の増税一直線であり、国民の議論など無視したTPP参加の決定など単細胞の理由が理解できる。みんなの党の若手議員が消費税の増税でフラットな社会造りを唱えているが、理論は正しくても行政改革や予算の仕組みを変える発想がなければ、逆に財務官僚に利用されるだけであろうと思われた。何れにしても実名で登場した国会議員達は人物に優れていると思われるので、政治に失望しないで頑張って欲しいと思う。然し、著者の見た政治家は若手ばかりでなく、中高年の政治家の殆どが実社会では通用しない人物が国会議員であることに敷衍するとこの国の将来に不安が起きる。特に小選挙区制度になって国会議員の質が落ちたと思われるので、国民は最悪の選択を行ったと考えざるを得ない。国民は議員削減と同時に「選ばない権利」を主張し、選挙制度の改革を国会に求める必要がある。

EUで起きている問題には理由がある?

ギリシャに端を発した国の信用不安は金融機関を巻き込んでEU内の各国に波及し、更に世界経済に悪影響を及ぼそうとしている。この混乱をどの様に見るかで今後の世界経済を行く末を見るのが大きく変わる。EUの通貨統合で指摘されていた欠陥が正に露呈している訳だが、全く別な観点で読み解くと違った姿が見えてくる。確かに、リーマンショックがEU経済の混乱の引き金にはなったが、本当にその事が全てであろうか。情報化技術の急速な発達で世界経済はグローバル化したのは事実である。そしてグローバル化が時代の流れと見るとEUの進めていた政策は流れに逆らっていたと見える。メディアの報道では世界共通のスタンダード作りが進んでおり、その中に参加していないと多くの面で主導権が奪われ、従属的になってしまうことを指摘していた。表面的に見るとその通りであるが、よく考えるとIMFの唱える自由貿易とは相反する面があると思われる。その理由としては、世界経済は現時点では各国の国内法や制度で差別化されており、その差別化には理由がある訳だが、その理由を無視したEU内で通じるスタンダードを国際標準にする遣り方は無理があると考えられる。国際標準とは聞こえが良いが、よく考えるとEU内に製品などを輸出するにはEUが打ち出したルールに従えと言うことであり、見方によってはブロック経済の変形と思われる。このEUの動きに一番危惧したのは米国であると思われる。米国は世界貿易に必要な通貨を供給し、第二次世界大戦以降は常に世界経済の主導権を握ってきたからである。特に、ブロック経済を危惧しているのは世界の金融やメディアを牛耳っているユダヤ人達であると推定できる。穿った見方をすれば、リーマンショックを引き起こしたサブプライムローンなどやCDSなどの商品はEUがブロック経済化するのを壊す役割で開発されたと考えても可笑しくない。実際の所、正にリーマンショックはEUを揺さぶっており、崩壊の危機に直面している。この点から言えば、米国のTPPもブロック経済になるので、時代の流れに逆行したものと考えられる。陰謀説は余興だが、時代の流れに逆らうと破壊されると言う観点から見れば、EUの混乱は正に経済圏の拡大と貿易囲い込み的な方向に向かったのが天の怒りをかったと考えられる。何れにしても、グローバル化では国際基準が必要なのは当然だが、その基準がひとつの経済圏を基準にしたものではブロック経済化する恐れがあり、IMFの自由貿易に反することになる。更に、貿易の主導権争いが米国のTPP推進の様な新たなブロック経済化になるのでは、日本の様な加工貿易立国が成り立たなくなる。情報化の時代になりグローバル化が世界に君臨した独裁者を放逐し民主化が進んでいるが、一方では新保護貿易主義となる国際標準作りと言う名の下にブロック経済の芽が出てきている。IMF理事長が自由貿易を守るためにEUを救済する必要があると言う言葉には説得力がない。

祝 橋下大阪市長当選、松井大阪府知事当選

今回の大阪市長選及び大阪知事選のW選挙ほど行方が気になった選挙は過去になかった。世界中で転機が求められている中で、日本も漸く時代に追いついて行けそうな主役が登場した。橋下さんは今後明治維新に習って現代の坂本竜馬などの呼称で呼ばれるかもしれないが、私が思うには維新の言葉は良いが、橋下さんには反幕府の既成勢力を結束させた過大評価の坂本竜馬ではなく、新時代に活躍した人ではないが、上杉鷹山の様な指導者を目指して欲しい。今の日本は先ず、官僚支配の無責任な無駄使いの予算主義を打破しなければ真の改革とは言えない。グローバルと言う言葉で国内の問題より外の動きに目を奪われているが、政治とは足元を堅固にしてこそグローバルに打って出られるのである。現代の日本は明治時代の様に闇雲に西洋化を目指すのではなく、逆に日本文化にアイデンティティを求め、グローバル化に対応する政治が必要なのである。西欧の真似事をしてきた結果が今の日本の閉塞状況だと言う認識が先ず必要なのである。それには官僚政治の脱却が必要であり、市民に政治を戻すことである。勿論、現代日本が駄目になった原因のひとつには、西欧の日本化の過程で歪曲したものもあり、それが日本文化否定になっている誤解があるので、日本及び日本人とは何かを考える必要もある。日本は移民の文化から独自の日本文化を築きあげてきたのであることを再認識し、現代西欧のシンプル文化の上を行くエンプティの日本文化をグローバル化の中で活用することである。現代の維新は西欧に追いつく維新でなく、日本が世界に向けて発信する維新になるべきと考える。橋下さんの政治にはそれを期待したい。

前中日監督・落合博満の著作「采配」を読んで

指導者として以前から興味を持っていたので、中日監督退任と同時に発売された著作「采配」を購入し、23日の勤労感謝の日に一気に読んだ。私自身は野球と言うスポーツには子供の頃から余り興味が無かった。成長過程で野球と自動車に興味がないのは時代的に子供同士のコミュニケーションに欠ける嫌いもあったが、好きになれないものは仕方が無かった。尤も、自動車嫌いは父親との関係で生じたものであるから野球とは別な理由であった。振り返ってみると、私自身は団体スポーツが好きでなかったのである。団体競技で行ったスポーツは唯一中学時代のバスケットボールである。小学生の時には高学年で剣道を遣り、中学時代には趣味的には色々な運動をしたが、クラブ活動としてはバスケットボールに所属した。勿論、個人競技として卓球部があったが、不思議と眼中に入らなかった。高校時代は体育の授業で剣道と柔道を学び、部活動としては応援指導部に入った。そして大学時代は運動としてはボクシング部に入り、趣味として登山に熱中した。話が大分横道にされたが、野球に関心がない私でも落合博満と言う人物には興味があった。落合監督は秋田県立秋田工業高校出身で東洋大学中退なのだが、大学は野球で入ったと思われるので、学力を見るには秋田工業高校になる。落合世代は未だ大学進学率は低く、学力があっても家に資力がなければ実業学校に入った時代である。私の優秀な同級生も資力的に大学に進めない者は水戸工業高校、水戸商業高校や水戸農業高校に入学している。落合監督は県庁所在地の秋田市内の工業高校に入学できたのであるから中学時代の成績は良かったと推定できる。今話題の読売新聞の渡辺会長が、巨人軍の原監督と落合監督を評して言った「落合の方が頭が良い」の言葉を思い出した。確かに、落合監督は頭が良いと思われるが、それ以上に"采配"に書いている通り、落合監督は最初から野球エリートでななく、紆余曲折を経てプロになり、その後は誰も成し得なかった三冠王3度を獲得して漸く野球エリートの道に乗り、45歳迄現役を貫いた。この経験が監督として生きていると書かれているが、正に努力の人である落合選手を名監督に育んだ環境があったと思われる。落合監督自身が語っている様に確かに野球選手は個人事業主であり、1年毎の契約の世界であり、競争社会である。当然に若い世代との時代ギャップもあるのだろうが、そのギャップを克服している姿には驚く。又、コーチに関しても仲間を呼ぶと言う考えは全くなく、実力主義を貫いている姿にも孤独に強い落合監督が見えてくる。私自身も経営者の端くれだから落合監督の「孤独に勝てなければ勝負に勝てない」と言う言葉は身に染みる。当社の先代社長が私に残した言葉も「経営者は孤独である。孤独に勝たないと経営者になれない。」であった。当社の先代社長も自ら自覚しないと仕事は出来ないと言う考えの経営者であったので、私が入社しても何も業務について細かい指図は呉れなかった。このため、自分の立場を考えて業務の指図を仰いだのだが、落合監督も正に同じような考え方をする人である様だ。自らが考えて動かなければ身に着かない事を良く知っている人である。"采配"の中で器用で勘が良い者に対して面白い見方をしていたのに興味がそそられた。「勘が良く直ぐに覚えるものは直ぐ忘れるが、覚えが悪い者は只管練習するので覚えると忘れない」と書いていた。スポーツ選手は器用貧乏では大成しないと言うことであろう。本を読み進むに連れて分かったことは、落合監督も団体スポーツの野球を選んだが、本質的には個人競技の人ではないかと言うことであった。当社の先代社長も個人競技の柔道部に入り、茨城県で勝ち抜いて全国大会に出場した程の猛者であった。勿論、大学時代も柔道で汗を流し有段者であった。個人競技者は人と群れることを好まない。落合監督の書籍から判断してだが、個人競技に進んだ人は孤独に強く、指導者に向いているのかもしれない。翻って、最も指導者に向かないのは団体競技のプレイヤーで最初からエリートの人かもしれないと思った次第である。何れにしても、落合監督の「采配」を読んで彼が優秀な指導者であり、然も人間自身を良く知っているのには驚かされた。

hpgrp GALLERY東京 11月以降の展示会のお知らせ

hpgrp GALLERY東京の11月からの展覧会情報をお送りいたします。
また、下記のとおり、オープニングレセプションを開催致しますので、
ご多忙中とは存じますが、皆様お誘い合わせの上、是非とも
ご来廊賜りますようお願い申し上げます。


■伊藤 一洋 「unknown touches」
会期:2011年11月30日(水) - 2012年1月15日(日)
オープニングレセプション:2011年11月30日(水) 19:00~21:00
※今回のオープニングは水曜日に開催いたします。
また、19:00まで準備のため閉廊させていただきますのでご注意ください。
会場:hpgrp GALLERY 東京

ブロンズの可能性に挑み続ける彫刻家、伊藤一洋の新作展をご案内申し上げます。
黒く佇み現在の人間(我々)を表す「Dear Blind Phantom」シリーズ、
未来に現れるであろう新種の生命体の象徴として黄金色に輝くまで磨かれた
「Liquid Golden Baby」シリーズ、そして未知の存在、宇宙人として白銀色に輝く
「Starman Loves You」シリーズを中心にブロンズ彫刻を作り続ける伊藤は、
本展でも引き続き「彫刻は最終的には一枚の板、一本の棒になる」という
自身の彫刻哲学に基づいた作品を披露致します。

原型を作らずにブロンズの塊そのものから形を見出していくその手法は、
ブロンズ=鋳造という概念を覆すだけではなく、素材の永遠性と技法の即興性
という時間軸のコントラストを含みます。
制作過程で生まれる偶発的な形状と、磨きあげられた部分との視覚的対比も
重なり、単一素材とは思えない程豊かな表情を見せてくれる伊藤彫刻をこの機会に
ぜひご高覧ください。

伊藤一洋 Kazuhiro Ito
1972年  福岡県生まれ
1997年  武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科卒業

【個展】
2010 「fallen genius」hpgrpギャラリー東京(東京)
「The return of the thin bright duke」 ヤマネアートラボ(福岡)
2009 「Evidence」 hpgrpギャラリー東京(東京)
2008 「The baby can dance, phantom cry」 hpgrpギャラリー東京(東京)
2007 「LIQUID GOLDEN BABIES」ギャルリー東京ユマニテ(東京)
2006 「LIQUID GOLDEN BABY」to.ko.po.la(福岡)
2005 「彫刻の本能 vol.2」 なびす画廊(東京)
2002 なびす画廊(東京)
2000 「焼かれ猿、立ち眩んで半歩」田中画廊(東京)
1999 「焼かれ猿の顎」田中画廊(東京)

【グループ展】
2010 「love and punishment」 aura gallery (北京)
   「久月」 aura gallery (北京)
   「DIMENSIONS-版表現、その広がり-」
東京日本橋高島屋6階美術画廊X (東京)
2009 「掌9」ラディウム レントゲンヴェルケ(東京)
2008 「Moeglichkei(t メークリヒカイト)」
ラディウム レントゲンヴェルケ(東京)
   「無題/UNTITLED」 hpgrpギャラリー東京(東京)
2007 「彫刻の本能 vol.3」 hpgrpギャラリー東京(東京)
2005 「奇妙な庭、にて」田中画廊(東京)
2004 三人展「火群の芽」桃林堂画廊(東京)
2003 二人展「彫刻の本能」なびす画廊(東京)
ギャラリーなつか(東京)
「Melting Pot」田中画廊(東京)

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■伊藤一洋展示情報
本展覧会に引き続き、1月13日(金)より佐藤美術館での展覧会
「sogno・夢~彫刻家二田原英二と次代を担う作家展~」に参加いたします。
こちらも合わせて是非ご覧いただきますようお願いいたします。

「sogno・夢~彫刻家二田原英二と次代を担う作家展~」
会期:2012年1月13日(金) -3月4 日(日)
会場:佐藤美術館 160-0015 東京都新宿区大京町31-10 TEL.03-3358-6021
website: http://homepage3.nifty.com/sato-museum/index.html
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■冬季休廊のお知らせ
hpgrp GALLERY東京は、12月30日(金)より1月3日(火)まで
冬季休廊とさせていただきます。
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■twitter、Facebookでもhpgrp GALLERY東京の情報をお知らせしております。
是非ご覧ください。

twitter: http://twitter.com/hpgrpgallery
Facebook: https://www.facebook.com/H.P.FRANCE.hpgrpGALLERYTOKYO
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アッシュ・ペー・フランス株式会社
hpgrp GALLERY 東京
director 戸塚 憲太郎

150-0001 東京都渋谷区神宮前5-1-15 CHビル B1
Tel:03-3797-1507
Fax:03-6805-0840
Email:art@hpgrp.com
URL: http://www.artdiv-hpf.com/tokyo
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大阪市長選で懸念する警察の動き

大阪市長候補の橋下さんを潰す為に大きな力が動いている。全く関係ないと思っていた島田伸介の暴力団交際による芸能界引退劇も敵の本能寺は橋下徹と言う政治家に対する攻撃の幕開けであった事が今では分かる。最初は大阪市長選相手の平松候補の仕掛けかと思ったのだが、平松候補の立候補演説を聴いて買いかぶりなことを理解した。尤も、一時は平松候補が米国NYに駐在していたことがあるためにCIAとの関係も疑っては見た。しかし、メディアを通した執拗な橋下候補攻撃には疑問が湧いてきた。ひとつ言える事は今回の橋下候補の攻撃には警察官僚が絡んでいる事実だ。警察を動かせる存在となれば限られてくる。遠い日々になるが、私の亡父が警察官僚の陰謀によって選挙違反を仕組まれ、21日間警察署の留置所に拘留されたことを思い出した。この事件は亡父が参議院全国区から立候補した人物を仕事の関係で茨城県における選挙対策本部を引き受けることになったことに起因した。亡父は当時村議会議長であったが、思想的には革新系であり、革新無所属であった。しかし、参議院立候補者は自民党から出馬していたので、亡父は知人の茨城県の古参の自民党党員である町議会議長を選対の本部長に立て、本人は事務局長として実質的に選挙を仕切った。私は当時学生だったが、東京から戻り兄とともに選挙を手伝った。最初に後援会事務所を開き、選挙開始時には同所を選挙事務所とした。後援会活動のときに午前中に事務所に車で来た時に運転手つきの警察官が道路に停車して後援会事務所を見上げていた。その時は何とも思わなかったが、後日考えるとその警察官は茨城県警の本部長で敵情視察であったと気がついた。応援した参議院候補は30歳の若さで立候補し、義父の兄は右翼の大物であった。亡父はこの右翼が持つ利権を収奪しようとした田中角栄と後藤田正晴の争いに巻き込まれたのである。この時に警察を糾弾すべき事が起きた。警察が右翼活動している男を亡父の選挙事務所にスパイとして送り込んだのである。この男は後援会本部事務所に来訪し、右翼の大物を尊敬しているので選挙活動を支援したいと申し出てきた。亡父は何の疑いも無く選挙活動の一員に取り立て、右翼活動しかしていないこの男の家族のために報酬まで支払ったのである。この男が警察のスパイと分かったのは、亡父が逮捕されて警察から選挙違反の証拠として示された書類等を見せられたときである。この男は後援会活動の時の書類を保管し、指示されたことをその時に行わず、選挙開始後に実行したのである。明らかに亡父が選挙違反を行ったかの様な既成作りの行為であった。亡父は一本気な男であり、曲がった事が大嫌いな性格であり、然も気性が激かしかったので、選挙の投票日に投票所で逮捕されて警察署で取調べを受けた時には徹底して警察と戦った。警察の拘留が終わり、検事拘留になり、厳しい検事の取調べを受けたが、亡父は断固として否認し、21日間の拘留を受けた。当時は今と違い、検事が証拠を捏造したりする時代ではなかったので、最終的には警察の反対を押し切って拘留を解き、否認調書を作成して起訴猶予となった。私は警察の卑劣さに今でも憤りを持っており、国家権力で人を陥れるのは共産主義の警察国家だけでなく民主主義の日本で堂々と行われる事を知ったのである。田中角栄や後藤田正晴の卑劣な姿を知らない人達は評価しているが、私はあれほどの糞野郎を見たことがない。田中角栄の晩年が惨めな姿になったのは天罰であろう。後藤田正晴はその後も官界に影響力を及ぼしてなくなったが、天罰は女性問題で世間を賑わした孫の後藤田国会議員に下ると信じている。天網恢恢疎にして漏らさずとはよく言ったものである。大阪市長候補の橋下さん攻撃に警察官僚を動かし、またメディアを動かすのを見てこの行為を断固許すべきでないと思った。現時点では、関西電力や財務省の影がちらついているので、何れかかそれとも両者が絡んでいるかもしれない。このため、橋下候補に警告したい。警察のスパイが選挙違反をでっち上げるために入っているかもしれないので注意しろと。そしてその後ろにいる巨悪を叩けと言いたい。遣られたら遣り返せが鉄則だ。

TPPは新保護貿易主義の変形ではないか?

TPPのTrans Pacific Partnershipは、所謂多国間自由貿易主義と名付けられているが、実態は囲い込みの新保護貿易主義に他ならない。IMFのトップが来日して自由貿易を維持するためにECを支援して欲しい旨の発言をしたが、EUこそユーロを統一通貨として保護貿易に向かいつつあったのではなかったか。1930年の大恐慌後の保護貿易主義は英国など植民地を有している国々が植民地貿易を盟主国が独占したもので、現代の様相とはまるっきり違う。米国のTPP推進はEUを睨んでの貿易国の囲い込み競争の感がある。EUが貿易において基準作りを始め、各国がEU内の諸国と貿易する為にはその基準を守らなければ行わせないと言うことを進めた。このことは一種の保護貿易主義の変り種なのに、日本の政治家や官僚、そしてマスコミも能天気に単なる基準作りと考えている節が見える。しかし、米国はEUの狙いを読み、更に中国の台頭を抑止することを目的にTPPを打ち出したのである。自由貿易主義を推進するのは各国に違いがあるのは当然なので国対国の交渉で行うべきものである。ロシアも新保護貿易主義の匂いを感じ、旧ソ連時代の衛星国との再連携を打ち出した。この流れから中国もTPPと同様の経済圏の囲い込みを開始すると想定できる。日本の政治理念からすればTPPの参加は理念から外れるものであり、危険な新保護貿易主義の競争に加担することになってしまう。日本は明治維新後の国づくりで大きな誤りを犯したのに、再度TPP参加で誤りの道を歩もうとしている。日本はアジア人である。中国と韓国、そして台湾を貿易関係国とし、更に東南アジアの国々との経済連携を強化することが重要なのである。米国はアジアの国ではない。太平洋国家の一員でもない。米中に対し等距離を置く事こそ日本が世界経済に貢献できることである。馬鹿な政治家と馬鹿な官僚がマスメディアに誤魔化されて間違った道を進んでいる。絶対に阻止する必要がある。多国間自由貿易主義とは新保護貿易主義の台頭であることを理解すべきだ。

尾道散策

    2011-11-13 09.06.10.jpg8年振りの尾道行きだった。パートナーの故郷なのだが、私が同伴するのは法事だけである。今回も前日に法事を済ませ、翌日に尾道散策をした。尾道には福山から自動車で行くことが多かったので、林芙美子の「放浪記」の冒頭に出てくる"海が見える、海が見えた、5年振りの尾道の海だ、なつかしい"は在来線の電車で行かなければ見れない風景だった。今回は林芙美子の世界に触れたくて在来線の電車で尾道に入った。まさに、林芙美子が見た風景が現在でも変わらなくあり、尾道に行くには新幹線や自動車ではなく、はやり在来線の電車で行くべきと痛感した。尾道駅に降り、1km離れた船着場に行き、渡し船に乗船し、向かい側の向島に渡った。この島に渡ると尾道の町が一望できる。パートナーはこの向島に育ち、高校には毎日渡し舟で尾道の町に渡り、2km位の道のりを通った。途中から急な坂になるので、逞しい足になったのであろう。子供の頃育った向島の船着場周辺を歩き、再度渡し船で尾道市街に戻った。NHKの朝ドラの「てっぱん」で尾道の風景が良く流されたが、実際の撮影は周辺の島の造船所などの風景を使ったので、朝ドラの風景を見ようとすると尾道市内と向島だけでは見れないそうだ。海運輸送の江戸時代には潮溜りの停泊地であり、尾道商人が財をなし、多くのお寺さんを山の斜面に造った。明治以降は回船の輸送が寂れたが、日立造船が進出し、戦後の造船ブームには景気が良かった。しかし、何時も思うのだが、尾道水道は海ではなく、川の様に見えて仕方がない。尾道を訪れる人は誰しもが思える風景と言える。文人、志賀直哉も「暗夜行路」に同様の感想を書いている。現代の尾道は造船業の衰退で商店街は他の地域同様に寂れ、シャッター街となっている。しかし、昨今は観光ブームで若い人たちが頑張って来ており、懐かしい街として少しは良くなっている様だ。昼にお好み焼きの尾道焼きを食べることにし、商店街で聞いた店に入ったが、パートナーの評価は厳しく、然もへらで鉄板の上から直に食べれなくて憤慨していた。私は皿でも十分に熱いままで食べれたので良かったのだが、作り手の手先が不慣れだったこともあり、パートナーは納得していなかった。極めつけはおたふくソースではなく、カープソースを使用していたのにも憤慨していた。広島人のお好み焼きに対する拘りを見せ付けられた思いであった。今回の尾道散策は満足すべきものであったが、途中で尾道出身の漫画家のかわぐちかいじ、代表作は"沈黙の艦隊"、が尾道美術館で「尾道の人物誌」を描いていたのを知ったが、山の上であったので行けなかったのが残念だった。次は3年後に来る予定であるので、今度はどの様な旅にするか今から楽しみだ。 NCM_0015.JPG  

TPP問題で分かったのは国づくりに国会議員が不要なこと

TPP推進派の国会議員はTPP参加で国を開き国家の構造改革を進めると騒いでいるが、この推進派の声を聞いた国民はその様な手順でしか構造改革を進められないなら国会議員など不要と考えることに思い及ばないのだろうか。衆議院参議院を合わせて800名近くの国会議員に血税を与えて国づくりを任せているのに、米国の作った米国に有利なシナリオのTPPに参加しなければ国を変えられないと思うなら、国民として思うことは即時に推進派の国会議員は職を辞すべきだということだ。第二の開国などと暴言が罷り通っているが、現代は封建時代とは違い、議会制民主主義の社会である。国民から多額の報酬を貰って何もできないなら国会議員など不要の一言に尽きる。東日本大震災での復興計画の遅れや福島原発事故に対する放射能対策の遅れなどで国民から国会議員に対して不信感をもたれているのに、外国からの圧力がなければ構造改革も進められないと言うなら国会議員連中に言いたいのは、国会議員の職を辞して下さいしかない。TPP交渉は誰が行うかと言えば、実務者レベルで行うので官僚になる。国会議員が出るときには重要な交渉は終わっており、単なるセレモニーであることを考えると、構造改革を邪魔し、責任をとらない官僚に交渉などさせて良い結果が出る訳がない。TPP参加するなら、国会議員の定数を半減してから行うのが正論だろう。マスメディアも国民にTPP参加を訴えるなら国会議員の無能さも報道して定数削減を訴えろと言いたい。この国の議論は本当に誤った視点で行われてる。

大阪市長・知事ダブル選挙の結果次第で日本の未来が分かる

金に目が眩んだ週刊誌・月刊誌による橋本さん叩きが激しいが、今回の動きで分かった事は反改革派の何ふり構わぬ抵抗が今後の日本を占えるということだ。もし、橋下さんが敗北すれば、戦前の軍部とマスメディアが一体となって突き進んだ間違った道を、再度日本が歩む図式になる事は間違いない。橋下さんの血族暴露記事から始まって松井府知事候補の元暴力団との関係の記事が手当り次第に出たのを見て、当初に想定した平松大阪市長に対する仲間意識の応援とは違うと思う様になった。平松大阪市長が幾ら毎日放送出身だからと言っても、新潮社や文藝春秋社を動かせる力は無いと思ったので、平松市長のNY勤務からCIAの繋がりを思い浮かべた。然し、計画的に記事が順次掲載されるのを見て漸く橋下さんの敵の正体が推測できた。敵の正体とは関西電力である。電力会社は地方経済では類を見ない力を持ち、広告業界に隠然たる力を有している。推測だが、関西電力は今回の橋下さん叩きを電通などの大手の広告代理店を通して行なっているものと思われ、企業生命を掛けて橋下さん叩きに打って出た考えられる。平松大阪市長の出馬や池田市の倉田市長の出馬は関西電力の支援が確約されたことによるものと考えて間違いない。電力会社と言えば、若い時に電力・エネルギー関係分野に関係がある仕事を経験していたので電力会社の裏表を熟知している。関西電力が従来に無関心であった大阪市長選挙や大阪府知事選挙に対し、今回気が変わった背景には原発稼働問題があり、九州電力との佐賀県知事との友好関係を意識しての事と推察される。私自身は電力会社に対して敵意を持っていないが、電力会社の企業風土は地方が色濃く出ており、一転敵にすると怖い存在なことを知っている。電力会社の原子力発電所の用地の地上げには暴力団が絡んでおり、金融機関と同様に総会屋との結びつきが強い企業体質を持っている。勿論、準公共的な企業の意識も持っており、一般の民間企業の様に閉鎖的ではない。面白かった電力会社の筆頭は中部電力で、全くの実利主義に徹した企業であったことを記憶している。関西電力は東京電力に対しライバル意識が強く常に意識していたが、横暴な企業風土ではなかった。然し、今回の関西電力の橋下さん、松井さん叩きはえげつないとしか言いようがない。金と権力を持った企業が個人に対して刃を向けるなど許されるものではなく、私の推測が当たっているとするならば、関西電力の原発再稼働など絶対に認めてはならないと思われる。戦前は軍部と警察という暴力装置によって国民は苦しめられたが、現代は警察とメディと云う組み合わせの暴力装置により、平成維新と云う改革の流れが止められようとしているのは危険な事だ。暴力団を反社勢力というが、企業に使われた警察やメディアのペンの暴力も暴力団同様の反社勢力ではないのか。国民の真の敵は誰なのかを考える時期にきているほど警察やメディの横暴が目立ち始めた。そして電力会社の様な準公共的な企業の横暴さを弾劾しなければ、再度日本は誤った方向に進み始め、国民が苦しむことになる。

TPP参加で農業・漁業・林業を再生させられるか?

日経ビジネスで農水省の元事務次官である高木勇樹とか言う人物が我々の農業支援は間違っていたので、今後はTPP参加で農業の再生を目指すべきだと論じている。この論文は日経ビジネス電子版に掲載されていたのだが、パスワードを忘れてしまったので最初だけしか読んではいない。しかし、日本の農業・漁業・林業を駄目にした行政のトップであった者が言う言葉ではない。彼が論じているのはここ20年位の農業の問題に過ぎない。日本の農業は戦後の農地解放で小規模の自作農の出現となった。この自作農を支援する組織が農協であった。尤も今の若い都会育ちの人は農協の組織自体の成り立ちが分からないと思われる。基本的には農協を支配しているのは農業を行っている農家の代表なのだが、問題は組織が大きくなり、商社や金融機関の機能、更には病院なども持つようになって行くにつれて農民の味方ではなくなった。勿論、今になって日本の農業を語ることはすべてが結果理論的になってしまうが。先の元農水省の次官は東京大学法学部出身者である。家業は何を行っていたかしらないが、少なくても農家の出ではないと推察できる。私も農業に関しては職業としての経験はない。しかし、農村に育ち、曾祖母や祖母、兼業の両親の農業を見てきており、然も父は村の農業委員、県の農業委員に選任されていたので、農業に対する議論の真っ只中にいた。私が中学生の時に父の同志である村の農業委員の方に集約農業について述べたら、その様な事はお前の父親と散々実践してきたことだと叱られた記憶があり、今でも鮮明に記憶している。日本の農業は1965年辺りから行き詰まっていたのである。理由は簡単である。国が工業立国、貿易立国としての経済政策を進め、農村から働き手を奪ったからである。仙川民主党政調会長代理が農協を批判したが、農協だけが日本の農業を駄目にした犯人ではないことを知るべきだ。日本が豊かになるために、所得を向上させるために農業を犠牲にしたのである。私が高校時代に既に日本の農業は三ちゃん農業になっていたのである。三ちゃんとは、爺ちゃん、婆ちゃん、母ちゃんであり、父親は農業から離れて工場などに勤務していたのである。勿論、地域差はあるので全部ではないが、東北などは出稼ぎで成り立っていたのである。農水省などが支援したと言う戯言は聞けない。日本の農業を捨てた代わりに補助金や休耕田補償などの金銭的な支払いで誤魔化していたのである。その様な行政を進めた人物がTPP参加で農業再生など口に出すこと自体論外だ。特に、農業人口は減少し、何兆円もの売り上げが落ちているのに、行政組織と役人は少しも減少していない現実を国民はもっと知るべきだ。翻って、日本の農業は効率一辺倒の大規模農業や法人化で克服できる様な単純な問題ではない。日本の農業、林業、漁業を考えるの事は地域の将来と文化を考えることでもある。大規模農業は生産力が上がるが、畢竟、食の安全や健康的な食を失う危険性が大きい。日本の議論は何時も周回遅れの議論である。大規模農業などは米国や豪州に任せれば良い。少なくても食に恵まれた日本の食材を維持するにはどの様な農業が相応しいかを議論し、グローバル化がローカルの重要性を気づかせた様に、今こそ時流に流されない議論をすることが重要なのである。新しい農業、21世紀の農業とは何かを議論しないで、国土の狭い日本に農業の未来はない。又、農業をどうするかは農業の現場を熟知した人が語ることであり、農業の現場を知らない者に語らせるべきではない。特に、日本の農業を駄目にした役人や学者や政治家などは語る資格はない。

待ち望んでいる三陸産の生ワカメ

3月11日を境に当家の食卓から三陸産の生ワカメが消えた。髪の毛が寂しくなっている私なので海藻類は好んで食べるのだが、色々と食べてきたワカメの中でも三陸さんの生ワカメはは歯ごたえと新鮮さでは別格であった、他の生ワカメと比較して多少高くはあったが三陸産の生ワカメは美味だった。三陸海岸の津波による惨状を目の当たりにし、数年間は口にする事は出来ないかも知れないと言う思いが過ぎった。田舎の母も三陸産の生ワカメを食していたことがお盆に帰郷して分かった。宮城県の村井知事が特別区なる構想で漁業の再生を考えているらしいが、今以て具体的な動きになっていない。無責任な構想だけでは逆に三陸の漁業は死んでしまう。漁業の現場を知らない政治家達や官僚は自分達が衰退させたにも拘らず無責任な発言が多いが、三陸地域の漁業関係者の危機感は悠長な政治家や役人とは違っていた。昨夜見たNHKの午後9時のドキュメンタリーは三陸の漁業者が正に行政の支援なしで皆で力を合せて大地震と津波から乗り切って来春にはワカメを出荷できる迄に到ったドラマであった。今回のドキュメンタリーで思ったことは日本の農村と漁村が衰退した原因は行政にあることが理解できた。行政が余計なことをやる度に農業も漁業も林業も駄目になって行った。宮城県の村井知事は特区で漁業再生などと戯言を言っているが、容だけを作っても意味がないことを理解すべきだ。村井知事は考え方が自民党の小泉に似ているのでミニ小泉などと言われているそうだが、今回の地震で東北三県の中で最も行政が機能しなかった県であることを理解しているのかだ。大規模漁業で再生すると言うなら水産大手の大洋漁業や消えた日魯漁業はどうなっているかと聞きたい。国家などの行政支援を待っていては地域に住民が居なくなる危機感から自らが動いて他地域のボランティア支援を得て新しい道路建設や漁港内の廃棄物を片付け、更にが大型漁船まで購入して頑張る三陸地域の漁業の素晴らしき人達を見て目に涙が溢れた。それに付けても何の役にも立っていない政治と行政には怒りが生じると共に、大震災と放射能除線の目途もたっていないのにTPP参加などといっている野田政権に希望はない。私は三陸産の生ワカメを購入する事位しか出来ないが、今から春に出荷される生ワカメを待ち望んでいる。衣食足りて礼節を知ると言う故語があるが、今の日本人は衣食が足りすぎて礼節を失っており、その代表が政治家と役人だ。地域の人は助け合い厳しさに立ち向かっている。三陸地域の人達を見ていると大きな政府など必要なく、逆に小さな政府で良い事が改めて思われた。消費税値上げなど必要なく、国有財産を売却して借金を返し、小さな政府になることが、地方再生、特に漁業、農業、林業の再生に繫がる事が改めて分かった。

hpgrp GALLERY東京 11月11日開始のアートフェア「超京都」などに出展

ULTRA004_ChoKyoto_hpgrp.JPGhpgrp GALLERY東京では、青参道アートフェアの開催に引き続き、
本日より始まりますエマージング・ディレクターズ・アートフェア「ULTRA004」、
また11月11日(金)から始まりますアートフェア「超京都」に出展いたします。
出展作家はいずれも伊藤一洋、川久保ジョイの2名です。

ブロンズの可能性に挑み続ける彫刻家、伊藤一洋は、本能的に嗅ぎ取る
「向こう側の世界」、すなわち芸術的彼岸を追求している作家です。
この後も11月30日(水)からのhpgrp GALLERY東京での個展、
また1月には佐藤美術館でのグループ展への参加を予定しております。

本年のH.P.FRANCE WINDOW GALLERYでの個展に始まり、数々のアートフェアでも
注目を集める川久保ジョイは、独学で学んだ緊張感のある写真作品を発表しています。

また、青参道アートフェアもいよいよ11月3日(木祝)までの開催となりました。
皆様ご多忙とは存じますが、ぜひスケジュールをご調整いただき、
アートイベントの多いこの秋を楽しんでいただければ幸いです。
皆様のお越しをスタッフ一同お待ち申し上げております。

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■ULTRA004(ノーヴェンバー・サイド)
会期:2011年11月1日(火) - 11月3日(木祝) 11:00 - 20:00
会場 :スパイラルガーデン(スパイラル1F)
ブース番号 :20
出展作家:伊藤一洋、川久保ジョイ
http://www.spiral.co.jp/e_schedule/2011/10/-ultra004.html


■超京都
会期:2011年11月11日(金) - 11月13日(日)
会場:名勝渉成園(東本願寺)
出展作家:伊藤一洋、川久保ジョイ
http://www.chokyoto.com/


■青参道アートフェア
会期:2011年10月29日(土) - 11月3日(木祝)
時間:11:00-20:00 (店舗により異なります)
会場:青参道、表参道、原宿などファッション系を中心に25 店舗
URL:http://www.aosando.com/artfair/2011
主催:青参道アートフェア実行委員会 (hpgrp GALLERY東京内)
協賛:アッシュ・ペー・フランス株式会社
協力:BLUE NOTE TOKYO


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是非ご覧ください。

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アッシュ・ペー・フランス株式会社
hpgrp GALLERY 東京
director 戸塚 憲太郎

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Tel: 03-3797-1507
Fax: 03-6805-0840
Email: art@hpgrp.com
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人類に対する警告

Cortlandt-20111029-00036.JPG 折れた樹.JPG地球規模で異変が起きている。この異変をどの様に考えるかはその人が育ってきた環境に左右されるが、NYの友人から届いた大雪のメールを見るとタイで起きている大洪水と相俟って色々な思いが錯綜する。若いときは自然に対しても尊大であり、宗教的面を否定していた私であったが、馬齢を重ねる毎に否応なしに自然の怖さや人智では計り知れない得体の知れない事実に驚愕する。TVでは世界の人口が70億人を突破した事を報道しているが、それに伴う地球の負荷に対して省みたコメントは少ない。半世紀で倍になった人口がもたらしている地球環境に対する影響は計り知れないと思われる。ICTの発達で経済や人の交流でグローバル化をもたらしているが、一方では格差社会を拡大し、既知の学問では解明できない問題が目白押しになってる。日本では今、多くの人の間で詩が読まれている。先日、友人からのメールにも94歳になる母に100歳の詩人「柴田とよ」の詩集を贈ったら2回読んだと書かれていた。そして彼の哲学の先生は母親と書いて来た。優秀な彼には素晴らしい母親がいたのかと思い、改めて人格形勢には親が重要なのを再認識した。東大震災以降にも多くの人の詩集が読まれ、TVでも早逝の詩人「金子みつ」の詩が流された。私も偶然に目にした雑誌で偶成の詩人「高橋元吉」の詩を目にして感激し、早速、全詩集を購入した。NYの友人から大雪のメールが来た後に机上のカレンダーを11月に変えたら相田みつをの詩「なやみはつきねんだなあ 生きているんだもの」が書かれていた。正に詩は単純だが心に響くものを秘めている。この様に書きながら、私自身は理系の出身なので、ここ数年に起きている地球規模の異常現象は太陽の黒点の活動が引き起こしているのではないかと考えている。勿論、太陽の活動の影響が人間の脳にまで影響を及ぼす事は、月の引力が動植物に左右する出来事でも類推できる。しかし、若い時分と異なり、年を経ると単なる自然現象と捉えるのではなく、存在自体に理由がある様に思われて哲学とは言わないが、人間ウオッチングに興味が出てきている。特に、効率一辺倒がもたらした経済に対する警告を考えてみたい。

築地本願寺広場で開催された相馬救援隊のチャリティオークションに参加して

  先週土曜日(29日)に築地本願寺の広場で開催された相馬救援隊のチャリティオークションに参加した。元日本女子バレーボール選手である益子さんが司会のアシストとなり、アスリートの人達が寄贈してくれた選手ユニーホームなどがオークションに出品された。勿論、益子さんも選手時代のユニフォームを何点も出品してのオークションであった。私も縁があって相馬救援隊のを立ち上げて活動している方々と面識があるのと、大震災と放射能の2重被災で苦しんでいる相馬地域の人達に少しでも貢献できればと思い参加した。開場に到着してから先ず相馬救援隊のデスプレイの場所に赴き、募金箱に寄付をして記念の帽子を頂戴した。その後開場で主催者の一人である佐藤さんを見掛けたので挨拶し、オークションの場所に立った。オークションならではの購入価格を競い合っての掛け声を聞きながら何を記念にオークションに参加するか考えていた。その時に、巨人の高橋由伸選手のサイン入りバット2本がオークションに出された。参加するかどうか一瞬迷っている内に1本6万円の価格が付いてしまったので諦めた。結局、2本とも同じ人が同じ6万円の値を付けて購入した。オークションはTシャッツや帽子、更に競技用の運動靴など小物類で始まったので、2万~3万円で推移していたが、野球バットで急にオークション価格が上昇した。その直後に、ナデシコジャパンの丸山選手の競技用のサイン入りTシャッツがオークションに上がった。女子ワールドカップで優勝して未だ熱も冷めていないので多くの人がオークションに参加すると思い、機先を制する事にした。先ずは司会が千円の値を付けたので間髪入れずに1万円を提示した。すると他の人が1万1千円を提示したので、取り敢えず1万2千円を提示した所、今度は小刻みに1万2千5百円を提示したので、今度は他者に考えるゆとりを与えないために2万円を提示した。司会は価格を煽っていたが、私の戦術が功を奏し、オークションは打ち止めとなりゲットできた。私の隣に立っていた年配の方が今だからこの価格なのだろうが、次のロンドンオリンピックで3位以内にでも入れば価値は上がると頻りに語りかけてきた。私自身は一応オークションに貢献したかったので、その役目は果たせた上に女子ワールドカップ優勝選手のサイン入り競技用Tシャッツを購入できたので満足した。その後はオークション観戦に入ったが、後半に入り商品の価格は釣り上がった。圧巻はアントニオ猪木の直筆の額のオークションで若い経営者が20万1千円の値を付けたことである。余程のファンアのであろうが、皆が驚いた価格であった。最後には再度益子さんんがイトーヨーカドー時代の競技用Tシャッツを出品したが、このTシャッツは益子さんの追っかけの年配の男性ファンが6万円で購入した。オークションが終わったので、その後は広場に設営されていたご当地グルメをワインを飲みながら堪能した。そして今回のオークションの他に楽しみにしていた相馬の騎馬武者イベントを見て帰宅した。しかし、この様なイベントをボランティアで行なっている方々は大変な苦労をしていることを思い感謝に耐えないと改めて考えた。知人の一人は現地の相馬に前日から入り、矢張りボランティアでハンバーグを焼いている。皆に感謝です。 NCM_0008.JPG 2011-10-29 14.18.53.jpg

橋下大阪府知事叩きに見え隠れする平松大阪市長にはNY勤務でCIA人脈ありか

月刊誌と週刊誌による橋下さん叩きの首謀者は平松大阪市長と分かったが、確かに平松市長は毎日放送出身でメディア仲間が居るからその人脈で今回の新潮や文春を動かしたかに思えたが、平松市長が米国のNYに3年間勤務した職歴を見て考え方を変えた。CIAは日本の戦後占領以降に日本人の協力者を多く確保してきており、協力者は下はヤクザから上は国会議員、官僚、マスコミ関係者、更には大学教授や評論家と相当数に上る。右翼の大物と言われた児玉誉志夫もCIAの手先だった位にCIA人脈は予想していない人物にも及んでいる。ミスター円と言われた榊原元財務官も指摘している様に米国の国益に沿わない日本人が現れると同じ日本人を使って叩くのがCIAの常套手段だ。今回の新潮社を利用しての橋下知事叩き、そして週間文春と続くのを見て可笑しいと感じた。週刊新潮と週刊文春は大手新聞系でなく色が掛かっていない様に日本人が見ている週刊誌を使ったことで疑問が湧いて来た。この為、平松市長の職歴を見たら案の定米国勤務、然もNYに3年間いたことが分かり、CIAの人脈に入ったと想定できた。尤も、CIAは巧妙だから平松市長は気付いていないかもしれないが、良き米国人の友人は正にCIAの連中であろう。米国の大学や大学院に留学すると優秀な連中にはCIAが近づき、資金の援助を含め米国生活に関して色々とサポートしてくれる。米国の将来投資だ。その様な意味ではオバマ大統領の父親もケニアの留学生であったので、CIAに懐柔されたかもしれない。その様に考えると、黒人で最初の米国大統領になれた理由も分かる気がする。話がそれたが、平松市長が3年間NY勤務時代にはCIAの情報を貰って出世の糸口を掴んだかもしれない。橋下さん同様に平松市長の一族や出世物語を調査すると面白い結果が出てくるかもしれない。推測するように、平松市長がCIAの手先だとすれば、選挙までに橋下さんに対し二の矢が飛んで来る可能性もある。平松市長の様な人物が大阪市の市長では役人天国の改革しか出来ない。大阪市民が今回の露骨な平松市長の橋下叩きをどの様に判断するか興味が出てきた。芸能人の島田伸介も橋下さんのとばっちりで暴力団交際を暴露されて引退したことが分かり、警察官僚を動かせるCIAならではの演出とは恐れ入り屋の鬼子母神だ。

地に落ちた週間新潮と週間文春の橋下大阪知事叩き

新潮45の記事に始まり、更に週刊新潮と週間文春による橋下大阪府知事叩きを見ると、相当に大きな力が働いていると推測できる。大阪市長選前のタイミングを狙った悪質な記事の掲載は報道と言う媒体を利用した選挙妨害でもあると言える。一つ言えることは、皆が不思議に思った芸能人の島田伸介の暴力団交際の引退も実は橋下さん叩きの前哨戦であることが分かったことだ。橋下さん叩きに警察官僚が介在したとなれば、警察官僚までも動かせる組織と言うことになる。橋下さんと官僚組織の対立と見れば、官僚組織の頂点に立つ財務官僚が動いていることになる。官僚が政治に干渉するとすれば由々しき事であり、無事に済ませるわけには行かない出来事だ。更に、飛躍した考えをすれば、マスメディアを通して日本をコントロールしている米国の存在だ。米国にとっては、橋下さんの様な政治家が日本で大きな影響力を持つ事は歓迎しないと推定できる。最近のツイッターで榊原元財務官がTV対談で米国は日本の報道機関を利用して邪魔な者を叩くと言ったことを書いた人が居る。私はそのTVを見ていないので真相は分からないが、思い出したのは榊原元財務官がミスター円と言われていた時に彼に関して書かれた小さなスキャンダル記事であった。その内容は当時の榊原財務官が女子大生の愛人が居ると言うものであった。その後ミスター円の活躍は多少鈍った様に思われた。然し、橋下さん叩きに関して言えば、直ぐに分かって書ける事をこのタイミングを狙って書いたかだ。それにしても、週刊新潮も週刊文春も情けなくなるほどレベルが低下したと思わざるを得ない。過っては、フリーの記者と共に巨悪を叩く週刊誌であったのにである。2誌とも地に落ちた犬に成り下がった。日本の既成政党の政治家と官僚と米国の連携で何時までも日本をコントロールされては話しにならない。戦後も60年以上が経過しているのである。勿論、橋下さん叩きを誰が行なっているかは不明だが、少なくても警察官僚が動いているのは確かなので、少なくても警察官僚を動かせる組織なのは間違いない。大阪府民が今回の橋下叩きに惑わされないで橋下さんを支援することを切望する。私は誰が橋下さんを叩こうとしているのか見極めたいと思っている。

 

国会議員は何億円もの金を子孫に残せる職業か

小沢一郎は4億円のお金は自分のものと主張している。出処は親からの相続とのことらしい。先ず、相続なら相続時の申告書を開示すれば良い。推測だが、時効を利用して申告漏れなどと主張すれば国会議員として傷が付くので、相続申告書に記載がないと考えて間違いはないだろう。その事以上に国会議員が選挙を行ないながら何億円もの資産を残せる職業かと言う事である。政治家が事業家の顔を併せ持つ人は別だが、政治家を職業とする者にとっては議員歳費が主たる収入源となる。衆議院ともなると平均3年位で選挙を行なう勘定なのだが、選挙で使うお金は半端ではない。選挙資金が寄付金などで賄える人は皆無と思えるので、身銭を切っていることは当然予想が付く。小生の亡父も地方の議員であったが、母がこぼすほど選挙で資産を食い潰した。地方議員でさえ資産を食い潰すのに、況してや国会議員レベルなら選挙に要するのは半端なお金ではない。百歩譲って、依頼毎の斡旋料や講演料、出版物などの副収入があると仮定すれば、先ず斡旋料に関しては贈賄の疑いがある金と言える。それ以外の講演料や出版物の副収入は合法的なお金と思われるが、問題は確定申告で収入を明確にしているかと言うことになる。何れにしても、手元に資金があると言う事は確定申告の履歴を見れば明確になるわけであり、小沢一郎も国会で堂々と説明すれば問題はないのである。しかし、小沢は記者会見でさえ答えず、検察に聞けとまで言うのは確定申告で明確化された資金でない事は確実と推定できる。問題は検察も贈賄の証拠がない限り、時効の壁で構成された遺産相続に対しては手が出ない。小沢一郎の父親も国会議員であり、事業家ではない。資産家の出身であるのは間違いないが、国会議員と言う職業で資産を食い潰すことを考えれば子供に何億円もの資産を残すことは難しい筈だ。小沢一郎の師匠の田中角栄は刑務所の壁の上を歩く男と言われ、検察が長年捜査してきた人物だ。然し、贈収賄の立件は容易でない事は、田中角栄の贈賄罪が米国のロッキード事件で漸く立件できたことでも分かる。田中角栄は事業家としては能力がなく、刎頚の友である小佐野賢二に事業のマイナス部分をカバーして貰っていた。それなのに、目白に大豪邸を構え、相当な資産を子供たちに残せたのである。国民が考える必要があるのは国会議員を職業とする政治家に何億円もの金が残せるわけがないと言うことである。小沢一郎は証拠もなしに単なる推論で秘書を有罪にし、自分を起訴していることを抗議しているが、相続時の確定申告に記載もないお金であり、唯一の反論が時効の壁では国民は納得しないのである。

産業界の為に農業が犠牲になった結果が今の社会だ

経団連の米倉会長がTPPに参加して日本経済の為に農業を犠牲にしろと放言した。戦後60年間、農家は日本の工業立国の為にと安い労働力を提供し、豊かになるのを夢に見てきた。然し、豊かになったのは都会に住むサラリーマンや公務員だけであり、日本の農業は衰退する一方であった。学識経験者などが産業界の代理人の如く農業の事も分からないのに競争がなかったとか補助金のために堕落したとか言いたい放題だ。国家も食糧管理制度で農家を規制で縛ってきた。田中角栄などは休耕田補償を実施して農家に米を作らせない制度を導入して農業を一層衰退させた。日本の経団連は日本の農業を駄目にしたあげく、今度は更にTPPに参加して国家の防衛に係る自給自足の芽まで絶つ見解だ。年間3万人の自殺者が出て、格差社会が広がり、何百万人の生活保護を受ける社会など守る必要がない。企業などグローバル化の中では何れ国を捨てるのが目に見えている。米倉経団連会長のTPP推進要請は亡国の輩の戯言だ。日本企業のサラリーマン社長などゴマすりでなった輩ばかりなのに1億円以上の報酬を取っている。1億円の報酬は非正規雇用の社員から生み出されているのだ。日本企業が日本から出て行って何処まで遣れるか見たいものだ。TPPなど断固として参加するべきでない。

成田国際空港

成田空港には海外に行く時に訪れる場所なので、此れまでは空港施設を時間を掛けて見学する機会を持たなかった。尤も、海外に行く以外に過去に2度ほど成田空港に行ったことはある。一度目も二度目もパートナーの帰国を迎えに行ったのだが、今から23年前の一度目の時は自宅を出て首都高に乗る前に事故を起こして仕舞い、迎えに行ったのは飛行機到着後5時間以上が経過したために親を巻き込んでの大騒ぎになった。当時は携帯電話が今の様に普及していなかったので連絡できなかったためである。二度目は今から12~13年前になるが、やはりパートナーを迎えに行ったのだが、この時にも空港内を見学する考えはなかったので時間に余裕を持たなかった。そして今回が三度目のお迎えなのだが、三連休の中日と言うこともあり、また空港内駐車場の位置にも気がかりなことがあったので、今回は十分時間を取った。この為、余裕を持って空港内の駐車場に着き、その後空港施設内のレストランで遅い昼食を取り、更に時間が余ったので施設内を物見遊山し、駐車場の精算機を確認した後に、屋上のテラスで飛行機の離着陸を楽しんだ。私は知らなかったが、飛行機に乗る乗客や迎えの人以外に多くの人達が飛行機の離着陸を見学に来ている。今回はパートナーがデルタ航空を利用したので第一ターミナルだが、そう言えば一回目の時は第二ターミナルがなかったので、南ウイングか北ウイングの何れかで良かった。しかし、二回目は確か第二空港に迎えに行った様な記憶がある。それにしても何時も思うのだが、空港内の駐車場の出入口のアクセスは不親切である。推測するに、合理的に考えた結果が利用者にとっては不便極まりない設計になったと思われる。又、時代の流れと言えば仕方がないが、今頃になって羽田空港が国際便の離着率を増やして名実共に国際空港になった。今の若い人達は成田闘争など知らないと思われるが、私の世代は成田空港建設反対運動の真っ只中で学生生活を過ごした。国が地元の意見を聞かずに勝手に候補地に決定したことが波乱の幕開けだった。然も、候補地の住民達の多くが満州からの引揚者であり、不毛の地を与えられて漸く作物が取れるようになった時に空港建設計画が持ち込まれたので、引揚者達の国に対する不信もあって成田闘争が起きた。政治家と役人がお上意識で進めた成田空港計画はその後多くの時間と多額の費用を投入して漸く国際空港として機能して未だ十数年しか経過していない。この間、東京湾の漁業も衰退し、漁業権を消滅させる事が可能になったことにより、東京湾の埋め立て計画が進み、同時に羽田空港の拡張計画もプラザ合意後の公共投資拡大とも相俟って規模を拡大し、国際空港としての整備がなされた。無駄な時間と多額の税金を投入した事業は成田空港や羽田空港ばかりではない。多くの公共事業が同様なお上意識で計画され、その結果が大幅な財政赤字と大量な国債発行となり、今日増税と言う形で国民に犠牲を強いる計画を進めている。従来の様に黙って国民が政府や役人のツケを受け入れては何も国家は変わらない。今こそ、過去の公共事業とその推進しか地方が成り立たない様な行政の仕組みに対してノーを突きつける時がきたと考える。

マスメディアとは違う中国の見方

日本のマスメディアはすべてにおいて真実を伝えてないが、特に中国報道に関しては意図的な情報操作が感じられる。この為、自らが中国の意図と実体を考察する事が重要であり、欧米の謀略に嵌まらないことになる。中国は紀元前から栄えた国である事を思い出さなければならない。日本の高齢者世代は戦前の中国蔑視の環境で育ったので直ぐに対抗意識を持って中国に反発する。又、若い世代は逆に歴史観が希薄で、到底中国人の考えを理解できない。然し、歴史的に見れば、他のアジア諸国と比較して中国の経済・文化は突出していたのである。況してや、中国にとって欧米諸国など紀元後、良いとこ数百年の経済・文化と見ていると推定できる。中国人がプライドが強いのは当然なことと考えなければならない。何せ中華思想を実践した歴史があるのだ。その中国のプライドを打ち砕いたのは近代文明であり、特に明治以降の日本であった。前段が長くなったが、結論から言えば中国人の時間は明・清の時代で止まったままであるという認識が必要と言うことである。政治的にも、近代国家として生まれ変わった様に見えているが、中国人の意識では国家と言う概念が未だ未成熟であり、明・清の封建国家とその後の国民党支配、共産党支配も何等変わっていないと言う現実である。更に、現在の共産党指導者の悲願は欧米と日本の侵略を受ける以前の状況に国家の勢力範囲を回復することであると考えると、中国はマスメディアが報じる覇権主義でなく、侵略以前に戻す事である事が理解できる。その様に考えると、尖閣諸島問題は現時点では中国は日本に譲歩していると推察出来るので、今後の日中関係にとっては重要な点である。島国の能天気な日本人は現在の民主国家の日本との比較だけで中国と中国人を見ているので間違った判断と言わざるを得ない。勿論、現代中国が世界中を敵にして明・清時代の勢力圏を回復するとは思わないが、動きは間違いなく回帰本能であることが分析できる。なお、中国人の意識は封建社会から近代社会に急速に変わってきているが、悪い事に途中で金融資本主義に感化されたので、価値観がお金になり、道徳観が急速に衰退してしまった感がある。中国は今でも中央国家が地方に対して完全な支配権を確立したと言えないが、逆説的に言えば、ITCの情報化時代にはネットワークで結ばれたローカルが重要な意味を持って来ると推定できるので、漢民族と他民族との関係をネットワーク的に結べば未来が見えてくると思われる。日本にとってはそれを期待したい。

 

赤字国債が増え続ける理由

赤字国債の発行は今から遡る事34年前に自民党の福田赳夫内閣の時に開始された。第一次オイルショックによるインフレから一転して第二次オイルショックでスタフグレーションの様相を帯びてきたので、景気の梃入れに建設国債として発行された様に記憶する。この時に国債発行に上限枠を設けなかった事が今日の膨大な国債発行残高になったのであるが、1985年のプラザ合意に伴う国内需要の喚起、そして日本経済バブル崩壊後の景気回復などの為の公共投資事業の拡大などで急激に国債の残高が増えていったのも確かである。然し、2000年以降の小泉内閣による規制緩和や郵政民営化、更には地方地自体への交付金の削減などを進めたにも関わらず国債の発行は減少することはなかったのである。本来ならば、この時点で国民は可笑しいと気付く必要があったのだが、マスメディアは何も報道しないどころか赤字国債を次の世代に残しては駄目的な論調で国民を増税に対する洗脳工作を進めてきたのが実情だ。何故、低金利なのに赤字国債が増え続けるのか。結論的に言えば、日本の予算の支出の仕組みを変えないで、収入などに対する手段を変えた結果なのである。日本の国家予算は一般会計と特別会計で成り立っているが、実は予算は税収入と他に財投と言う資金の二本立てであり、財投と言う借金分が常に水増しされていた。喩えて言えば、サラ金財政なのである。何故、借金を前提にした予算であったかは推測の域を出ないが、戦後の税収不足の中で考えられたものであり、その前提にはインフレ経済を想定していたものと予想される。問題は財投の導入先なのだが、財投の借入先は郵便貯金であった。日本は国債残高の発行は他国より少なかったのは財投と称して郵便貯金の資金を借りていたからなのである。所謂、間接的な国債発行と言えるもので予算が編成されていた。然し、郵政民営化により財投資金と言う借金の代わりとして国債発行が出てきたのであり、急に国債残高が増えた理由は公共投資の増大ばかりが原因でないのである。日本の行政機能はすべてインフレ経済が前提で仕組まれていたので、経済が資産デフレから本格的なデフレになったので、すべての組織に矛盾する問題が起きているのである。予算編成などは典型的な問題である。勿論、経済自体が実需と金融が整合していないので、税収入と支出をイコールにする必要はないが、少なくてもデフレ経済の時点と郵政民営化を進める時点では、ベーシックな問題にメスを入れる必要があったのである。それが、財務官僚の誤魔化しで国民が騙され、急激に増大した国債残高の理由も開示されないで、すべて国民のおねだりの理由に責任転嫁されたのである。野田総理が次の世代に借金を持ち越さないなどと戯言を言っているが、インフレ経済時代のサラ金財政を改革しないで放置してきた財務官僚の責任は重い。財政難なのに政治家は相変わらず無駄使いをしており、官僚も官舎を新設したりしているのは、赤字財政など昔から財投と言う資金で存在していたから危機感がないのである。日本は高齢化社会を迎え、国内の工場や企業が減少する中で、消費税など幾ら上げても赤字国債の問題は解決しないのである。早急に21位世紀に通用する国家のグランドデザインを作り上げて対応する必要がある。情報化のネットワーク時代にに中央集権的な行政組織は不要であり、ローカルを核とするネットワーク国家の樹立が求められているのである。赤字国債の縮小には、現行の予算的な発想ではなく、別途な機関を設立して一定の税率を充当すること以外に解決策はない。既存の体制を維持しての日本経済復興はない。

居酒屋 "東京十月" 1周年をお祝いします

知人が東京都港区青山5丁目に出しているお店です。

居酒屋と謳っていますが、オーナーの本業がファッション関係の会社経営ですので、こじんまりとした

オシャレな店です。シェフは素敵な女性です。

店の位置づけは、洋風小皿料理とアルゼンチンワインですが、リーズナブルな価格で楽しめます。

お薦めしたいお店です。以下は1周年のメールを頂いた内容です。


皆様 

いかがお過ごしでしょうか。
先週末、ショーウインドウのアンテ作品の入れ替えをしました。
タイトルは「私の好きなもの」です。子供の心を持った大人の方に喜んで頂ける作品です。
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さて、来る10月1日(土)で東京十月は開店一周年を迎えます!
いつもご贔屓にしていただいているお客様、お友達をご紹介下さったお客様、そしてしばらくご無沙汰しているお客様にも支えられ、一周年を迎える事を大変嬉しく思うと共に皆様への感謝の気持ちで一杯です。
十月は日頃の感謝をこめていくつかのスペシャルイベントを開催致します!

【info】その1・・・   10月1日(土)ウエルカムドリンクサービス
                          急ですがこの日は一周年を記念してご来店のお客様全員にお好きな一杯目をプレゼントいたします
                          皆様のお越しをお待ちしております!

【info】その2・・・   期間限定アルゼンチンワインフェア開催します。
                         十月一杯、すべてのボトルワインを20%Offでお楽しみ下さい。メルマガ限定サービスです。 
            「メルマガ見たよ」とスタッフへお伝え下さいませ。   
                         

【info】その3・・・   期間限定アルゼンチンスペシャルコースをご用意いたします!   
                          新作アルゼンチン郷土料理を織り交ぜた3,800円(5,000円相当)のフルコース、只今準備中です。 
            新メニューはもちろんアラカルトでもご注文いただけます。
            ※詳細は間もなくWEBサイト/女将のブログでご紹介します。乞うご期待! http://www.tokyo-jugatsu.com/
 
本当に、本当に感謝しております!ありがとうございます!  
それでは、皆様のご来店を心よりお待ち申し上げます。

P.S.居酒屋 東京十月では、お誕生会、同窓会、結婚式の二次会、三次会も承っております。 
日曜祝日、日中の団体様(15~40名)のご利用もご相談をお受けいたします。
また、セミナーなど貸切でのご利用も承っております。(プロジェクタ用の大型スクリーン有り)
ご予算に応じて、居心地の良い時間のお手伝いをさせていただきます。
どうぞ、お気軽にご相談くださいませ。

居酒屋 東京十月
東京都港区南青山5-7-17小原流会館地下1階
TEL 03-3409-6077 FAX 03-3409-6076
www.tokyo-jugatsu.com
OPEN 17:00-23:00 CLOSE Sunday&Holiday

心地よいひと時

先週週末に大学の学窓5人と神田の居酒屋「旅籠屋次郎」で久し振りに飲んだ。今回の飲み会の友は今は消滅した協栄生命保険会社本社(現ジブラルタル生命)の夜警のバイト仲間でもある。学窓の構成は建築学科3名、電子工学科3名の6名である。偶然だが、建築学科3名は都立大、芸大、筑波大の各大学院に進んだのに対し、電子工学科の3名は卒業後就職した。今回の飲み会は筑波大学の大学院に進み、その後茨城県に会社を作って活動している伊藤君の呼びかけであった。この伊藤君の呼びかけによる通知が電子工学科の3人には誤解を与え、滑稽な飲み会の始まりとなった。電子工学科の3人は当然に店の予約は伊藤君が行なったものと考えて店でその予約を確認して部屋に案内されたのだが、私は一番最初に入ったためか予約人数の多さに疑問を感じて他のお客が来る前に退散し、携帯電話で連絡を取り伊藤君が待つ部屋に移った。然し、電子工学科の他の2人南雲君と工藤君は違和感を覚えながらも間違った部屋で見知らぬ人達と歓談し、その後に間違いに気付いて漸く合流したのであった。伊藤君の舌足らずの案内が誤解を生んだのだが、実際の予約者は建築学科の佐藤君だった。このため、佐藤君が連絡した建築学科の松岡君は間違いなく目的の部屋に入ったので恥をかかないで済んだのだが、それにしても間違った部屋で2人が歓談した飲み会は彼等に最初は違和感を与えなかったそうなので、何の集まりだったのかも妙に気になった。何はともあれ、今回の飲み会は最初から大笑いで始まったのである。尤も、工藤君の生家は岩手県大槌町であり、ご母堂が3月11日に津波で行方不明と言うことを聞いていたので、今回の飲み会に参加するのかどうか気になっていた。飲み会の時間が大分経過し、それぞれで話が分かれた時に工藤君に聞いた所、1ヵ月後の4月に遺体が確認出来たとの事であり、然も幸運にも荼毘に付される前であった事も聞いた。彼によれば、遺体は棺桶の中にビニール袋に入れられて保管されていたとの事で、ビニール袋に入れていたのは腐敗しない為に液体を使用していた為であるらしい。又、ご母堂の顔の表情は海水から顔を上げて息を吸うような苦しい姿と説明してくれた。彼は他に親戚でも数人亡くなくなっており、不意に訪れた不幸に多くの言葉はなかったが、寂しそうに田舎に帰る故郷(家)がなくなったとポツリと言った事が印象的であった。勿論、工藤君は飲み会においては悲しみなど微塵に見せずに明るく振舞っていたが、私としては入学後に知り合った最初の同級生であり、私の田舎に泊まりに来た事もある友なので世の中の不条理に改めて怒りを覚えた。なお、飲み会は懐かしい話で盛り上がり10時近くで開きとなったのだが、学生時代に夜警のバイトをした協栄生命本社ビルも今は建替えられてビジネスホテルになっている寂しさもあり、皆で神田駅周辺を暫し歩き回った後に分かれた。尤も、協栄生命のアルバイトでは私が一番短かったのだが、不思議な縁で解体前に一度訪れている。経済バブル崩壊で金融機関が倒産する中で、協栄生命も貯蓄型の保険を売っていた為に経営難となり、米国のプルデンシャル生命に売却された。プルデンシャル生命では社名をジブラルタル生命と変更しリストラを進めたのだが、そのジブラルタル生命の財務担当役員が私の友人の知人であった。このため、懐かしさもあって友人と一緒にその知人を訪問して25~26年振りに旧協栄生命本社ビルに入ったのである。学生時代には威厳があり綺麗であった役員フロアも、経年劣化と経営難でメンテナンスが不足していたためか、精彩を欠いていた。しかし、20代の社会人になる前に企業の表と裏の現実世界を見せてもらったのは勉強になった。勿論、その経験を生かした人生ではないが、久し振りに会った学窓との飲み会は心地よいひと時を与えてくれた。

中央官庁が陥っている部分最適な弊害

日本が機能しなくなったのは政治のお粗末さだけではない。政治など田中角栄以降機能していない。問題は中央官庁の組織が現代社会に通用しなくなったのである。民主党の小沢一郎はそれに気付いて政治主導を掲げたのだろうが、官僚より知識と経験が不足している今の政治家に出来るわけがない。中央官庁の何が問題化といえば部分最適で重要な政策を行なっていることだ。20世紀のハードの時代から21世紀のソフトの時代に変わり、且つ情報通信の発達によって社会経済のグローバル化が一挙に進んだのだが、中央官庁の組織は旧態依然のままである。少なくても一部の民間企業は垂直的な組織からフラットに移行し、尚且つ全体を統轄する司令塔を設けている。しかし、多くの民間企業、特に中央官庁は旧態依然の組織で政策立案を行なっているために部分最適に陥って日本を悪い方向にリードしてきている。中央官庁の部分最適とは課長クラスが日本の運命を左右する政策を立案し、その政策には官庁同士はもとより、同じ省庁内でも整合性を持たせたものでないと言う現実である。複雑化した社会では中央官庁の課長クラスが部分最適で作り上げた政策など通用しないし、逆に他の政策に対して悪影響を与える可能性がある。然し、中央官庁には司令塔が存在しないのである。いや、財務省と言う予算でしか物事を見れない司令塔しかいないと言うべきであろう。この結果が、失われた10年どころか20年になろうとしている。財務省の主計局が全ての省庁の予算を審査しているが、主計局の役人に他の省庁の政策など深くは理解できるわけがない。厄介なのは自分達は頭が良いと錯覚しているので、合成の誤謬などに気が付かない。部分最適と合成の誤謬に陥っている役人に国家の運命を委ねている怖さがある。行政改革とは単に省庁を統合するだけでなく、情報化やグローバル化に対応した組織に変えることを意味する。然し、現時点では行政改革は予算の無駄しか議論されず、旧態依然の組織には言及していない。経済産業省が進めようとしているTPPも然りである。TPP問題は経済産業省単独でなく関係省庁が参加するプロジェクトチームによって議論されるべきなのにである。全てが部分最適の政策で日本の未来を損ねている意識がない役人には日本を任せられない。本来ならば、旧態依然の組織を正すのは政治なのだが、天下国家を考えられる政治家は一人もいなく、野田総理の様に財務官僚の言いなりの政治家しか生まれない。今期待できる政治家の一人としては、橋下大阪府知事位と思われる。日本を良くするには第二、第三の橋下さんの出現である。

敬老の日のTV番組を見て

敬老の日が長年親しんだ15日から三連休を作って敬老の日が変わってから違和感を覚えているが、今年は偶然に見たTV番組で二人の老人の老後を見て考えさせられた。一人は御年93歳の女流画家ともう一人は御年75歳の主婦兼夫の会社の事務を今でも行なっている女性であった。二人の生き方を比較するには年齢さが18才異なるので意味がないが、二人の共通点は年齢を感じさせない飽くなき挑戦かもしれない。勿論、女流画家の方は哲学的境地に入っており、死に対しても理解を深めており、93才にも拘わらず頭脳の明晰さと世界中を旅してきた人だから言える文明論や人生感に関しては素晴らしいものであった。一方、75才の方は登山の素晴らしさに目覚めて挑戦する姿をTVでは追い続けていた。登山と言っても当世風の山ガールの類ではなく、ロッククライミングであるのには驚いた。私も学生時代から社会人に掛けて山登りを趣味として続けていたので、山の見せる優しさと凶暴さは痛いほど分かっていた。体力が充実していた20代の時でさえ山の天候次第では遭難する可能性があり、体が冷えることの恐ろしさを嫌と言うほど体験した私にとっては、御年75歳で始めたロッククライミングは無謀のひと言の様に思えた。TVは敬老の日に合せて放送するのにこの女性の姿を追い続けたと推測するが、TV番組では多くの人達に何を伝えたかったのか最後まで分からなかった。勿論、75才の女性が単独でロッククライミングに挑戦したわけではなく、高齢者の登山愛好家の「エンドレスGチーム」と言う団体に所属してトレーニングを重ねたのである。このチームリーダーは若いときから世界中の山に挑戦してきた方で御年は68才であった。TV番組では南アルプスの駒ケ岳で初のロッククライミングする75才の女性を撮影するために準備を進めて実現はしたのである。然し、映像の中の女性は数十メートルのロッククライミングに6時間以上も掛けて岩壁に悪戦苦闘する顔には疲労感と後悔の念が起きていたと思われた。最後にはキャンプ地に戻る時間の関係から自力では無理となり引き上げられたのであった。撮影後の感想として75才の女性は再度挑戦したいと述べていたが、気持ちだけが若い高齢者の出現は何なのだろうかと考えさせられる。確かに、今の高齢者は若い時に仕事や子育てに時間を取られ、今の若い人の様に人生を楽しむ時間は少なかったのは確かである。その為か、今の高齢者を見ると青春時代を取り戻すかの様な外見や服装を良く見かける。そうは言っても明治、大正、昭和、平成と時代は戦中戦後の一時期を除けば常に先の世代が恵まれた生活を送ったことは間違いないのである。その様に考えて過去を振り返ると、明治大正時代に育った人は、今の昭和生まれの高齢者の様な人生を取り戻すような生き方ではなかった様に思われる。この違いは何なのかと考えてしまう。私の母は若いときには良く働いた人で、外見や動作において今でも相当若く見えるが、年齢を取り戻す様な生き方は見られず、年齢は80才半ばを迎え静かな人生を送っている。尤も、髪の毛だけは白髪を好まず染めているのが唯一の若さに対する執着かしれない。又、敬老と言う言葉が嫌いなので、一度も敬老の日をお祝いした事はなく、多分一生敬老のお祝いをすることはない思っている。勿論、元気なお爺ちゃんやお婆ちゃんは好まれるが、先の75才の女性の様な果たせなかった青春を取り戻すかの様な生き方には複雑な思いがする。現代日本が高齢化社会に入り到る所で老人達を見るが、若い時なら許される様な他人に配慮出来ない姿を見るにつけて情けない思いがする。本来の高齢者の生き方は若く見える事を自慢する事ではなく、年齢とともに備わった経験が生きる内面的に美しく見えることの筈だ。今の社会が不完全燃焼に見えるのは高齢者達の生き方が生臭すぎるためかもしれない。良い社会とは女流画家の様な方が多くなることではないかと思った次第である。

増税で次世代に借金を残すなの嘘

財務省は消費税を上げて財政再建を行いたい意向だが、増税ありきの再建は成功しない事は欧州各国の現状で分かるとおりだ。財政再建を謳い文句に欧州各国は放漫財政を放置して増税を繰り返し、今では日本の消費税に相当する税金の税率は20%を超えている。馬鹿な日本の政治家も日本の財政再建には消費税を20%以上に上げる必要があるなどと言っているが、それなら何故欧州の国々は財政破綻に向かっているのかと聞いてみたい。増税は公務員にとって麻薬と同じと言う事を国民は理解しなくてはならない。政策の立案に実質的に関わっているにも関わらず失敗に対する責任を問われない公務員制度にあって増税で身分が安定することは麻薬を吸っていることと同じ効果を齎す。欧州各国で財政削減でデモが起きているが、デモ隊に参加しているのは皆公務員と言う事実を日本人は考えるべきだ。冷静に考えると、財政破綻した国家の再生にIMFが関与してきたときには増税でなく国家のリストラだ。増税が財政再建に効果があるならIMFは何も厳しい財政支出の削減を要請しないだろう。基本的には財政再建には行政改革が重要になるのだが、問題は公務員主導の行政改革では公務員の無駄使いを放置して国民が必要とする医療や年金に皺寄せが来ることだ。本来なら、国会が機能して行政改革を進めるのだが、行政機能を公務員に握られている上に国税や警察、検察権力で国会議員の生殺与奪を左右しているので、国会議員で遣れる事は少ない。勿論、後ろめたい事がない国家議員なら財務官僚に対抗できるが、今の政治家を見る限りダーティな連中ばかりなので、財務官僚の軍門に下ったも同じだ。しかし、国民は行政改革を放置して国家の破綻目前の欧州各国が増税で財政再建が出来なかった事実を重く見て、増税ありきの流れを食い止める事が肝要だ。公務員や政治家にとっては増税は麻薬と一緒で、財政再建どころか今以上に財政悪化が起きる可能性が大きい。増税で次世代に借金を残すなの嘘を見破れ。

こんな国が原発なんか持つんじゃねえよー東海村・村上村長

NHKのインタビューで茨城県の東海村の村上村長が福島第一原発事故処理の政府の対応に怒って言った言葉である。東海村は日本で最初に原子の火を点した歴史的な場所である。その後も原子力関連施設が立地し、財政的には恵まれた自治体である。しかし、数年前にJOCの臨界事故が起きて放射能が拡散すると言う災害が発生している。村上村長によれば、原発事故による避難エリアは3kmを想定して避難訓練を実施してきたそうだが、今回の福島事故の避難エリアは30kmに拡大した事に驚愕したとのことだ。その上に福島原発事故に対する政府の対応を見て住民無視に怒りを覚えて「こんな国が原発なんか持つんじゃねえよ」と言う発言になった。私も同感である。文部科学省はSPEEDIで早くから放射能拡散を知っていたにも拘わらず、住民の避難に繫がる行動を起こしていない。然も、経済産業省がSPEEDIのデータを求めたにも拘わらず、データの開示は24時間後と言う緊急事態など考慮していない対応だった。菅前首相や前内閣の重要閣僚が退陣後に原発事故に対する政府対応などに関して弁解の発言が目立つが、実際には彼等の初動対応の失敗が全ての原因である事は間違いがない。菅前首相などが東京電力が職員全員を福島原発から避難させる意向であったのを食い止めたと言っているが、政府が何も対応してくれない憤りが東電の一斉退去示唆に繫がったと推定される。大地震後のインフラ遮断時において東電と言えども単独では事故処理など出来ようもないのが事実であった。然も、政府が平時の縦割り行政に対して非常時の体制に移行しなかったので、東電が直接自衛隊に協力要請を行なっても動かなかった事実に対して菅前首相はどの様に答えるのかである。又、東電の清水社長の帰京に対して自衛隊機を使用したことに防衛大臣が途中から飛行機を戻したと言う行為そのものが政府が一丸となって動いていなかった証明である。菅前首相の最大の間違いは原発事故に対して地域住民の避難が遅れたことである。公表するとパニックが起きるからとの理由からだそうだが、逆説的に言えばパニックを恐れて住民を被爆させたと言う事実は犯罪行為である。特に、菅前首相は事故発生後に東工大の学者の意見しか聞かず現場を混乱させた反省もない。マスメディアも報道していないが、東電本社内に設置された原子力事故緊急対策本部では何等の対策も議論されず、その時に行なっていたのは大地震後の給電に対する需給想定作業であった事である。東電本社にはその時点で原子力技術など分かる役員がいなかったのに、何が緊急災害本部設置かと笑止千万である。国民を騙し続けた政府の原発事故対応であるが、今回の福島原発で分かるのは政治家も役人も国民など信用していないと言う事実である。電力会社や行政などは原発立地住民など難癖を付けてお金を出させる人々と軽蔑していたのではないかと思われる。確かに、原発の安全神話とは裏腹に何時の間にか地域住民と電力立地関係者との間には相互不信が芽生えていたのかもしれない。私の友人が電力立地の電力交付金を指して麻薬みたいに作用して次々と増設を受け入れなければならなくなると言うことを指摘していた。今回の福島原発事故ではあまり言及されていないが、規制緩和による電力自由化が福島原発事故の一因になっていると言う事実である。各電力会社は国策に沿って電力の安定供給のために多額の投資を行なってきたが、突然グローバル化の中で起きた電力自由化が各電力会社の将来計画に暗雲をもたらすことになった。特に、原子力に関しては廃炉に要する費用や高レベル放射能貯蔵施設の建設などにも多額の費用が見込まれるために、今後の電力自由化の流れに際しては従来の様な放漫経営は許されなくなり、効率経営が求められる様になったことである。電力自由化と言う規制緩和がなければ、福島原子力第一発電所に関しては使用延長でなく、廃炉にした可能性が大きいと思えるからである。日本の場合には全ての事で言えるが、民営化や規制緩和においては保護して来たために過剰な投資債務を抱えてると言う事実を無視して行なってきていることである。尤も、国鉄の民営化だけは債務を国が引き受けた特異な例だが、この時点では財政再建など必要としない国債発行残高であったためと推定できる。その後の電電公社の民営化、郵政民営化などにおいては国の負担に関しては言及されていない。逆に、民営化後の株式上場による利益の計算しか行なっていない様に思われる。翻って、電力自由化を推進するのであれば、各電力会社が有する多額の投資に対する問題にまで言及しなければ出来ないのである。それが電力会社任せで電力自由が進められた結果、安全を無視した経営が進められ、最悪の事故を招いたと言っても過言ではない。グローバル化の中で縦割り行政所か、同じ省庁の中でも縦割り行政が行なわれていたのでは、時代の流れに翻弄されてしまうだけと思料する。同じ茨城人として東海村の村上村長の言葉に共感を覚える。

野田政権は田中角栄以降の自民党型政治の回帰だ

20年近く迷走した政治の帰結は自民党政治型の回帰となった。戦後に採用した中間選挙区制度を改正して小選挙区導入で二大政党政治を目指したが、二大政党の一つの民主党は党の綱領も定める事が出来ない烏合の衆の政党となり、党の混乱を納めるために発足した野田政権は正に自民党型の政治の回帰であった。国民としては野田政権の発足で何のための長い年月の政治空白かと憤りを覚える。そもそも情報化時代になり、価値観が多様化してきた現代において二大政党などの実現を目指したのは誤りであったのである。尚、百歩譲って自民党の単独政権を壊すために小選挙区制度を導入したのかもしれないが、しかし民主党を見る限りその後の戦略が見えない。野田政権の発足で一番がっかりしたのは、自民党が官僚に支配を許す契機となった田中角栄の政治手法を踏襲していることであった。自民党政治が官僚をコントロールできたのは、それぞれの省庁の政策に通じていた優秀な大臣を任命してきたからであった。今から40年前の佐藤栄作首相までは当選回数で大臣にさせる情実人事はなかったのである。しかし、田中角栄が総理となった時点から、自民党の総裁選挙に貢献した議員を大臣に就任させるシステムとなり、勉強してきた政策と関係がない省庁の大臣に就任し、結果的に官僚の言いなりになるお飾り大臣の出現となった。多くの国民は忘れている出来事だろうが、政治が駄目になったのには理由があるのである。野田内閣の大臣の人事では正に田中角栄型を踏襲しており、防衛大臣が防衛政策を知らないのがシビリアンコントロールだと居直る姿には呆れて物が言えない。野田総理は松下政経塾出身と聞くが、松下幸之助は経済人で成功した人である。経済人で成功した人は強烈な個性の持ち主が多いが、野田が松下翁から学んだ事は選挙に勝つことであると推定され、政治とは何かを学んだとは思えない。確かに、松下翁はビジネス社会においては神様なのであろうが、晩年に危機を感じた日本の政治に関しては一般人の域を出ていなかったのではないかと思料する。日本が政治を間違えたのは、田中角栄を出現させたことなのである。そう言う意味では、田中角栄の政治を学んだ小沢一郎にも期待できる事は何もない。優秀な官僚を使うのはその省庁の政策を熟知している政治家だけが出来る事である。勉強してきた政策と関係ない議員が大臣になったら、逆に官僚に支配されるだけとなる。今の日本は責任を取る事がない官僚が政策を進めてきたから間違ったのである。野田政権も発足当初から大臣就任の動向を見る限り期待できない。然も、最悪な事には、馬鹿の一つ覚えの増税一辺倒の財務官僚に洗脳された野田だからと思ったが、財務官僚に洗脳された最初の国会議員が田中角栄だと気が付いた。財務省を解体しなければ日本の夜明けはないと言える。

政治家と公務員の報酬を景気変動指数に連動させるべきだ

政治家や公務員が無責任になっているのは景気と関係ない報酬制度で守られているからだ。少なくても、連中の報酬を「失業率」、「倒産件数増加率」、「円高上昇率」、「デフレ率」など景気関連指数と関連付ければ現在の様な能天気な生き方が出来ない筈だ。高度経済成長以前には、公務員の報酬は民間企業と比較して低く、政治家も議会開催日に支給される日当制であった。それが高度経済成長によって税収が増加するに従い、公務員の給与は鰻登りになり、政治家も月給制度になって職業政治家が生まれた。特に、公務員の報酬は大企業を基準としており、国民の大多数が勤務する中小企業の給与基準を大幅に上回ったものとなった。また、職業政治家の出現は己の生活が優先となり、高邁な思想や信条をもった者が少なくなり、政治家を矮小化した。国民の知らないところで政治家や公務員の利益が拡大されてきている。因みに、公務員の高額退職金や高額年金は給与が低い前提で、老後に恵まれた待遇を与える制度であったが、何時の間にか老後の手厚さを維持して現役時代の報酬を大手民間企業並みに引き上げてしまった。更に、天下りや70歳まで働けるシステムも維持されてきているのである。この様に公務員天国にしたのは何等問題にしないで議案を通した馬鹿な政治家達である。尤も、政党助成金や国会議員一人当りの報酬や手当ての増加を餌にして公務員は自分達の待遇を改善させた知能犯だ。しかし、政治家も公務員も大幅な赤字国債発行を懸念して自分達の高待遇が近い将来には損なわれる危機感から、赤字国債の借金を国民に転嫁して自分達の利権を温存するために消費税を大幅にアップすることをマスコミなど通じて国民に危機感を煽り立てて企んでいる。民主政治とは国家を食い物にする政治家と公務員を生み出す装置と言える。政治家が"よいデフレ"とか役人が"円高容認"するのは、大企業の分析から言えることであり、中小企業にとっては死活問題だ。二大政党になり、中小企業の保護を求める政党が存在しなくなったことを考えると、中小企業は税金などを支払う考えは捨てるべきであり、消費税のアップなどを認めるべきでない。日本を変えるには、年金や医療費を餌に己の利権を守るための施策には絶対反対を唱える必要があり、政治家と公務員の給与を景気変動指数に連動させることを主張すべきだ。

偉そうな貧乏人がいなくなった!!

ある雑誌を読んでいたら日本が駄目になったのは「偉そうな貧乏人がいなくなったからだ」と書かれていた。蓋し名言だと思った。逆説的には、日本人はお金を追い求めすぎて社会を駄目にしたと言いたいのだろう。確かに、政治家と官僚が国民を本音で馬鹿にする様になったのは、"偉そうな貧乏人"を見なくなったからであろうと思料される。政治家も役人も後ろめたい事をしていれば内心は忸怩たる思いに捉われるであろう。しかし、国民がお金でしか物事を評価しなくなり、「Give me money」になった現代社会においては、政治家も役人も国民に対して一生懸命働こうとする考えはなくなり、自己の利益の拡大に邁進するようになった。今の政治家や役人が平気で国民に対して嘘を言うのは国民を蔑視している証拠であり、国民の為に働く意欲など消えていると考えられる。国民は政治家や役人に対して怒っているが、その前に自分自身を見つめなおす事が重要だ。政治家や役人の姿は国民を写した鏡だ。私は別に豊かさを否定している訳ではない。努力して成功してお金を稼いで悪いわけがない。問題は、お金に執着しない人や金儲けの下手な人を蔑視する社会であってはならないと言うことである。現代社会はお金を持っていないだけで無能力とする風潮がある。逆に、金さえあれば無教養な人でも尊敬される時代である。この結果が現代日本の社会の縮図である。政治家や役人が一番怖いのは「偉そうな貧乏人」なのだ。明治の元勲の西郷隆盛が、「欲もなく、名誉も欲しくない人は始末に困る」と言った正に「偉そうな貧乏人」の存在なのである。より豊かになりたいために目指した顛末は今の社会だ。人は長生きすると視力が落ち、聴力が衰える。この現象は老人になってからは嫌な事を軽減する天が人に与えたプレゼントと思料する。自然に逆らっているから多くの問題を解決出来ないのであり、日本人は貧しかった時代を再度認識して豊かな社会に感謝することが未来の姿を描く事が出来きて平安を得られるのではないかと思うのである。

ユーハイムのゲーテの詩の朗読コンテスト

お菓子のバームクーヘンで有名なユーハイム主催の「第30回ゲーテの詩の朗読会」に今年も一般審査員として参加することが出来た。1982年にコンテストが開始されて今年で30回目を迎えるそうだ。30年も続いている割には意外と知られていなく、コンテスト参加者もお菓子の事で検索していたらコンテストのことが分かり応募した方が多い。私はゴルフの縁で河本社長夫妻と親しくさせて頂いているので、20年以上前からコンテストの事を知り一般審査員として毎年楽しみにして参加している。本コンテストはゲーテの誕生日「8月28日」の前後の土曜日に毎年開催されてきているが、30年の歩みの中では社内で開催の是非が何度も議論されて来たことを聞いた。会社としては昨今の利益主義の観点から言えば、社名を高める有効な宣伝となるイベントを開催した方が得であり、文化事業の側面を持つコンテストなど金融資本主義の中では評価されなくなっているのが実情だ。しかし、河本社長は社内におけるコンテスト開催の疑問視する声に対し、ユーハイムの創業者の故郷でもあり、ユーハイムの原点とも言えるドイツのお菓子「バームクーヘン」を作っていることに意義を重視して開催を継続している。自然の素材を使って安全なお菓子を提供しているユーハイムの理念が本コンテストに参加すると良く理解できる。今年の30回目は例年以上に決勝進出の方の朗読が上手であり、また25名の決勝に選考された方の内、21名が女性であったのも此れまでにない特長であった。更に、朗読が終わり、いよいよ優勝者と準優勝者を決める段階になって予想も付かないことが起きた。それは第一回目から審査委員長として大任を果たしてきた慶応大学の名誉教授が病気のために今年限りで委員長を辞する挨拶であった。委員長ありきのゲーテの詩の朗読会であり、彼が居たからこそ河本社長も30年もの長い間コンテストを続けて来れたと思われるので、聞いた瞬間コンテストは来年開催されるのだろうかと言う不安が頭に一瞬浮かんだ。しかし、その後に河本社長が委員長に対する感謝の気持ちを述べる挨拶で来年に第31回を開催する予定である事を告げたのでホッとした。また、ゲーテの詩の朗読会はユーハイムの本社がある神戸において神戸淡路大地震で被害を受けた時にも開催したので、今回の東日本大地震においても開催した事を話され、コンテストが長く続いたのは、ゲーテに絞ってコンテストを行なったことであることを話された。確かに、河本社長が指摘するように年毎に詩人を変えて開催することにしたのでは、社会的な変化や時代に翻弄されて中止に追い込まれていたかもしれないと言う言葉には重みがある。コンテストのみならず、企業の存続も又然りである。目先の事を追い続けると独自性が失われると同時に、時代に翻弄され目的を見失う恐れも出てくるし、顧客にも信頼されなくなる可能性もある。今日の様に大きな変化が起きている時こそひとつの事を遣り続ける大切さを思い知らされた感がする。来年の開催が今から楽しみだ。

東日本大地震の南北の揺れで明暗

誰もが気付いていることなのだろうが、東日本大地震の揺れは南北に揺れた為に新幹線の脱線事故や高速道路を走行中の車にも被害がなかった。マスコミなどは中国の鉄道事故と比較して日本の新幹線の運行技術は優れているので、東日本大震災でも地震を予知して停止したために脱線事故などはなかったと自慢げに書いていた。しかし、新潟中部地震の時には脱線事故があったので、東日本大地震で新幹線が無事だったことは理由があった筈である。このため、専門家の間では検証済みであろうと推定されるが、一般には流布されないので多くの人が技術を過信して本質を見失う恐れもあると思われるので、地震に対しては素人あるが、次の地震のために揺れに対して考察して見たい。地震の一定方向の強い揺れは過去の地震では思い出さない。都内において経験した強い地震は今から遡る事24年前に起きた直下型地震であるが、この時には最初が縦揺れであったために、一瞬40~50cm下に沈んだ様な経験をした。その後に大きな横揺れの地震に見舞われた。この時の地震は震度5クラスで、都内のエレベーターが全部停止した程の大きさであった。この時の印象では縦揺れが強烈であったために横揺れの方向の記憶がない。今回の大地震で南北の横揺れであったと気付いたのは、ひとつは事務所内の設置物の保管位置による落下状況であり、ふたつには大地震時に常磐高速道路を日立からいわきに掛けて走行していた人の意見であった。今回の地震時の落下物についてふり返って見ると分かると思われるが、南北に直角に配置していた棚などの場合には、棚の上に置いていたものが飛んで落ちた筈だ。しかし、南北に平行に配置した棚などのものは影響が少なかった筈である。また、私が驚いたのは仙台市内で一般道路を走っていた車で地震時に緊急停止していたにも拘わらず車内で左右に大きく揺れたと発言しているのに、常磐高速道路を南から北に走行していた車に乗っていた人達は地震に気付かなかった事である。この事に関しては、今回の揺れが南北であったのに感謝しなければならないと思われる。もし、東西の揺れであったらと考えると恐ろしい大惨事に巻き込まれた可能性がある。尤も、地震は南北の揺れであったが、東日本の国土は東に移動しているのである。また、地面が沈んでもいるのである。素人の私では現象面だけしか語れないが、今後に地震の専門家のコメントなどを収集してみたいと考えている。なお、今回の大地震に関して当社の専門である建築物について言及すると、入居しているアーバン虎ノ門ビルは地形が四角形に近く建物も正方形であるのでどの方向の地震にも強いと考えられているが、今回の南北の揺れの地震でも影響が少なかった。最新のビルと比較すると大きな柱が設置されているが、この柱は耐震性の強化のために意図的に設計されている。確かに、今風の無柱空間のオフィスなら有効面積が多くなり、レイアウトの面で便利かもしれないが、耐震性に限れば弱いことを認識する必要がある。デザイン重視の現代ではややもすると安全重視の建物は否定されがちであるが、変形した建物や細長い建物は地震に弱いことも理解して入居ビルを選択することをお勧めしたい。現代社会はコスト削減のために重装備の物に関してガラパゴスと言う呼称を付けて時代に取り残される様な意見が主流だが、ガラパゴスは滅んだのではなく今でも存在し続けていることを忘れてはならない。21世紀はデザインとソフト重視の社会だが、20世紀のハードの経験があってこそと理解しないと非常時には役に立たない物で溢れる事になる。コスト削減の前に昔の人の教えである「備えあれば憂いなし」の意味を考える必要がある。

デフレや円高が解消しないのは役人(政治家も?)が望んでいるからだ

日本経済がデフレに陥ってから10年以上経過した。与謝野大臣が日本のデフレは良いデフレなどと記者会見で言ったらしいが、資本主義経済の利息が伴う社会で物の価値が下がり続ける現象は間違っていると考えるのが普通だ。勿論、日本は資産デフレに始まり、IT技術によってグローバル経済が促進されたこともありデフレ経済に陥ったのであるが、バブル経済時代に偶然に地下鉄車両の中で役人と見られる二人が話していた会話を思い出し、デフレを喜んでいるのは高い給料と失業に不安のない役人の本音ではないかと気が付いた。その時の二人の役人は土地の高騰に対して怒っており、社会主義的な制度の土地政策を論じていた。この様に書くと高尚な議論を行なっていた様に思えるが、実際には都内に持ち家が変えない不満であった。20年前のバブル経済が吹っ飛んで資産デフレが起きた時には役人は経済全体の悪影響などより都内に持ち家が買えることで喜んでたのを記憶している。政治家同様に今の役人が天下国家を考えて仕事に従事している人は少なく、大半が個人の生活に重きを置いていることは間違いない。そうすると、デフレなのは物を安く買えるので役人に取ってはデフレは悪くないのである。また、円高も海外旅行に行くには最高だ。役人も多少の給料が安くなったが、これまではデフレ経済にも拘わらず、人事院勧告で給料は上昇し続けたのである。役人にとって現況は笑いが止まらないほど美味しいのである。尤も、日本社会ではデフレで求人率が落ち込んでおり、民間企業の給料は大手企業を除けば大幅に下落しているので、役人やそれに準じる人達はデフレを継続させる理論が必要となり、それが日銀マンが著した「デフレの正体は人口減」であったと考えると分かり易い。マスコミと大衆は馬鹿だからこの本はベストセラーとなったのである。与謝野大臣も耄碌して本音が出たのであろうが、「よいデフレ」などと本音を口走ったのであろう。政治家も政党助成金や議員報酬も手当てもデフレの方が価値を維持するので、政治活動(?)や生活が楽なのである。デフレや円高を解消するには、政治家や役人の得る報酬を大幅に下げることであり、絶対に消費税などを上げさせてはならないことである。

hpgrp GALLERY東京 展示会とイベント開催

hpgrp GALLERY東京があります青参道よりIOSSELLIANI T-02-IOS新展示と
イベント開催のお知らせです。
是非この機会に青参道へお越しくださいますようお願いいたします。


■IOSSELLIANI T-02-IOSより展示のご案内■

赤池完介「日々ステンシル、サーカスの来た町」
会期:2011年8月26日(金) - 9月21日(水)
オープニングレセプション:2011年8月26日(金)18:00 - 21:00
会場:IOSSELLIANI T-02-IOS(hpgrp GALLERY東京のビル2F)

国も時代も特定できない平凡な町にサーカスが突如と現れ、
人々は心を躍らす。そしてサーカスが立ち去ると、また淡々と続く日々
が町に戻る。そこには騒ぎの後の哀愁ある光景が広がる...。
IOSSELLIANI の今シーズンテーマであるモダンサーカスからイメージを
膨らませた本展では、ジュエリーと赤池のステンシルワークが交わることにより、
高揚と虚無がダイレクトに伝わる内容となっております。
是非ご高覧ください。

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■AOSANDO's NIGHT MARKET開催■

2011年8月26日(金)-8月27日(土)17:00-21:00
hpgrp GALLERY東京のある「青参道」の11店舗でナイトマーケットを開催いたし
ます。照明をいつもより少し落とし、キャンドルが並ぶ青参道でH.P.F,スタッフ
蚤の市や家具の市など、各店企画をご用意してお待ちしております。
是非この機会に青参道へお越しください。

詳細はこちらのURLをご覧下さい。
http://www.aosando.com/news/

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アッシュ・ペー・フランス株式会社
hpgrp GALLERY 東京
director 戸塚 憲太郎

150-0001 東京都渋谷区神宮前5-1-15 CHビル B1
Tel:03-3797-1507
Fax:03-6805-0840
Email:art@hpgrp.com
URL: http://www.artdiv-hpf.com/tokyo
Blog: http://blogs.brash.jp/totsuka/

米価に対する無知

米価は食糧管理制度によって長い間決められてきたが、日本の農業が衰退したのは米価が政治価格として高い扱いを受けてきたことが一因だと暴論を吐くものがいる。然し、本当に米価が高い扱いを受けてきたのなら農村に後継者がいなくなり、兼業農家になる訳がない。米価が政治価格としてマスコミが取り上げるので、都会の人達は米の価格は高いものと錯覚してしまった。私が学生時代に都会出身者とよく米の価格で議論した事があった。先ず、米が主食と言う考え方が間違った時代になっていることを改めなくては議論が進まない。江戸時代や明治時代、更には太平洋戦争時代なら兎も角、高度経済成長を遂げた後の日本では米が主食ではなくなった。主食の意味は食費の割合が高い事を指すと考えると、米は40年前以上に主食の座は失っているのである。数字的に分かりやすく説明すると、一汁一菜の食事の時代には大人が1年間に食べる米の量は3俵と言われている。又、子供の場合は2俵と言われている。この時代でも夫婦と子供3人が食べる年間の米の量は12表になる。1表は60kgであるから12表/年×60kg=720kg/年と計算される。現行価格を見ると標準米で10kg3500円位であるから、親子5人が食べる年間の米の総額は、720kg/年×3,500円/10kg=252千円/年である。月額に換算すると、252千円/年÷12ヶ月=21千円/月である。ただし、この金額は一汁一菜の時代に置き換えての話である。現代は大人でも年間に食べる米の量は1表半でも多いと言われているが、一応、米を多く食べる家族を想定して改めて現代の家族5人が食べる米の量を推定すると上記の時代の半分程度となるので、年間に食する米の量は6俵となり、月額に要する米の購入価格は10,500円/月と算出できる。家族5人が自宅で食べる食事費は平均で7万円とすれば、食事費に占める米の割合は15%である。一汁一菜の時代と同じ位米を食べても30%の割合である。農業が駄目になったのは、米価が高く買い上げられたために生産システムの向上の努力が足りなかったのでなく、主食でもないのに食糧管理制度で価格が決められたために、主食の地位を失ったにも拘らず付加価値の米を生産して高い価格で売る事が出来なかったからである事がわかる。農業政策を司る農水省が家庭にパン食が普及してきた時に農家に米作りでなく、パン食で需要が高まる野菜作りを奨励したるすることを怠り、逆に米の需要減による過剰生産に対して休耕補償で誤魔化したために農業が一層衰退したのである。日本の場合全ての行政組織が同様だが、東大法学部卒に農業の現場や変化が分かるわけがない。私が感心したのは、大手商社の食糧部門に拘わってきた人の洞察力である。パン食が増えると生野菜が売れるのは商売の方程式であることを理解しているのである。実際の現場で起きている事を熟知しているからこそ分かる事である。日本の行政マンは何時の間にか現場を馬鹿にする風潮が生まれ、国民の足を引っ張る事としか出来なくなってしまった。農業の再生には国民が行政と真っ向から対立する姿勢が必要であり、国民も自給自足の大切さを理解し、米が高いなどの思い違いを訂正して欲しいと考える。

 

財務官僚の円高容認は戦前の金解禁の悪夢と同じ

財務官僚が円高容認の発言をしたと言われて急激な円高となっている。リーマンショック後の円高の図式は簡単である。欧米諸国がリーマンショックの経済悪化を防ぐためにお金をジャブジャブ流して過剰流動性にしたが、日本だけは相変わらず小刻みの金融緩和政策だけなので、デフレ経済も解消しないので、世界中の通過の中で円だけが価値が下がらない通貨として買われているのである。この様な背景にあるのでは、ドル買い円売りなどを日銀が行っても焼け石に水だ。リーマンショック後の日本の金融政策を見ていると、戦前の大恐慌時代に無謀な金を解禁した井上準之助大蔵大臣を想起する。経済学者によると、井上準之助の金解禁は理論的には正しかった様だが、第一次世界大戦で焼け太った日本企業の真の実力を過信したために多くの企業が倒産して裏目と出たのであった。今の財務官僚や日銀マンを見ていると、国内で円の過剰流動性を高めても投資先がないので無駄と考えていると推定できる。その根拠のひとつとしては、日銀マンが書いてベストセラーになった「デフレの正体は人口減」である。また、財務官僚などは大手企業の内部留保資金を見て市場に金が不足しているのではなく、投資先がないから過剰流動性を高めても仕方ないと考えているものと推察される。日本の官僚の間違いは大企業中心の考え方であり、中小企業など眼中にないために起きているのである。今正に、中小企業には資金がなく、東日本大震災と福島原発事故による消費減少に対して苦しんできている。それなのにこの急激な円高である。金解禁の金融政策の失敗は井上準之助の暗殺と後任の高橋是清の金融政策によって修正され、国民は救われたのである。高橋是清は子供時代から苦労した人で、世間に精通していたからこそ大恐慌から脱する政策を理解していたのである。頭でっかちで机上の理論先行で実社会を理解していない財務官僚と日銀マンが日本の金融政策を牛耳っている限り本経済が回復する事はない。多くの馬鹿な政治家が財務官僚の尻馬に乗って増税発言をする姿は亡国の輩以外の何者でもない。円高は円の過剰流動性で阻止できるのである。日本の金融政策を変えるには戦前の様な荒療治が必要である。

 

 

 

 

 

 

天竜川の水難事故を考察する

天竜浜名湖鉄道会社の運営する天竜川の急流船下りで事故が起きた。社長会見では船頭のミスと釈明された。確かに事故だけに焦点を絞って見ると会社側の説明通りと理解すると思われる。然し、天竜浜名湖鉄道が3年前まで赤字鉄道会社であり、2009年に今の名倉社長が就任してから2期続けて黒字化を実現したことを聞くと、事故の原因が単純な船頭のミスと言い切れるかどうか疑問が湧いてくると思われる。新聞報道などによれば、名倉社長は内部昇格ではなく、他所から来た方らしい。前職は分からないが、鉄道の再建を委託される位だから優秀な経営実績があるであろう。私が注目した点は同鉄道会社を経費節減で直ぐに黒字にした件である。長年の間赤字会社であった鉄道を手品を使うように黒字化した手腕には驚くが、誰しもが思うのは急激な企業改革と大幅な経費節減に無理はなかったのかと言うことである。勿論、私が言いたいのは、急激な改革と大幅な経費節減を断行しても問題ない業種とそうでない業種があることである。鉄道事業や急流下り事業は共に人命に関わる業種である。特に、急流下り事業は集客が増大し、黒字化に大きく貢献していると聞いて尚更今回の事故には船頭のミスを誘発した会社側に問題があると思われて仕方がないのである。赤字が続いた会社が何も行なわないで来た訳ではない事を考えると、名倉社長が行なった経費節減は現場の非正規社員の増加であり、安全対策として必要なお金を使わないことではなかったかと推察できる。尤も、救命具の着用は会社側の自由裁量であった事には驚いたが、この制度も古きよき時代に通用したものであるのを行政側が見落としていた事例であろう。日本人の責任感を期待した制度など今日では通用しない事は自明である。会社の利益を上げるために同じ仕事をさせるにも拘わらず、正規社員と非正規社員との格差を考えただけでも自由裁量の制度など危険極まりないのである。天竜川の事故の原因は色々と推定されるが、ひとつには急激に増加したお客に対する船頭教育や確保に問題が無かったかと言うことである。然も、高齢化社会の日本では当然高齢者の船頭が多いこと直ぐに分かり、健康管理の面で会社側がどの程度考慮していたかである。日本の社会も金融資本主義が導入され格差社会になったにも拘わらず、自由裁量制度や事故に対する経営責任の罰則規定が弱い。米国の様に、自由を与える代わりに罰則規定も整えていることを日本でも早急に見習う必要がある。東日本大震災で日本人の我慢強さや礼節などを海外から評価されたが、それは一般市民の礼節である。日本企業の経営者のモラルの低下は酷く、全く一般市民と異なり、人命より数字の人達である。古きよき時代は二度と来ないのであるから、事故に対する経営責任を問う罰則規定を強化すべきである。東京電力の福島原発事故然りである。

hpgrp GALLERY 東京の展示会

■窪田美樹 「人の山」■

会期:2011年8月26日(金) - 9月19日(月祝)
オープニングレセプション:2011年8月26日(金) 19:00~21:00
会場:hpgrp GALLERY 東京

家具を用いて、「実在と虚構」を暗示する作品を中心に発表して来た窪田美樹の新作
展をご案内申し上げます。
目の前に実在するかたちと、かたちの中に埋もれるイメージを混在させることで強い
個性と存在感を放つ窪田の作品は、常に現代彫刻の新しい可能性を示唆しています。
本展では、数年前から取り組んでいる、平面的な要素にボリュームを持たせて立体化
し、それらを集積させることで彫刻を成立させる新たなシリーズを展示します。
量塊や、素材と形の関係という彫刻的概念を独自のアプローチで展開している窪田美
樹の新作展をこの機会に是非ご高覧ください。

<作家コメント>
見る事で衝動的に起る感覚というのは、何に由来しているのだろうか。例えば、初め
て見るから驚くと言うが、実際感情は既存の記憶になぞらえて動くものではないか。
既に知っている何かと重なる、だから驚く、怖がる、面白がる。見る行為と感情の間
に、対象だけでなく別の何かがあるとするなら、一体何を見ているのか。あるように
見える事と、実際にある事の違いに興味を持っている。「虚像で実像を作る」という
言葉をイメージして、紙に焼かれた写真や絵画のコピーを握りつぶして形を与える。
写真や絵画におさめられた空間を素材として彫刻作品を制作する。
―窪田 美樹

窪田 美樹
1975 神奈川県生まれ
2001 武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻彫刻コース修了

展覧会履歴
2010    「よりあい」grisette(東京)
    「皮膚と地図(あいちトリエンナーレ入選企画展)」
    愛知芸術文化センター(愛知)
2009    「かげとりと、はれもの」 hpgrp GALLERY 東京(東京)
    「Haptic - 触覚」ヴィック・ムニーズ キュレーションによるブラジル・
日本アーティスト、トーキョーワンダーサイト本郷(東京)
2008    「DESHADOWED かげとり(第2回ARTEGG)」資生堂ギャラリー(東京)
       「所沢ビエンナーレ・プレ美術展-引込線」(所沢)
2007    「かげとり」新宿眼科画廊(東京)
他多数

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■IOSSELLIANI T-02-IOSより展示のご案内■

赤池完介「日々ステンシル、サーカスの来た町」
会期:2011年8月26日(金) - 9月21日(水)
オープニングレセプション:2011年8月26日(金)18:00 - 21:00
会場:IOSSELLIANI T-02-IOS(hpgrp GALLERY東京のビル2F)

国も時代も特定できない平凡な町にサーカスが突如と現れ、
人々は心を躍らす。そしてサーカスが立ち去ると、また淡々と続く日々
が町に戻る。そこには騒ぎの後の哀愁ある光景が広がる...。
IOSSELLIANI の今シーズンテーマであるモダンサーカスからイメージを
膨らませた本展では、ジュエリーと赤池のステンシルワークが交わることにより、
高揚と虚無がダイレクトに伝わる内容となっております。
是非ご高覧ください。

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■AOSANDO's NIGHT MARKET開催■
2011年8月26日(金)-8月27日(土)17:00-21:00
hpgrp GALLERY東京のある「青参道」の11店舗でナイトマーケットを開催いたします。
照明をいつもより少し落とし、キャンドルが並ぶ青参道でH.P.F,スタッフ蚤の市や
家具の市など、各店企画をご用意してお待ちしております。
是非この機会に青参道へお越しください。

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アッシュ・ペー・フランス株式会社
hpgrp GALLERY 東京
director 戸塚 憲太郎

150-0001 東京都渋谷区神宮前5-1-15 CHビル B1
Tel:03-3797-1507
Fax:03-6805-0840
Email:art@hpgrp.com
URL: http://www.artdiv-hpf.com/tokyo
Blog: http://blogs.brash.jp/totsuka/

 

故郷の茨城(北部)に帰郷して

盂蘭盆に例年通り夏休みに茨城の故郷に帰った。私の故郷は茨城県の北部地域に位置する。数年前に1町2村が合併して新しい町になり、未だ町名に慣れていない。原発からの距離は、福島第一原発から約116km、福島第二原発から約106km、東海第二原発から約24km、柏崎・刈羽原発から約285kmである。福島原発事故の時に米軍が避難地域とした80km内ではない。尤も、東海第二原発が福島同様な事故を起こしたら30km圏内に入るエリアだ。原発立地で恩恵を受けるのは立地した市町村だけであり、わが町は電源交付金等の何等の恩恵を受けていない。福島第二原発の立地でも同様と思われるので、立地以外の30km圏内の市町村は怒りが納まらない。事故の事を考えると建設計画に関しては本来ならば30km圏内の市町村の合意が前提となることが当然であった。然し、現実は立地市町村と県の承諾だけである。今回の帰郷では、様々な変化を感じた。ひとつには、近所の農家の方が私の帰郷には朝採りの野菜を持ってきてくれるのだが、今年は音沙汰がなかった。何時もなら玄関に黙って置いてくれる方もいて恐縮していたものである。母の話では放射能汚染の風評があるので、迷惑を掛けると考えて持ってこないとのことであった。又、姉の話では、農家の人たちは根拠のないセシウムに汚染されているかもしれない恐怖に怯えて生産に従事しているとのことであった。地元でも孫には周辺の野菜を食べさせないなど放射能問題がエスカレートしている。私自身は今回の帰郷に際してカイガーカウンターを持参し、自宅の庭の放射能レベルを確認した。確かに、東京都内(虎ノ門)と比較して空気中の放射能は多かったが、そのレベルは0.05~0.08マイクロシーベル/h高かった位である。庭の芝や樹木の下を全体的に計測した時には、空気中よりは高く反応する場所があったが、それでも一番高い場所で0.4マイクロシーベル/hであった。素人の判断で断定した言い方は出来ないが、冷静に対応するのも必要であると思われた。勿論、風評が起きた原因は政府の後手に回った対応であり、政治家の役人の様な無責任な発言であった。福島原発事故が終息した訳ではないので、今後も放射能の汚染に対するきめ細かい対応が求められる。人々は色々なマスコミ報道に接して混乱しているので、早急に明確な安心できる基準の公表が重要である。政治も行政も信頼されない時代に起きた原発事故は不幸な出来事と言わざるを得ない。姉から現代では2人にひとり」が癌で死ぬ時代に放射能汚染で癌になる確率など考えても仕方がないと言う人もいることを聞いたが、確かに子供時代に農薬に汚染された米を食べてきた世代にとっては放射能汚染も同様な視点なのであろう。問題はマスコミが危機を作り上げて国民がパニックなっている面も見受けられ、陸前高田市の松の事件など典型的なものである。多くの人は飛行機に乗って浴びる放射線量を危険視しないで、原発事故の放射能拡散だけに怯えているのは滑稽としか言いようがない。現代社会に危険は隣り合わせであることを認識して冷静に対応する事が重要だと帰郷に際して考えたことであった。

ドルの過剰流動で投機資金が獲物を狙っている時に米の先物取引はリスクが高い?

米の先物取引が始まった。世界の商品の先物取引の始まりは日本と言われ、それは大阪の堂島の米取引であったらしい。尤も、この時代の米の先物取引は実質的には貨幣経済であったにも拘らず、給与を米で支給されていた武士階級を救済する目的と思われ、決して庶民に対する米価の安定のために機能したとは思われない。実際、飢饉などに米の買占めがなされ、民衆の一揆が起きたことは歴史的な事実である。今回密かに米の先物取引を窺っていた輩が福島原発事故の放射能汚染を奇禍として再開した米の先物取引は動機が火事場泥棒みたいで将来に良い結果を生むのが懸念される。世界経済は不安定になり、然も過剰流動性のドルが投機目的で跳梁跋扈している時に米の先物取引がどのような結果をもたらすかは自明である。政治家も役人も、馬鹿な学者から日本は先物取引では昔は世界の先端を走っていたという事を聞かされて日本を元気の象徴にするために再開をしたかったのではないかと推測する。勿論、日本の農業が生き残るために米の先物取引を導入し、生産と供給において価格の安定化を図るなどの大義名分の趣旨は大上段に掲げられているのであろうが、国民にとっては今後米は高いものになる可能性は否定できない。米の買占めなどに対する罰則はどうなっているのかと考えたが、今の政治家や役人に国民の事を考える輩がいないことを考えると指摘するまでもないだろう。日本は何時の時代でも戦前の金解禁の様に後手に回った政策が多いが、世界経済が不安定になってきている最中に米の先物取引はリスクが高いと予測する。私の予測があたらない事を祈るだけだ。

素晴らしき仲間

昨日、上野精養軒でお祝いパーティが開かれた。パーティの趣旨は、茨城県のゴルフ場のメンバーの一人がクラブの公式競技のシニア選手権のチャンピオンになった事と同時にその後行なわれた矢張りクラブの公式競技のクラブ選手権決勝トーナメントで成し遂げたホールインワンを祝う会であった。主役のMさんとは同じゴルフ場のメンバーとして25年以上の交遊がある。Mさんと初めてラウンドしたのはクラブの公式競技である理事長杯の予選であった。この時には私はハンデ17で参加したが、Mさんは確か既にハンデ7か6であったと記憶している。体は小柄であったが、飛ばし屋で綺麗なスイングには感嘆し、憧れのゴルファーであった。予選会では我々の組は北コースからスタートし、次に中コース、最後に南コースと1日で27Hランドするものであった。Mさん以外の2人もAクラスで、私だけがBクラスであった。又、初めての理事長杯予選会出場でもあり、かなり緊張を強いられた記憶がある。しかし、最初の9ホールはアプローチが決まり且つパターが良く入り、私としては上出来の41で上がった。Mさんと他の二人は一番ハンデが多い私のゴルフにリズムを狂わせたのか私よりスコアが良くなかった。クラブハウスに戻る時にMさんが他のシングルからスコアの事を聞かれた時にうちの組はハンドが逆だよと自虐的に答えたのが印象的であった。勿論、私がスコアが良かったのは最初の9ホールだけで、次の9ホールから馬脚を現して3人の中で一番悪いスコアとなったのである。それ以来、機会があればゴルフに誘われてラウンドしたが、教えても上手くならない私のゴルフにMさんから愛想を付かされた。今回のMさんの祝賀会には往年のシングルが多く参加した。お互いに才能を認め合った人達で、クラブチャンピオン、歴代の理事長杯優勝者、歴代のシニアチャンピオンが勢揃いしたパーティとなった。本来なら、シングルハンデになれなかった私は参加資格がないのであるが、恥ずかしながら仲間から名誉シングルとして彼等と同等に扱いを受けている。しかし、今回の祝賀会に参加してゴルフの仲間の素晴らしさが改めて感じた。ゴルフの仲間は時には競合相手となりながら相手の優勝を心からお祝いしてくれる。今年のシニア杯でMさんと優勝を争ったIさんも茨城から参加してくれた。夏の色々な行事の最中、地域の役員でもありながら無理して祝賀会に参加してくれたのには頭が下がる。私は最近はクラブの月例競技に参加しなくなったので、クラブの会員達とは皆久し振りにお会いした。それでも時間の経過を感じさせない位に自然に皆から声を掛けられた。なお、Mさんの実家はスカイツリータワーの近くなので上野浅草方面は地元なのだが、精養軒は彼が結婚式を挙げた思い出の場所であることも今回知った。結婚式の写真も置いてあり、頭が薄くなった現在の彼から想像できない位ジャニーズ系の美男子の姿が写っていた。Mさんのファミリーも勢揃いし、賑やかな宴となり、Mさんの幸せそうな顔がひときわ輝いていた。宴の最中にゴルフ仲間の司会の方が、ひと言述べた件ー家族の理解があってこそのゴルフであり、茲に出席した皆さんは家族に感謝することが必要ーであった。長いゴルフ人生には様々な事があり、10年間ゴルフを止めていたと話をしたメンバーもいた。しかし、何時でも仲間として受け入れ、お祝いには自分の事の様に喜んでくれるゴルフ仲間は人生において素晴らしい財産であると思う。何時の間にか皆年を取ったが集れば子供の様にゴルフ話に花が咲く。素晴らしき仲間に乾杯!

日本の民営委託制度で欠けている罰則規定

先日、外資系不動産投資会社の社長さんと雑談している時に米国と日本の行政の仕組みについて初めて知った事があった。社長さんは金融マンとして米国経験も長く、米国の地理的な面を含めて米国については造詣が深い人である。私が今回の東日本大震災の復旧対応や二次被害の福島原発事故に関してスペシャリストの技術者がゼネラリストの下位に置かれ行政が機能していないので、明治時代の工部省的な技術者集団を再度形成すべきであると話した時に社長さんから意外な事を聞いて驚いた。社長さん曰く、米国の行政組織には技術者はいないと言うことであった。私の疑問として誰が外部委託をチェックするのか問うた所、チェックも民間のコンサルタント会社に委託するシステムであるので役人が少なくて良いとのことであった。社長さんは東大での優秀な方なので私の考えなどお見通しであり、私の疑問の不正に関しては間髪をいれずにコンサルタント会社が間違った場合には罰せられるとのことであった。米国の金融システムに関しては憤慨するほど罰則規定が甘いと思っていたのだが、公共工事などに関する民間委託に関しては不正や間違いに対して責任を負わせるシステムになっている様だ。勿論、罰則規定がどの程度厳しいかは分からないが、米国社会は合理的に考えられている。翻って日本の場合、我々の建築業界一つ見ても民間委託の状況には雲泥の差がある。規制緩和により建築確認申請における民間委託会社が発足したが、発足自体が役所勤務経験者を必要としたものであり、少なくても役所勤務の資格者を採用しなければ会社設立が出来ない仕組みであった。更に、構造偽装事件で分かるように、審査した側の責任は一切と問われない仕組みであった。何が規制緩和だと言いたい内容であり、日本の場合には所詮役人が作る制度に政治家が乗っているだけなので、本当の意味での規制緩和や民間委託など存在もしていない。役人の身内の民間委託だから罰則規定もないことが良く分かった。今の日本の政治家は碌に勉強もしていないので、役人の協力を仰がなければ何も出来ない情けない存在だ。この現実を考えると、今後幾ら選挙に行って期待する政党に入れても、国民が望む社会制度は構築されない。特に、民主党が出来もしない政治主導を唱えて挫折したために、余計に状況が悪くなった。尤も、公務員改革自体を公務員に遣らせる矛盾を考えると、日本と言う国は救いようもない。最近、経済産業省の官僚の古賀某が古巣の経済産業省と対立しているかのような行動を取っているが、所詮はコップの中の嵐であり、国民を考えた争いでない事は確かだ。当然だが、外資系の社長さんも日本における今の政治状況から積極的に不動産投資を進めることに躊躇いが出るとのことであった。過去を振り返ると、自民党の小渕政権の時の不況対策が一番優れており、小渕総理が急逝したことが残念であることで社長さんと一致した。小渕総理以後は正に役人に振り回されて何の改善もされず、政治が機能しなくなった今の現実がある。小渕総理は規制緩和による民間委託を進めたのではないが、的を得た経済対策を行なった事は確かであった。小渕総理以後は財務官僚が仕切った政策で悪戯に赤字国債を増やしただけであった。何が問題かは一目瞭然である。日本の回復には官僚を排除した徹底的な民間委託とそれに伴う罰則規定だ。

マスコミのガラパゴス批判は正しいのか!

最近何にでもガラパゴスと言う言葉が使われ、絶滅種の悪い見本にされている。マスコミが毎日の様にガラパゴスと書くから新聞などマスコミ情報を唯一の判断の手段にしている一般人はそれに呼応してしまう。ガラパゴスと表裏一体の言葉としてダーウィンの変化対応論がある。しかし、良く考えると、進化論は生命が短い生物に使われる言葉であり、樹木の様に長期に生存する植物は変化をしないことで生き抜けるのである。更に、ガラパゴスの批判は新興国に対する需要に合せた製品作りを指しているが、日本企業が付加価値の物づくりでなく、新興国の土俵に乗ったチープな物づくりで生き残れるものではない。勿論、日本製品がマニアックになり、高齢化社会を考慮しない複雑な製品作りが行われてきた事も確かではある。しかし、この事を以って全てがガラパゴスと言う極論は的を得ていない。グローバル化がローカルに眼を向けさせることは先進国においては消費者が好むのは画一的なチープな物ばかりではなく、本物を求めている証拠でもある。本物とは長い年月に耐えてきた価値と考えられる。日本の製造業ではガラパゴスと言う言葉が先行したために貴重な物づくりの心が失われてきており、職人芸もコンピュータのデータに取って代わられて来ている。しかし、誰もが認識し、誰もが経済コストの前に口に出さないが、ソフトは現場を知り尽くした者がいて初めて機能するものが作れる現実である。20世紀はハードの時代であり、21世紀はソフトの時代かもしれないが、ハードを作るのには現場力が必要なのであり、それが大きな事故を防ぐ要因にもなっていた。しかし、ソフトの時代になり、ハードが軽視されるようになり、同時に現場力も軽視されるようになった。その結果、働く人達もデータ重視で直感が働かなくなり、大きな事故に対しても全てコンピュータ任せて鈍感になってしまった。福島第一原子力発電所の事故は何故起きたのかは一目瞭然である。ハード軽視のソフト重視で起きたのである。PCの画面を見ているだけではハードの劣化や災害に対する予感は働かなくなる。ガラパゴスと言うマスコミの批判がハード軽視に繫がり、現場軽視に向かい大災害に対して予知できない状況を作り上げている。日本は木造建築で自然を学び、それを活かしてきた国民である。1千年に耐える木造建築には1千年の年月を経てきた樹木が必要なのである。変わる必要性は認めるが、それは変わらない重要性を認識した上での話である。東日本大震災では国の行政機能が平時の状態で非常に対応するには3ヶ月以上を要する馬鹿げた状況になっている。ソフト重視ははPCから信号が送られないと動かない思考停止社会である。マスコミのガラパゴス批判はそれを助長することになる。

日本社会は米国の戦後プログラムとおりになった!

1945年、今から66年前に日本は敗戦し、その後は米国の日本弱体化の戦後プログラムに沿って歩んできた。途中で朝鮮戦争が起きてプログラムに若干変更が加えられたが、基本的には原案に近い形で遂行された。勿論、戦後プログラムは全てを否定するもではなく、農地解放の様な結果的には日本人に取っては幸運をもたらした政策もあった。最近、東日本大震災後に日本に帰化を表明したドナルドキーン氏も占領軍の一員として日本の土を踏んでいる。ドナルドキーン氏より早く日本に帰化した米国人の一人にウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏がいる。彼はメンソレータムの近江兄弟社を設立した人でもあり、当社と同業の設計事務所「一粒社ヴォーリズ建築設計事務所」を設立し、明治以降に多くの有名な建築物を設計した人物としても知られている。因みに、帰化後の日本名は一柳米来留(ヒトツヤナギメレル)であり、一柳は奥さんの実家の性であった。話は横に逸れるが、私の知人が偶然にヴォーリズムの出たコロラド大学に学んでおり、偶然に驚いた記憶がある。ヴォーリズは戦争中に帰化し、戦後日本の再生に役立つ事を決意した人でもある。このヴォーリズが戦後日本人の変化に逸早く気付いた人でもある。そして戦後プログラムで戦前の倫理観などを一掃された日本社会ではお金が基本になっていることに将来の日本人に対して懸念していたと言われている。それでも未だ明治生まれの人達が多くいた1970年代までは経済成長もあり、日本社会はどうにか秩序が保たれていたと考えられた。然し、次第に明治生まれの世代が引退し、大正時代の世代が経営者の主流になっていた時に経済バブルが崩壊し、その後は資産デフレとなり昭和時代の世代が台頭してきてから日本社会は米国の戦後プログラムの効果が出てきた。そのピークは小泉政権以降であると思われる。勿論、戦後プログラムだけでなく、日本の戦後社会では人格的に問題がある旧軍人が復活したり、隠退蔵物資を盗んで企業経営者になった人達が多かったので、戦後プログラムは無責任社会の進行を助長させただけなのかもしれない。今は正に、政治家も官僚も企業人も自己利益だけしか考えない戦中戦後世代が跳梁跋扈しているが、現代の米国にとっては予想以上の効果が出たので、中国の最近の台頭を考えれば、逆に時間を戻したいと考えているかもしれない。それにしても、情けない程小人物が政治家のトップになったり、大手企業経営者のトップになったりとバブル経済崩壊後に何も遣らない自己中の二流の人物がそれぞれの業界で地位を得たことが、無責任な日本社会を作り上げた。今となっては時間を戻すわけには行かないが、今後の日本は東日本大震災や二次災害の原発事故の試練によって変らなければ民族として生き残れないのではないかと危惧する。

Stay hungry,Stay foolish

標題はアップルの創業者、スティーブジョブスが好んで使う言葉なので、人口に膾炙している。今の日本を見ると、「Stay hungry,Stay foolish」の生き方など評価されないほど打算的な社会と思われる。尤も、年功序列制度が崩壊し、雇用もインフレ時代と異なり厳しい時代なので、利口に振舞わないと生きてゆけない背景があることも確かだ。勿論、若い方がベンチャー企業を立ち上げたり、企業家を目指して頑張っている姿を報道した新聞雑誌などの記事も眼にしているので、「Stay hungry,Stay foolish」の生き方で頑張っている人達がいるのは否定しない。スティーブジョブスと同時代にPCで成功した人物にマイクロソフトの創業者のビルゲイツがいる。ビルゲイツもスティーブジョブスもハードでなく、ソフト分野で成功した人物だ。PCではハードで成功して長続きした人物は少ない。そう言えば、日本にも孫正義と言いうPCソフトと携帯電話の買収で成功した同時代の人物もいる。3人を比較すると、ビルゲイツと孫正義は同類と思われるが、ジョブスは2人とは基本的に違う様だ。ジョブスは独創性に執着し、且つ妥協しない遣り方は事業家と言うより芸術家タイプと思われる。芸術家は才能を評価してくれる画商などがいないと世に出ることは難しいが、その点はジョブスは恵まれた環境にあった。勿論、ジョブスにも事業家としての才覚はあり、その最たるものがプレゼンの上手さであろう。しかし、ジョブスの根底には常に「Stay hungry,Stay foolish」の生き方があり、それが他の二人の追随を許さないものになっていると推定できる。日本の政治家と官僚に「Stay hungry,Stay foolish」の言葉を贈りたい。

ゴルフと性格

私はゴルフを始めて今年で29年になるが、レッスンプロの指導を受けずに独学で学んだために最近は下手になるばかりである。世の中の事は全て一緒だが最初が肝心であることを情けない事にこの年で学んだ。然し、ゴルフは下手であるが、長年プレイしてきたので、徐々にではあるがゴルフの何たるかは幾らか分かって来た様な気がする。不思議な物で、上手くなろうとしてきた時には見えなかった事が、下手になって分かってきたとは皮肉だ。先週の連休の最後にゴルフコンペがあり参加した。コンペは2組だが、個人戦ではなく組み対抗戦とドラコンとニアピンと言う遣り方であった。このゴルフコンペを主催するのは紅一点の女性参加者であり、彼女のファンの男達が参加している。私は年齢的に上位から2番で長老扱いされている。私の組は老舗の会社の役員、コンサルタント会社の社員、開業医の構成であり、主催者の彼女とのゴルフでは何時も大叩きをしていたためか、4人の中では最下位に位置づけられていた。老舗会社の役員とは友達の輪を通して知り合い10年以上のお付き合いをしている。今回の暑い最中のゴルフではゴルフと性格について改めて気がつかされた。老舗の役員さんとは何回か一緒にプレイしているが、今回初めて彼が切れた場面に出合って驚いた。彼は東大の現役時代に司法試験に合格した程の英才であり、キャリア官僚を経て奥さんの一族が経営している会社で役員に就任し世界中を飛び回っている。その彼がバンカーショットのミスで切れたのである。尤も、その後は直ぐに冷静になったが、ゴルフと言うスポーツは本当に人の性格を映し出すスポーツと言う事が理解できる。彼は意外と短気であったのである。若い頃にゴルフを始めた時に良く言われた事は、ゴルフが上手いと取引先の金融機関から信用されないと言われたものである。然し、今ではゴルフが下手だと逆に経営判断の能力が問われる時代となり隔世の感がある。確かに、ゴルフが上手い人は努力家の人だから一部の人を除いて仕事も頑張って成功した人が多い。先の老舗の役員は負けず嫌いだから東大にも入り、司法試験も大学在学中に合格したと思われる。それがゴルフと言うスポーツに出合って初めて思うようにならないので切れたと思料する。翻って、私の人生は逆境の連続なのでゴルフで思うようにならない事などは想定内なので今では切れたりしないが、他人から見るとゴルフで大叩きしても常に冷静なので驚かれる様だ。なお、4人の中でコンサルタントの会社に勤務している若い方は相当飛ばすので余裕があったこともあるが、人を観察する習慣が身についていると思われた。良く他人のスイングやプレイを観察してひと言励ましの言葉を掛けていた。コンサルタントと言う仕事が観察眼を必要とし、常に客観的に人見る習慣を養ってるのではないかと思われた。矢張り若い方で1年前に開業医となった医者は後半のハーフプレイで突然OBの連発で崩れ、数ホールは酷いゴルフとなった。それでも開業医になって苦労しているためか切れる事はなく黙々とプレイし、必死で自分を抑えている様子が見て取れた。この様子を見ていたコンサルタントは医者の方が自分と必死になって戦っているので余計なアドバイスは不要(聞き入れない)と独り言をいった。ちなみに、今回のコンペは他の組に図抜けて上手い方が一人いた事と、医者の彼が後半のプレイで大叩きしたために我々の組は負けた。なお、老舗の役員の方は最初のハーフで切れたが、後半は冷静な彼に戻り、然もチャレンジャー精神も発揮して難関のホールを克服し、個人では2位に入った。流石であった。私はと言えば、ドライバーの距離が落ちたためセカンドを苦労し拾いのゴルフに終始したものの、パターが入らず8人中5位の成績であった。尤も、アプローチで久し振りにヒントを掴んだ(?)ので次回に期待したい。

なでしこジャパンの快進撃に思う

サッカーの女子ワールドカップでなしこジャパンの優勝が見えてきた。最近の日本女性の活躍は目を瞠るものがある。、私の友人は20年以上前からこれからは女性を上手に使う会社が伸びると遇う度に指摘してきた。友人は長く米国に生活していたので女性の社会進出を見て来たゆえであろうが、同時に彼の奥さんは通訳のキャリアウーマンであることも影響していたのであろう。3年前に転職して再度米国に戻ったのだが、その会社でも友人のキャリアウーマン好きは有名らしい。尤も、最近は男性と違った女性の扱いの難しさも経験している様で手放しではキャリアウーマンを絶賛はしていないが。サッカーのなでしこジャパンの強さは現代の日本社会を投影している事は確かだ。男性が内向き思考になっているのに女性は外向き思考が強い。この差は何処から生まれてきているのかと考えると、家庭と母親に行き着く。勿論、女性の強さは何も今から始まったことではなく、社会的な活躍は女性の社会進出の増加と相俟ったものと言える。問題は男性がなぜ女性に比べて弱くなったかの方が問題と考える。最大の原因は母親が父親を子供の前で一家の大黒柱として尊重しなくなったことが大きいと思われる。私が育った環境から考えると母親は優しく、父親は強く怖い存在であった。確か、何かの本で読んだのだが、母親が強く父親が弱い家庭の子供は不良になる確立が高いと書かれていたのを思い出した。現代日本においては、母親が父親の不甲斐なさを子供前で平気で口に出すことが子供の成長に、特に男子の成長に害をもたらしているのではないかと考えてしまう。私の母は父に対して多くの不満を持っていたかもしれないが、子供の前では一度たりとも愚痴などを言った事はなかった。勿論、同じ年で結婚したので良く喧嘩はしていた。私は末っ子なので母から一番可愛がられていたために、両親が喧嘩をした時に父から不条理ともいえる扱いを受けたこともあった。尤も、不条理なのは時間的な問題で、叱られた内容に関しては当然な理由があり母としても庇えない知能的なものであった。何れにしても私が不良にならなかったのは、母が父の威厳を子供たちに見せる努力をしていたからと理解できる。確かに、日本女性の活躍はあっぱれであるが、現代の女性達が母になった時に優しさを兼ね備えた強さを持ち、且つ子供の父親に対して一家の主として立てる聡明さがなければ間違いなく日本の良き社会は崩壊すると断言できる。いや、もう崩壊しつつあるかもしれない。到る所で子供を叱る母親を見ていると、何時の間に母親が父親になってしまったのかを考えてしまう。少なくても私の子供時代には母にヒステリックに叱られた記憶がなく、優しさだけ思い出される。

放射能汚染牛の売買は政府の怠慢だ

福島県南相馬市の畜産農家の放射能汚染牛が市場に出回り衝撃を与えている。マスコミによれば行政指定の飼料でなく汚染された干し藁を食べさせた事による汚染とのことで、政府と行政の責任逃れのインチキ報道だ。被災に遇い、資金不足の農家が行政が指定した飼料を購入出来るのだろうか。原発事故直後にも放射能拡散地域から食肉牛が取引されて市場に流されたとの週刊誌記事を見た。今回の事件はその教訓を生かしていない政府と行政の怠慢が引き起こしたと思われる。放射能拡散地域の農業と畜産の農家が補償の範囲も対称も金額も分からない中で犠牲を強いられている。農家はサラリーマンの様に仕事をしなくても給料が貰えるシステムではない。全てがスローペースで行なわれているのは給料取りの役人と政治家の原因だ。そう言えば、自民党の代議士が蓄えのない者は他人が一生懸命に働いている時に遊んでいた者なので擁護する必要がないと言った事を思い出した。零細農家や畜産農家が借金を抱えて中小企業の自転車操業と同様であることなど省みない。今回の大地震と二次災害の原発事故で途方に呉れている農家に対して何等の手も差し延べていない。働かなければ食えない人達は放射能が怖くても移転はできない。然も、補償も対象かどうか分からない自主避難のエリアなら尚更だ。NHKの報道で司会者が、被災地の方は被害者だが、放射能汚染牛を売ったならば何時までも被害者とは言えないと暴言を吐いた。政府と行政の怠慢が引き起こした事を追求しないで畜産農家を非難する報道は許せない。そもそも自主避難とはどの様なことを意味するのか。官僚の無責任な意見をそのまま採用する民主党政権は何が政治主導だ。指定した飼料は価格は幾らか。畜産農家が原発事故の被害者であるのに、何故強いられて負担を掛けさせられるのか。政府が進めている補償の仕組みも出鱈目だから被害者が加害者扱いされてしまう。被害者を加害者などと言うNHKなどに放送料を払うな。政府擁護の国営放送などに金が払えるか。日本は全てが狂っている。

原発事故で政府が責任も取らないのに節電などする必要はない!

今夏は福島原発事故の影響により大半の原子力が稼動せず電力が不足するので政府は節電を呼びかけている。然し、良く考えると、福島原発事故において東電の社長が辞任した位で、会長は居残り、政府も関係省庁も誰も責任を取っていない。原発に関しては安全検査が官僚の天下り利権と政治家の建設などの利権で甘くなったために起きた事故なのにである。現在は事故の原因より再生可能エネルギーに眼を向けさせて経済産業省にだけ責任を強いる世論誘導は許せないものである。福島原発事故は人災なのが分かって来たのだから、東電の経営陣に対する責任と今回の事故に対する政府の対応の責任を明確にして初めて再生可能エネルギーの問題の取り組むべきだ。日本人は今回の節電に対して無批判に受け入れているが、この様な考え方が戦前の無謀な戦争に突入させ、戦争に反対する者を糾弾したのである。政府や関係省庁及び東電が何等責任を取らないのに節電などに協力する必要がない。若し、節電しなくて大停電が起きたら政府の責任として内閣は辞職すべきであるし、関係省庁のトップ並びに東電の経営陣も停電に対して責任を取るべきである。国民が甘いからマスコミもインチキ書き放題だし、政府も役所も遣り放題だ。節電などに協力しない事が日本を良くする最大のチャンスだ。膨大な財政赤字にしても国民の要請で使った様な言い方で責任転嫁しようとしているが、役人の天下り先と政治家の利権でもって増加した大量の国債発行のために国民が負担する謂れがない。国に金がなければ役人を減らし、政治家を減らし、組織を縮小してから国民に負担を強いるべきだ。節電にしても電力が足りないから節電しろなどと国民に転嫁する遣り方が通用しない事を見せるべきだ。節電などする必要はない。大停電を起こさせて菅首相を退陣させろ。経済界で主流である破壊と創造を国政にも導入することが重要だ。国民が政府に従わない事が破壊に繫がる。壊す事を怖がっていては改革はできない。壊してもこれ以上悪くはならない。政治家と官僚の利権を崩壊させ、公益事業を新しい時代に改変させる事が重要だ。

日本人の危機管理の欠如等は国防の米国依存の為!!

日本人は昔から危機管理が欠如した国民ではないと考えるが、現代の日本人を見る限り多くの人は危機管理能力が低い様に思えて仕方がない。特に、エリート呼ばれる上級官僚や政治家に危機管理能力と迅速性が欠如していることは憂いることである。何故、現代日本人が危機意識が低下したかを検証してみると、国家の基本である国防に対する意識の欠如がもたらしたものではないかと推測する。この様に書くと国防の意識は多くの国民が持っていると反論されると思うが、国防の意識とは米国依存の国防体制を当然と考える国民の意識が緊張感と危機意識の欠如の原因になっている懸念である。確かに、日本は低い防衛費で経済大国になったが、その代わりに危機意識の欠如など失った代償は大きかったかもしれない。日本の多くの若者にとって戦争とは、自衛隊と米軍が行うもので、自らが戦争に行く事は全く想定外と思われる。このため、この事が尖閣諸島などの国境紛争エリアに対する日本の若者の強硬論となっている様に思えて仕方がない。隣国の韓国は徴兵制度を設けており、成人男子は一部の例外を除いて全員が2年間(?)の軍隊生活を送る。軍隊で教わる事は敵を殺す事と自分の命を守ることである。一瞬の判断ミスが命取りになる戦場では、危機管理能力が必要以上に高められる。グローバル経済になって韓国が強みを発揮してきた背景には、徴兵制度で危機管理意識や迅速性などを鍛えられた若者が企業で活躍しているからとも理解できる。日本も戦前の戦争体験を持った世代が、行政や政治家や企業の現役であった時代は、職場に危機管理意識を持ち、迅速性の体制が出来ていたと思われる。日本が現代の様に危機管理能力とスピード制に欠ける社会になったのは標題の国防の米国依存の他に17年前のバブル経済崩壊があると考えるがその事は何度かblogで書いたので、本題では他国依存の国防が如何に日本人の決断能力を喪失させているかを論考したい。現代の若者は国境問題などに関して意外と強硬論者が多い。確かに、自らが戦争に行くことがなければ、戦争が起きても怖くはない。人間の危機管理能力は生存するために培われた本能である。その本能が現代日本人に希薄であるとすれば、民族として生き残れる可能性が低くなると言う事である。米国に国防を依存したために、日本の教育現場でも理想主意が横行し、如何なる暴力行為も否定されてしまった。国際社会の現実は理想社会とは程遠く、弱肉強食である。それなのに、現代日本人は能天気に構えて外からの圧力でしか動かない国民気質を造り上げてしまった。東日本大震災や二次災害の福島原発事故などによる対応は正に危機管理能力とスピード感覚の欠如がもたらした最悪なものである。大震災後3ヶ月になって漸く動き出したのである。勿論、標題以外に情報化社会の現場軽視が危機管理意識の欠如を助長していることは確かである。この様な現代社会にあって一つの朗報もある。それは山ガールの存在である。現代の日本社会において女性の方が危機管理意識が強く残されている様に思える。この理由は子育てに対する本能にあると考える。なぜ山ガールの出現が期待できるかと言うと、登山こそ危機管理能力と迅速性、更には決断力が求められるスポーツだからである。山ガールが増加し、子供に対する教育に自然と登山で培われたリスク管理が継承されれば、米国に国防を依存した危機管理能力の欠如を補えると思うからである。

デザイナーズマンション賃貸会社のお粗末さ

アップルコンピュータのジョブスの影響が大きいのかデザイン思考が前面に出てきた。物の売れない時代でもデザイン一つで成果を上げられると言うマインドが主流になり、日本でも積極的に採用され、成果を上げてきている。私自身もデザイン思考には賛成で、アレクサンダー・ゲルマンなどの作品には深い感銘を受ける。然し、世の中には当然ホンモノ以外にニセモノが出現するので、社会は混乱する。特に、ニセモノは強引な手法で営業を展開するので社会に浸透し、ニセモノのデザイン思考がホンモノと錯覚させるので厄介だ。確かに、ニセモノも時流に乗るので表面的には成功するのだが、問題は中味が伴わないので、多くのトラブルを引き起こす事になる。アレクサンダー・ゲルマンやアップルのジョブスなどは天才であり、その天才が只管に努力するので、中味もホンモノとなる。しかし、ニセモノは表面上の誤魔化しのために直ぐにボロが出るし、次第に馬脚を現す事になる。杉並区に30年以上築年数が経過した賃貸マンションをデザイナーズマンション紛いに改修工事し、オーナーにはサブリースを提案して成功したかの様に思わせた会社があった。この会社は入居率が低い賃貸マンションのオーナーに、デザイナーズマンションに改修工事を行わせ、未入居部分をサブリースして稼いでいる。この会社は若い未経験の設計士達を競わせ、奇抜なデザインで眼を惹く遣り方を採用しているが、奇抜なデザインは経験不足の怖い物知らずの面を持っている。杉並のデザイナーズマンションは、各階の廊下の照明をダウンライトにしたために、頻繁と電球が切れて苦情が起きている。玄関を東から北に変えたためにエントランスに風で木の葉などのゴミが集積されるようになった。更に、廊下や壁を紺色に変えたために汚れやすく、然も照明の効果が少なく、階段等が暗く歩きづらくなった。尤も、この会社は改修工事に際して入居者がいるにも拘わらず大騒音の工事を平気で行い、入居者の妊婦が流産してしまったのであった。この様な会社だから工事説明も行わず、クレームが起きてから工事会社が行うと言うお粗末さだ。この会社に関しては最初からマンション管理能力を危ぶんだが、最近では自転車置場に無断駐輪の撤去通知を出したのだが、従来の権利者などお構いなしの警告書であり、クレームには誠意のない対応で平然と間違いましただけで誤りもしない社員の姿勢には驚いた。この会社は大丈夫なのかと念のために信用調査のデーターを取り寄せたら案の定今年の決算が赤字だった。ここ数年で50億円の売上げの会社になったが、サブリース賃料の設定やニセモノのデザイナーズマンションで入居者にとって使いづらく、入居率が落ちているのではと思われた。デザイン思考重視が中味のないニセモノを生み出していることを考えると、一見成功しているように見えるこの種の会社はデフレ経済の申し子と言えそうだ。要注意である。

災害に強い過去の2本社体制

過去に戻れば良いわけではないが、過っては大企業の多くは大阪と東京の2本社制度であった。それが次第に東京の1本社制になって久しい。有力企業の多くが大阪から生じた事も2本社制の理由の一つであろうが、今回の大震災で考えれば、無駄に思えた組織体制も日本の災害を受け易い地域で事業するには必要な無駄と最近は思えてきた。少なくても、万が一に備えて2箇所に本社機能を分散させて置くことはアナログ時代の様なコストでなくて確立できるのではないかと思料する。尤も、この様な議論を展開するとクラウドの時代だから重要なドキュメントなどを電子的に他所に避難させておけば良いと反論が出ると思われるが、問題は人である。人を分散させて置く重要性もある。しかし、若い世代からそれなら何もリスクの高い日本に本社を2ヶ所持つのではなく、海外に置けば良いとの反論も出てくると思われる。確かに、今の時代に2本社制を論じるならもう1箇所は海外に置いた方がリスク分散には効果的だが、日本企業がそこまでグローバル化出来るのかという問題は残る。ヨーロッパでも欧州統合によって英語が共通言語になりつつあり、グローバル経済の共通言語は英語なのは間違いない。アジア諸国でも若い人たちは英語で話し合う時代になり、人種を超えてきている。ただし、英語を不自由なく駆使できる人達は少なく、多くの日本人の社員は英語を話せないしアジア諸国でも同様なので、組織の円滑化から考えれば未だ国内2本社制が有効と思われる。IT時代なので2本社制のコストは最低限で復活できると思われ、地球変動期に入ったと言う学者の言葉を信用すれば、遠い宇宙から帰還した「HAYABUSA」の様に万が一の為の機能を持たせておくことが大事と思われる。

国民を愚弄する菅首相の悪質さ

菅首相は公社債法案など3法案が通ったら退陣すると発言したらしい。しかし、内閣改造で自民党の浜田参議院を一本釣りした遣り方は3法案の成立など毛頭考えていないのが手に取るように分かる。マスコミが報じている様に脱原発のサプライズ解散を目論んでいると推定できる。菅内閣は、福島原発事故を原発政策推進した自民党の責任にして国民の信を得ようとしているが、原発事故当初の北澤防衛大臣が行なった自衛隊機による清水社長の帰京妨害や米国のスリーマイル島原発事故時のカーター大統領を真似した福島原発現場に飛んだパフォーマンスによる事故処理の遅れなど重要な誤りを起こしているのである。それ以外にも根拠のない事を現場に質問して事故処理を混乱させた責任は重大なのである。然も、民主党政権は東電労組の関係から2年間の政権の間には逆に原発重視と原発輸出を推進しているのである。老朽化した福島原発の使用延長に対しても何等の意義も唱えていなかったのである。全てを自民党の責任にして脱原発など主張するのは、天に唾する行為だ。菅首相は国民を馬鹿にした売国奴官僚の財務官僚と親しくなっているので、財務官僚は小泉が郵政サプライズを起こした事例を囁いて菅首相に脱原発でのサプライズ選挙を実施を促していると推定できる。菅首相の実家は岡山県にあり、地主の末裔と報道されているが、祖先は多くの人を騙して財を築いた一族なのであろう。悪い血が流れていなければ平気で嘘を言う人物にはならない。市川房江の市民運動で頭角を現したらしいが、市川房江は菅を信用していなかったと言われている。大衆の中から出てきた権勢家の多くは大衆を馬鹿にするものである。独裁者ヒットラーも"わが闘争"の中で「大衆は群盲が像をなでるが如し」と言って何も分からないと卑下した。正に、菅首相は大衆を身近に見てきているので、大衆の愚かさを熟知しているのであると考えられる。嘘も3回言えば真実になる諺もある。東日本の国民が未曾有の苦しみの中にいるのに自分の利益だけを考えて悪戯に時間を浪費する菅と言う人物を許すべきでない。若し、サプライズ選挙を断行したならば、菅自信を落選させる事が重要だ。更に、民主党の幹部も菅首相の茶番の共演者とするならば同様に選挙で思い知らせるべきである。菅首相は自分が見えていないかもしれないが、TVを通して見える菅首相の目は嘘つきであることが良く分かる。

神に愛されている日本人

不謹慎なタイトルと思われるかもしれないが、学生時代に読んだ作家の開高健のエッセイに「神は愛する者に試練を与える」と書かれていた。私も人生を振り返ると、神に愛され続けて来たのを実感する。然も、日本列島と言う島国に生まれたことは、「台風」、「火山」、「地震」、「津波」と言う自然の驚異にも晒されて生きてきたのであえる。今回の東日本大地震を振り返ると、東北地方の津波に弱い地形に多くの人が住んでいた理由を考える必要があると思った。確かに、三陸沿岸は漁業が盛んなので職住接近の便利さから言えば、津波に弱い平坦地に家を建てた方が都合が良いのは確かである。然し、海岸線を埋め立て津波に弱い平坦部を作ってまでも、リスクの高い平坦部に多くの人が住むようになったのだろうかと考えてしまう。古来より日本人は自然の中の脅威も神として敬い、その様な神と共棲してきた文化がある。日本の祭りは色々な理由があって成立しているが、盆踊りなどは死者が帰ってきた時に行なう弔いの意味もあると思われる。古来より日本人は自然の驚異に対して謙虚に恐れ戦き生きてきたのであり、自然の他の生き物と共棲してきたのである。然し、明治維新以降は西欧式の近代化により科学の力でもって人間優位の社会に転換を図ったのである。1945年以降は米国式の資本主義と民主主義が主体となり、更に米国式の豊かさを追求して次第に自然の驚異を忘却し、自然に対して尊大な気持ちを持つに到った感がある。確かに、国や国民は豊かになり、今でも世界の中では恵まれた地位を築いている。日本列島の理想的な人口はどの位なのかと考えると、食糧生産基準の江戸時代には3千万人位であったらしいが、、今は約4倍近くの人口となっている。この人口に到った背景には西欧近代化による産業育成や公衆衛生の導入など富が齎した面が強い。過去60年を振り返ると、日本人に対して神は横を向いていたと思われて仕方がない。勿論、この間にも、思い出したような神の小さな愛を日本人に幾たびか与えてたが、大東亜戦争で大きな愛を受けたためか小さな愛に終始した。此れが為に、日本人は神の愛を科学技術で克服できると言う考えに至り、多くの国民も知らず知らずに古い教えを守らなくなっていた。竹やぶが地震に強いので過っては田舎では何処でも敷地内に竹やぶがあった。昨日見たTVでは、川や海の護岸作りを日本古来の石積みによる工法を開発して取り組んでいる造園業者が放送されたが、自然との共棲が身を守る助けになることを思い出させて呉れた。然し、東京都内などは自然との共棲でない高層化の街づくりを進めており、海岸線はコンクリートで固めている。力で自然を押さえつけようとする事は東日本大震災で不可能と理解させられ、その上自然界の中に存在しない物質を作り上げる原子力発電所に対して自然が警告したと思わざるを得ない。CO2削減や再生エネルギーが求められる現代にあって、日本が東日本大震災と原発事故と言う大きな神の愛を受けたのは、神が日本人を見捨てたのではなく、新しい国づくりの指針を与えたのだと考える必要がある。東北東海岸の復興が自然と共棲したものであり、且つ人々が多くの物を共有する社会作りであると予感され、日本全体にその考えが浸透することが地方の復活に繫がると考える。

ナビ的人間

NY在住の友人と電話で話していた時に若い世代が融通が利かないと言うか、柔軟性に欠ける点を論じていた時に、カーナビゲーションの融通のなさに言及し、若い世代と類似している事に双方が気が付いた。商品が溢れ、情報化時代には容易にPCなどから情報が得られるので、今の若い世代は以外に行動的ではないと思える。尤も、スポーツなどで体を鍛えてきた若い世代は行動的だが、思考に関しては同様と思われる。端的に言えば、カーナビは目的地に対して直線的であり、目的地周辺を通過して戻ると言う仕組みにはなっていない。勿論、高価な金額であれば全てを満たすカーナビが作られるのだろうが、茲での議論は飽くまで一般的なカーナビの性能に関してである。我々世代の若い時は情報化以前の時代であったので、上司から調査を依頼されたときには国会図書館でマイクロフィルムを見たり、関係企業を訪問したり、役所を訪問したり、業界紙の記者から情報をヒアリングしたりと、多くの時間を使って多くの人と会って報告書を取りまとめたものである。この苦労が調査目的以上の成果をもたらしてくれて企業人・社会人として成長したことを記憶している。現代は、PC操作ひとつで多くの情報が得られるが、この情報は一方通行の情報である。然も、目的以外の情報を偶然得られる様なことはない。また、この種の情報入手は耳学問的な情報の取り方であるので、間違っているかどうかの検証に関しては弱い面がある。若い世代は子供と時から偏差値教育でペーパー上のトレーニングばかりである。スポーツを遣れば頭でっかちの面が幾分緩和されるのだが、それでもスポーツとなれば単純な遊びではないので、目的意識が働いて柔軟性に欠ける面は同様だ。ナビ的人間が作る社会はどの様なものなのかを我々世代は考える必要がある。形式主義が横行するであろうし、多面的な対応は期待できないと思われる。この様に書くと若い世代を貶しているだけと受け取られるが、確かに今回の東日本大震災では情報化に相俟って構築された情報システムは機能し、従来には考えられない程被災地にも情報が流れたり、交通網のチェックも素早く出来たので、情報機器やシステムを駆使した若い世代の凄さには敬服する。然しである。我々の世代としては、多量なデータの分析は柔軟な頭脳があって効果を発揮すると考えられ、人間の思考が機械的になった場合の誤りを懸念してしまう。一番大事な点はデータは過去のものであり、未来の物ではないと言う事実である。ナビ的人間が情報システムに取り込まれるリスクも考える必要がある。それは物事のの実現に対する安易な考え方である。情報化の中で神話化された偏重した思考能力が全てに通用する思い込みは怖い。

日本の人口減少論に対する無理解を憂いる

どの新聞、雑誌を見ても日本は人口が減少して行くので企業はマーケットを海外に求め日本には未来はないと言及している。企業経営者もマスコミに影響されてか同様な発想しか持てていない。歴史観を持たない政治家や官僚、そして経済人が日本を誤った方向に持って行く姿は情けないのひと言だ。日本の古代史を見ると日本は移民の国であったことが分かる。DNAの分析では日本人は出アフリカの人類の祖先の枝分かれした殆んどを有していることが分かった。日本人は顔かたちは似ているが、頭の中身は多民族国家と同様なのである。日本文化には"根回し"と言う独特の事前調整行為がある。又、"沈黙は金、雄弁は銀"とする欧米の社会とは異なる文化を持っている。この理由は先に言及した多様な価値観を有する日本人の共棲するための知恵と考えられる。今は紙幣から消えた聖徳太子と言う聖人が作った17条憲法の第一条に「和を持って尊し」と書かれていることが全てを物語っている。話は大分横道にされたが、日本人が単一民族であると言う神話は嘘であったことが近年のDNA分析で分かったのであるから、日本が移民政策を否定する理由はないのである。然も、昨年から高齢者の死者数の増加で人口が初めて10万人減少したのである。今年は更に増加して12万人に増える予測が出ている。人口減が経済成長や景気に影響するなら人口増加を図る政策を打ち出すべきだが、日本人に対して子供を増やす事を奨励しても時間軸的には既に無理となっている。それならば、海外からの移住を積極的に認めるべきであり、それが日本版のグリーンカード制度の構築である。米国の経済はグリーンカード制度が貢献している事が理解されている。今般、13億人の中国が中国版グリーンカード制度の導入を打ち出した。中国も高齢化社会は目前としてるので、経済成長には優秀な移民が必要と認識し手を打ってきたのである。翻って日本は、過去に欧州各国が移民政策を採用して多くの問題を抱えたのを見て消極的な政策に終始した。しかし、今は事情が大きく変わったのである。また、日本は欧州の様な他民族と国境を接して長く争った歴史を持つ国ではないので、実際には移民の受け入れに障害となる単一民族意識の誤解を解くと移民との共棲が上手く行くと考えられる。勿論、日本の移民政策は、地方においては農業、林業、漁業の活性化に貢献する必要があり、都会においては優秀な研究者・技術者により技術立国を目指すものでなくてはならない。歴史をふり返れば、日本は多くの移民達が持ってきた技術により発展してきたものであり、現代日本が世界の有数な経済大国になったのは優秀な移民を祖先に持つからである。2000年以上前に日本列島に渡って来た韓国人を祖先に持つ日本人は多いのであり、その人達と過去100年以内に渡って来た韓国人と違いはないのである。今こそ、日本人こそグローバルなDNAを持つ唯一の民族である事を宣言し、新世紀の移民政策を実施する事が日本の繁栄につながることを認識する必要がある。

耐震構造強度不足による賠償裁判の判決が問題だ

小泉改悪のひとつとして建築確認申請の民間委託があるが、改悪前では起きなかった耐震構造強度不足の問題が相次ぎ、各地で行政庁と民間審査機関に対して賠償裁判が起こされている。この裁判結果は予想とおり、行政庁などが責任を逃れる判決であった。行政訴訟は勝てないと言うセオリーがあるが、今回の耐震構造強度不足に関しては最終的なチェックを行なう機関として責任がないと言うことになり、日本の建築物に対する信頼がなくなる問題なので看過できない。裁判官は実務経験がないなために、専門知識を要する裁判においては権威者が作成した意見者などに左右される事が多い。更に、行政訴訟の場合には、裁判所は行政を擁護する思想が蔓延っているので公正さが欠けている面が強い。建築確認申請に関する規制緩和は米国の圧力から準備も整っていないうちに実施した最悪のものだが、特に建築確認申請においては、行政レベルでは審査しきれない高層化建物が増大したにも拘わらず民間委託にした無責任さには怒りを抑えられない。民間委託を前提に国交省はチープな構造計算ソフトの使用を義務付けたために、建築設計の自由度まで奪う結果となっている。先日blogで書いた行政も技術が分からないゼネラリストが実権を握っているために軽薄な社会システムになりつつある。耐震偽装事件が起きた後には構造に関しては別な観点から評価基準を模索したのだが、何故耐震偽装事件が起きたかも検証せずに場当たり的に行政の責任を回避する遣り方は今後も同様の間違いを引き起こす懸念がある。社会に安心感を与えるには行政が最終的に責任を持つことなのである。現在が不安な社会になっているのは政治家と官僚が無責任な社会を築いたからである。本来なら、耐震構造の強度不足に対する責任は最終的なチェックを行なった行政や民間審査機関が受けるべきものであり、如何なる理由があろうとも逃れられないのが社会の重みである。先般、無縁社会を指摘したTV番組が放送されたが、それを生んだのは無責任社会そのものである。小泉改悪の中のもうひとつの事例として裁判期間の短縮化がある。裁判官の出世に裁判期間の短縮化が基準となり、裁判官は十分な審議期間を与えずに直ぐに和解を勧める様になった。その結果、和解に応じない方に不利な判決を出すようになり、裁判所において正義が失われた。この様な社会が行き着く先はテロだけである。米国社会がテロに怯えるのは正に正義が行なわれていないからである。日本も遅かれ早かれ米国の様にテロに怯える社会になるかもしれない。そう言えば、耐震構造強度不足裁判の判決と期を同じくして北海道の一級建築士事務所と所属する一級建築士が耐震構偽装の嫌疑で登録抹消されたために起こした裁判は、登録抹消を回復させる判決であった。確かに裁判の常道「疑わしきは罰せず」であるが、両方の判決は整合性を取った様に感じられ、正義が消えた瞬間である。

日本の復活には明治初期に存在した工部省的なテクノクラートが必要!

明治初年に工部省が設立され技術官僚が西欧の技術を導入しその後の近代日本を作り上げていった。初代の工部卿は伊藤博文であった。先日、元行政マンの方と今日的な日本の課題について雑談していた時に、彼は現代の日本には明治の時の様な技術官僚の集団「テクノクラート」の必要性に言及した。私も勉強不足のため、工部省の名前くらいは眼にした事があったが、近代日本に技術官僚が果たした大きな役割に関しては良く知らなかった。また、工部省がその力を恐れた内務官僚に解体されたことも初めて知った。尤も、技術大国になり、更に公共事業においても成熟した日本において何故技術官僚の集団が必要かと言う疑問が湧くかもしれない。その答えは、今回の東日本大震災の復旧作業の遅れや福島原発事故の対応の失敗を見れば一目瞭然である。勿論、縦割り行政の弊害もあるが、少なくても技術的に議論できるレベルの人達がいたら、後手に回るような対応にはならなかった可能性がある。特に、福島原発事故に対する文官レベルの危機感の薄さは酷いものであった様だ。私も農水省や国土交通省などの官僚のトップに文官が就任するのに疑問を感じていた。今の行政組織ではゼネラリストとスペシャリストの区分で公務員試験は実施されて入るが、人事ではスペシャリストとして専門的な業務に特化する事はなく、全く関係ない業務に従事させることが慣例となってしまっている。このため、スペシャリストとして入省してもテクノクラートとしての技術集団に成り得ないのである。ちなみに、科学技術関係の役所としては、過っては科学技術庁があった。しかし、科学技術庁は明治の工部省とは異なり、実践的な技術を推進する存在ではなかった。然も、現在は文部省と合併して文部科学省となり、合併前以上に機動性が失われている様だ。福島原発事故に関して言及すれば、放射能の拡散データ計算に関しても1日以上もようしている。又、保安院も幹部クラスがゼネラリストの文系のために原発事故の緊急性に関して全く理解していなかったのが実情の様だ。官僚組織だけでないが、日本企業の組織も上司は自分が理解しないと決断が出来ないと言う欠陥を持っている。しかし、高度な技術問題に対しては幾ら頭が良いといってもその知識を有していない限りは理解できないのが当然だが、理解できないひと言で作業が遅れることになる。ちなみに、菅総理が技術系ではないかと反論が出るかもしれないが、管及び管が助言を求めた東工大の教授は先に指摘した科学技術庁の理論先行的なので実務的な問題に対しては対処できない人達だった。この事が海水注入で臨海が起きるのではないかと恐れて事故対応に悪影響を及ばしたのである。テクノクラート不在の行政は中央官庁だけでなく、地方行政も然りである。がれき撤去などが今以て目途が立たない理由はテクノクラートがいないからである。マスコミなどはテクノクラートと言うと悪玉視するが、テクノクラートは無駄な公共事業を推進する代名詞ではないのである。日本の未来を作るにはゼネラリストに偏重した行政組織をスペシャリスト養成に変えて行くことが必要であると考える。

シニアチャンピオン

ゴルフ仲間のMさんが茨城のゴルフ場のメンバーコースでシニアチャンピオンになった。昨夜は上野で私を含め7人がやはりゴルフ仲間の会計士の顧問先の居酒屋でお祝い会を催した。Mさんんは私が知り合った24年以上前に既にクラブハンデが6になっており、スイングフォームが綺麗なゴルファーだった。しかし、理事長杯もクラブチャンピオン選手権も2位があるが、1位にはなれなかった。クラブチャンピオン選手権ではメダリストになったこともあった実力者なのにゴルフで頂点に立つ難しさを見せられた。彼はゴルフばかりでなく仕事も一生懸命であり、現在はお兄さんの会社を継承して優れた経営者でもある。アマチュアゴルフでシングルになるのは夢と言う人も多いが、シングルになるのは並大抵の努力ではなしえない。ちなみに、私はと言うと残念ながらシングではなく、今は名誉シングルとしてゴルフ仲間に加えて貰っている立場だ。尤も、我々のゴルフ仲間は性格が良い奴の集まりなので、此れまで大きな賞には縁がなかったので、Mさんのシニアチャンピオン獲得は私の仲人さん以来の獲得であり、感無量であった。そう言えば、今年5月には久し振りに上野の寛永寺に仲人さんのお墓参りをしたことを思い出した。奇妙な縁は重なるのであろうか。

老兵の来訪

当社が管理するビルに設備管理要員として17年間精勤した老兵が来訪した。老兵は御年75歳だが、未だ週3日働いている現役でもあった。老兵は工場勤務が長く、ビル管理要員としては色々な資格を持ち、且つ管理ビルを工場の設備点検の方法で管理したのが有効であったので、彼の点検方法のノウハウが当社の設備管理の規範の一つとなった。当社が建物管理業務に進出して規範とした従業員は2人いたが、彼がその一人であり、もう一人は大手建設会社の設備担当を退職して当社に再就職した者であった。彼等から多くの事を当社が学び、建物管理について当社独自のモデルを構築した。老兵は当社の建物管理に従事していた時に記録していたノートを持参してきて当時改善されられなかった事項に関して気になっていたとのことであった。正に、職人と呼ぶに相応しい仕事が髣髴とする出来事であった。然も、現在週3日入っている現場が照明をLEDに変え、電気料金が3分の1近くになった情報をもたらしてくれた。当社の現場を離れて8年以上経つのに来訪して色々と助言してくれるのには頭が下がる思いである。彼を老兵と書いたのは、当社の建物管理業務に関しては現場は戦争の最前線であり、現場要員は兵士であるという意識で行なったからである。戦争現場であるから部品なども現場にある物を利用して応急措置をし、その後に部品供給を受けて改善するのは当たり前であった。管理する建物が一時的にも使えないと言う状況は避けることが至上命令であった。正に現場は戦争の最前線に相応しい気持ちでおこなうことを要求した。それに答えてくれたのが彼の様な得がたい老兵であった。

グローバル化は全てのリスクも共有化する!

グローバル化は良い事ばかりでなく、多くのマイナス面もある事が分かる。現在欧州で拡散している腸管出血性大腸菌O104は何処から出現したのか、又何から感染したのかが非常に分かりにくくなっている。正に、グローバル化のマイナス面の一つであろう。情報社会で情報機器を通して繫がるに転じて絆などの言葉が盛んに飛び交っているが、世界に繫がる事がそれほど大事な事なのであろうか。皆が画一的になり個性が失われるとしたらそれこそ世界中に金太郎飴の出現だ。確かに、グローバル化はローカルの重要性が増す事は理解するが、それを維持出来る保証は何もない。バングラデシュで貧しい者に資金を貸すマイクロファイナンスは世界中からの小額資金で運用されているが、安易な借り手を苦しめている姿は誰もが参加出来る金融資本主義において成功者は少ない事に触れないからである。世界が同じベクトルで豊かさを追求できるほど地球は大きくはない。理由は不明だが、地球が変動期に入ったと言われ、大地震や火山の噴火などが世界中で起きている。この現象がグローバル化に相俟って起きてきたと言ったら考えすぎであろうか。勿論、過去にも幾たびか大きな災害が発生しているので、グローバル化が全ての原因とは言わないが、少なくてもグローバル化による発展途上国や中進国の急激な経済成長が地球のバランスを壊していることは否定できない。若し現在のグロ-バル化が行過ぎているならば自然は是正する方向に作用するものと考えられ、多くの天変地変や病気などが蔓延する可能性はある。この考え方を進めるとオカルト的になるのであるが、世の中には理解できない現象もあり、想定外などない事を知る必要がある。人類の歩みを見れば、その時点の科学力では分からなかっただけであり、遺伝子組み換えの副作用などもあるかもしれないのである。大航海時代に従来なら局地的に閉じ込められていた風土病も世界に伝播していった様に、グローバルの現代は時間軸的にも早くなったので一歩対応が遅くなると取り返しがつかなくなるのである。世界中のリスクが対岸の火事とならなくなった世界感を持ち、あらゆる面で事前に備える必要があると思われる。

詩の力!

最近、若くして逝去した金子みすずの詩が良くCMなどに使われている。特に、東日本大震災以降は頻繁にTVを通して耳に届く。又、一時は公共広告機構などの「こんばんわに」、「おはよううなぎ」などの癒し系CMが流され、対極のCMの「頑張れにっぽん」や「頑張ろうにっぽん」の五月蝿さに対して心が和んだ。今回の大震災においては若い方のボランティアの参加が多かったと言われているが、ヴァーチャルな社会の中で生きている傾向が強まっているので、実際の経験を重視する流れに合致したと考えられる。最近、或る雑誌で群馬県出身の詩人「高橋元吉」を知った。高橋は偶成の詩人と呼ばれたらしい。明治生まれで戦後の1965年に72歳で亡くなっている。多くの作家や詩人などが今回の大震災に関してどの様に書き留めるべきか悩んでいると言われるが、高橋元吉の詩は日本の四季の移り変わりと厳しい自然環境に生きる術を語ったものと思われる。又、戦争の時代を生き抜いて戦後の平和の時代も経験している。彼の代表的な詩のひとつ、「なにもさうかたをつけたがらなくてもいいではないか  なにか得態の知れないものがありなんといふことなしにひとりでさうなってしまふといふのでいいではないか 咲いたら花だった 吹いたら風だった それでいいではないか」がある。私はこの詩に触れた時に肩の力が抜けた。高橋元吉の詩集を入手するのは今では難しいと書かれていたが、一度じっくり読んでみたい詩である。

音楽の心地よさ

人類が音楽に何時頃から親しんだのか知らないが、音楽は脳内をクリアにし、明日への活力を生み出してくれると私は思う。偶然の縁で目黒GTで開催された日曜日の小規模な音楽会であるバンドネオンのタンゴ演奏会を楽しんだ。バンドネオン奏者は平田耕治と言う若い方で、彼を評価した方曰く「野性味のあるバンドネオン奏者」だと。この演奏会には、他にピアノ、バイオリン、コントラバスが加わり、更にタンゴ歌手の方も参加した。私がアルゼンチンタンゴを聞いたのは確か中学生の頃だと記憶している。聞いた時には体が震えるほどのインパクトを受け、早速レコードを購入した思い出がある。私は学校の授業としての音楽は嫌いであった。理由としては学科と実技があり、学科で100点をとっても実技が不得意なら最高の評価が得られなかったからである。実技とは歌唱とか笛とかハーモニカであり、あがり症の私に取っては辛い評価であった。この為、学校の音楽の授業からは興味が離れ、逆に母にねだって買って貰ったギターなどを自宅で弾いて楽しんだ。更に、中学時代にはエレキバンドの全盛期だったので、当時は不良と言われたエレキバンドを友人達と結成したが、才能がない私は途中で離脱してしまった。高価なエレキギターまで買って貰ったが、母には聞かせないでお蔵入りしたので今でも慙愧の念に耐えない。しかし、その後も音楽に関しては興味が続き、大学時代から社会人に掛けて長く「題名のない音楽界」などをTVで楽しんだ。私の場合、西欧の音楽よりは南米、アフリカ、アジアなどの音楽に興味があり、大分前の事だが街頭で南米音楽に使われる"ケーナ"と言う縦笛を買い吹こうとしたこともあった。アルゼンチンタンゴは最近は熟年のダンスブームで有名だが、魂が揺さぶられるような音楽はバンドネオンと伴に脳裏に残る。不思議とここ数年、アルゼンチンタンゴに関してはミュージカルを含めて定期的に楽しむ機会が得られている。又、クラッシクに関しては、若い頃には余り興味がなかったが、年とともに良さが分かり、最近はコンサートにも顔を出している。3.11の後には一斉に音楽会などが自粛されたが、それは行き過ぎの感がある。厳しい時こそ音楽を聴いて心を奮い立たせる必要があるのではと考える。特に、ストレス社会には音楽が必要であり、音楽を聴くことで絶望を希望に変える事が出来るのではないかとアルゼンチンタンゴを聴いて再認識した。

知恵のない節電強要!!

日本政府や東京電力は自分の誤りを反省もしないで電力が足りないから節電しろと強要している。最近の草食系の人々は大人しいので唯々諾々と節電努力をしている。翻って、海の向こうの米国・NYに眼を転じれば、電力供給会社が報奨金付きで省エネを消費者に要請している。この差はなんだろうと考える。民主党政権の左翼的な考え方だと、電力は消費者のエゴにより増大したのだから原発事故による電力不足は諸費者にも責任があるので、節電をしろと言うことになる。この様な議論はフザケルなと言いたい。電力の供給の主体は工場などである。工場に安い電力を供給するために国民は高い電気料金を支払ってきたのである。然し、いまや工場の海外移転等で過去に予想した電力など必要なくなり、電力設備は過剰投資となっているのが実情だ。福島原発事故直後の計画停電などは原発事故に対する問題を電力不足に置換した悪質な詐欺的行為だ。節電の強要は電力不足ではなく、原発事故による他のエネルギー調達コストの上昇の負担を軽くするために呼びかけているものと推察され、実際に電力供給不足が起きるかどうかは不明だ。本来ならば、今回の原発事故を契機に一時的な節電ではなく、省エネの強力な推進を考慮して米国・NYの供給会社の様に報奨金付きの呼びかけが必要だ。工場は兎も角として、オフィスビルに関しては、①照明が40%、②空調が28%、③その他設備が32%の電力消費割合とされている。節電15%の実現は照明から始めるのが効果的と考えると、LED照明に切り替えると行政が助成金を出す事により促進させれば、一時的な節電ではなく、省エネ効果を高め、東京電力が発電設備を減らす効果が期待できる。その他にも省エネ対策に対して行政が報奨金なり助成金を出せば一挙に省エネが進むと思われるので、今回の原発事故を単なる事故に終わらせずに日本のエネルギー使用に関して大きな転換点となる政策を打ち出す必要がある。政治家や官僚にもっと知恵を出せと言いたい。

橋下大阪府知事の県議会議員の定数削減発言は正しい

大阪府・橋下知事の県議会議員の定数は人口10万人に一人にすべきだは正しい。橋下知事の発言に鳥取県知事や議長は反発したらしいが、同知事が指摘した市町村議員の存在を考えれば現在の県議会議員の定数は多すぎる。私の出身地の茨城県でも県議会議員は50名を越えるので、10万人に一人を摘要すると人口は230万人位なので半減し、正に適正規模となる。以前から指摘されていた様に市町村議員は合併で削減されたが、どうして県議会議員は財政難にも拘わらず定数の是正が行なわれないのかだ。橋下知事は正論を吐いたのである。これに対して、官僚上がりの知事や既得権者の県議会議員などは何れも定数削減に反対している。本当に地方自冶体を考える人は県議会議員の定数削減に賛成な筈だ。選挙でお願いしますの候補者に投票した結果が、既得権者となって定数削減に反対している。橋下知事の維新の会が明治維新の時と同様に御旗を立てて大阪から東京に上り政治を変えてくれる事を期待したい。勿論、財政の観点から見た定数削減だが、この定数削減が地方自治を弱めることを意味するのではなく、逆に贅肉を削いで現代に相応しい議会制民主主義の構築にすることである。中央政府に権限を集中させるのではなく、地方自治体に権限を移譲して地域の再生を促すことを目的とするものといえる。真の改革とは、全く新しい発想で臨む事であり、既存の体制を疑う事から始める必要がある。本当に必要なものならば否応なしに残るのであり、何も恐れる必要はないのである。橋下知事の発言に反発するのは必要でない証である。

出藍の誉れ!!

サムスンと聞いて分からない人は少ないだろう。韓国の世界的企業だ。書店で眼に止まった一冊の本「サムスンの孤独な帝王 李健煕」を購入した。父親の時代に韓国のトップ企業になり、二代目の息子「李健煕」が世界的な企業に成長させた。グループ企業から見れば日本のソニーやパナソニックを凌駕している。何故この本に興味を持ったかと言えば、私が20代後半に日本と韓国の経済交流情報の収集の仕事をしていたからである。サムスン、漢字では三星と書くが、第二次世界大戦後に韓国で生まれた財閥企業の一つである。創業者は李秉喆 で厳しい人と聞いていた。韓国の財閥企業の中でサムスンは日本の歴史や日本企業を研究して成長した事は聞いていたが、今回購入した本を読んで改めて多くの事を日本から学び、今では日本企業を凌駕し反面教師としているといるのが分かった。私が韓国経済を学んだ時代は正に軍事政権絶頂期である朴正煕が大統領の時であり、「漢江の奇跡」と言われた経済成長を遂げている時であった。然も、その朴大統領が暗殺され、後継を巡ってクーデターが起こり、全斗煥が大統領に就いた激動の数年間だった。奇しくもこの時代に私の大学の同窓が韓国に販売した機器のメンテナンスに渡韓していたのだが、彼は正に朴正煕の暗殺時にソウルにいてホテルに缶詰となった。学窓は今では時効だからと話したのは、彼はKCIAの盗聴設備のメンテナンスで渡韓していたとのことであった。日本と韓国は色々な事で戦後も交流していた事が理解できる話だ。サムスンも日本企業に追いつき追い越せと社員に号令を掛けて何度もの危機を乗り越えて大成長した。正に日本から見れば「出藍の誉れ」であろう。サムソンは戦前の日本の財閥企業と似ている。逆に現在の日本企業は財閥時代の社員が居なくなり、戦後教育の社員が経営者となったのだが、それと伴にサムスンが羨望した企業風土や社員の姿が消えた様だ。その事が、現在のサムスンの経営者「李健煕」から日本企業は怖くないと言われてしまったのであろう。サムスンと言う企業は実は昔の日本企業に近いのかもしれない。勿論、サムスンも成果主義や事業の選択と集中を採用して急激なグローバル化の経済に対応してきたが、企業の根底に流れる意識は常に韓国及び韓国民に置いており、日本企業の様にグローバル化の中で米国方式に盲従し、国家及び国民を蔑ろにしたのとは基本的に違うと思われる。人を大事にする企業は困難を乗り越えて進んでいる。同様に人の弱さと強さを熟知した経営者によりサムスンはひたすら変化に対する対応を続けている企業と推察できる。"事業(企業)は人なり"を痛感する本であった。

混乱している社会で信じない方が良いのは国家とマスコミ

3.11から2ヶ月が過ぎた。東日本大地震後には国もマスコミも意図的に想定外を連発したので国民も想定外なら仕方がないと思ってしまった。その後は、「がんばれ日本」や「がんばろう日本」のオンパレードで人災である福島第一発電所の事故による放射能拡散まで想定外としてしまった。マスメディアは混乱を避けるために国家との共同歩調を取った報道を行なったのかと考えたが、大手マスコミなど所詮は記者クラブという報道管制下に置かれているので、それ以前の問題かと思い直した。大地震後の津波を想定外だから防げなかったと一様に報道したが、公共事業は経済コストを考えて実施しているので、防波堤や防潮堤の設計基準は決められているのである。勿論、一部の地方政治家の強い思いによる経済コストを無視した防潮堤なども造られてはいるが、大半は経済コストに見合った施設しか作っていないのである。本来ならば、行政はこのエリアはどの程度の津波しか対策効果がないので、それ以上の津波が来たら防げない事を日頃から知らせる義務があったと考える。最近は公共事業を無駄として考える風潮が強かったので、先日起きた焼肉店の食中毒と基本的には同様な効率一辺倒が人命軽視に繋がったのである。国家にとってもマスコミにとっても国民はお客である。お客の事を考えないで、逆に国民は馬鹿だから啓蒙するなどと言う時代遅れの考え方では現代は通用しない。現代社会での問題点は人間の質が低下し、国会議員や官僚や経済人までも人命より自分の事しか考えられないレベルの人が多くなったことである。パブリック・サービスなど合理化と効率化の中で吹き飛んでしまった感がある。東京電力の福島原発事故は防げなかったにしても最小限の放射能拡散(10km圏内)で納まった筈なのに、廃炉を決断できない社長と海外出張中で連絡つかない会長の指示待ちが対策の遅れとなり、必要以上に被害を大きくしてしまった。勿論、それ以前に、設計基準が古く廃炉にすべき原発を何等の設備更新しないで10年使用延長を決めた東電の経営陣に全責任がある。枝野官房長官が東電の失態に対し債権者の金融機関も責任がある様なことを発言しているが、東電の経営陣の責任は万死に値するのである。その告発をしないで債権放棄や国民に電気料金の値上げをもとめるなど言語道断である。然も、今回の東電の福島原発事故に関しては菅の責任も重大であり、本当の政治家なら言い訳せずに責任を取るべきだ。それがマスコミも一緒になって大災害時に首相を変えるべきでないなどとインチキ報道を行なって国民に啓蒙するなど許しがたい暴挙と言える。特に、北澤防衛大臣が清水社長を乗せた自衛隊輸送機を官僚の独断と称して戻した行為はマスコミも敢えて重大視させない報道を貫く姿勢は酷いと言わざるを得ない。更に、マスコミは浜岡原発の停止を求めた菅を評価し、インチキ世論調査で国民の多くが賛成したと報道しているが、中部電力では福島原発第一と同じ設計基準の原子力は1号機と2号機であるが、それは既に賢明な措置として廃炉を決断しているのである。今回停止した3号と4号機は福島第二原発と同様の設計基準であり、本来停止させなければならない古い設計基準の原子力発電所は日本海などに多く存在しているのである。日本全体が大地震の危険性があるのは当然なのに比較的新しい設計基準の浜岡3,4号機を停止させて他の旧式な設計基準の原子炉を停止させない一貫性のない菅内閣の対応に問題視している報道は少ない。特にマスコミは悲観的な報道が日本国民を発奮させて大きな力を発揮すると言う過去の経験を踏襲して悪戯に危機感を煽るだけである。この危機感が不動産取引などのマーケットを縮小し、経済の動きを止める役割を果たしていることも省みない。国もマスコミも大地震後は真実を伝えていないと言う理解でいることが判断を間違わないことである。

阪神・淡路大地震の教訓が生かされなかった浦安の液状化

浦安の液状化のニュースを聞いた時に最初に頭に浮かんだのは、浦安の埋立地の地盤は砂地で埋め立て造成費用を安く出来た場所かも知れないと言う事であった。阪神・淡路大震災の時に神戸ポートアイランドの埋立地で液状化が起きた時には港湾関係者は驚いた筈である。神戸は阪神地区では砂地で地盤が良く、港湾の護岸建設に関してもケーソンなど必要なく、鉄材を打設するだけで堅固な護岸を造る事が出来ると聞いた事があった。このため、神戸ポートアイランドの埋立地も大した地盤改良工事を行わないで埋め立てたものと推定できた。しかし、阪神・淡路大地震では液状化の現象が生じたので、港湾関係者は地盤が悪い場所でなくても手厚い地盤改良工事が必要な事を認識したと思っていた。勿論、認識したのであろうが、日本の縦割り行政や当時は今程情報化になっていなかったので、神戸ポートアイランドの液状化現象を教訓にする事が出来なかったのであろうと思料する。浦安地区の埋め立て計画は重工業産業全盛時代の臨海工業の企業立地の需要を当てにした千葉県企業庁が行なったものだが、完成した時には重工業産業が衰退し、広大な埋立地は無用の長物となり、千葉県の財政を圧迫する要因にもなっていた。その状況が一変したのは、浦安地区に三井不動産が誘致したディズニーランドであった。都心から近く手付かずの広大な埋立地の利用としての着眼点は流石と言えた。ディズニーランド東京は予想以上の成果を上げてスタートし、その成果と相俟って浦安地区の住宅開発は進んだのである。しかし、浦安地区の住宅開発で気になるのは、浦安地区にディズニーランドを誘致した三井不動産の存在である。本来ならば、ディズニーランド東京の副次効果を考えて浦安地区の住宅開発は三井不動産の独壇場になっても可笑しくはなかった。私は浦安地区の住宅開発に三井不動産がどの程度注力したかを何等検証しないで、飽くまで推定であることを前提にblogを書いていることを先ずお断りして置く。茲20年の浦安地区の住宅開発では、不動産業の後発の野村不動産が注力していたように思われる。ご存知の通り、野村不動産は野村証券グループの会社である。今回の東北太平洋大地震において浦安のディズニーランド東京はTVで放送された様に駐車場が液状化現象を起こしたのである。私はこの放送を見て内部の娯楽施設も被害を受けていると勝手に想像していたら、三井不動産に近い業者の方から、ディズニーランドの内部は大規模な地盤改良工事を行ったので娯楽施設は全く被害を受けていない事を聞いたのである。私の推測が当っているならば、三井不動産は浦安地区の住宅開発には地盤リスクがある事を認識し、積極的に取り組まなかったと思われる。特に、阪神・淡路大震災における神戸ポートアイランドの液状化を見たならば、浦安地区に関してもヤバイ事を想起した社員が居たと考えられる。野村不動産は優秀な人達が良い仕事を行っているが、残念ながら後発の悲しさで企業の歴史から作られるリスク認識は持っていないので仕方がないと思われる。何れにしても、浦安地区の液状化の責任は民間企業のレベルではなく、埋め立て事業者の千葉県に帰結する者と思われ、工業用地から住宅用地に大きく変わる過程で埋め立て地盤の再検証を行なわなかった行政の責任は重い。特に、阪神・淡路大震災における神戸ポートアイランドの教訓が少しも生かされずに、逆にその後に浦安地区の住宅開発が進んだ事を考えると尚更である。勿論、行政が民間企業と同様な効率一辺倒の仕事を要請される時代では、気が付いた職員がいても握りつぶされたと思われるので、国民の一人として考えなければならないのは自分でリスクを取る習慣を身につけることである。国もマスメディアも信用しない事に尽きる。

岡本隆司氏が書いた"中国「反日」の源流"を読んで

中国に偏見を持った歴史を知らない若い人に薦めたい1冊である。この本は明の時代の倭寇から中国の「反日」の源流があることを書いている。現代の中国の軍備拡張は過去に他国から植民地同様に扱われ、日本軍に国土を蹂躙された苦い経験からなので、歴史を学ばない若い人が米国と同様に中国の軍拡に反対しても意味がない。本を読むと、今の中国指導者層が懸念しているのは、中国の国体の存在が日本などと違い、明と清の時代と変わらず、人民と国家に一体感がない事であるのが分かる。国家と人民が一体化でないのは中国人に刻まれたDNAであり、短期間には変えられないと思われる。中国の指導者にとって米国的民主主義を受け入れるには国家と人民の一体化を確立する必要があり、それには国の豊かさが必要と考えていると推定できる。江沢民が進めた愛国反日教育も国家と人民の一体感を何とか構築して外国の干渉から国を守る意図があったと考えられる。この本を読むと、中国指導者の防衛ラインは明の時代にあることも分かり、朝貢していた琉球を独立国として保護の対象としていた中国からすれば、尖閣諸島は明治時代に日本に簒奪された領土になる。このため、今後とも日本と中国は尖閣諸島で争いが起きる事は明白であり、尖閣諸島防衛に際しては、現在の様に米国の軍事力に頼るのか、独自に中国に対抗する海上防衛力を強化するかで議論が分かれると思われる。中国としては、江沢民前国家主席の様に日本が米国の支配下に置かれて独自の軍事力を強化しない方を望む勢力と、胡錦濤国家主席の様に日本が米国の支配から脱し、真のアジアの国家として欧米諸国と対抗できるパートナーになることを望む勢力が存在すると考えられる。欧米諸国からすれば、経済大国の日本と中国が手を結ぶより、歴史的な経緯から対抗することを期待していると思われ、日本国内に反中国の声が大きくなる事を喜んでいる。アジア経済を支配したい米国などは本音では日中の軋轢で双方が足の引っ張り合いをすることを望んでいるはずだ。日本は過去150年の歴史を振り返り、中国との理想的な関係の構築に注力し、二度と武力で争う愚は犯さないことを肝に銘じるべきだ。隣国の中国が大国化するのは地政学的に日本に有利に働くことを忘れてはならない。

現代日本の今昔物語

日本人が豊かさの階段を登り始めたのは何時頃からなのかと考えると、一般大衆的には今から41年前の1970年のモータリゼーションの始まりと言える。日本が豊かになりつつあったと言っても、東京都内の練馬区や板橋区でも未だ下水道が100%普及していなかったのが現実である。先進国の目安は上下水道の普及率と言われた時代であったので、その点から言えば日本は先進国には程遠いインフラ未整備国家であった。今でこそ公共投資は悪者扱いだが、今から41年前の日本は高速道路網も少なく、舗装道路も国道止まりと言った具合であった。そう言えば、今は地下鉄車両に冷房が入っているのは当然と思われているが、豊かさの階段の入り口時代には地下鉄車両には冷房が入っていなくて夏は蒸し風呂状態であった。その当時聞いた話では地下鉄車両には冷房を入れることが出来ないとの事であったが、人の話とはいい加減なものである事が良く分かる。日本人が本当の豊かさを感じるのはモータリゼーションから15年後の1985年ではないかと考える。1985年はプラザ合意で急激な円高となり海外の製品が安く入手出来る様になった時代である。又、海外旅行も手軽に行ける様になった時代でもある。時代を振り返ると、日本は1984年頃から土地バブルが始まり、企業の株も鰻登りに上がり、ゴルフが大衆スポーツとして人気が出てきた。この時点では高速道路も日本中で繋がり、港湾整備や空港整備、そして地方の上下水道の普及工事も達成した感があった。しかし、プラザ合意後の内需拡大の日米合意500兆円公共投資事業計画が新たに浮上し、この時期から無駄と言われる公共投資事業が始まったのである。この事に関してはマスコミも一切報道しないので、無駄な公共事業は政治家とゼネコンと官僚が仕組んだものとの誤解がある。勿論、米国の圧力合意に便乗した政治家やゼネコンや官僚が居た事も確かだが、遣らなくても良い公共事業を進めた背景には米国の介在がある事を忘れると今後の日本再生で誤る事になる。経済バブル開始から10年後の今から16年前の1995年にバブル経済は崩壊し、直ぐに阪神大震災が起きるなど日本の前途に暗い影を落とした。話は変わるが、焼肉屋のユッケ事件の牛肉に関しては、36年前は高級食材で気軽に庶民が食べられなかった記憶がある。26年前の時点でも焼肉店は高級なイメージがあり、主として接待などに利用していた。偶然のだが、1987年にインテリジェントビルと呼ばれた大型ビルを虎ノ門に竣工させた時に入居したテナントが牛肉の輸入業者であり、それで牛肉の輸入は割当制度の利権であった事を知った。尤も、記憶ではその1~2年後に牛肉の輸入自由化が始まり、その種の利権がなくなり、スーパーの牛肉が大幅に安くなったことを覚えている。勿論、幾ら安くなっても牛肉は牛肉なので、その20年後に280円で食べられるユッケが出回るとは思いもしなかった。話を本題に戻すと、バブル経済崩壊後の10年後の2005年は当時は未だ実感がなかったが、デフレ経済であるものの、不動産に関しては底をって反転したターニングポイントと言える。経済のグローバル化によって海外から安く物が入るのでデフレが止まらなかったが、3年後にリーマンショックが起きなければ日本経済はプラス成長に転じた可能性はあった。残念なことである。日本政策投資銀行の職員がデフレの原因は人口減と一部だけを捉えて論じた誤りの本がベストセラーになっているが、日本のデフレの原因は過去の経済学の本に書かれているように需要と供給のアンバランスから起きているとは必ずしも言えない。情報化社会が齎した世界平準化への過程で進んでいる現象として捉えないと本質が見えないと思われる。情報化が多くの雇用を奪い、格差社会を生み出したために、一部の金持ちと高齢者に偏った富も配分の不均衡により需要が減少している。本質的な問題が解決されない中で企業間のパイの奪い合いが有り得ない低価格を産み出し、モラル無き危うい社会を作り出した。過去を振り返るとドックイヤーと言いながら10年ごとに変化の流れが起きている。2005年から始まった10年は途中でリーマンショックに遭遇し残すは4年である。この4年後とは正に東北太平洋大震災による東北復興がなされる時期と同じなので、日本の新しい国づくりの行方がこの4年間で決まるかもしれないと予想される。大事な4年間になるかもしれない。

キャンディーズ

キャンデーズの田中好子こと好ーちゃんが亡くなったのをTV局が行った一般人のインタビューで知った。キャンディーズの歌は学生時代に良く聞いたことを思い出す。特に、「春一番」は好きな曲の一つだった。訃報を偶然聞いた翌日は群馬県に仕事があり社用車で行ったのだが、向かう途中で運転をしていた社員が仕事先の元社員のIさんの消息を突然聞いてきた。理由を聞くと、好ーちゃんの訃報の新橋でのTVインタビューにIさんと似た人が出ていたからとのことであったので、それは本人であると教えてあげた。Iさんは押し掛けでインタビューを受けたもので、正かそれが放送されるとは思いもしなかった。数日後に好ーちゃんの葬儀が放送され、出棺時に亡くなる前に録音していた肉声を映画の撮影時に合わせた遣り方で流したのには違和感を感じた。その時にTVはコンビの蘭ちゃんと美樹ちゃんを写していたが、好ーちゃんが二人に対して礼を述べた下りで示した美樹ちゃんが蘭ちゃんを振り返って見せた表情にも違和感を覚えた。しかし、それ以上の想像力は働かずに記憶から消えていった。それが経済誌の評論記事ににお堅いNHKのニュース番組でもアナウンサーが好ーちゃんと言った事が書かれ、コンビの蘭ちゃんが送る言葉の中で好ーさんと言った事を比較して論じていた。その記事で好ーちゃんが最後に残した言葉が本人の言葉でなく旦那の脚本を読んだのではないかと言う疑問が湧いてきた。推測だが、三人が引退するときにファンの前で普通の女の子に戻ると宣言したときから、三人の間では「ちゃん付けで呼ばない」ことを約束したのではないだろうか。確かに、好ーちゃんが、二人に対して「蘭ちゃん、美樹ちゃん有り難うと言った」時に見せた美樹ちゃんの険しい表情の謎が解けた様に思える。勿論、飽くまでも推測の域を出ないが、前代未聞の葬儀での肉声の謎は深まるばかりだ。そう言えば、社会人になってからは、ピンクレディの全盛期であり、新宿の吹き抜け地下三階での飲み屋で素人の女性がテーブルに乗りUFOを歌っていたのを思い出した。若き日の良き思い出が蘇った。

日本製品の高品質や食の安全は高々40~50年の成果!

マスコミなどは日本製品の高品質や食の安全が昔から存在していたかの様に報道しているので、年配の人達まで間違った情報を刷り込まれてしまい、若い世代と同様に中国などと日本は違うと思わされている。しかし、日本製品が飛躍的に高品質になったのは戦後に米国から入ってきた品質管理運動(QC)の成果であり、日本の食の安全は高度経済成長以降の豊かになった日本人が総中流階級意識を持つに到った時点からである。日本のマスコミはアーカイブスがない報道なので、日本人は恰も古来より高品質の製品を作り、食に対する安全を確保してきたと錯覚してしまうが、歴史を読めば高品質や食の安全は高々40~50年での成果であることが分かる。勿論、長い年月を経た個々の技術においては高い評価が出来る物もあるのは確かであるが、茲での議論は全体の話であり、日本人の意識の話である。明治維新の成功は、江戸時代に学んだ中国の論語など道徳的な背景に西欧の科学を取り入れた事によるものである。明治維新後の学校教育では道徳を重んじたものの、それ以上に西欧の学問を重視したので大正から昭和に移るに従って日本人は倫理観を失ってきているのである。第一次世界大戦時に西欧に輸出した日本製の缶詰には石が入っていた事で欧州国から非難されたのも事実である。戦前は軍事費に国家予算の50%を投入していたので、日本のインフラ整備は遅れ、更に地主制度が多くの日本人を貧困状態に陥らせていた。正に、現代以上の格差社会であり、典型的な資本主義社会であったので、日本人は次第にお金中心主義に傾いていった。その結果、中国進出であり、太平洋戦争に突入していったのである。尤も、戦前の資本家と呼ばれる人達は高い教養を持った人が多かったので、渋沢栄一の様に経済人として論語の必要性を説き、事業と社会奉仕を一体化して考えた人が多かった。しかし、戦後の新興企業のオーナー達は少なからず事業資本の元手を軍隊の隠退蔵物資を掠め取ったりや闇市で稼いだり、泥棒紛いの商売で儲けた金で得たこともあり、事業の柱に倫理観など期待できるものではなかった。勿論、戦前の財閥企業の高学歴社員などは倫理観を持って経営者になった者も多かったのでその点は救いであった。戦後の経済発展の過程は正に論語の「衣食足りて礼節を知る」を地で行く状況であった様だが、次第に豊かになり、製品の品質向上や食の安全にまで気配りが出来る様になったのは承知の事実である。戦後の教育では倫理観の授業には余り時間を割いていないので、社会に出てからの価値の基本は豊かさと共にお金中心となっていった。その典型的な政治家として田中角栄の出現がある。盟友の企業人の小佐野賢治は泥棒で捕まった事もある人物である。日本人の心にはキリスト教的な博愛主義がないので、事業でお金儲けをしても社会に還元する意識がない。それでも戦前には孔子の論語などを尊ぶ風潮が残っていたので、事業家は儲けたお金を学校を作る資金などに寄付して社会に還元してきたのである。しかし、戦後の金持ち達は自分の事以外にお金を使う教養がなく社会奉仕など皆無に近かったが、その代わりに行政が機能して社会を豊かにしたのである。バブル経済の崩壊後は戦後では経験していないデフレ経済となり、更には米国経済の成長を促した規制緩和による金融資本主義が台頭し、格差社会を生み出したのである。現代の社会は先祖がえりの面があり、格差社会の出現により、戦後生まれの倫理観のない日本人に食の安全など期待する方が可笑しいのである。それでも製品類に関しては未だ高品質が維持されているが、マスコミの報道によりその高品質もガラパゴスと言う表現で一掃され様としており、駄目になるのは時間の問題と思われる。その魁が、福島第一原子力発電所の人災による事故である。日本人が古くから高品質な製品を作り上げてきた神話を作ったマスコミの責任は重い。社会に豊かさがあり、行政が機能していたからこその成果である事を忘れた結果が原発事故による放射能拡散である。40~50年の成果など長い歴史から見れば数秒の事である。日本自身が自分手で折角作り上げてきた成果を今正に壊そうとしているのである。

焼肉店の食中毒事件は今の飲食店チェーン店では何処にも存在する危険

焼肉店チェーンえびすのユッケによる食中毒事件は起こるべきして起きた事件と考える。貸ビル業界にいる者として懸念していたのは、バブル経済崩壊後に飲食店業界に多くの素人が参入してきた結果、厨房内の清潔整頓が失われ、ゴキブリが蔓延する他、ネズミまで引き込んだ有り様は食中毒を懸念させるものであった。特に、若手経営者の多店舗展開の飲食店チェーンはコスト削減からアルバイトで構成され、厨房内の清掃の基本など問題外と思われた。又、経営者自身が料理人でない場合が多く、事業収支や仕入には精通しているが、お客に対するサービスや安全などは二の次になっている様に思われた。店舗を貸す側としては、グリストラップの清掃なども余り行わない他、平気で排水管に油を流すなどビル側の使用細則などを守らないテナントが多いので、現場の管理要員は施設の維持管理に大変苦労しているのが現状である。特に、最近は単価引き下げ競争になり、薄利多売の傾向が強く、お客に対する安全が蔑ろにされている心配が増していた。確かに、今の飲食店はデザイン思考であるので見た目は良いが、内部を知るものに取っては評価できる代物ではなかった。デフレ経済の影響で人々は原因も考えずに全ての物に価格ダウンを求めているが、当然、そこには限界があり、それを越えると誰かが犠牲になって支えているのが実態だ。それを理解せずに安さを追い求める社会は危険が増しているのであり、被害者になってから気がついても遅いのである。提供する側も低価格競争に疲れ、いつの間にか安さを追い求めるお客に対して敬意を払わなくなり、逆に軽蔑する気持ちも芽生えているかもしれない。今年早々に起きたおせち料理事件もその延長と思うのは飛躍しすぎているだろうか。何れにしても長いデフレ経済が食の安全を失いさせたのは間違いない。大平洋戦争前の日本は正に格差社会であり、そこには品質や食の安全などに現代ほど重きが置かれていなかった。今の日本人は戦後の豊かさによる大多数の中産階級の意識が品質の向上と食に対する安全を築き上げてきたことを忘れている。今回の焼肉店の食中毒事件を切っ掛けに日本人の価格意識が変わることを期待している。安いものには危険が背中合わせであることも然りである。

震災復興も財政再建論で中途半端になる!

財務官僚の懲りない面々が財政再建を旗印に日本経済を駄目にしてきた。東北震災復興も財政再建論で中途半端になる可能性が出てきた。この財政再建論にはマスメディや御用学者も追随しているから至極当然と思われ、然も年金支払を人質にされているので高齢者も財政再建には増税しかないと思い込んでいる。財政再建の良い見本は米国にあるのに財務官僚はそれを無視して増税論議で世論操作してきている。財務官僚は数字を扱う職業だが、この職業は会計士や税理士と同様に入力結果が明確に出力結果に出る方法しか選択出来ない訓練を長く受けてきているのでボケる確率は高いと言われている。数字を扱っていると頭を使っていると考えられているが、一つの事しか遣らないでいると人の頭脳は退化するらしい。財務官僚など典型的な動脈硬化を起こして財政再建には増税しかないと思っているので始末が悪い。米国が長く苦しんでいた双子の赤字から脱却できたのは経済成長であった。この経済成長には、レーガンの小さな政府から始まり、IT関係の起業を助成したことにより、改善不可能と言われた双子の赤字をクリントンの政権で解消し、財政の健全化を成し遂げた。尤も、ブッシュになってイラク戦争とアフガン戦争で積み上げた国の財産を再び浪費し、再度双子の赤字に舞い戻ったが。何故、日本経済がデフレ経済の罠に入ったかは議論が錯綜しているが、当初のデフレは景気回復より国際会計基準などや財政再建を優先した政策により始まったのは間違いない。岐路に立っていた総理大臣は橋本龍太郎である。財務官僚に騙されて消費税値上げを初めとして多くのデフレ経済になる政策を実施した。橋本龍太郎も退陣後に財務官僚に騙された事に気付き復讐を誓ったが、橋本の復権を恐れる財務官僚が小泉を支援したために総裁選挙に敗れて再起出来なかった。小泉の小さな政府は米国のレーガン政権と同様に思えるかもしれないが、財務官僚主導の小さな政府は誤魔化しであり、似て非なるものであったために多くの金持ちだけを輩出し、一般国民の生活は苦しくなっただけであった。然も、悪い事にはブッシュ政権の金融自由化促進が世界経済を混乱に落としたために、小泉改革は悪い事だけが残る結果となった。このため、民主党政権になってからは財務官僚は一層動脈硬化を起こして増税しか能がない政策を遮二無二推し進めているのが現状だ。菅政権は米国と財務官僚の言いなりになれば長期政権が作れると勘違いしてますます国民から乖離し、日本の全てを壊す破壊者になりつつある。将棋や碁で言えば、震災復興は攻めであり、財政再建は守りである。将棋や碁を聊かでも遣った人ならば中途半端に攻めと守りを繰り返したら負けるのは承知の事実だ。財務官僚の若手は特に入省してから財政再建しか教育されていないので最悪な世代である。若手の記者や学者も同様だ。高齢化少子化で経済成長は望めないと言われるが、正に公理で決められた方程式しか解けない優等生の答えである。その様な頭しかなかったら中小企業は潰れてしまう。最初から結論決めて行なう日本の官僚の頭では無理と思われるが、考え方や見方を変えれば答えなど無数にある。日銀の社員が上梓した「デフレの正体は人口減」がベストセラーになっているが、一部の原因をすべてに置き換えた主張が横行しているのが怖くなる。考え方を単純化するのは良いが仕組みを単純化したのでは国家は危うくなる。国民が考えなくてはならないのは増税による財政再建ではなく、デフレ脱出による景気回復であり、その結果の財政再建である。知恵のない増税による財政再建なら政治家や官僚不要だ。震災復興の財源を増税に置換した政策は否定するべきである。そうでなければ未来に向けた東北震災復興が中途半端になる。

twitterのバイアス

twitterが東北太平洋広域大地震の災害時に役に立ったのは確かだ。お年よりは全く関与できなかったが、若い人たちやボランティアなどの人達が呼応した影響力は従来にないものと思えた。マスメディアは同じ報道を繰り返すだけであったが、電気などインフラが遮断された地域の人達にもtwitterは希望の光を送り続けた。確かに、庶民が手にしたある意味では大きな力であると思ったが、使い続けている内に色々と気が付いた点があった。twitterが生まれたのは米国である。facebookも米国だ。米国の若者が自分達が使うのが便利な道具として開発されてきた。古くはアップルもそうだ。いまや世界的なアップルも当初はマニアックな仲間が集り、その内に企業化していったのである。アップルの創業者のスチーブ・ジョブスも企業家の顔の他に今でも少年の様な気持ちで自分が欲しい物を追い求めた結果が大きな成功となっている。勿論、少年の様な気持ちで追い求めても成功する訳ではない、スチーブ・ジョブスの様に並外れた妥協しない物づくりの心とデザイン思考が相俟って初めて成功に辿り着けるのである。更に、企業化には能力を評価する投資家も存在しなければならないのだが、twitterを成功に導いた投資家の存在こそ標題に掲げた「twitterのバイアス」である。twitterを利用している誰もが意図的にtwitter上の発言はコントロールされているとは思っていない。良く考えれば、Eメールは米軍が構築した情報伝達技術がベースである。以前からEメールは米国の軍事用サーバーでチェックされていると言われたものだが、中国も正に国外に出るEメールに関して不都合な部分がある時には消している。私も体験的しているので確信をもっているが、米国は中国の様に露骨な干渉はていないが、当然に他の方法で対応している事は確かである。その様に考えると、twitterの中味についても、バイアスが掛かっていることが理解できる。米国を非難したtwitterの拡散を見れば分かる。逆に言えば、米国が意図する方向のtwitterは驚くほど拡散すると言うことである。単なる若者が作ったtwitterとfacebookがこれ程までに広がった原因は米国政府の支援があったからと推測するのは被害妄想であろうか。私の見解を疑うなら自らtwitterで色々な発言を試せば良い。拡散を検証してゆくと反米的な意見は拡散しない。しかし、米国が叩きたい政治家などに対する批判的なつぶやきは驚くほど拡散する。若者の夢を壊すようだが、現実の社会はパワーゲームであり、競争に勝つためには何でもありの国であるので、万事疑うってかからないと遣られてしまう。

非科学的な現象を全て否定できるか!

六本木ヒルズの高層建物が福島原発の事故による電力不足で節電を強いられる中でガス発電システムのコジェネレーションで評価を受けている。建築した森ビルとしては竣工後に起きた色々な事故の忌まわしい記憶を払拭するのには好都合と思われる。しかし、建物造りを長く行なってきた当社としては、六本木ヒルズの事故などはお祓いでもしないと拭えない嫌な事件である。六本木ヒルズの建設地は土地履歴的には、大名屋敷や寺社があった場所であり、因縁話をすれば、江戸時代の忠臣蔵で有名な赤穂浪士達が死罪を受けた毛利藩邸があった場所でもある。不動産・建築の仕事を行なってくると、多くの非科学的な現象に遭遇し、因縁話を簡単に切り捨てられない経験をする。特に、土地に纏わる話は時系列的に言い伝えられるので良く記憶に残る。私が子供の頃に曾祖母や祖母に聞かされた土地の話としては、所有するのを嫌う土地の存在があった。所有を嫌う土地とは、そこを所有すると何代目かで血族が途絶えるということである。六本木ヒルズの場合、考えられない回転ドアの事故で子供が亡くなったことであり、エレベーターの事故、高層階のレストランの火災など竣工後に多く起きた。又、入居テナントの破綻が異常に多く、縁起を担いだテナントは退出している。六本木ヒルズは敷地内に高層マンション等も建っており、その内の1棟で芸能人が引き起こした女性の薬物死も話題になった。身近なところでは、私が管理しているビルにテナントとして入居していたことがある飲食店の社長がヒルズのマンションに住んでいたのだが、これ又経営破綻してしまった。勿論、大きな敷地に大高層ビルと高層マンションが林立して利用者も多いので、確率論から言えば、根拠がある事件の発生なのかもしれないが、何も起きない縁起の良い建物もあるので、確率論では割り切れない思いが残るのも事実である。私自身は若い頃は無神論者であったが、祖母の危篤で帰郷中の出来事などからこの世には科学では解明できない現象があることを理解した。人や会社によっては悪霊などに負けない強さがあると思われるので一概には言えないが、私自身は因縁の土地や建物は敬遠したいと考えている。運気を逃す原因にもなるからである。

東北太平洋大地震による津波の過去との比較の間違い

東北太平洋大地震による津波に関して多くの識者は過去との比較を論じているが、この議論では比較データに関して前提条件が抜けている。明治時代の三陸沖の大津波は38m規模であることが地層や崖に残されていた標しで判明しているらしいが、冷静に考えれば明治三陸沖地震から100年以上経過し、この月日の中で強固な防波堤や防潮堤などが造られているのである。今回の大津波には役に立たなかったと言われているが、少なくてもその防波堤や防潮堤があったから今回の被害で済んだとの考え方も出来るのである。その様に考えると、今回の大津波は過去に例がない規模と推定され、近年世界中で起きている災害の大型化と相関する。数年前に米国のフロリダを襲ったハリケーン「カトリーナ」の事を思い出す。このハリケーンは史上最大規模といわれ、ニューオーリンズの大堤防が決壊して大きな被害となった。災害の大型化は温暖化現象によるとの説もあるが、現状では解明されていないのが現実だ。太陽の活動が活発化している影響もあると推定されるが、太陽の活動は周期的なものであるので災害の大型化の原因とするには説得力が弱いと思われる。しかし、間違いなく災害の大規模化は世界中で起きている現象なので、東北の復興計画に対するインフラ復旧に関しても単なる過去の比較と今回の津波の大きさだけで結論付けて行なうのは間違いとは言わないが、配慮が足りないように思われる。況して、財政難が前面に出され、予算ありきから復興計画を立案したのではお金の無駄使いとなる可能性が高い。人類が誕生して1万年、その内科学が発達して森羅万象を解明してきた時間は2千年前後だ。人類誕生以前に滅亡した恐竜の時代もあるが、その滅亡に対する明確な科学的な答えは推定の域を出ていない。話題が飛躍しすぎてSF的な内容になってしまったが、結論から言えば、今回の大津波は過去との比較で論じる以上の規模の大きさであり、この現象は世界的な災害の大型化と相関している恐れがあるので、少なくても復興計画には地球規模の大異変も頭の隅に置いて欲しいと言うことである。日本列島が今回の大地震を機に変動の時代を迎えたならばエネルギーの確保には従来の発想では役に立たなくなる可能性もあり、近代化による社会システムの普及も考え方を改める必要が出てくる。杞憂になって欲しいが、地球が何らかの活動期に入り今後とも大災害が起きると仮定すれば、多くのインフラの大規模化と集中は危機管理に対してはマイナス要因になる。豊かさの追求から生存可能なインフラが必要となると考えれば、少なくてもローカルの強化による東北復興が今後の指針といえそうだ。

飲食店の賑わい

東北太平洋大地震から1ヶ月以上経過してマスコミ報道と違う動きが東京では起きている気がする。尤も、4月の時期特有の動きなのを誤解しているのかもしれないが、少なくても飲食店は懸念された様な売上げの落ち込みにならないのではないかと思われる。確かに、3.11直後は自粛ムードで飲食店には人が少なかったかもしれないが、都心に限れば計画停電や余震で何時電車が不通になるか分からない状況では帰宅が早くなるのは当然と考えられる。しかし、余震は続いているが、地震に対する馴れの感覚と計画停電の取り止めなどから多くの人の生活が通常に戻りつつあり、次第に冷静になると消費の落ち込みによる経済悪化の懸念の方が気になり、自粛ムードに反対する意見が出てきた。この流れが飲食店の賑わいに繋がってきている様に思える。確かに、今回の大地震や原発事故を見ると、明日の運命など誰も分からないと言う思いが強くなったのではないかと思料する。年金受給の不透明さや高齢化社会による経済悪化などの予測から、リーマンショック以降は老後の事を考えて外食などの消費を控えてきたのが実情であった。しかし、大地震以外でも交通事故や通り魔に遭遇しないとは断言できず、刹那的とは言わないが一日一日を悔いのない生き方をする考えに変えたことが飲食店の妙な賑わいになっている気がする。勿論、個人の生き方以外に大災害後のビジネスの今後の動きに関する情報を求めて人の交流を増やしているのも事実であり、その動きも飲食店の賑わいを後押ししている面がある。何れにしても、以前はインフレで見た目の給与が上がった事や豊かな社会でない中で育った世代は将来に対する不安がなく思い切り消費にお金を注ぎ込んだのが経済成長を促したのである。今回の大災害で日本人の考え方が変われば社会が変わるかもしれない。期待したいものである。

「お願いします」の立候補者には票を入れるな

統一地方選挙が行なわれているが、立候補者の相も変わらない「お願いします」の連呼が不愉快だ。職業政治家とすれば生活が掛かっているので「お願いします」は普通なのかもしれないが。議員の報酬は税金である。住民の為に働いて初めて得られる報酬だ。日本語の解釈では、「お願いします」は自分の為の言葉である。朝の通勤者に呼びかけるなら、「お願いします」でなく「私は・・・・・を実現します」と言い方であろう。その政策に賛同した選挙民が票を入れるというのが選挙であろう。百歩譲って、足早に通る通勤者に主張を聞いてもらえる時間がないと立候補者が言うならば、端的に理解してもらえる標語を作るべきであろう。今日の立候補者の公約で評価できるのは、議員定数の削減と報酬の削減である。財政難の陥っている自冶体で最も必要な事は経費削減である。現役の議員は現行の報酬を減額されると政治活動に支障が来たすと言うが、それなら立候補しなくて良いと言うのが選挙民の声だ。今の議員が365日政治活動を行っているかと言うと大半が何もしていないのが実情だ。借金過多の財政の自冶体にした現役議員などは立候補を辞退すべきなのに、平気な顔をして立候補してきて当選後4年間自分の生活の為に報酬を得ているのである。議会制民主主義は職業政治家の登場で議員の利権の場になってしまった。議員の他に仕事を持つ事でその経験が生かされるのは議会制民主主義と考えるが、職業政治家の出現で若き頃から政治活動しか経験がない議員が多くなり、政治に知恵がなくなった。悪く言えば、議員と行政マンである公務員との区別がなくなり、議員など居なくても良くなっているのが現実だ。良く考えれば、下は市町村議員、中間に県(都・府・道)議会議員、上に国会議員がいるのだが、議員活動で重複している部分が多いので、それぞれの議員数を大幅に削減しても住民にとっては何等困らない。逆に必要な人達は議員ではなくボランティアの扱いの地域の民生委員であろう。議員を減らして民生委員を増やして手当てを支給したほうが余程世の中の為になる。

東電・効率経営の大きなツケ

金融資本主義が日本を席巻し、日本企業は「選択と集中」、「効率経営」などに邁進した。確かに、日本企業は資産の有効活用が少なく資本の効率が悪い面があったのは否めない。また、多くの不採算部門の事業もインフレ時代は省みられなかったが、デフレ経済に入り、重荷になったのも事実である。更に、自己資本と比べ借入金過多の経営もデフレで継続できなくなって来たのも事実である。しかし、効率経営しなければ生き残れない民間企業と異なり、準公共事業会社として赤字経営にならない電力会社が安全を無視して効率経営に邁進したのは誤りと言える。JR西日本の事故も効率経営から起きた悲劇である。顧客より株主優先した結果が多くの乗客の人生を奪った。福島第一原子力発電所の事故を起こした清水社長は経営の合理化・効率化で出世してきた人らしい。福島原発に対するIEAの調査による安全弁の設置に関しても直ぐには実行せず再度の勧告でしぶしぶ実施したとの情報もある。今回の福島原発事故でこの弁がなかったらモット最悪な結果となったと推定されている。ここ15年で起きた工場などの事故は効率経営の結果で起きた安全に対する配慮を欠いたものが殆んどと思われる。安全とは、孔子・荘氏の「無用の用」である事と思料するが、欧米かぶれの経営者は省みもしない。清水社長がトップに立つまでにどの程度の経費を節減したか知らないが、誰が考えても福島原発事故で発生する賠償額の方が格段と大きいと思われ、効率経営の大きなツケとしては痛すぎる結果だ。清水社長と言う人物は東京電力の使命を忘れた最悪な経営者であろう。勿論、社長に登用した現会長も同様な責任があることは言うまでもない。

東北の復興の有り方が今後の日本の針路を決める

西日本からの勢力が関東東北の勢力を平らげて日本統一を成し遂げたのだが、その後幾たびか関東東北地方で反乱が起きては鎮撫されてきた。日本は外見的からは単一民族の国家なのであろうが、近年のDNAの研究で分かったのは、日本人が出アフリカから枝分かれした全てのDNAの継承者であり、内面的には単一民族とは程遠い人種であることだ。私の故郷は北関東の茨城県北部である。江戸時代は水戸徳川藩35万石の領地だが、その前は守護大名の佐竹藩の領地であった。他県人から見ると、茨城県と言ったら水戸黄門であり水戸徳川藩であるが、土着の人々にとっては長く続いた佐竹藩に対する思慕は深く、水戸徳川藩は進駐軍の位置づけであった。特に、佐竹藩の出身地である常陸太田市周辺の民は心からは水戸藩に靡かなかった。それでも水戸徳川藩には土着の多くの人が藩士として召し抱えられたので、水戸藩士の気質は関東武士そのものであった。水戸藩が全国的に有名になったのは、江戸時代末期の「桜田門外の変」と「坂下門外の変」の井伊大老の暗殺と安藤老中の暗殺未遂の事件である。水戸っぽと言われる性格は正義心が強く短気なことである。明治維新後も茨城の青年は5.15事件の犬養毅などの要人暗殺事件を起こしているので、水戸人の近代史は暗殺で血塗られている。この5.15事件が2.26事件と繋がってくるのだが、軍部を揺るがした2.26事件は東北地方の貧しさと旱魃による女性の人身売買を悲憤慷慨して起きたことである。2.26事件後には日本は中国侵略に邁進することになったのである。近代史で東北が日本の方向を変えた瞬間が2.26事件とも言える。私の浅学な知識で歴史を論ずるなどおこがましいが、今回の東北太平洋大地震による東北地方の復興が正に2.26事件と同様に今後の日本の進路をかえるエポックになるのではないかと思えて仕方がないからである。ちなみに、先に触れた佐竹藩は、今回の原発事故のエリアも勢力範囲であり、仙台の伊達藩と死闘を繰り広げた場所が相馬地域である。今でも方言的には、茨城県北部といわき平及び相馬方面とは同じである。私が子供の頃の盆踊りの民謡は相馬盆唄であった。今回の大地震と津波、更に原発事故は日本人の生き方まで変える様な出来事になると考えられ、それが東北地域に端を発した事に意味があるように思われて仕方がない。近年、国が赤字国債の発行で900兆円もの負債を抱えたので地方都市の公共投資などは無駄なものとして取り扱われる様になったが、日本の工業化や経済成長のの犠牲になって来たのは常に地方なのである。日本の農業が何故駄目になったかは、今の中国と同様に経済成長の為に多くの若者を地方から奪ったからであり、そのために農業が犠牲になったのである。危険な原子力発電所も同様である。日本の経済成長の為に産業界の要請で電力料金が安くなる原子力発電所の建設を邁進したのである。都会の人達は地方の犠牲の上に自分達の豊かさが築かれているのも忘れ、地方に対して切捨て論まで出てきたのである。都市の豊かさと快適さは地方がリスクなどを代行しているから得られていることに漸く今回気付いたと思われる。日本が物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさを持てる様な国づくりを行う事が求められてきているが、正に東北の復興が今後の日本の針路を決めることになるのではないかと思われる。

日本の大地震と原発事故が世界経済をソフトランディング?

日本のマスメディアは相変わらず悲観的な記事を書いている。電力不足による生産の影響や東北地域の生産工場の復旧の懸念などは報道されなくても誰もが分かる。国民が本当に知りたいのは、電力不足に対処する前向きな方法や地震による工場の早期復旧に向けての情報を得られることだ。尤も、他人の褌で仕事している記者連中に想像力を働かせて復興に参考になる報道を期待する方が間違っているかもしれないが。報道の酷さは紙面やTVに登場させている専門家と称する人達の胡散臭さもある。マスメディアが意図的に選んだ専門家など信用するに足らない。然し翻って世界を見れば、リーマンショック以降は先進国の景気対策で金融緩和した過剰流動性で投機マネーが暴れまくっていたが、世界の工場の部品供給者となっていた日本が大地震と二次被害にの原発事故で世界経済にブレーキを掛ける役割となり、予期せぬ世界経済のソフトランディングに貢献する事になりそうだ。勿論、今回の日本の大災害は景気回復に水を差すとの意見もあるが、加熱した資源争奪戦争に対して冷静さを求めた効果は大きい。然も、世界で唯一の原爆被爆国である日本が、クリーンエネルギーとして世界中に起きた原子力発電所の需要に慎重さを求める事になったのも天の意思かもしれない。原爆被爆国の日本が原子力のリスクを忘れて海外に原発リスクを拡大しようとした強欲が天の怒りを買ったのかもしれない。この様なことを書くと、オカルト的な狂信者と思われるかもしれないが、建築業界では今でも建築に対しては地鎮祭から始まり、建物の最下部には人柱的な紙人形を捧げて天と地に祈りを捧げるのである。天と地を敬う心があって初めて建築工事が無事安全に行なわれるのである。最近の日本人は神仏を敬うどころか蔑ろにしている面が顕著に見られる。幾ら科学が発達したとは言え、自然の脅威には人智などは及ばない。謙虚さこそが大災害を乗り切る力である。世界中が貪欲になり、神の時間を越える動きにあって、世界中に自然の驚異と人がコントロールできない原子力に対する警鐘をならし、世界経済をソフトランディングさせることになった日本の大災害の意味は大きい。

2日前の地震計の異常な動きから予知できていた今回の大地震?

私は地震の専門家でないので素人意見としてだが、大地震の2日前の3月9日から地震計は、「宮城県はるか東方沖」で連続多発地震を感知していたので、この動きから東北地区の住民に対して地震可能性について警戒広報出来なかったのかと考える。専門家は予知に慎重になるのは理解するが、少なくても異常な動きを示していることが人々の頭にあれば地震発生時の対応が早くなったのではないかと推測される。また、地震が来た時に現在の状況で何が問題かを考える事も出来たのではないかと推察される。勿論、今回は大きな地震であったが、大きな被害を引き起こした最大の原因は地震によって引き起こされた津波であるので、この大津波までは当然に予想できなかったので地震計の異常を知っても被害は変わらなかったと反論があるかもしれない。然し、今回の被災地の中では、津波リスクの高いエリアに住んでいた住民が日頃から避難訓練と避難経路を定めていたので災難から逃れたケースもあるので一概には言えない。東日本では座標が変わるほど水平と上下に移動した大地震であったので、地震計に異常が出ていたのも理解できる。私が疑問に思うのは気象庁が政府にこの異常を伝えていなかったのかと言う事である。もし、政府に伝えていたにも拘らず地震発生には不確定なデータとして握りつぶしていたとすれば大問題になる。今回の大地震に関して地震計の異常な動きについて今更語っても意味がないと指摘されるかもしれないが、私は今度この様な地震計の異常が出た場合には政府はどの様な対応をとれば良いかを考慮すべきだと言いたいのである。同じ様な現象が生じても大地震が起きる可能性は確率的に低くても警戒警報を出す事は重要と考えるからである。

政党助成金などが政治家を公務員化した

今の職業政治家は正に公務員だ。政治資金規正法により多額な政党助成金を政党が受け取り、個々の議員は報酬の他に十分すぎる秘書手当てや調査費が支払われ、一等地に議員宿舎まで用意されている。若手議員などはこの待遇でも政治活動には資金が足りないと不満を言っている。900兆円の赤字国債を懸念しているのにである。この様な有様を見ると、政治家が公務員化し、国民の声など聞こえなくなっている事が分かる。今回の大地震の対応や原発事故では2種類の公務員が対応したために政治が機能していない。このため、世界から日本の政治の無能さを嘲笑されているのである。自民党の故人となった三木武夫と言う職業政治家が政治の浄化を目的に政治資金規正法に取り組んだのだが、本人もこの制度が政治を公務員化させるとは考えなかったと思われる。尤も、三木武夫と言う議員は、病気で寝たきりになり国民のために仕事が出来なくなっても在職50年を超えると国会に写真が掲示されるので、自己利益のために寝たきりで報酬を貰い粘った議員であった。少なくても、議員報酬くらいは国に返せと言いたい最低な議員が作った政治資金規正法など所詮、国会議員を堕落させるものであった。政治を国民に取り戻すには、先ず、政党助成金の廃止と政治資金規正法の改正である。企業と癒着した汚い政治家は汚職で逮捕すれば良いので、企業献金の禁止など解除すれば良い。議員が政治資金を集める行為が世論を知る事になり、結果的に政治に反映されるのである。政党助成金や過剰な報酬などを与えれば公務員化する議員が増えるだけでなく、今回の大地震の災害復旧中に民主党の長島議員(元逗子市長)に様にボート遊びを行なうような輩が議員に出てくる。政治家が公務員化して駄目なのは、公務員より実務が出来ず、能力が低いので税金をドブに捨てていると同じだからである。日本人は記者クラブ制度の官製報道のマスコミに乗せられてクリーンな政治を求めたが、実際には官僚に頭が上がらない政治家が生まれただけであり、まんまと官僚に国民は騙されたのである。政治とは清濁併せ呑む器量があってこそ国民のためになるのである。奇麗事で腹は満たされない。

災害復興予算には米国債の一部を売却して充当しろ!

与野党の政治家もマスコミも米国債(70兆円規模)の売却に触れない。表面的には二つの理由からと推測できる。ひとつは、10兆円もの米国債を売却してドルを円に換えると円高を招くと言う理由だ。ふたつは、今回の災害に米国がtomodachi作戦を展開して日本を支援してくれたことによる義理立てからである。裏面的には、当然にこの災害を利用して従来の財政再建に必要な大増税を行なう算段だからだ。災害対策の全てが遅いのに公務員給与5%引き下げを官公庁労働組合の承諾を得て国会にザル法の公務員改革案を国会に提出する早さは、大増税に対して国民の目先を誤魔化すためである。先の米国のtomodachi作戦などは、中国の防波堤になる日本が沈没したら困るので米国の冷徹な政治によって行なわれているものであり、日本のお涙頂戴とは訳が違うのである。為替が政治で動いている事が明確に分かったのは、円高が必要な時に円安に動いて来たからである。勿論、この考えには当然反対意見が出ると推察するが、リーマンショック以降の円高などマスコミが報道している資金の安全な避難先としての日本などではないのである。その様に思わせる報道をしているマスコミの罪は大きい。私が言いたいのは米国債70兆円の内の10兆円の売却である。7分の1も未曾有の大災害に使えなければ国民のためにならない資産と言う事になる。もし、復興財源として米国債の売却が行われないならば、今後の増税など認めるべきではない。大災害を利用して増税を企てるなら政治家も役人も命を捨てる覚悟で行えと言いたい。国民に対し大災害で消費が減少するのを承知で敢えて更なる痛みを伴う政策を実施するには当然に命と引き換えでなければならない。公務員の給与5%引き下げなどで誤魔化されるものではない。勿論、国会議員定数の半減も引き換えに行なうのでなければ国民は承知しない。

人心一新

日本では古来より大災害などが起きると「人心一新」して新たな体制で取り組んだ。江戸時代には年号まで変えて危機を乗り切ったのである。「人心一新」の意味するところは様々な解釈があると思われますが、災害以前の体制が持続した場合には責任問題などが邪魔をして復興がスムーズに進まないことを懸念した配慮と考えられる。先人の知恵は今でも有効と思われるので、今必要なのは正に管内閣が辞職して復興内閣を立ち上げる必要があることである。菅内閣が辞職しないとすれば、私利私欲で動いており、国家国民を考えていない証拠である。国民が求めているのは新しい顔である。大災害前の顔が何時までも出てきたのでは過去を振り返って悲しみで前に進めなくなる。今の政治家を見ると本当に小人物しかいない。日本はデフレ克服と財政再建と言う中途半端な二兎を追う政策を進め来たために経済が深刻化した。大災害にも財政再建などと言う戯言が顔を出し、国難に対して馬鹿げた議論を進めようとしている。日本経済の復活に足を引っ張っているのは政治だと言う記事が掲載されていたが、正に当を得たものだ。しかし、大災害の復興に政治が足を引っ張る様では看過できない問題だ。官僚を超えた政治家が独りもいないのかと情けなくなる。福島原発事故は海に大量に汚染水を放流し放射能を拡散させたことにより、今後は国内問題から国際問題に発展してくる可能性が高い。海洋汚染が深刻化すれば賠償問題は天文学的になる可能性もある。国家の叡智を結集して福島原発事故に対応しなければならないのに未だ東電の対応レベルしか見えていない。菅首相は福島原発事故直後の視察に問題が出ているのだから首相を継続して国家的危機に対応しているのは相応しくないのである。国民の声が聞こえない政治家など百害合って一利なしである。「人心一新」を打ち立てた新党を作り、国難を乗り切る政治を期待したい。

日本にはリスクマネジメントは根付いていない!!

日本は世界でも類を見ない災害発生可能性エリアに位置しており、日本国民のDNAには大災害に対する記憶が刻み込まれていると思われる。しかし、現代社会の様に科学が発達していなかった時代での大災害に対する術としては、大災害に立ち向かう意識よりはどちらかと言うとじっと我慢して耐え抜いて記憶の彼方に追いやる方法しか選択はなかったと思われる。日本人は台風一過性民族とも言われるのは、どんな災害でも時間が解決してくれると言う楽観的な考え方でしか生きられなかったためかもしれない。日本には四季があり美しい自然に恵まれているのは、大災害の危険地帯に位置する天の恵みかもしれない。勿論、日本人は自然の驚異に一方的に敗者となっていたわけではなく、その時代で可能な技術水準で自然に対してササヤカな抵抗を行なって来たことも確かである。しかし、喉もと過ぎれば暑さも忘れる諺の様に過ぎ去ったことに執着する日本人は少数派と思われる。長い時間の中で培われたDNAを変えるのは容易ではない。阪神大震災の悲劇は遠い記憶ではないのに今回の東北関東大地震には余り経験が生かされていない。幾ら都市型災害と広域地方型災害と違っても、非常時における組織の対応は同じな筈であると思われるのに平時の対応しか出来ていないのには驚きである。自衛隊を大量に投入すれば非常事態に対応できると考えての事であれば、戒厳令により自衛隊に総ての権限を集中させなければ出来る訳がない。被災地は行政機能も失われていることを想定して素早く手を打つ事が重要なのに情報がないとの理由で官邸は動かない。恐れ入り屋の鬼子母神だが、日本人は事前に想定して物事を決めると言う事には下手な人種である思われる。これは何も災害に対してばかりでなく、全ての範疇で起きている現象だ。後では取り返しのつかない建築物なに関しても楽観的だ。そのため、想定が狂うと対処の仕様がないのが現実である。色々な分野でリスクマネジメントを言われるが、今の日本社会にはそれが根付いているとは思われない。リスクマネジメントは現場を熟知しないと出てこない発想だからであり、日本企業のトップの殆んどが企画畑など頭でっかちの出身のために古来のDNAの欠点を払拭されていないからである。原発事故の東電もトップは正に現場軽視の連中で構成されている。

ひとりの村長の強い思いで実現した安全!

東北関東大地震による津波を防いだ15mの防潮堤を造っていた村が存在したとは驚いた。その村とは岩手県譜代村である。明治時代の大津波の言い伝えが今は故人となった「和村幸得」村長の脳裏から離れず15mの防潮堤の実現に繋がったとのことである。建設当時は15mの防潮堤に対して反対もあったらしいが、反対を押し切って造った防潮堤が今回の大津波に有効に働き、多くの人命を助けた。県内でも10mの防潮堤を造っていた町はあったそうだが、今回の大津波には効果がなかったので、もし故和村村長が反対の意見を聞いて妥協していたら、他所と同様な被害を出していたと思われる。ひとりの政治家の執念が多くの村民の命を助けたことを考えると政治の本質が見えてくる。政治と現場を考えると、首長や議員の位が上がるほど現場と乖離し大衆迎合的な政治家が多くなる。当選するために信念を曲げる様な人は政治家に向かないが、今の社会では信念を持った政治家など皆無であり、選挙民のために働く思いなど微塵も感じられない。今回の大地震では多くの事を学べる機会であるので、「良い政治とは何か」、「良い社会とは何か」を考える必要があると思われる。日本は地震、台風、津波、火山など天災に見舞われる事が多いので、早く忘れる事で災害に対する痛みなどから回復してきたが、現代社会は災害に対し事前に備える技術が飛躍的に向上しているので、問題は政治が機能しているかどうかと思われる。過去の教訓を生かして来なかった日本人の台風一過的な民族性ではグローバル社会では生き残れない。

マスメディの悲観的報道の大合唱は要注意だ!

TV番組で新聞社の論説委員が日本の報道は悲観的な記事を書いて国民の発奮を促すスタイルだが、その様なスタイルは社会が変わり、国民も性質も変わったので変えなければいけないとコメントしていた。しかし、今回の東北関東大地震及び二次被害の福島原発トラブルを見る限り少しも変わっていない。日本の部品輸出の停滞で世界経済まで影響が出るので大変だと大合唱だ。一方では、「頑張ろう」や「日本は負けない」などウザッタイコマーシャルで一杯だ。報道で先行きの不安が増せば、地震に関係ない東海・西日本まで自粛ムードが広がり、悪循環が起きてしまう。マスメディアの報道などなくても経済に影響が出るのは分かるので、国民が知りたいのは記者クラブ制度でコントロールされた情報でなく、本当の被害や企業の工場生産体制の復旧などの情報だ。大変だとマスメディアに騒がせて国民の知らない間に何等の構造改革を伴わない増税が行なわれる危険だ。財務官僚などは増税の下地が出来たと国民の不幸など省みずに動いている。故事で「」雌鳥が鳴くと国滅ぶ」とあるが、正に日本では「マスメディが騒ぐと国滅ぶ」である。大変だの合唱で増税路線に一直線だ。米国債70兆円を復興に使わずして何時使うのか。今回使わなければ二度と使えない。保険会社や企業が地震復旧の為にドルを売って円に変えるから投機筋が動いて急激な円高になったと報道されているが、投機筋とは米国なのは間違いない。日本国内にお金があるのに海外のドルを売って円に換える企業など居ない。復興予算に米国債の売却報道がないのは一目瞭然だ。増税に対してマスメディアも後押ししているからだ。行政改革と政治改革なくして増税は認められない。

日本の技術に対する過信の弊害

今の若い人達は日本の技術が米国などに比べて劣っていた時代を知らない。マスコミも企業広告が経営に欠かせないので、日本企業の未熟な時代など触れない。理解できないのは、マスコミの日本企業の技術に対する賞賛の嵐である。尤も、ここ数年は日本製品が過剰な仕組みのため価格競争で韓国などに勝てないなどと、技術の評価ではなく、新興国の需要にあわせた物づくりの必要性を五月蝿いほど流している。今は技術的に評価が高いトヨタであるが、45年前の車を知っている私からすれば、今のトヨタの評価は電子機器による制御技術の成果であり、機械的な技術はドイツ車と比較して未だその水準に達していない事を知っている。何時の時から日本人は技術力が高いと自惚れたのであろうか。若い頃、韓国に情報技術の製品を売っていた企業を訪問した時の事だが、その時代には、新聞各社は韓国企業が日本の製品を解体して技術を盗んでいることを批判した記事を掲載していた。私もその事が念頭にあったので、技術を盗む韓国企業は酷いですねと訪問先の企業の担当部長に話したら、即座に我々も米国製品を解体して技術を盗んだので一緒ですよと答えたことが今でも記憶に残っている。日本のマスコミなどその様なことを百も承知で、今の中国に対して技術を盗んでいると批判している。勿論、日本企業は以前の韓国、今の中国と同様に欧米の技術を盗用して技術力を高めて来たのだが、努力なくして技術を高める事は出来ないので、その点は立派と思われる。欧米に追いつけと言った謙虚さが技術改良に結びつき、世界でも評価される技術水準に到ったので、今ほど日本の技術に対する過信がなかったと思われる。今騒ぎとなっている福島原子力第一発電所の建設には米国のGEの技術で造り上げたもので、当時の日本の技術では原子炉などの主要設備は造れなかった筈である。1980年頃でも原子力発電プラント輸出で日本企業が取り扱えたのは周辺設備だけであり、原子炉本体など考えられなかったのである。尤も、原子炉本体を取り扱えなかったのは単に技術だけでなく、万が一の事故に対する補償に耐えられなかったのも事実である。それが何時の間にか日本企業だけで原子力発電プラントの輸出が出来るレベルに技術的にも資金的にもなったらしい。確かに、日本の原子力発電所は世界に類を見ない程建設・運用においては厳しい基準にある。しかし、統計確立論で物事が判断され、尚且つ効率などが指摘されるようになり、厳しい基準で行なわれてきた日本の原子力発電所にも謙虚さがなくなり、技術者の過信を産んだと思われる。以前、不動産ファンドの物件でアセットマネジメント会社の若い担当とエレベーターの保守点検で議論したことがあった。若い担当は米国の大学を卒業した頭が良く、珍しく現場の重要性を知っていたのだが、エレベーターの保守管理では誤った考え方をしていた。それは、エレベーターの事故が過去に殆んど起きていなかったのは納入していたメーカーのフルメンテで管理していたからであり、経費節減で納入メーカーから独立系の安いコストで引き受けている会社に保守を委託した場合には過去のデーターが使えないと言うことを理解できなかったのである。勿論、現代は色々な技術の問題を簡単にシミュレーションすることによって事前に問題点や誤りを把握することが可能になったことと、IT技術の進歩で機械設備に対する視覚での現場管理が年々省略されてきている。しかし、竣工後2年以内や経年劣化した物に対しては、中央センターで計器類や画面を見ているだけではリスクを排除する事は出来ない。それ以上に怖いのは錯覚で技術に過信した場合と思われる。東電が福島第一原子力発電所の使用を延長した背景には技術者の過信と経営者の利益向上とが相俟った弊害が出たのではないかと推察する。日本の技術はここ30年で飛躍的に向上したが、何時の間にか技術に対する過信が生まれ、色々な現場で危うい状況が進行している可能性は否定できない。特に電力の供給に関しては昔の様に殆んど停電がなくなったので、家庭やマンション・ビル設備に置いても長い停電を想定していない機器類で溢れている。然も、効率経営が主流の時代にあって全ての分野でギリギリまでスマートにされた設備機器には非常時の余裕など殆んどない。遠い過去の様に不具合が当たり前の時代には過剰とも思える配慮が行なわれていたが、現代では全て想定外の答えしか出てこない平時の物で溢れている。危機は其処まで来ている。映画のタイトルの様だが、今の日本を点検すると技術的な過信の弊害に満ちているのが分かる。

民主党の政治主導は政治無能の責任逃れ!

小沢一郎が唱えた政治主導の標語は民主党の標語となり現政権である管首相や閣僚も政治主導を継承している。自民党の小泉純一郎が金融資本主義の過剰な競争社会を作り出し、格差社会にあって公務員は競争社会の蚊帳の外に置かれた存在と国民の眼には写り、更に効率化と言う標語で行政の無駄をマスコミが報道するに従い、何時の間にか公務員は悪役になってしまった。マスコミも国民の無知に付け込み、何時の間にか小泉政権をバックアップし競争社会を作り出したにも拘わらず、今度は連日連夜民主党の政治主導に対して必要性を報道により垂れ流したのである。これにより、本来は政治に向く必要があった国民の不満は全て現在においては恵まれた公務員に矛先が行ったのである。確かに、公務員の現在の給与は、民間企業の様に業績と関係なく、然もリストラもなく、退職金や年金も民間企業と比較して手厚いので反感をもたれるのはもっともと思われる。然し、良く考えなくては駄目なのはこの様な待遇を決めるのは議会であり、議員達が議会で議決しなければ出来ないと言う事実である。公務員は予算に関係する事を勝手に決められないのである。では、何故議員達は公務員の給与等を大企業並みに引き上げたのかを検証すると、議員報酬や議員年金、更には諸手当を引き上げるために役人を懐柔したのである。自民党政権時代の官僚との馴れ合い政治がもたらしたものと言える。官僚が2世、3世議員や社会経験のない職業政治家が増え、政治の質的レベルが下がるに連れて政治家を利用して自分達の権限や役得を拡大したのは事実である。しかし、この事実でもって全てを役人を悪とし、政治家の政治主導の戯言を聞くわけにはゆかない。行政の実務や予算の仕組みも勉強しないで政治ごっこを行なってきた議員達にこそすべての責任がある。政治家どもが政治主導などと戯言が言えるのは、役人と違って選挙によって過去の罪状がクリアされると言う間違った考え方が浸透しているからである。前にもblogで書いたが、役人を指導できる大臣が存在したのは佐藤栄作時代迄であり、田中角栄以降の大臣は論功行賞で就任したので実務知らずで役人に丸投げ政治となった。このため、日本の政治は次第に政治主導ではなくなったのは確かである。当の役人も政治家の質的レベルの低下を憂いて次第に重要な政策に関しては議員に相談することなく勝手に行なうようになった。国民が茲で考えなくてならないのは、政治主導にするためには政治家のレベルを上げなくてはならないのだが、役人と同じレベルの発想しか持たず、然も実務能力が低い議員達が政治主導を行なったらどうなるかは、民主党政権を見れば一目瞭然である。役人は法律の範囲内でしか物事決められないが、政治家は法律を変えて国民の期待に答えるのが役目である。今の政治家は政治主導になれば全て良くなると言う幻想を抱いているが、日本社会を良くするには政治家は政治を行ない、役人はその政治の実現を実務的に推進する姿こそ必要なのである。今回の大震災において評価できるのは、遅滞なく大規模に自衛隊を投入した位で、省庁横断的な対策本部が機能しないばかりか、緊急的な組織対応が平時のまま運用されているなどと言う馬鹿げた現象が生じた、政治主導どころか政治が機能していないのは、指示されなければ機能しない行政の扱い方が全く分かっていないからである。政治無能を役人に転嫁する政治主導などの標語に惑わされてはならない。行政組織のスリム化や民営化や規制緩和は必要だが、小泉の時の様に官僚が描いたシナリオで構造改革を行なっても意味がなく、本当の政治主導とは官僚虐めと効率化でないことを国民が知るべきである。今の民主党の政治主導など壊すだけで何も生まれない。

Destiny!

大学の同窓の一人のご母堂が東北関東大地震で未だに消息不明となっている。今回の大地震で気になった同窓二人がいた。共に岩手県三陸の釜石周辺出身である。彼等二人は同じ高校の出身者であり、大学も「建築工学」と「電子工学」と進んだ専攻学科は違ったが、同窓となった。同窓二人の内、一人は私の故郷の茨城に所在する筑波大学の大学院に進み、その後茨城県に土着した。もう一人は大学卒業後東京で就職し、都内に住んでいる。彼等とは今年1月に新潟出身の同窓を加えて4人で新橋で久し振りに酒を酌み交わした。本当に楽しい一時を過ごし旧友を暖めあった。その時の会話で、岩手出身の二人の近況報告により、共に父親が他界したが母親が健在で、一人の方が東京に連れてきている事を知った。このため、今回の大地震で先ず気になったのは田舎に一人で住んでいる同窓のご母堂であった。しかし、大地震で連絡がつかない状況で同窓に連絡しても仕方がないと考え、災害地との電話が開通した時点を考慮して先ず、釜石市の田舎に母親がいる同窓に連絡した。この連絡が絶好のタイミングで、昨日母親を田舎から茨城の住まいに連れ来たとのことであった。話を聞けば、釜石市の市内は津波で遣られたが、市内から1km離れて少し高台にあった彼の実家は奇跡的に津波の災害から免れたとのことであった。今回の防波堤は何処も破壊されて役に立たなかったが、釜石の沖に作られていた水深の深い場所に建設されていた大きな湾口防波堤は、壊れたものの津波の勢いを削いだらしく、同窓のご母堂は救われたらしい。彼も実家と漸く連絡が取れ無事が確認できたので、思い切って新潟と山形と秋田を経由して岩手の釜石市に入ったとのことであった。彼は用意周到に準備したらしく、車もハイブリッド車を借りてガソリン入手の困難に備えたとのことであった。彼との電話でご母堂の無事が分かったので、東京にご母堂を連れてきている彼にはメールで近況を尋ねた。しかし、茨城在住の同窓と話をした時に、もう一人の同窓の実家が釜石でなく、釜石より北の大槌と言ったのが気になった。その時は直ぐに思い出せなかったのだが、大槌町は津波で大きな被害を受け、町長他役場職員の半数が行方不明になっている町であることを思い出した。長い付き合いの同窓であったが、人の記憶と言うものはいい加減なもので、同窓二人とも実家は釜石市内とばかり思っていた。その上、大槌町の実家を持つ同窓の返信メールを開いて予想していなかった内容で驚いてしまった。確かに、彼のご母堂は東京に来て生活していたのだが、2月下旬に母親の妹の入院見舞いを兼ねて帰郷していた。3月13日に帰京する予定であったとの事だが、帰郷中に大地震に遭遇し未だに消息不明とのことであった。TV報道の画面で確認したと思われるが、実家は跡形もなく消えてしまったとの事であった。彼の返信メールは今年1月の新年会のお礼から始まり、最後には私の健康を気遣ったものであった。彼は学生時代から口数がすくなく、常に冷静な男であったが、淡々としたメールには余計に彼の悲しみが伝わってきた。私はこの返信メールを読んで頭に浮かんだのは「Destiny」の一文字であった。合掌

危機感だけ煽って国民に対応を押し付ける無責任な内閣と行政

枝野官房長官は食するのは問題ない基準だと言いながら放射能の基準値を超えた野菜などの出荷停止を求めた。東京都は水道水に基準値を超えた放射能が測定されたので幼児などには飲ませないでと報道させた。行政の仕事の全てが広報で終わるわけではない。一番重要なのは国民に広報した後の対策であるが、全くその対策がない。飲料水などは報道直後にペットボトルの水がスーパーから消えた。推測だが、幼児を抱えた人達だけが購入して店からミネラルウォーターが消えたとは思えない。広報後の何の対策も講じない無責任な報道で本来必要とする幼児を持つ家族にペットボトルの飲料水が入手できない状況を行政は何の責任を取るのか。無責任に危機感だけを煽るのは誰でも出来る。ホウレン草でも基準値は超えているが、大量に食べ続けなければ大丈夫と言っていたが、食事はホウレン草だけを食べるのではなく多種の食材で調理するのである。当然に多種の食材の放射能汚染の可能性や1年の内には健康診断でレントゲンも受けるのだから、総合的に見てどの様な対応をすれば安全かを示さなければ現在の発表の仕方は不安を煽るだけになる。場当たり的な対応だけで、その先が見えない。枝野官房長官を評価する意見が多いが、彼は政治家である。官僚の立場の広報マンではないのである。政治家として国民に安心感を与えなければならないのに、その先の対策や指導指針がないから国民は買い占めに走る事になる。放射能拡散問題は東京電力の補償の問題だけで解決は出来ない。今回の放射能汚染問題は政治が責任をとって国民に安心感を与えるべきものである。現行法では対応が出来なければ早急に法律を作れば良い。それが政治の仕事である。現行法が壁で対応が出来ないと言うのは役人である。政治家には出来ないと言う言葉はないのである。出来ないと言うなら政治家を辞めるべきだ。

首都圏の電力復旧には国家の出動が必要

東北関東大地震による東京電力の被害と福島原発トラブルによる放射能拡散による補償を考えると、東京電力管内の電力供給正常化に対する発電所の復旧工事には国家が予算を計上して行い、東京電力に発電施設を貸与する方法を取る必要があると考える。本来ならこの様な時には国策会社であった電源開発の登場なのであるが、残念ながら電発は民営化されたので、採算を度外視したプロジェクトは出来ない。勿論、発電所の運営は東京電力なので、国家が復旧工事費を予算化すれば良い訳であり、現在設置で名前が出ている復興庁で行なえば良いと考える。尤も、復興庁が出来ても各省庁の寄せ集めの組織と推察出来るので、その長官には省庁を超えて辣腕が振る得る人材が絶対的な条件だ。復興計画で一番懸念されるのは、菅と言う人物が頭領の器でなく、人に任せられない侍大将程度の人物であることだ。左翼運動を行ってきた人の特長だが、他者を信用できないと言う欠点を持っている。その上、重要な決断は自分でなく、他者に責任を押し付ける自己保身が強い。正に、今の状況は国難であり、国難を乗り切るには余程の人物の登場が必要だが、現代ではその様な人物は市中に埋もれ、実際に事に当たる政治家には皆無だ。明治時代の国難には多くの人材が現れたが、平成の時代の政治家や経済人は小人物ばかりである。しかし、国家危急の時には人材が現れると言う過去を振り帰り、復興計画に期待したい。

管内閣の重鎮は弁理士、弁護士を職業とする者の弊害が出た

管は特許事務所を経営していた弁理士である。枝野と仙石は弁護士である。この3人が管内閣の現在の国家の舵取りを行なっている。ではこれ等の職業の者の弊害とは、ずばり当事者として決断する事がないのである。明確に言えば、代理人的な仕事であるので決定事項に対して自らが責任をおうことがなく、重大な事項を自らが決断する立場ではない職業なのである。今回の大地震による采配も飽くまで意見を述べるだけで解決するのは災害地の行政であり、災害者であり、会社なのである。菅内閣としては、自衛隊を派遣したから彼等を旨く使ってくださいという事だけなのである。このため、大災害の司令塔が貴方任せであるので、救援物資は届いたものの、この救援物資を運ぶのにトラックの燃料がないと言う馬鹿げた現象が起きているのである。この事例はほんの一例であり、同様な事は枚挙に暇がない。この司令塔不在の中で国民は良く頑張っている。最悪なのは救援物資を送りたい企業に対して平時の考え方で取り組んでいるので、緊急的な対応になっていないことである。このことも当事者ではないので時間が掛かっても損するどころか逆に利益をもたらす職業だからである。今回、新たな人事が発表されて、仙石が官房副長官、藤井が総理補佐官に任命され、菅内閣は4人組が勢揃いした。今度加わった藤井も元大蔵官僚の役人である。これ又、国民の代理人の職業であるから当事者意識が低いものと思われる。この中に一人でも企業経営車者がいたら管内閣も今の様な無責任内閣にならないで済んだと考えられる。なお、この職業で最悪だったのは、福島原発の地震による災害復旧対応において正に政府が当事者にならなかった事である。貴方任せの結果、原子炉がメルトダウン寸前になり、地震災害以外に原子炉災害の様相を帯びてきた。この職業の弊害に対して賢明なる方は、米国の大統領が弁護士であることが多い事を指摘し、私の見解に疑問を呈すものと推定できる。確かに、米国の大統領は法律家が多い。これは米国の裁判が陪審員制度であることが、弁護士に当事者意識を持たせているのではないかと推定している。依頼者の無罪を勝ち取るには日本の弁護とは比較にならないほど陪審委員達に対する工作が必要だからである。この陪審委員を国民に置き換えると分かりやすい。米国の弁護士は常に国民の眼を意識する議員と同じ視点で行動する訓練が出来ていると思われるのである。勿論、この推定は私の独断と偏見に満ちた考え方かもしれないが、管内閣の尖閣諸島問題に置ける検察に任せた遣り方や、又、今回の大地震に対する采配を見る限り、責任を取らない当事者意識が低い日本の弁理士、弁護士の職業の弊害が出てると思われるからである。

建物の管理で懸念している事

情報化時代になって建物の管理はコンピュータによる管理が多くなり、殆んどが終日パソコン画面を眺めているケースが多いことに気付く。確かに、ビルの電力使用料の時系列データや色々な設備の不具合に関する異常などをビル内の配線を通じて知らせてくれる。建物管理の経験のない人は近代的な装置に対して安心感が出るかもしれないが、長年に亘り、建物管理を行なってきた者にとってはビル管理要員がパソコン画面だけ眺めているのに不安を感じる。設備機器と言うのはサドンデスの場合が多いのも事実である。パソコン画面を通してサドンデスにいたる微妙な信号を読み取る事ができるならばそれで良いが、その様な信号まで読み取る監視システムは高額になると推定できる。勿論、貯水タンクの満水警報の様な警報システムならば現場で確認する必要はないが、設備の殆んどは日常点検を行なえば大事に至る前に事前に発見できるケースが多い。しかし、パソコンでビル内の設備を管理するようになってからは、管理要員は必ずしも技術経験者でなくとも良くなった。大型ビルなどでは警備員が設備員を兼務しているケースも出てきている。これはビルの設備を遠隔監視しているので、現場には警備員だけ配置しているのである。勿論、設備管理といってもエレベーターや受電設備、空調の運転、照明など主要設備だけであり、その監視も動作しているかどうかのチェック機能である。尤も、建物の管理では最も重要なのは受電設備であり、ガス設備であり、次に給水・排水と空調設備なので工場などの設備管理とは異なる。しかし、工場の設備管理や建設会社の設備担当が建物管理要員になると本当にきめ細かい点検や設備保守が出きるので、設備機器の寿命も延びるし、サドンデスの前に異常音で気が付くことが可能だ。常駐設備員による日常点検が有効なのは誰も知っているが、管理費のコスト削減により無人の遠隔監視を行い、現場の確認は定期的な巡回点検にしているケースが多くなっている。当社は貸ビル業はテナントに対するサービス業と言う視点で管理している。貸ビル業はサービス業なのである。オーナーの殆んどはサービス業の意識はなく、旧態依然の考え方をしているので、当社がサービス業と言うと変な目で見るオーナーもいる。このため、賃料が下がると簡単に管理コストを削減してサービスを低下させるのである。賃料と管理コストの悪循環になる。話は横道に逸れたが、建物管理の常駐要員に技術者でない者が多くなると、日常点検はお座なりになり、その結果設備機器の寿命が短くなり、機器異常の発見が遅くなって大事に至るケースが懸念されるのである。それ以外に大きな地震などが発生してもビル内に設備員がいると安心できる。ビル内に備蓄している水や食糧も遅滞なく放出できる。又、地震による被害の点検対応も素早くできるメリットもある。何れにしても、建物管理で常駐設備要員を置かなくなることや、況してや技術者でない者に終日PC画面を見させているのではビル管理は疎かになる。

 

 

福島原子力発電所の地震被害対応の誤り

今回の東北関東大地震後に、総理が災害地の中で最初に原子力発電所を視察するとの報道を聞いた時嫌な予感がした。通常ならば人命が多く失われている地域を先ず視察するのが普通と思われるからである。その予感が的中した訳だが、今回の原発地震被害対応の背景には新潟県内の柏崎・刈羽原子力発電所の休止があると思われる。仮定の話をしても始まらないが、もし柏崎・刈羽原発が稼動していたならば老朽化していた福島原子力第一発電所の原発のうち、少なくても何基かはお役御免にしていたと推定できるからである。勿論、原発に関しては想定外などあってはならないが、老朽化していた原発でもあり、設備機器を更新していたと言っても新しい原発と比べれば設計基準も異なり、大地震の衝撃には脆い部分も出てきたと考えられる。然も、日本の古い建築物はすべて同様なのだが、工事履歴を作る習慣を持っていなかった。このため、事故が起きたときには設計と現況が異なり、原因を調べて事故対応をするには時間が掛かってしまうのが当たり前だった。原子力発電所も同様とは考えたくないが、何れにしても最近の様な履歴はなかったと思われる。聞いた話では、福島原子力発電所は、IEAの視察で弁の設置の必要性を指摘され、しぶしぶ取り付けた経緯があるそうだ。しかし、この弁がなかったら今頃はもっと悲惨であったらしい。さて、今回の被害対応の本題に入るが、菅総理は少なくても発電所の仕組みについて理解していなかったと思われる。これも推測だが、今回の大地震では稼動していた原発が停止した報告を受けて一安心したと思われる。東京電力では地震と津波による原発の点検中に総理が視察に見えることになったので、所長などはその受け入れに神経を使ったものと思われる。幾ら総理の視察が短時間でも、現場では至急に点検して異常の有無などを確認する必要があったので、迷惑な総理のパフォーマンスだったと考えられる。その上、点検確認中で詳細が分からない中で受けた報告を真に受けたために、被害対応を東電に任せてしまった間違いを生じたと思われる。福島原子力発電所内にはどの様な故障対応の設備・機器などを置いてるか知らないが、何基もの原発の同時の事故対応を想定していないと考えるのが普通である。そうすると、何基もの原発が同時に不具合を起こした時には外部から運んで来なければならない訳で、それが可能かどうかの判断が重要である。今回の大地震は多くのエリアでライフラインを破壊したのである。幾ら東電が大企業とは言え、民間企業が非常時に出来ることは限られて来る筈だ。管総理は今回の原発地震被害に対して東電技術者を官邸に呼び何故直せないのだと言ったとの報道が流れたが、この報道ほど管総理が何も分かっていない証拠である。今回の被害では格納容器への給水対応が難しいのは津波で多くの給水関連設備機器が壊されたことであり、給水装置を作動させる電源の問題から遅かれ早かれ格納容器への海水をいれなければならないのは一目瞭然なことは現場では分かったはずである。又、この様な廃炉にする行為を民間企業経営者では素早い決断が出来ないのは当然であった。15日の時点になって漸く海江田経済産業大臣が4号機に海水を入れることを法律により命じたが、本来ならば被害当初の段階で命じる行為であった。保安院の官僚は必要性が分かっていたが、管総理がその命令を阻害したとすれば大問題である。何れにしても、福島原発に対する地震と津波による被害に対しては、大地震後に直ちに国が緊急対策本部を作り、全力を投入しなくてはならないものであった。それが東電だけに被害対応を任せたので、絶体絶命の危機に陥ってしまったのである。この責任は、管総理と枝野官房長官、仙石副代表など管内閣を支える全員が責任を負うものである。特に、15日に海江田大臣が出した4号機に対する海水投入は、東電としては当初から国に命じられ、株主からの批判を軽減したい被害対応であったのではないかと推定できる。尤も、社長が3日間も姿を現さなかったことを考えると、小沢に近い海江田大臣が管轄する経済産業省抜きで、管総理と東電社長が解決を図る事にしたのが裏目に出たのかもしれない。何れも推定の域をでないが、明確なのは管総理一派が原発に対する無知から引き起こした死刑に値する指示である。今回の原発地震被害に対する対応がどの様に展開するか不明だが、原発を放棄しなければならない様な事態になればその影響は東日本の死を意味し、国民は疫病神を総理にしたことを後悔することになる。

今回の大震災で日本人は当然以上に喪に服す必要がある

石原都知事が一言居士らしくまた被災者の神経を逆撫でる言葉「天罰」を吐いた。新聞の報道だから本人の意思が曲解されているのは分かるが、この時期では誤解を受けるものと思われる。しかし、今回の東北関東地震において亡くなられた人は3万人規模に達するかもしれないが、この3万人の人数で思い当たる(連想する)人はどの位いるだろうか。この数字はここ10年以上も続いている毎年の自殺者の数である。大震災で3万人が亡くなったと報道されれば皆驚き悲しむだろうが、毎年3万人の自殺者に対して驚き悲しむ人は身内や知り合い以外にどの位いるのだろうか。この比較の反論として当然に自殺はその人の意思の結果であり、災害による死亡は意図的な死ではないので比較できないと言うと思われる。だが、3万人の人達が自殺に追い込まれた社会で何の悲しみも共有しないで自分達の豊かな生活を享受してきた人達に天はどの様に見ていたのだろうか。悲しみを共有するどころかマスコミも世論を誘導して競争社会を作り上げてきた人々に対する天の怒りだといったら不謹慎だと叱られるだろうか。勿論、過去の歴史において日本社会で常に試練を与えられてきた東北地方の人達が何故天の犠牲になるのかと言う思いはある。大地震に対する犠牲者に対しては滂沱の涙が止まらない。社会は常に理不尽である。悪党が大手を振って闊歩しているので、宗教など信じられなくなってしまう。多分、昭和のバブル経済崩壊後の日本人は理不尽と戦い続けてきたと思われる。いや、若しかしたら太平洋戦争後から日本人の心の中には理不尽が潜んでいたのかもしれない。それが経済成長で社会が豊かになるにつれ忘却の彼方に追いやられていたが、昭和の経済バブル後に再度顔を現したと思われて仕方がない。特に、小泉純一郎と言う男が総理大臣になってからは日本人が大きく変質していったのが良く分かる。金融資本主義の悪い面だけを日本に持ち込み、道徳観の欠片もない連中が金儲けに走った。そう言えば、耐震偽装事件の主役の男は宮城県の臨海部の出身者であった。14日以降計画停電により電車の運行が大幅に減少したので各電車は100%以上の混みようであった。何でもない時なら悲鳴や不満の声、更には乗客同士の言い争いの声が聞こえたものだが、誰もが耐えて不満を口に出していない。被災者の事を考えたらその程度の不満は恥ずかしくて言えないと思ったからであろう。日本人は「恥の文化」と指摘した人がいた。聖徳太子は「和を持て尊し」と17条憲法に書いたのである。日本人の遺伝士には出アフリカのDNA全てが残されていると言われ、細長い日本列島には騒乱から逃れてきた人達が共生してきた国なのである。本来、競争社会に向かない遺伝子を有した国民が、戦闘的な遺伝子を持った子孫の支配者によって利己主義的な金儲けに走った結果が今の社会である。日本は必要以上に豊かな社会なのに常に不満を持ち、他人に対する思い遣りなど何処かに置いて来てしまったツケは大きい。電力供給や道路がなどが完全復旧するまで首都圏の経済は頑張っても地震前には戻らないので、大災害の犠牲者に対して喪に服し、改めて東北地区の復興計画を考える必要がある。この機会を失うと日本人は天から見放されると思われる。

今回の東北関東大震災で何が分かったか

2千年に1回の多発地震と大津波には臨海部におけるリスク対策は効果がなかったことである。公共投資事業は予算規模に限度があるので過去に起きた大きな災害を基準に従って行なわれているが、津波に対しても今回の様な大きな津波は想定していなかったと推定できる。今回の地震でこの想定を非難するのは簡単であり、現実的な点から犠牲者になった方々には気の毒だが、誰も責められない事でもある。しかし、津波に対して堤防だけでなく市街地内に幾つかの津波に対する対策を施していればと残念でならない。最近は公共レベルまで全て経済コストで考えられているので過去と比べてリスクが高まっているのは確かである。民間レベルは更に災害に弱い設備機器が導入されてきており、自然の怖さを忘れると災害が発生した時にはなす術がない。以前のblogで書いたが、建物の設備機器に無駄を省いたものがコスト面やデザイン面から採用されてきているが災害には極めて脆弱になっていることである。東京電力も福島原発に過度に依存したために電力供給で問題が生じている。集中投資は効率が良いが一旦何か起きれば痛い目にあうのである。大災害は効率一辺倒の社会に対する警告である。尤も、ソニー本社ビルは水対策を施していると思われる施設がビルの周りに配置されているとの情報もあり、もしそうであれば企業のリスク管理能力の高さが窺える。最近特にスマートと言う言葉やクールと言う言葉が流行しているが、この様なスタイルの設備機器は災害に弱いと推定できる。マンションの建築一つとっても屋上に給水タンクを持たずにポンプによる直接供給方式に代わって来ているが、計画停電で直ぐに供給が止まってしまう。トイレも然り。タンクを失くしたトイレが殆んどであるので、供給が止まれば直ぐに使えなくなる。環境面ばかり強調されるので二酸化炭素の排出が大きいガスは敬遠されてきているが、電力だけに頼る怖さが今回の災害で思い知らされた。災害に対しては全て効率が悪いかもしれないが分散化はリスクを下げる最大の方法である。幾ら技術が発達しても平時の備えでは災害に役に立たなく、天災は忘れたことに遣ってくるとは故人の教えである。何れは東京にも直下型地震が起きる可能性があり、建築技術が良くなってもライフラインが脆弱では意味がない。今後はどうすれば良いかを一人一人が考える事である。時には無駄も必要な事を知るべきであり、地球外探査衛生の「はやぶさ」がその教訓を与えてくれているのである。

中国歴史に生きる教え

科学技術が飛躍的に進歩した現代社会だが、人間の思想に関しては近代以前の時間にゆとりがあった時代を超えていないと言われている。勿論、最近はやたらと人間の行動などを分析してマーケティングに繋げる学問分野が隆盛となっており、自分の決断と思っていることでさえ、実際は情報ツールを通して動かされているので、人の考え方が進歩しているかどうかを議論するのは意味がないのかもしれない。しかし、中国の歴史における教訓を含んだ格言などは現代の社会でも十分に通用することであり、それらを理解すると特に競争社会においては自分を見失うことがないと思われる。先日、ある方の出版した本「昼マシは座って食べるな!」を贈呈されたのだが、その寄贈に際して「鴻鵠高飛不集汚池」の言葉が添えられていた。この熟語は正式には「呑舟之魚不泳枝流 鴻鵠高飛不集汚池」である。この熟語は大人物の心構えを意味しているが、著者が誰にも書いた言葉なのか、私に対して個人的に贈った言葉なのかは不明だが、私にとっては心すべき言葉と有り難く頂戴した。偶然であるが、本を寄贈される前に、塚本青史の「春申君」の本を購入した。この本の主人公は戦国四君のひとりと称される「春申君」で、楚の宰相まで登りつめ、強国秦と渡り合った英雄の書である。昔は戦に破れれば命まで失ったのである。このため、全知全能を駆使して考え抜いて事に当ったのであるから、その時代の教訓は現代でも十分に通用する重みのある言葉である。

錯覚の怖さ

人は色々な面で錯覚をする。現代社会は競争社会であり、競争社会では自信が裏づけとなる。しかし、この自信に対する見分け方に関して人は錯覚に陥る事が多い。特に、科学技術が進歩した社会では能力以上に見せる技術が出来た為に尚更である。当社の設計業務でも以前は図面は全て手書きで作成した。然し、今はCADが主流となり、幾ら優秀な設計士でもCADが使えなければ評価してもらえなくなった。実はこのCADが手書き時代と違い、設計における自信のなさを覆い隠している。面白いもので手書きの時には自身のなさが図面の線の強弱に出たものだが、CADになってからは消えてしまった。その他、手書きと違って細かい作業は用意されたものを当てはめる作業で良いので、経験の浅い設計士の場合には、実際の工事に必要な機器の納まりに不具合を生じてしまうケースが多い。これも錯覚の一例であろう。日常的な生活で詐欺師に騙されるのは詐欺師の自信に錯覚して信用した結果である。本来は詐欺師の様に自信たっぷりに言えないのが当たり前なのに、その事実を理解する人は少ない。今の時代はプレゼンテーションが仕事の受注に大きく影響される。このため、パワーポイントを駆使したプレゼンが多いが、このプレゼンにも錯覚が入り込む。尤も、能力の評価には実績を基にしていると言う反論もあると思われるが、実は過去の実績を見て判断すると言う作業は錯覚をしない一つの方法ではあるものの、新しい才能を否定するので良い選択にはほど遠い。何かの本で能力のない人ほど自信過剰になると書かれていた。技術の世界では自信過剰はリスクを隠してしまう事になるので怖い。競争社会では自信を持つ事が成功の道とまで言われ、誰もが自信を持った口調になる。これこそ正に錯覚の社会となり、大きなリスクを抱えることになる。

政治不在を考慮した行政機能の権限の問題点

厚生労働省が課長通達で処理した年金問題で世間を騒がしている。年金に関する事ばかりでなく行政側の国民に対する広報活動は受動的であるが、最近のトレンドの自己責任と言う考え方からすれば知る努力を怠った者が悪いとなる。しかし、行政サービスと言うことからすればサラリーマンから自営業に変わった時点で役所から専業主婦に対して年金加入の通知を出す位の親切があっても良いとは考える。前長妻大臣もその様に考えたかどうかは知らないが、行政側の落ち度として救済措置を講じたのである。しかし、その措置が不公平であるとの声が出たために急遽取り扱いを中止したのだが、今回はこの議論ではないので取り敢えずその問題を横において、本題の通達で処理したことに言及したい。本来ならば国会で議論する必要がある問題を簡単に課長通達で処理できる制度が官僚の権限を大きくし、惹いては国会議員の存在を貶めていると言っても過言ではない。では何故この様な強力な権限を官僚に持たせているかと言うと、日本国会の与野党対立の中で政治不在が続いたからだと推定できる。また、国民生活などに大きく影響がでる問題に関しても政治家は政治闘争で国民を省みないことが多いので緊急避難措置的に与えた権限と考えられる。しかし、この権限は考え方によっては国会を軽視しすることになり、三権分立の考え方を根本から揺るがす問題でもある。先の年金問題も正式には法律を改正して対応するのが当然なのだが、すべての議論を政争の具にされると言う観点から、法律の改正を待っていたのでは遅すぎると言う理由で現場処理しており、その正当性を与えている。政治家が官僚から政治を取り戻すと言う声が最近頓に聞かれるが、政争ばかりで政策の議論をしない国会の存在が官僚に権限を持たせたことを知る必要である。民主党が政治主導を唄って政権に就いたが、行政の何たるかも知らないで民間のビジネスモデルを持ち込んでも行政は機能しないのである。国民は官僚を非難する前に如何に政治が機能していなかったかを知るべきであり、その上で官僚に持たせた権限の必要性を論じる必要がある。勿論、官僚組織は規制しないと増殖する習性があるのだが、これに関してもチェックするのは政治である。国民の一部には前原外務大臣の辞任に対して金額が小さい事を理由に庇う発言が聞かれたが、法律を守るということは金額の多寡ではないことを肝に銘じるべきである。今の政治には時間軸の速さを正当事由に「言葉の重み」など否定する風潮にあるが、政治家が「言葉の重み」を否定したら社会に欠かせない信頼がなくなくなる。最近のマスコミなどは平気でマニフェストを否定しても問題ないと書いているが、国民に対する約束を破るなら如何なる理由があろうとも議会を解散して国民に信を問うべきである。長期政権が出来ないために日本経済が低迷しているなどと言う幻想を国民に持たせているが、今の日本が駄目になった理由は正に「言葉の重み」を省みず、平気で約束を破る社会になったからである。それは政治とマスコミの責任である。官僚を悪者にしても何の解決にもならない。

日本政策投資銀行の職員のTV出演時のコメントに唖然

日曜日の午前中にTBSの番組でサンデーモーニングと言う番組がある。6日にはゲストとして日本政策投資銀行職員の藻谷と言う者がゲスト出演していた。司会の関口宏が当日の多彩なゲストに対して色々な出来事に関してコメントを求めるのだが、藻谷ゲストも幾つかのコメントを述べていた。この藻谷ゲストは日本のデフレ経済は人口減少で起きていると言う見解の本を出版した話題の人物であった。幾つかのコメントのうちに日本経済の景気回復に言及したときであるが、彼は政府の対策には限界があるので、景気を良くするには国民一人一人と企業が持てる資金を景気回復のために使うことを考える必要があると発言した。この発言は正論の様に思えるが、実はこの発言では日本経済が低迷から脱しきれない重要な点を取り上げていないのである。何故企業や国民が前向きにお金を使わないかは政治不信があるからである。将来に増税や年金支給の時期や金額に不安がある社会で国民はお金を使わないし、政治家が国家のグランドデザインを示さなければ企業は投資できないのである。国民誰もが景気回復にはお金を使う事くらい知っているのだが、政府系金融機関に勤務している藻谷ゲストには理解できないらしい。藻谷ゲストの発言の裏には企業と国民の"おねだり"先入観が根底にあると考えられる。赤字国債が増加するにつれ増発の責任を国民に転嫁する様な発言が出てきているが、国民は国家予算についての知識などないし、予算を動かす力もないのである。碌でもない政治家を選らんだ責任はあるとしても、実際の国家予算は国民などを無視して政治家と官僚が決めてきたのである。自分達の責任を回避した発言は言語道断である。先の藻谷ゲストの発言を聞く限り、彼が書いた本も偏った考え方に基づいたものと推定できる。

米国とアーミッシュ

私のblogを読んだ人は私を反米主義者と思うかもしれないが、別に米国が嫌いではない。元総理大臣の小泉純一郎みたいにプレスリーが好きだから米国全部が好きになる単細胞でもない。子供の頃はTVで米国の西部劇や豊かな社会のホームドラマを見て育ち、学生時代には勉強もしないで映画、特に米国映画に魅了されていた。当然に現代の様な情報化の時代ではないので世界とは米国の事であり、米国には想像も付かない豊かな社会があると憧れてもいた。しかし、米国に対する考え方が一変したのはベトナム戦争や沖縄出身の学生のパスポートを見せられて米国と言う国の現実を知ってからは、米国民の意思とは懸離れた産軍共同体の化け物の存在も理解した。更に、カークダグラスと言う俳優が演じた「アメリカの憂鬱」と言う映画を見て競争社会における厳しさを垣間見た。しかし、米国にはアーミッシュと呼ばれる近代を否定して生きる存在を知った時には驚きであった。日本の様に誰もが金太郎飴である社会ではなく、個性的に生きることが許される社会と言うのが本当の民主主義かもしれないと考えた。民主主義とは選挙を通して選んだ議員や首長による政治を行なっていることを指すのではなく、色々な主義主張の考え方を否定しないで受け入れることが本当の民主主義ではないかと考える。そういう意味では日本人は民主主義を真に理解した国民ではないと思われる。米国社会にアーミッシュが存在する限り、米国の国家は兎も角、少なくても米国民は嫌いにはならない。日本人の多くはリビアの紛争のことを知っているが、米国人の圧倒的多数は知らない。それは自分達の生活とは直接には無縁だからだ。最近思うのだが、日本の新聞は何故こんなに海外のニュースを流すのかと思う。真実なら未だしも情報操作された記事を日本国民に伝えている。海外のニュースを流すなら足で歩いた国内の記事を流せと言いたい。海外問題で騒いでいる間に重要な事が国民の知らない間に決定されていることを日本人は知る必要がある。金儲けしか考えず、他人の配慮を忘れた国民を作り出すのはマスコミの責任だ。

今起きている事と過去の出来事を検証すると見えてくるものがある

どの様な理由か不明だが、民主党の小沢と鳩山は米国と距離を置こうとした結果、権力から排除されようとしている。逆に、学生運動出身の菅と仙石は自民党の小泉純一郎と同じ米国追従に方向転換し、権力を維持にやっきだ。菅の強気の背景には米国の支援を感じ、正に菅を支援するために米国がマスメディを使って保護するかの動きが見られる。1970年代の過激な学生運動時代に書かれた米国のレポートでは、日本は発展途上国の様に反米政府が出来た時には軍事的な手段でなく、新聞報道などマスコミを通して倒せると言うことが書かれていた。このレポートも情報開示の制度の中で世に出てきたものである。日本はマスコミ操作で政権を倒せると言う実験は米国の日本占領政策で学んだものと考えられる。戦後に大規模な労働争議が行われた時に今でも謎とされる「下山事件」、「帝銀事件」、「三鷹事件」など新聞を賑わし、国民の目を別な方向に導いた事件が相次いだ。翻って、菅政権が発足してからを見ると、「相撲八百長事件」、「大学入試携帯事件」などが起きている。今後も国民の目を菅政権から離す事件が起きる可能性が高いと思われる。米国と言う国は人間の心理を研究しており、その研究をもとに経済分野などに応用しているので誰もが疑いもなく動かされてしまう。世界的な事件で分かりやすいのは、リビアの報道である。カダフィ親子がイラクのフセインの様に悪玉として報道されている。その報道には、カダフィが反政府勢力はイスラム過激派なので米国に手を組もうと言うのがある。リビアがイスラム過激派と対立していた形跡はないのが、急に浮上した。冷静に考えるとリビアの反政府勢力に政府の軍事力に対抗できる武器を提供したのは誰かと言う事である。アフガン紛争でも不思議なのだが、無尽蔵な武器が何処から現れるのかである。リビアで言える事は反政府勢力に武器を与えているのは間違いなく米国である。カダフィ一族の海外資産1兆円、エジプトのムバラク一族の海外資産1兆円などの報道は、イラク戦争時の大量破壊兵器の類と推定できる。中東から開始された騒乱は、宣戦布告なき情報戦争の開始であると思われる。その結果で起きる事を想定すれば、見えてくるものがある。

企業の遺伝子

遺伝子の継承は生き物だけでなく企業にもあることが良く分かった。新入社員として入った会社の社訓や理念、経営者の考え方が否応なしに遺伝子として継承されるから怖い。今更と思われるかもしれないが、本当に最初に入社した会社の選択が問われる時代だ。大分古い話、今から32年前の事だが、当社が実質的に行なっていた平河町のマンションプロジェクトで、大京に分譲部分を譲渡した時の出来事である。大成建設に工事を発注したプロジェクトだが、大京は当社の仕様を大京基準の仕様にグレードアップする追加工事を行ったのである。幾らインフレ時代とは言え、都心の高級マンションの需要は少なく、販売に関しても未知数であった。ひと言で言えば創業者の横山社長は「物づくりの心」を持った人であった。良いものを社会に提供することで会社が存続する事を理解している人でもあったと思われる。その大京も昭和バブル後には銀行管理に入り、更に大手リース会社の傘下に編入されたので、創業者の思いは既に企業の遺伝子として継承されなくなった様だ。過っては不動産業界に大京のOBが創った不動産会社が多く出現し、大京は不動産学校とまで言われた時があった。この時代は大京の「物づくりの心」を継承したOBが良い仕事をしていた。平成バブル崩壊後までは大京に変わり不動産学校として多くのOBが創った不動産会社としてはリクルートコスモスが存在感を示している。しかし、残念なことに求人広告会社出身の江副が創業したリクルートコスモスは、「物つくりの心」など当初から持っていなく、最初から「見た目重視」の進出であった。勿論、「見た目重視」を否定するわけでなく、現在の流れを見ると時代を先取りしていた事が分かるが、問題はプロジェクトの採算性を高める手法に問題があった。某会社のデューデリジェンスで建築診断した建物など行政への働きかけが失敗した結果が良く分かるものであった。リクルートの江副は不動産業界では政商として政治家に働きかけて容積割り増しを得ての手法であった。この手法には当然汚職が絡んでくるのであり、この事は新聞にも報道されたので承知の事実である。江副が政界を振動させた疑獄事件で失脚したが、江副の創り上げた不動産会社のOBが正に江副の遺伝子を継承して多くの不動産会社を社会に送り出したのである。勿論、江副の手法のうち、政治家に働きを掛ける不正な部分は継承していないが、「物つくりの心」から懸離れた「見た目重視」の仕事を継承したことは、本体及びそれらOBの創った会社の殆んどが平成ミニバブル後に破綻し他企業の傘下に置かれたことでわかる。住まいは人の夢の実現である。その夢に「物つくりの心」を持っていない会社が進出しても長く存在することは出来ない。近年はコスト削減の流れで「物つくりの心」を評価されない環境ではあるが、その心を失った会社の末路は破綻しかない。それと不動産業界に大切なのは「言葉の重み」だが、それも今は死語に近い。勿論、消費者がそれらを望まないのであれば一人相撲になるのだが。

中東問題からの深読み

意図的か偶然かは分からないが、先のリーマンショック後の世界経済の金融の過剰流動性が安定的に推移してきた中東の長期政権国家を揺るがしている。中東諸国は宗教と部族の二つのキーワードが存在し、今回の民主化の先を読む事は難しい。然し、ひとつ言える事は中東はイスラム教であるので欧米型のキリスト教民主主義の国家に生まれ変わる可能性は低いと考えられる。このため、短期的には欧米が喜ぶ民主化が進むように見えるかもしれないが、その後は欧米に対立する政権が出現する確立は高い。一方、中東の民主化の波及を中国に期待する欧米諸国であるが、もし中国で混乱が起きると日本経済は中東の混乱によって引き起こされる原油高の影響どころではない。日本人は能天気に考えているが、日本企業が中国に投資している規模や中国の景気による恩恵は計り知れない。キリスト教民主主義の国にとってはイスラム教の繁栄は悪夢である。同時に黄色い人種の繁栄も又脅威である。しかし、米国はこれ等の悪夢や脅威に対して情報の独占化による優位性による支配を試みている。グローバル経済はその前提にあるのは平和である。平和でなければITによる自由な商業が損なわれてしまい、21世紀型経済の効率性とコスト削減の魅力を失ってしまう。オバマ大統領が情報産業の経営者と緊密な関係を維持するのは、正に21世紀では情報を征服した者が覇者になることを見通しているからと思われる。イランの原子力などが外部からシステムを攻撃されたが、今後は宣告なき情報戦争が行なわれる可能性は高い。クラウドは確かにコスト面から考えたら利用価値は高いが、反面情報が集中して読みと取られるリスクも少なくない。何れにしても米国は独占化した情報産業を武器に世界に君臨する野望は捨てていないと考えられ、今後は中国に対してどのようなアクションを起こしてくるかである。歴史的に中国は半ば植民地化した苦い過去を忘れてはいないので、米国が中国に情報戦争を仕掛けたりすると日本に大きな被害をもたらす可能性がある。この様な展開を見ると、円は徐々に下がり円安に向かうと推定され、資源高・食糧高の影響により日本国民の生活に悪影響が起きるかもしれない。しかし、一番懸念されるのは、日本が中国と対立するように仕掛けられ、両国に緊張が起きる事である。尖閣諸島事件などは正に将来を暗示する出来事である。このため、アジア人同士が争わないために、岡倉天心の「アジアは一つなり」の精神でアジア諸国との平和的な共同体の構築を目指すことが日本の役割であると思料する。

地方分権は情報化時代の必然

グローバル化がローカルに関心を向けさせるのは必要条件であり、十分条件は情報化時代の地方分権の必然性であろう。情報化時代には中央集権政治システムでは機能しないことは歴然である。勿論、中央政治の全てを否定するつもりはないが、時間軸が速く、距離感をなくした情報化の時代に全てに対して中央で指令を出す政治は弊害が出てきたと思われる。今、地方から政治・行政の改革の動きが出てきたが、この動きの最終目標が単なる中央集権政治を温存する動きならば意味がない。地方の再生には権限と資金を与えて活性化を図る以外に方法はない。今の中央集権政治は金太郎飴的な遣り方であり、情報化以前には有効であったかもしれないが、情報化の時代になり、地方が直接海外と繋がれることになり、過去と大きく状況は変わった。国の縛りで身動きが出来ない現体制ではグローバル化に追いついてゆけないし、成果を得ることは出来ない。ネットワーク社会には地方分権の強化によって国同士の取り決めでなくローカル同士の取り決めで動けるシステムが必要であり、そのモデルは古代の都市国家にあるかもしれない。現在の国という存在が宗教的、民族的な範囲を超えて形成されているために一方の勢力によって弾圧される悲劇が起きている。宗教的民族的な小単位で集団が結成され、その集団がネットワークで結ばれる社会が情報化に合ったシステムと考えられる。そういう意味では、米国の中央政府と州との関係は規模的には大きすぎるが、基本的な考え方では参考に出来る。地方がどの程度国との独立関係を有するかが機動性のある政治が行なわれる目安であると思料する。地方からの改革が過渡期の動きであるために国会議員との連携を模索しているが、この模索は百害合って一利なしである。況してや小沢一郎などと連携を模索するならば日本を金権主義に陥らせた田中角栄の亡霊を呼び起こすことになり、改革の先が見えている。政治は力であり数であると言う論理に縛られている間は過去の政治から脱却できない。東国原前宮崎知事の無能で危機管理能力も無い輩を人気取りだけで引き入れる考え方も賛成できない。小さな政府と大きな地方が情報化時代に対応した政治システムと理解した人が多く出てくれば期待が持てる。真の政治家とはグランドデザインを考える人であり、官僚をその実現に向けて動かせる人である。官僚から政治を取り戻すと言う標語自体が間違いであるのを早く気が付かなければならない。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一柳米来留)の心

メレル・ヴォーリズが近江八幡で残した足跡は偉大であったが、その功績は時間の流れと共に記憶の彼方に忘れ去られた感があります。明治時代に若くして当時で言えば未開の地に語学教師として来日し、太平洋戦争直前に日本を愛した故に帰化した姿には人間の尊厳さとはどの様なものであるか教えられます。何故、私のblogで彼を今取り上げるかと言うと、一つは彼が日本で築いた事業が当社と同じ建築設計事務所であったことであり、建物を設計する仕事に従事する経営者の考え方に共鳴するからです。二つには、日本が太平洋戦争に突入するのが避けられないと分かった時に敗戦後の日本の復興に助力するために敢えて日本に帰化したことです。更に、三つには、戦後の日本及び日本人を考察し、日本人の教育・生き方の中に倫理・道徳が抜けている状況を憂い、今日のお金中心主義の倫理観を喪失した社会の末路を予見していたことです。当社の事業のひとつである建築設計については、ヴォーリズが一貫して守ってきたことは「建築様式で人を驚かせる様なことでなく、簡単な住宅から複雑で多様な目的を持った建築に至るまで、最小限度での経費で最高の満足を請け負うために確かな努力をすることである」と言う理念に共鳴するからです。また、ヴォーリズは建物に対してはそれぞれ使う用途に関して目的に添った役割があるので、建築を個人的な気まぐれや思い付きで着飾り、自己宣伝のために広告塔や博物館向きの作品の様に心得て設計すべきでないと説いています。建物の風格は人間の人格と同じく、その外観よりもむしろ内容にあるとまで説いています。私が今振りかえってこれ等の言葉を反芻すると正に現代の建築の愚かさを指摘しているものと思われます。メルル・ヴォーリズが現代に生きていたら当世風の建築デザイン、特に住居のデザイナーズマンションなどはどの様に見るのでしょうか。メレル・ヴォーリズは晩婚であったが、日本女性(一柳満喜子)の伴侶と生涯共にした姿も現代の男女間にはない絆の強いものであった。私が不思議な縁、それは全く偶然といえるのだが、一柳家は海賊大名と言われた九鬼家の縁戚であり、戦後日米の交渉で登場した白州次郎は九鬼家の家老職の末裔であったことです。一柳満喜子と言う女性は当時では珍しく父親の言いなりで結婚をすることなく、米国留学などを経て30才過ぎてメレル・ヴォーリズに運命的な出会いをした。正に、誰かが用意していたかの様な二人の出会いを考えると、宇宙の森羅万象の不思議さを思わざる得ない。メレル・ヴォーリズが来日し、建築分野で多くの実績を残したが、彼がコロラド大学で建築学的な知識を学んだものの本格的に建築を専攻したわけでなかったので、最初は評価が低かった。特に、メレル・ヴォーリズの建築に対する考え方が、専門家達を集めて行なう方式であったので、一人が光る他の建築事務所とは方法論を異にしたためと言われています。しかし、建築を芸術と科学の結合と捉え、耐震、耐火、衛生、空調などに精通する専門家達がそれぞれ自分の考え方を表現し、相互に助け合う組織を作り上げて建築に臨むことは一人の優秀な建築家の仕事より価値あるものと考えます。尤も、今の時代は正に一人の著名な建築家による作品が評価される時代だが、それらの作品に芸術性はあるが、科学が伴っているのか危ぶまれます。当社は一人の著名な設計士はいないが、少なくても芸術と科学の結合たる専門家達はいますので、ヴォーリズの心に近いかもしれません。

日経の論説記事「原子力もガラパゴス」に反論

日本経済新聞の論説委員・滝順一氏が書いた「原子力もガラパゴス」の論説に反論したい。滝論説委員は1月に政府が開いた原子力委員会の会合で「ガラパゴス化している印象がある」との意見がでたことを根拠に件の論説を展開しているのだが、先ず滝論説委員に問いたいのは原子力委員会で誰が「ガラパゴス~」の意見を出したかその者の名前である。日本の原子力行政に携わっているものなら原子力の技術がどの様なものか熟知していると考えられ、日本の原子力発電所の安全規制に対して軽々しい意見が言えるわけがないからだ。捏造とは言わないが、少なくても原子力の技術に詳しいものの発言ではないことは自明である。何故なら、原子力技術は技術者なら誰もが知っている「原子力技術は完成されたものではない」と言う事実である。この事を知らずして原子力の安全に関して言う資格がない。滝論説員は原子力発電所がトラブルの為に新たな検査を付け加え、世界でも稀な非効率な規制を生んだと書いているが、原子力の大事故がどれほど悲惨かは過去の事例で証明されている。そのため、ドイツやアメリカでは新規の原子力発電所の建設を長い間中止してきたのである。それが時間の経過と共に事故の経緯や原子力の技術に関する知見が失われ、環境問題などと絡めて原子力発電所の建設が世界中で浮上してきた。滝論説員は日本の現行の検査システムが専門家の意見を借りて安全性が高まったとはいえないと指摘し、逆に検査の強化が国民にリスクを増してしまった恐れがあると書いている。そしてこの責任を電力会社と政府の規制当局の両方にあると指摘しているが、幾ら原子力の技術に疎いといっても余りにも酷い記事と言わざるを得ない。常識的に考えて電力会社が意味もない検査の強化を受け入れるわけがないのは自明だ。滝論説員はグローバル市場で世界標準から懸離れた島のおきてしかしらないで原子力輸出競争に勝てるのかと書いている。日本経済新聞が幾ら業界紙で、企業の広報宣伝誌とは言え、余りにも無責任な発言には憤りを感じる。戦前、日本軍部が勢力を増し、無謀な戦争に駆り出した責任は正に新聞の無責任な報道で国民を煽ったからに他ならない。その誤りを今度は別な形で犯そうとしているのは危険極まりない。日本の原子力発電の安全基準は世界標準になるもであり、決して非効率な規制ではないのである。滝論説員は日本の原子力発電の稼働率はトラブルなどにより低いと指摘してるが、この指摘は木を見て森を見ずの類である。日本国内では重厚長大産業の時代が去り、グローバル化で国内の工場が減少する中で電力設備は過剰なのが実情である。このため、事故後の地域住民を配慮して慎重な対応を行なっているのであり、電力需要が旺盛であれば原子力発電の稼働率を高めることに注力するのである。また、原子力発電の保守作業員にも言及し、日本が欧米と比較して点検期間が長く、効率の悪い作業が多いので放射線を浴びる1人あたりの量は多くなっていると指摘しているが、この問題は作業員が高齢化してなり手が少ないと言う事情を全く考慮にいれていなく、議論のすりかえである。その上、滝論説員は日本の原子力技術は世界最高水準であり、輸出を阻害するのは制度と馬鹿の一つ覚えに書いているが、新幹線のことも知らないのかといいたい。今の時代は技術などそれほど差がないのであり、差がでるのは運行・管理面のソフトの方である。原子力も正に技術など完成されたものでないので、尤も重要な点は運転・管理のノウハウである。最近の風潮の非効率とコストアップの問題が取り上げられるが、非効率などが安全を確保していることを忘れている。惑星衛星のはやぶさが何故帰還できたのかを思い起こせば良いだろ。無駄とも言える機能を付加していたために想定外の事故に対して対応できたのである。原子力発電の様に大事故が起きたら被害が甚大になるものにまで当世風の効率と言う概念を持ち込むべきでない。滝論説員は最後に原発輸出をしたいから国内制度を改めろといいたいのではないと付け加えているが、笑止千万である。一度、原子力の技術について勉強しろと言いたい。

チュニジア・エジプトは本当にツィッターやフェイスブックの普及だけで民衆が立ち上がったのか

チュニジアやエジプトなど中東諸国で民衆の怒りが爆発しているが、この民衆の蜂起に対してマスコミなどは情報化の推進で全てが起きたかのような報道を行なっている。確かに、情報化の時代でなければ今回の様に扇動者がいないデモは起きなかったと思うが、民衆の蜂起が何故起きたのかに関しては就職難を指摘しているだけに過ぎない。マスコミが指摘している就職難は今に始まった訳ではないので、民衆が我慢できなくなったことが背景にあると考えなければ真実は理解できないと思われる。それでは何が原因で起きたかを推測すると、リーマンショック以降に先進諸国の景気対策によって世界中に過剰流動化したマネーが資源・食糧などの価格を上昇させたことでぎりぎりで生活していた民衆の我慢の限界を超えたのとではないかと思われる。日本は円高が起きたので資源や食糧のコスト上昇を吸収しているので実感が湧かないが、経済が停滞している国々では民衆の生活に大きく影響しているのではないだろうか。然も、米国の景気対策で多くのドルが世界中に投機資金として使われているために、必要以上のインフレを招いているのではないだろうか。NYの友人から交通関係の値上げで料金がかなり高くなっていることを聞いたが、デフレ経済に陥っている日本に居ては分からない世界中に起きているインフレに対する悪影響が出てきているのかもしれない。その上、天候不順で資源・食糧の供給に影響が出てきているので尚更多くの国の末端に属する人たちにはインフレの影響が出ているのかもしれない。もし、マネーの過剰流動性の悪戯で世界中で問題が起きているならば今後も多くの地域で同様な混乱が起きる可能性があり、その結果は必ずしも民主主義の国家になるとは限らない。日本でも小泉の様な劇場熱狂型の政治家に翻弄されたが、民主主義と言う物事の処理に時間が掛かるのをプラスに出来た時代は合わなくなり、情報化で時間軸が早くなったことに対応できる政治体制が求められる時代になりつつある。勿論、時間軸が早い決定とは独裁的な政治体制と紙一重であるので、そういう意味で世界の政治は危険水域に入りつつあるのかもしれない。エジプトは米国が軍に対して影響力を持っているが、民主化の過程で底辺層の貧困が早急に解決されなければ内戦にならないとも限らない。今後とも世界中の動きを注視する必要がある。

愛知知事選・名古屋市長選で分かった国民の怒り

名古屋の河村市長の勝利は彼が常日頃公言している「税金で食っている者が楽をして払っている者が苦労している」の言葉に対する国民の同調である。また、「言葉の軽さ」に対する怒りである。管首相は党の公約を簡単に覆す言動を行なっており、その理由に知らなかったことを挙げている。しかし、国民をこれほど馬鹿にした言葉はないだろう。1人当りの国会議員の報酬(秘書手当て・公的助成金・議員宿舎を含む)は1億円を超えるのである。その様な高額を税金収入で受けているにも関わらず知りませんでしたとは何事かであろう。百歩譲って言える事は、知らなかったなら即時に首相を辞めるべきであろう。知らない人に此れから勉強してもらう時間的余裕は日本にはない。今の国会議員どもは、「言葉の重み」など誰も尊重していない。勿論、この風潮を作ったのは小泉純一郎と言う元総理大臣である。馬鹿を世界中に晒した総理大臣であった事は周知の事実である。大人しい国民が限界を超えたのである。小泉の時には、国民も期待した一面があり熱狂的に支持したが、蓋を開けてみれば財務官僚の言いなりの政権であった。このため、構造改革と称しながら米国の手先になり、国民に痛みだけを与えた結果に終わった。小泉の構造改革は何故失敗したかは、「税金で楽した生活を送っている役人」が主導した政治だったからである。漸く、国民も何が真実かが分かってきたのが、愛知知事・名古屋市長選の結果である。管首相が国の為に消費税の大幅アップを必要と真剣に考えるならば、先ず国会議員の報酬を半減すべきである。自らのぬるま湯体質を改善してこそ国民に痛みを我慢してもらえるのである。それがなければ社会保障のために消費税を上げるといっても国民は納得しない。小泉で分かった職業政治家と役人が自分達のために行なった改革など国民は二度とは騙されない。本当に国を憂いるならば、報酬のことなど二の次の筈である。それが若手国会議員まで今の報酬でも足りないなどと発言する姿は国家を食い物にしているのが歴然としている。新聞なども作為的に報道するならば購読させない不買運動を広げよう。そうしなければ日本は滅びてしまう。

地方を活性化させるのは中央集権制度を改革する必要がある

地方が疲弊したのには幾つかの理由があるが、今更過去を振り返っても仕方がない。グローバル化が進んだ現代において重要視されるのは中央集権制度ではない。逆に、ローカル単位で迅速に物事を決定することが重要であり、地方に権限を譲渡することにより、地方再生の道が見えてくると考える。国と地方自冶体の関係は東京都の様な財政が豊かな都市を除けば食肉として買われている牛の様なものである。餌を与えられて無目的に生きている姿に未来はない。財務官僚に騙された管政権は社会保障を餌に消費税の大幅アップを進めているが、現行の制度の中央集権にお金が集り、地方は物乞いの様な交付金によって成り立って中では何も解決しない。そう言えば、中央と地方の理想的な関係としては、大阪府と大阪市がある。大阪府の橋下知事は就任して初めて気が付き、本来は大阪市長にならなければ本質的な改革が出来ない事がわかり、大阪府と大阪市を合併させる大阪都構想が出てきた。しかし、この関係は、中央政府と地方自冶体の関係に置き換えると面白くなる。勿論、現行の大阪府と大阪市をそのまま中央と地方の関係に位置づける事ではないが、仕組みと関係は大分参考になる。大阪府と大阪市を産んだ背景は知らないが、多分、推測するには世の中と役所を良く知った人であろう。尤も、地方と言う位置づけからすると橋下知事が指摘するように屋上屋を重ねた組織となっているので、大阪都構想の中味を知らないのでその形が良いかどうかは別としてコスト削減の意味で言えば統合は必要と思われる。何れにしても、グローバル化の社会では中央集権の組織は時間的空間的にも対応すること出来ないと思料されるので、地方に権限を大幅に委譲して中央政府のあり方を変える必要があることは確かである。もし、百歩譲って財政再建のために消費税を大幅にアップするのを許容するのであれば、その条件として①国会議員定数の大幅削減(50%削減)、②地方自冶体に大幅権限委譲、③中央官庁組織の大幅縮小などと言える。勿論、現行体制では地方の公務員の能力は国家公務員と比較して大分落ちるので、中央官庁の組織縮小と相俟って国家公務員の地方自冶体への転職を行なうべきと考える。この様なblogを書いていると必ず何故政治家にならないのかと聞く人がいるが、年齢的にToo Lateだからと答えている。

沖縄が日本に戻った理由と北方領土

管首相と前原外務大臣は北方領土返還は当然の如くコメントしているが、戦争で失った領土を戻す事は簡単でないのは子供でも分かる。沖縄が平和的に戻ったので北方4島も戻せると思ったら大間違いだ。尤も、ロシアが日本から米軍基地を全て撤去させるなら戻すと言ったら管と前原は何と答えるのか見物である。沖縄が戻ったのはベトナム戦争で疲弊した米国としては沖縄の統治が負担となったからである。その代わり、沖縄の基地の継続と維持の負担をさせられたのである。マスコミなども報道した事はないだろうが、米国が統治していた沖縄では全くと言ってよいほどインフラ整備などが行なわれていなかった。沖縄本島については米軍の利用上不便なので多少は投資したが、沖縄諸島に関しては全くと言って良いほどインフラ整備は行なわれなかった。米国に沖縄県民は少しも感謝などないのである。石垣島に旅行した時に島の長老が目に涙を浮かべながら日本に戻ったので今の豊かさがあると言っていた。更に、ベトナム戦争がなかったら今でも沖縄は日本に返還されなかったのは疑いもない。殆んどの日本人は日本が軍備を持たなかったので経済繁栄を遂げる事が出来たと思っているが、それは一面的な見方に過ぎない。米軍が日本に駐留したのは自国の利益を守るためで日本の為などではない。自衛隊など米軍の用兵の様な存在だ。米国が日本を真の独立国家などにさせる訳がない。何度も言うが、尖閣諸島事件は前原民主党議員が米国の意向で起こしたもので、その効果があり、国民の目を隠して年1800億円の米軍に対する支援金を5年間延長させてしまった。ロシアから北方領土の返還を得る機会があったが、日本にはドイツの様な政治家がいなかったので、戻せる好機を逸してしまった。原油価格が高くなり、資源の重要性が増した国際情勢で北方四島の返還など実現するわけがない。前原がロシアとの外交交渉の場で日本から米軍基地を全部撤去すれば戻すと言われた時の顔が見たい。管首相にも前原外務大臣にもマキャベリの君主論とクラウゼビッツの戦争論を読めと言いたい。

職業政治家はいらない

職業政治家が増加するにつれ、選挙民より自分の選挙と収入だけしか考えない議員が多くなった。何時からなのか記憶が定かでないが、立候補者が有権者に「お願いします」という様になった。議員と言うのは本来身銭を切って得る名誉職であり、社会での経験を万人のために活かす立場と思うのだが、現在は職業となってしまった。もちろん、職業となったので一生懸命議員活動を行うと言う見方もあるかもしれないが、落選したら食ってゆけなくなると言う現実の前に議員としての信念を期待出来るのか疑問に思う。何度もblogに書いたが亡父が地方議員時代には日当制であった。議会が開かれていた時だけ報酬を貰えた。それが何時の時代からか給料制になり、職業政治家が出現した。色々な意見があるので一概には言えないが、少なくても議員の職が自分のためでなく選挙民のためならば選挙の時に「お願いします」は言わないと思う。私の亡父は選挙の時に一度も「お願いします」は言わなかった。理由としては身銭を切って村民のために仕事するので、「お願いします」は選挙民の方だろうという信念があった。今回名古屋市長として再選を果たした河村さんも職業議員が議会制民主主義を悪くしたことを指摘していた。河村さんも名古屋市長になって財政難を打開するために自らの報酬と市職員と市議会議員に報酬を削減することを提案したが、市議会の多数野党の反対で挫折した。財政難なのに平気で報酬を貪る市議会議員の姿は全国区到る所で見られる。就職先として公務員が一番である社会は駄目なのである。況してや議員が職業化したら選挙民に阿る政治しか期待できない。今回の名古屋市長選における河村さんの再選は選挙民が自分のことしか考えない職業政治家はいらないと言う判断を下したので、そのことに乾杯である。漸く、日本の政治が変わるかも知れないと言う期待が生まれたのである。

米国の象徴はネズミ?

NYの友人からNYは大雪で通勤に難渋しているメールが来たが、その時に市内の歩道に置いた大きなネズミの写真を添付してきた。座っている巨大ネズミが雪に対する注意を呼びかけているのだが、黒いグロテスクのネズミが何故使われているのか不思議だった。友人の話では労働争議などにも登場するらしい。そう言えば、ディズニーランドの象徴のミッキーマウスもネズミなのに気が付いた。日本、いやアジアの農耕民族に取ってはネズミは天敵である。米国も農業が盛んなのにネズミを敬うのは何故かと言う疑問が出てきた。友人の話では、米国の移民も当初は農耕民族であったが、インディアン虐殺、独立戦争、南北戦争、植民地主義の台頭で狩猟民族が主流になったのではないかと言ってきた。日本も小泉インチキ改革以降狩猟民族が主流になって来た感があるが、長い年月では農耕民族の考え方で生きてきたと考えられる。その事が良く分かるのは、アジア諸国、特に農村地域ではネズミの天敵である猫や蛇が敬いの対象であり、ネズミは天敵であったからである。商売繁盛の招き猫などはその典型であろう。蛇は金運があると言われ、蛇の夢を見るとお金が入るなどと子供の頃良く言われたものである。この蛇伝説が龍になった推察される。これに対してネズミは穀物を食い荒らす無法者であり、しかもペスト菌をもたらす最悪の死者である。良く考えるとアジア諸国にディズニーのミッキーマウスが良く認知されたと思われて仕方がない。可愛いキャラクターで誤魔化されたのであろうが、友人が送ってきたメールに添付されていた大きな黒ネズミを見て改めて米国とは相容れない存在である事が分かった。何故なら日本では、ネズミは泥棒の象徴である。何時も硬い話題が多いので偶には柔らかい話をと思って書いたのだが、そうでもないですか。 NY ネズミ.JPG

勘違いしている社会

新聞TVの報道を丸呑みしている国民が作る社会なのかもしれないが、本質的な問題を何等分かっていないので表面的な現象を変えただけで社会が変わることを主張する人が多い。相当なインテリゲンチャと呼ばれる人もその類である。尤も、分かっているが自分に関係ないために無責任に発言する人もいるのかもしれない。当社の建築設計業に関しても言えるが、殆んどの顧客が設計事務所の仕事は人件費だけを支払えば済むと考えている。このため、見積りに対しては単に人件費だけを考えて高い安いを決めて発注するケースもある。勿論、デザインを重視して発注先を決定していると言う反論もあるかもしれないが、そのデザインに対する表面的な評価だけでなく、施工における問題点などを認識して決めているかと言えばそれを判断できない人達が決めているのが現実である。では、勘違いしている社会では何が起きるのかと言えば、施工後の建物に早い段階で不具合が発生することである。設計事務所の様な物づくりを創造する会社は過去の経験によるノウハウを蓄積し、そのノウハウの切り売りといっても過言ではない。単なる人件費だけで評価される仕事ではないのである。なお、先のデザインを評価しているという反論に関しても、そのデザインを完成させる施工監理能力も又ノウハウの結集である。経験の浅い設計士は幾らデザイン能力が優れていても完成させる経験が不足していては完成後の建物に問題が生じるのである。昨今は全ての価値を金銭的なものに置き換えられているが、残念ながら設計事務所が蓄積したノウハウに関しては余り省みられていない。この様な勘違いしている社会の行く付く先には、補償問題から中・小企業は否定され大手企業しか評価されなくなる恐れがある。正に、信頼が壊れてゆく社会になりつつあり、信頼の変わりに保険の加入と言う不信社会ではますます物づくりが駄目になる。グローバル社会だから物の価格が安くなるし、そうしなければ生き残れないと言う短絡的な考え方が蔓延しているが、その前に良い物(本物)の価値観を再認識し、結果的に何れを選択した方が得かを先ず考えるべきである。そうでなければ、何のために苦労して築き上げてきた豊かさかを見失ってしまう。今の時代は、ダーゥインの「変化に対応できたものが生き残る」と言う説に偏った考え方が蔓延しているが、大木は変化しないことで生き残ってきたことを忘れてはならない。

管首相は故橋本元首相の二の舞か?

故橋本元首相は財務官僚に騙されて「消費税アップ」と「財政再建」を進めてデフレ経済を生じさせた元凶と言われている。本人も退任後に財務官僚に騙された事を後悔し、再度総理大臣に就任し汚名を雪ごうとしたが、それを恐れた財務官僚が小泉を支援したため、実現しないで終わった。ifを言うのは死んだ子供の齢を数えるが如くであるので今更仕方がないことだが、再度橋本が首相になっていればと思わざるを得ない。先日の新年会で頭が良い奴が誤った考え方を持つとそれが実現してしまうので怖いと言う話が出たが、正に財務官僚はその典型的な事例であろう。此度、財務官僚は管と言う歴史に名を残したいと考えている総理大臣を騙して財政再建を行なわせようと企んでいる。尤も、財務官僚は今の様な赤字国債を放置していては官僚の中の官僚の名声を失う事になるので必死なのであろう。しかし、机上の空論だけで経済の実務を経験した事がない今の財務官僚の頭ではグローバル経済で日本が生きてゆく知恵など出てくるわけがない。官僚の言葉遊びに篭絡されるてしまう政治家の馬鹿さもどうしようもないが、財務官僚に洗脳された馬鹿な小泉を支持した国民は救いようがない。管の場合は、消費税を大幅にアップして国民に社会保障を保証すれば安心して一時的に落ち込む消費も回復すると読んだ財政再建と景気回復の一石二鳥の作戦だろうが、この政策は地獄の一丁目になると考えられる。インフレ時代なら兎も角グローバル経済で価格に転嫁できない状況にあって消費税の大幅アップは子供でも分かる話である。戦前に井上準之助と言う日銀出身の大蔵大臣が金の自由化を行なって日本経済を駄目にした。井上の理論は正しかったらしいが、日本企業の実力やタイミングを誤ったために大恐慌を招いてしまった。その後に大蔵大臣に就任した高橋是清は井上とは逆の政策で虎口を脱した。高橋是清は学問馬鹿でなく実社会の経験を積んだ政治家であったので、理論に捉われない自由な発想が出来たと推察される。今の日本の官僚は正に学問馬鹿ばかりである。然も、言葉遊びで政治家や国民を愚弄する亡国の輩ばかりである。その上、実社会の経験薄い前原外務大臣などの類が有望視される政治家にも期待できない。政策を失敗した結果、多くの国民が自殺などに追い込まれているのだから、今後は政策を失敗した官僚や政治家は身の安全を保証してはならないのである。失敗した責任は命と引き換えにする環境が必要と考えられる。テロも必要悪と認識しなければ何も解決しない。

頭の良い人は考え方が凄い

昨夜の新年会は銀座のブッテックホテルのバーの個室で行なわれたが、一人の参加者はアブダビ・ドバイ・チェンマイ・シンガポール・バンコックを巡って帰国したばかりであった。彼は東大時代に司法試験に合格したほどの優秀な方なのだが、育ちが良いためかそれを鼻にかけたことはなく、私の様な凡才とも親しく会話に応じてくれる。この新年会は紅一点の女性が幹事役で開かれているもので、主たる目的はゴルフを楽しむ会である。皆忙しい人達なので幹事役の女性の苦労は並大抵ではない。今年の新年会を機に幹事役を降りると宣言していたらしいが、今回の新年会の参加者一同の説得により今年1年幹事役を無理やり引き受けさせられた。私もそのお願いする一人になってしまったので、今後は出来るだけコンペに参加をしないとペナルティを課せられそうだ。話は逸れてしまったが、先のアジア歴訪の出張から帰国した彼との会話で成る程と思い知らされた。彼曰く、頭が悪い奴は間違った考え方をしても実現しないから害を及ぼす事はないが、頭が良い奴が間違った考え方を持つと実現してしまうので怖い。私は今までこの様な考え方に到ったことがないので、流石に頭が良い人は考え方が違う事を思い知らされた。その点から言えば私がblogで色々と書いていることなど頭の良い人は安心して見ている事を思い知らされた。

どっちもどっち、あれこれ

広島の秋葉市長が次期市長選挙に出馬しないことを「you tube」だけで表明した事に対し、マスコミや一部マスコミに同調した者が批判しているが、マスコミにとっては死活問題に繋がるので必死なのだろうが、中立的に見て両者とも自己中としか思えない。勿論、マスコミも記者クラブ制度に甘んじているから今回の様な事が起きるのであろう。少なくても、マスコミが販売だけでなく、取材にも競争を持ち込めば何れかのメディアは秋葉市長の不出馬のニュースを得ることが出来たと推測される。秋葉市長からすればマスコミは発言全部を掲載せずに抜粋して論評するので市民に真実が伝わらないと考えて「you Tube」で発表したのであろうが、マスコミが指摘するとおり、高齢者社会でどの程度「you Tube」が見られたかは疑問である事は確かである。何れにしても現代は、マスメディは従来の様に報道手段を独占できた時代とは違うので発言の一部を抜粋して自分達に都合の良い記事に仕立てる報道は改めるべきと考える。この問題は古くは1970年代の佐藤栄作総理大臣の引退記者会見にまで遡る課題である。今は情報化の時代であり、一般の人達がマスメディア以外から情報を得られるのであるから、十年一日の如くの報道を改めなければ生き残れないと思われる。尤も、報道人の間には情報の時代こそ我々が正しい方向に導かなければならないと言う馬鹿げた思い上がりがあると言われるので無理かもしれない。勿論、社会部の記者で社会や企業の不正義を糾弾し続けた者がいた事は確かだが、それは昔の話だ。今の記者連中でその様な志を持った記者など皆無な事は報道記事を見れば分かる。何時の間にか記者はエリートになってしまい、一般人を見下す存在になってしまった。高給取りになると堕落するには公務員ばかりではなく、記者も同じらしい。人間的に最低な者がマスメディアに従事したり、首長になったり、議員になったり、企業の経営者になる時代なので仕方ないかもしれないが、それも日本国民が選択した道と思うと自業自得なのであろう。

真の改革を日本で実行するには外国人の総理大臣を雇うのがベストだ

歴史を学べば日本の国は帰化人と言う外来から来た多くの人達によって作られてきたことが分かる。日本が経済的文化的に停滞した時期を迎えているのは何時の時代も国内だけで処理した時である。戦国時代もスペイン、ポルトガルなどの交易と宣教師などから影響を受けて時代を変えたのである。明治維新も多くの分野でお雇い外国人を受け入れたために急速に近代化を図ることが出来たのである。それが昭和の時代にはお雇い外国人を止めて日本人に主導権を戻した途端、馬鹿げた軍事大国になり、アジア人の自覚を忘れ暴走して国家が破綻して敗戦した。第二次世界大戦後は米国の主導で国家の再生を図り経済大国となった。しかし、経済大国になり、日本人が自らの考えで国家を動かすようになった途端、バブル経済崩壊を迎え、長い経済の停滞に入ってしまった。日本と言う国づくりを進めた時には、中国や朝鮮から多くを学び、謙虚な日本人が存在した、国が発展を遂げた。歴史を足早に論評したが、その位でも日本人と言う種族は国内だけの知恵で問題を解決できた試がないのである。極論を言えば、日本人の総理大臣である限り、期待が出来ないと言う現実である。そう言えば、日産自動車もトップに外国人を頂いて危機を乗り越えているが、日産は断末魔で歴史的な選択をしたことが理解できる。勿論、外国人なら誰でも良いわけではない事はソニーが外国人のトップを頂いたものの、未だに経営改革に成功していないことで証明されている。このため、私欲がなく、日本を理想的な政治の実験場として考えられる人物を雇い入れる事が必要ではある。悲観的な見方を取り過ぎるかも知れないが、誰が総理大臣になっても歴史から見ると日本人だけで政治を続ける限り悪くなるだけと思われる。

ザッケローニ監督で教えられる指導者について

誰もが認識していることなのに積極的には認めたがらない監督と言う指導者に左右されるチームの能力。高校野球が一番監督の優劣が出るスポーツと思われる。勿論、監督としての開花は人によって異なり、大器晩成型の人もいる。私の出身地の茨城では現常総学園の木内監督が有名だが、彼は若いときから高校野球の監督に従事し、花が開いたのは遅咲きであったが、一度甲子園に出てからは甲子園の常連監督になった。長い年月の中で選手を育てる技術や才能がある選手との出会いがあったのだと推察できる。人と人との出会いから才能が開花したケース以外にも人と動物の出会いにもある事を知ったのは30年も前のことである。この出会いは競馬と言う競技なのだが、名馬と言われた地方競馬から上がってきたハイセイコーと言う馬と未だ一流にはなっていなかった吉永騎手の出会いである。吉永騎手がハイセイコーに競馬を教えられたことを雑誌記者に話した事を何かの雑誌で眼にしたのである。確か、木内監督も取手2高で甲子園に初出場を果たした時に言った言葉が、この生徒達であるなら甲子園に行けるかもしれないと思ったと言うものであった。翻って、サッカーがアジア1次予選を突破したニュースが流れていたが、ザッケローニ監督になってからサッカーの日本代表の選手は一皮剥けた様に思える。現日本代表に関しては前日本代表の岡田監督が鍛えてきたチームであり、ザッケローニ監督はその遺産を旨く使っているだけだとの風評も聞かれる。しかし、岡田監督も最初の日本代表監督のお粗末さからリーグの監督を歴任してワールドカップに出場し一定の成果を納める監督に成長したが、今のザッケローニ監督のレベルには到達していないと思うのは私一人であろうか。常勝を求められるイタリアサッカー界で多くの経験を有した結果が今のレベルに達したと思われ、選手もその凄さが分かるから付いていっていると推測できる。ハイセイコーと吉永騎手の出会いと同様に監督が間違っていれば選手は動かないのが自明である。選手が監督の指図に従うのは正しいからである。このことは何もスポーツの世界だけではない。ビジネスの社会でも同じである。正しくなければ人(動物)は付いてこない。

総務省の地方自冶制度の改悪こそ民主主義の否定

鹿児島県阿久根市の前竹原市長の騒動から総務省は首長の権限の縮小を考慮した制度に改悪する準備を進めている。総務省の見解では首長と議会が話し合いで物事を解決するために、首長の専権事項に歯止めを掛けることにしたらしいが、この様な改悪こそ民主主義を崩壊する事になる恐れがある。そもそも民主主義とは誰もが自由に色々な事が出来ることであり、それが厳密的には法律に抵触することであっても民になることであれば断行する事が出来ることである。もし、法律に抵触していると言うことならば法廷に持ち込んで争うのが民主主義の基本である。阿久根市で露呈したのは過半数の支持を得て当選した首長でも少数与党では何も出来ない現実である。総務省が制度を是正するなら首長の権限を縮小することではなく、現行では議会のリコールや専権決議でしか打開できない制度を簡単に民意を問える制度に改善する事である。この総務省の改悪に悪乗りしたのは読売新聞オンラインの記事である。記者クラブの弊害が出た御用記事そのもののであった。国家の経済が停滞し、格差社会の中で役人だけが高級を貪っている姿に国民は怒りを覚えているのである。地方都市の阿久根から火の手が上がったが、その火の手を危険視してマスコミを利用した官公庁労働組合、総務省は潰したのである。片山総務大臣など元は自冶省の役人である。身内可愛さで制度の改悪を進める姿は言語道断である。

消費税率引き上げで財政再建の誤魔化し

菅内閣は消費税率を大幅に引き上げて財政再建を目指すと言う財務官僚のシナリオに載った誤魔化しを行なう様だ。マスメディアは大幅な赤字国債が日本を破滅に向かわせると言った論調で不安を煽っているが、発行済みの国債など日銀が購入すれば良い話であり、然も他国と異なり国内で国債の90%を消化している現実からすれば海外の投機家による投売りでの価格の暴落の不安もないので、それ以前に行なわければならないのは、行政の無駄を無くす改革である。民主党の仕分け作業など何等の効果を生んでいないのに消費税率引き上げなど言語道断である。一般会計と特別会計の二本立ての予算構成を改革しなくて無駄はなくならない。また、産業構造に比例した省庁の規模縮小など行政改革の必要性は枚挙に暇がない。高給に甘んじた官僚が現状維持を企んだ結果が国民に必要以上に危機感を持たせて消費税率引き上げである。この暴挙を許したら子孫に顔向けが出来ない。徹底した行政改革後に消費税率の引き上げなら賛成なのである。今の予算仕組み自体が時代遅れになっており、必要な所に必要な資金が回る様な仕組みに変えるべきである。菅首相は他党の与謝野議員を招聘して消費税率引き上げを行なうとのことだが、自分の選挙のために自民党を離れ、更に大臣の椅子のために批判していた民主党に参加する日和見主義者に政治が出来るわけがない。祖先に作家の与謝野晶子がいるが、確か「君死にたもうなかれ」などの言葉で有名だが、子孫の与謝野馨には「君国民を売るなかれ」の言葉を捧げたい。本当に今の日本は菅首相も同様だが、政財官界とも地位に相応しくない人がその地位に就いている。豊かな社会になるとホンモノとニセモノの区別が付かなくなり、派手なスタンドプレーをするニセモノを評価してしまうと思われてならない。声を大にして言いたい。抜本的な行政改革なくして消費税率引き上げなど絶対に認めるべきでない。

笑顔

自然な笑顔ほど美しいものはないと思う。また、自然な笑顔は他者の心の安らぎとなる。昔と違って今の日本では営業用の作り笑いを除くと自然な笑顔を公共の場で見ることが少なくなった。朝の電車の中など不愉快になるほど仏頂面した顔ばかりである。勿論、人間は生きている限り常に何かしらの悩みを抱えているのが宿命だから無理に他人に笑顔を見せろとは言わないが、昔から「笑う門には福が来る」と言う諺もある位だから、笑顔が現状を変えてくれる効力があるのではないかと考える。多分、日本人に笑顔が少なくなった背景には長いデフレによる不景気も一因であるが、日本人特有の他力本願的な現状打破の考え方が根底にあるように思えてならない。尤も、全て自己の問題に帰結してしまうと生きてゆけなくなるからかもしれないが、多くの原因を自分の問題と捉えれば現代人の様な仏頂面した顔でなくなると思われる。勿論、笑顔の反対の怒りも必要なのだが、笑顔がなくなった背景には怒りの喪失もあるのかもしれない。多くの人が政治家や経済人に対して怒りを出す事は少なくなり、デモさえも少なくなった。しかし、現実社会を良く見ると怒りは消えたわけではないことに気付く。昔の怒りは社会悪などに対する怒りだったが、昨今は自己中心的な怒りが多くなったことが分かる。自己中心的な怒りは不正義な場合が多く、且つ理不尽となる。幾ら怒りと表裏一体が笑顔と言っても自己中心的な怒りは自然な笑顔を呼ぶ事はない。自然な笑顔を出せる人は他者に対する思いやりのある人で、心が豊かな人である。なぜ、笑顔について書いたかというと今朝通勤の途中で駅の売店の売り子さんの笑顔が自然で美しかったからである。毎日、通勤電車の中で仏頂面した顔を見てきているので、その笑顔で思わず心が和んだのであった。笑顔が笑顔の連鎖を呼ぶ。今の社会に最も必要なことだと思える。そう言えば、仏像の顔も微笑みである。

前原外相の北朝鮮交渉は危ない

前原外務大臣の周辺には高学歴の胡散臭い人物が多いが、今回の北朝鮮発言は北朝鮮が組みやすい相手として選んだ結果と推定できる。前原と言えば、民主党の党首を辞める事になった偽メール事件を思い出して仕舞う。尤も、多くの人はその教訓が生きるので今回は大丈夫と思うかもしれないが、先の偽メール事件などに惑わされる性格は先天的なものと思えるので容易に直らないと理解した方が無難だ。前原が外務大臣になったときに懸念したことは北朝鮮問題であった。前原の出身が京都であるので北朝鮮が接触するには好都合の相手だからだ。他のエリアと比べて京都には北朝鮮系の関係者などが多い。確かに前原の発言は拉致問題と絡めているので一見すると正当に思えるが、外相就任時に一切触れていない拉致問題を今の時期に発言することを分析すれば自ずと不可解さが理解できる。特に、前原は国土交通大臣の時に日航再建に係るデューデリジェンスで法外な費用(150億円)を支出するなど他者に洗脳されやすい性格と無能さを曝け出しているのである。今回まんまと北朝鮮の罠に陥って日本単独で交渉に乗り出すなどリスク以外なにものでもない。しかし、北朝鮮がそれだけ困っていることは事実なので本来ならば前原以外の人物が外相になってればと考えてしまう。今後行なわれる内閣改造で前原が外相から外れるのを期待したいが、管首相では無理であろう。

インフラ輸出の問題点

日本が公共事業等で蓄積したインフラにおけるノウハウを中進国などに輸出することは必要であると考えるが、問題は多額な資金の貸与と長期間に亘って資金を回収するノウハウや工事資金だけでなく構築したインフラに対する中長期的な修繕・メンテナンスの考え方が日本企業や行政にはないことである。一歩間違えば公共投資事業の海外化となり、国民に大きな負担を強いることになる可能性があることを肝に銘じるべきである。日本も過去にはインフラ整備に世界銀行の資金を使ったことがあるが、この時の資金導入に際しては将来の経済成長率などによる税収見込みなどを勘案していた筈だ。世界銀行は融資に際して新幹線建設の時には既存の東海道線を担保に取ったことを忘れてはならない。インフラ輸出には従来の借款供与とは異なる考えで望まないと、日本国家が国内の赤字国債以上に海外の資金供与で信用を毀損する可能性が高い。インフラ輸出に際して民間企業は政府の資金支援を求めるのは間違いなく、この展開には国内の公共事業と同様に政治家が介在し、一歩間違えば利権になりかねない要素を孕んでいる。日本の行政などは採算性を考えた公共投資を行なってきていないので、役人上がりのスタッフでインフラ輸出を推進したのでは失敗することは目に見えている。事業に対するフィージビリティスタディを厳しくしてなおかつ契約書に関しては日本式でなく欧米式の細かい条件で作成することは必須である。しかし、インフラ輸出には新聞などの外野が大騒ぎするので、行政は神風的に受注を目指すことになり、大きな禍根をのこすことになるのは目に見えている。何れにしても、インフラ輸出は経済成長で限界がある国内の需要をカバーする政策としては必要と考えるので、問題はインフラ輸出事業に対する厳正な審査を行なう第三機関を新たに作って対応する事が怪我を少なくする方法と考える。

IT社会の無責任さ

正月早々からオセチ騒動でグループポンが世間を賑わしている。今回の事件は単にグループポン問題ではなく、Webでの販売その物に問題があることを意味していると思われる。今回のおせちと言う正月に関係する際物であったために問題を大きくした感がある。しかし、ネット社会に潜んでいる詐欺紛いの商法が多発している現象に目を向ける必要がある事を投げかけている。この様な事件が起きるとネット社会に関係している人達が騒ぎすぎと警鐘するが、良く調べたら今回の事件と同様なグルパン会社の株主になっていた類に枚挙に暇がない。どうもネット社会に関係する人はパソコンのクリアによる全てご破算に出来る頭になっているらしく、信用と言う言葉の重みに言及することが皆無である。事件が起きたから謝罪やお金を返金すれば良いと言う論調が形成されているが、1年に一度のイベントを壊された人に対する思い遣りがひとつも感じられない。極論すれば、グルポンの半額セールに飛びついた者はリスクがあるのだから必要以上に同情することはないと言っているかもしれない。しかし、ネット社会が到来しているのにこの様な理解をすれば全てを駄目にする恐れがあることも気が付かないのは残念である。今回の事件に関しては、当事者の飲食店とグルポン会社に真相を聞かなければ分からないが、100食を人気があるからと500食に受注を増やしたことが原因と言われているが、幾らグルポンから言われても現場で消化できない量を受けるのは無責任極まりないことである。況してやグルポンの場合は、定価より大幅に価格を下げた利益がないのはもとより、広告宣伝費で原価を補填する意味合いのものであるので、後から大きな赤字に気が付くと言ったものではないはずである。それが同業者(フランス亭)が擁護したとあっては飲食業界が原価計算も出来ないいい加減な業界と疑惑の目で見られてしまう。尤も、昨今の飲食業界には素人の人達が進出しているので、厨房内の清掃も碌に出来ない店が多く、ゴキブリや鼠が徘徊しているのは日常茶判事である。何れにしても、今回のおせち事件はWeb販売の問題点を浮き彫りにしたもので、"信用"などを考えていないニセモノが横行していることの無責任さを改めて教えられた。

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